「方舟」61号(学寮年誌)刊行(2021年1月)
「方舟」61号送付のご挨拶に寄せて―パンデミックのただなかに屹立する山上の説教―
「汝ら思い煩うな。魂[生命の源]は食物より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものであるのではないか。空の鳥たちを見よ、鳥たちは撒きもせず、刈りもせず、倉に集めもしない、そして汝らの天の父は彼らを養っていたまう。・・野の百合がいかに成長するかよく観よ。百合たちは労することも、紡ぐこともしない。だがわたしは汝らに言う、ソロモンでさえ彼の一切の栄華のなかで百合たちのひとつほどに着飾ってはいなかった。しかし、もし神が今日生えており明日炉にくべられる野の草をこのように着飾ってくださるなら、はるかに一層汝らを着飾ってくださるのではないか、信小さき者たちよ。・・まず神の国とその義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。だから、汝らは明日のことを思い煩うな、明日は自らを煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(Mat.6:25-34)。
昨年来の大嵐のなかいかがお過ごしにていらっしゃいますでしょうか。お守りのうちにお健やかにお過ごしでいらっしゃいますように。登戸学寮をいつもお支えお導き下さり、ありがとうございます。心から御礼申し上げます。ここに創設以来の寮生文集年誌「方舟(はこぶね)」61号をお送りします。学寮の事情は年毎に異なりますが、今年度はオンライン授業という前代未聞の状況のなかで若者たちは共同生活を通じての自らの現在地点を記しています。卒寮生各位におかれましては、ご自身の学寮時代を思い出すよすがとして、また寮生各位におかれてはいつか読み返す時、自らの前進を確認できる一つの基点となりますよう願っております。歴代寮生のご家族の皆様そして学寮に思いをお寄せくださる皆様には、近況報告そして日頃のお支えに対する感謝の徴として本誌をお受け止めいただければまことに幸甚に存じます。
おかげ様にて、日増しに強まる嵐のなか、学寮は護られて新たな航海を続けております。創設時の黒崎幸吉先生の篤い祈りに呼応するように、学寮に何らか関わる多くの方々の今日に至る篤い祈りによって護られていますことを、この学寮が枡形山に囲まれ護られているように感じるその感覚とともに、日々新たにいたしております。「天に登る戸」(黒崎先生)としての学寮の使命を新たに受け止めております。
世界と日本は苦難のただなかにあります。近年、東日本大震災、福島原発事故そして今回のパンデミック等に、何か時代は聖書的な人間理解に追い付いてきたと感じます。人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等の制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証でありましょう。実際、医療の進歩にこそこの苦境からの脱出の光明を見ます。しかし、これらは心魂の最も根底に成立する神との正しい交わりに頼らずにすむシステムの構築に向かうとき、言わば肉を厚くし、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされています。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの理解する公平さ、技術革新、効率性等の名のもとに、この同胞である人類、自然、惑星全体を考慮することなしに、自らの隠れた欲望、自己利益を正当化するシステムの作成に向かう傾向にあります。風土病の拡大や気候変動がその一例となるのではないでしょうか。
21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的には人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えています。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言います(Rom.8:22-23)。この疫病の蔓延は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意しています。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のもと国際関係の緊張や戦争に至ることでありましょう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言します、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、苦難よ、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。彼はこの終末預言の警告のもとに人類を救いだすべく十字架まで信の従順を貫きました。
銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されていますが、イエスのこれらの預言によりそのような自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われています。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのでしょうか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を引き裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれますが、その罪に同意する仕方でひとが「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」するとき、そのひとに「罪が巣食う」とあります(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。ヴィジョンを失い矮小な目先のことに捉われてしまいます。常に心の刷新により目覚めていることが求められます。
イエスは山上の説教において聖霊の賦与や奇跡に訴えることなしに、ただ良心に訴え言葉の力だけでモーセ律法の純化、内面化によりひとびとの偽りを摘出します。道徳的次元を内側から破りでて、「天の父の子となる」よう信仰に招きます。この純化に耐えられず、しかも信に至らず、人類の歴史は心情倫理と責任倫理をわけ、後者の視点から社会の秩序を守る制度を充実させてきました。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は正当防衛を不可能にするため、個人の心の在り方として賞賛しても政治や公共は到底山上の説教に与することはできないと主張されます (Mat.ch.5-7)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく「目には目を」の比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになります。ひとの良心はそのような二心に満足できないのです。福音における神の憐みへの根源的な信に基づく正義・義認のみが良心を宥めます。
イエスはご自身の言葉と働きにおいて福音を持ち運びながらモーセ律法を含め生の一切を福音に秩序づけています。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられます。「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう」(6:32)。そこでは、制度、技術そして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるでありましょう。キリストにあって憐み深い神を信じることによる神との正しい関係にこそ、パンデミックに負けない平安と希望がわきます。
登戸学寮はこのようなヴィジョンと使命のもとに建てられたのだと受け止めます。このような海図なき時代にあって、時代の徴を正しくつかみ地の塩、世の光としての役割を少しでも担いえますなら、幸甚に存じます。今後とも困難が続きます。創設以来の寮生の皆様、そのご家族の皆様、学寮に心をお寄せくださる皆様のご健勝とご平安を心からお祈り申し上げます。今後とも学寮とのお交わりを賜りますなら幸甚に存じます。
2021年1月24日 登戸学寮寮長 千葉 惠