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パウロの思考様式について―対話―

11月6日(水)大頭研究会

 『信の哲学』の骨子

                                千葉惠

対話を視聴できます。

https://www.youtube.com/watch?v=cDJU_Iwm0NM

主張 「神の前と人の前の分節とそのキリストによる媒介:ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離」

モットー 1 パウロのテクストが立ち上がる現場に立ち会う (五つのボックスと一つの〇のロゴスとエルゴンにおける関わり 下巻 p.418「ローマ書におけるエルゴンとロゴスの相関図」添付)。

モットー2 福音はユダヤ人にもギリシア人(異邦人)にも等しく分かち合われ共約的に理解されうる。「一つの同じ霊がこれらすべてを働く、個々人に望むように分割しつつ。というのもまさに身体(からだ)は一つでありそして多くの部分を持つが、身体の部分すべてが多でありつつ一つであるように、キリストもまたこの仕方であるからである。というのもわれら皆は一つの霊において一つの身体へと潜浸させられたのであり、それがたとえユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ、自由人であれ、そしてあらゆる者たちは一つの霊を飲んだからである」(1Cor.12:12-13)。

基礎テクスト:パウロの方法

 パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。

 〇「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 ロゴスとエルゴンはアリストテレスにより明確な理論化が提示されている(1オクターブの調和音は1対2の弦の比(ロゴス)が空気を振動させ今・ここで働く、とは言え素材である空気が比を保持できなくなると、その複合的な働きは止む、ただし理はそのままロゴス上理(1対2)である。遺伝子のロゴスとそのコピーのエルゴン等)。これらは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。

 J.エレミアスは言う。「聖書的空間においては、神の霊が自らを顕す時には常にそれは二通りの仕方をとる。即ち「働きと言葉において(en ergō kai logō)」である(Luk.24:19,IThesa.1:5 等多数)。この両者は互いに分かちがたく(unloslich)共存している。働きの伴わない言葉はなく、告知する言葉の欠けた働きもない。イエスの場合も然りであり、その最終的な啓示は二通りの仕方で、即ち力ある働き(本書10節)と力を与える言葉(本書11-12節)において自らを明らかにする(Mat.11:5ff)」『イエスの宣教』(S.89,161)。

(エレミアスが「常に」これら二つの様式の相補性のもとに霊的な啓示が歴史に刻まれているとすることはまことに適切であるが、史的イエスの研究をより包括的なロゴスとエルゴンの相補性のもとに遂行する。イエスの霊的な言葉と働きは一つの今・ここのエルゴンであり、パウロ神学はそのロゴスであるという立場から、「パウロのロゴスが真であるなら、イエスの言行はこのようなものであったに違いない」というエルゴンに対するロゴス上の要請を提示し、それに最も近似な福音書の報告をイエスの今・ここの働きの近似なものであったに違いないと論じる)。

1循環論証をめぐって

 プロテスタントの中心的使信は神の前とひとの前を分けない思考様式から導かれる。

「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(カルヴァン)。「信じることは信じせしめられることだ」(ルター)。これはそのつど、今・ここで聖霊の執り成しの働き(エルゴン)を求めることに他ならない。「蛆虫のつまった頭陀袋」である「私が右手で為す善行を左手に知らせないとするなら、それは神がキリストにあって為したまう奇蹟である」(ルター)。

 この主張の真理性は、信じるということは今・ここで神により愛されているということを信じることに見いだされる。心から信じるということは、それは今・ここのことであり、正しい理解であると思われる。「信じます。信なきわれを憐みたまえ」。そこから容易に「信仰のみ sola fide」=「恩恵のみ sola gratia」が導かれる。

 この神の前と人の前を分けない議論は双方から議論を始めることができ、循環論証に陥る可能性を抱える。究極の循環の事例、聖書の真の著者は聖霊であり、聖書を真に理解するのは聖霊の内在による促しのもとに読むときである。聖書の真の著者と真の読者は聖霊である (聖霊による一人芝居a self-contained play by HS)。ルター主義的な恩恵と信仰の循環は次のようになる。恩恵を信じる→信じることは恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である ad infinitum)。

 循環論証の不健全性は、証明されるものが証明するものとなり実質的には何も証明しないことから明らかになる。蛇が自分の尻尾をおいしいと食べ続け、とぐろを巻いている蛇の自己食尽に比せられる。解釈学的循環を主張する人々は例えば子は親により「形成される」。その子が親を理解するとき、それは既に形成された理解を投映していると言われることがある。子はそんなに愚かではなく言わば親に洗脳されてしまうとは限らないであろう。パウロによればひと(肉は自然的な身体を抱えた生の責任ある行為主体)は相対的に知的に自律した者である。

 聖書学者や歴史家が遂行している先行理解の遮断:パウロの宗教的出自、当時の政治や歴史、社会構成の状況などパウロが属していた生活の座の考察からテクストを読むその態度を捨てる。「わたしは君たちが読み、しかも理解することがらの他何も書いていない。君たちが完全に理解してくれるようわたしは望んでいる」(2Cor.1:13)。

パウロによる解決:「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。

 パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとに聖霊の執り成しの言葉を語る(Rom.5-9:6)。他方、神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。その働きそのものを語りにより表明し(テルテオが)書き留めている、そのテクストそのものを創作している現場に立ち会う。

 Papias(circa 60-130)以前は「マタイ福音書」等は匿名でただ「福音書」と記されていた。その主な理由は真の著者は聖霊であって、筆記者自身ではないと筆記者が信じていたことが挙げられる(蛭沼寿夫『新約正典のプロセス』p.145)。この逐語霊感説はパウロ的には神の意志や認識がイエス・キリストを介して知らされているほどには明確には知らされていないというたぐいの教説である。「聖書」が神の言葉と語られるとき、神ご自身がこの人間の記した文書・神と関わるヒューマンドキュメントにおいて表されることを認可・許容したという意味。他方、「神の言葉(logon theou hos = キリスト)は君たち信じる者たちのうちで働いていたまう(energeitai)」(1Thesa.2:13, cf.1Cor.1:30 「われらにおける神からの知恵」、)とみ言葉の受肉そして聖霊の内在による働きを表現することがある。

 なお循環の問題は神の前と人の前の癒着(常にエルゴン上の不分離の主張)によるだけではなく、例えばブルトマンは歴史的手法そのものが循環であると主張する。「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、循環論証の一種であることを認識することは、本質的に重要である。というのは、共同体の生活契機は文学的伝承の様式から遡及的に推定されねばならないし、逆に様式は共同体の生活から理解可能となるだろうからである。この二つの見方から必然的に生じる往還関係と二面性を規制し、どこから着手すべきかを規定する方法は存しない」(ブルトマン『共観福音書伝承史I』p.12)。ここで「遡及的に」において伝承された文書などの人間的な認識や実践から共同体という客観的なものごとの特徴の認識へのアクセスが遂行されるということを意味している。他方、文書の諸様式例えば奇蹟物語、譬え話、知恵の教え、預言、受難予告等はこれらがそこにおいて遂行されたものごととしての共同体の実際の働きに基づく。つまり、ものごとの在り様の認識は文書(書かれたもの)に依拠し、文書の作成はものごとの在り様に依拠している。書かれたものとものごとないし歴史は相互依存の関係にある、換言すれば、ものごとと歴史叙述は相互に癒着しているとブルトマンは肯定的に(「本質的に重要」)主張している。歴史学の手法は共同体の実際の認識への接近手段である→共同体の実際の生活様式(生活の座)が文書(歴史叙述)の様式がいかなるものであるかを決める→その実際の生活様式も文書によって接近される→その文書も実際の生活によって規定される。(解決案 最善の説明はものごとの実際の在り様を捉えることができるという実在論的歴史叙述の立場を取ること。ブルトマンは存在様式と認識様式を癒着させている)。

 一般的に、歴史学の基本的な手法、目撃、想起、古文書、遺跡など証拠を挙げることによる過ぎ去ったもののそれ自身として特定する企てである(パウロも復活の目撃証言者として500人を挙げている(1Cor.15:6))。歴史学の手法は経験主義的、実証的な観察可能性の枠組みのなかで遂行される。これはイエスがキリストであることを論証することができるかが問われ、これは歴史学によっては確定されないとしばしば主張される。他の学問的アプローチ例えば文学、聖書学、神学、哲学により補われねば、ナザレのイエスの呼称の多様性に見られるように、イエスが何者であったかを掴むことはできない(「預言者」「ラビ」、「神の子」、「人の子」、「ユダヤ人の王」、「キリスト・メシア」)。

 カトリックはプロテスタントが陥りがちな言葉とものごと(今・ここの働き)の癒着に対し人間の魂の相対的な自律性を認め、アリストテレス哲学に即し、有徳な人間は聖人にまで至る。もちろんそこに恩寵の注ぎはあるであろうが、理論(ロゴス)上神の前と人の前を分離することを許容している。新教は旧教におけるあまりの人の前の自律性の譲歩に胡坐をかいてしまったことに対するプロテストである。

 ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離をパウロそして福音書に見出すことができる限り、カトリックとプロテスタントは和解できる。最も望ましいのは先在のロゴスが肉に今・ここで内在している状況である。「言葉は肉となった」。言葉を言葉として摘出でき、言葉の肉におけるその都度の働きは今・ここの個別的な出来事として基本的に観察される。イエスは神の前に義であった。肉の弱さを抱えつつも「神の子の信」「天の父の子」の信により、神の前につまり神の認識のもとでは肉の弱さに負け罪に陥ることなく神の意志を死にいたるまで信の従順により完遂した。

 2ロゴス上の分節とエルゴン上の不分離のテクスト上の根拠

 神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」((A)「神の前の義人」と(B)「神の前の罪人」)として理論(ロゴス)上析出することができる。神の啓示行為は三か所において動詞形で表現されている(Rom.1:17(3:21-26)(信に基づく義認),1:18(神の怒り(業の律法に基づく)、8:18(終わりの日の審判))。(A)「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25)、(B)「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:19-20)。

 この神の働きの報告とともに、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に、身体の限界が自己の限界であると考えがちであり、神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。相対的自律性のもとにある(C)「肉」は(A)「義の奴隷」でも(B)「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在である。

 そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。

 ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象である。例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という聡明な小学生の適切な応答に相互の補いあいの必要が正しく見いだされる。理論上そのとおりでも身体をもつ者には実践上ままならないことが日常的である。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。

3 発見者の喜び:ローマ書3:21-31

「21世紀の宗教改革77条 序論」から抜粋

3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

 使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれた(エルゴン)ものである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。

 信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。神はご自身の義の啓示の媒介として歴史のなかで生起したイエス・キリストに帰属した信を用いられたが、パウロはその信の出来事を自らの出来事であると受け止めるよう命じる。

 このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに「信」をめぐる「ローマ書」の言語哲学的研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。

 実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのである。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行された。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のものになると思われる。

 「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも、心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されている。

 「イエス・キリスト信を媒介にして」については諸条項において解明されるが、ここでは本改革の鍵となる箇所であるだけに次の事実を指摘しておく。職名を伴う固有名「イエス・キリスト」は「イエス」や「キリスト」と異なり行為主体として用いられることはなく、媒介の前置詞「において」や「介して」を伴う(第12、14、15条)。この啓示行為の主体は神であり、御子ではなく、それ故にこの「の」は主格的属格ではない。また啓示は神の行為として神の前のことがらであり、神が理解する限りの「信じるすべての者」が啓示の差し向け相手となり、肉の弱さのうちにあるひとがイエス・キリストに対して持つ強い弱い信仰が啓示の媒介となることはないがゆえに、この「の」は目的的属格でもない。

 この「の」は帰属の属格(genitive of belonging)である。イエス・キリストに帰属したこの「信」は歴史のなかに生起した出来事の範疇において記されている。ナザレの「イエスの信」(3:26)即ちイエスが自ら神の子であるという信仰(=信)のもとに生きた従順の生涯に基づき、神はそれを嘉みし油注ぎ「キリスト」である「イエス」に帰属した信としてご自身の義の啓示に用いられた。啓示の行為主体は父なる神であるため「イエス・キリストの信」という語句の使用において行為者イエスへの言及なしに、神の義の啓示の媒介として用いられた歴史のなかで生起した信をこの語「信」は指示している。この「信」は「信が到来する以前には」(Gal.3:23)と語られることもあり、行為主体への言及を括弧に入れ歴史のなかに到来した信を神はご自身の信義と分離なき十全な信として嘉みし用いられた。ナザレのイエスは行為主体として自らが神の子であるという信を十字架に至るまで貫いた。啓示の専決的な行為主体である神はその生涯にわたる御子の従順の信の生涯を嘉みされたが、パウロはその事態を啓示行為においては二人の行為主体を想定できないことからイエス・キリストに帰属した信として名詞により総括的に表現している。

 その啓示の差し向け相手である「信じる者すべて」は神にその信仰が嘉みされている者すべてのことであり神ご自身が理解する限りの神の前の信徒が指示されている。ここでは肉の弱さにおいてある生身のひとの心的状態として強い、弱いのある信仰は問題とされず、嘉みされた信であることが問題とされており、その信の持ち主は神が義であることを知っている。神の信にはひとは信により応答することが人格的な関係として相応しく、知らしめは信じなければ理解されないという認知的、言語的制約からしても「信じる者すべて」という全称量化は不可欠となる。

 続いて、神の義がイエス・キリストに帰属した信を媒介にして信じると神が看做す者すべてに啓示されたことの理由が展開される。「というのも分離はないからである」。ここで神の信義の啓示が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に「区別(差異)がない」と看做したことを媒介にして遂行されたとしたなら、彼らの区別なき罪の故にであるというならまだしも、いかにも不可思議である。というのもひとがイエス・キリストに対して持つ区別なき信仰という一つの心的状態が啓示の媒介となることは理解困難だからである(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より理解可能なものとなるが5章まで愛の議論は封印されており、ここでは信義の関係に議論が集中しており、信ひとすじにより正義の確立が知らされている。「なぜ[分離なき]かと言えば」と23節から26節まではこの信義の分離のなさが、長い一文において説明されている。

 この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」としての愛の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく(第I部)。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争について、それに伴い万人救済説についても終止符を打つことができる(第II部)。さらに、福音に基づく一切の秩序づけの試みは人間の心魂の構成要素と働きについて理解を提示する(第III部)。また、結婚や同性愛等の具体的な問題にもこの運動の方向を示唆する(第9、33条)。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる(第IV部)。

 この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題とその論説を77か条挙示する。

 これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない(例えば、三位一体や神の言葉にしてひとの言葉である「聖書」の理解についてのこの運動の基本的立場の提示は第44条)。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一(最終回)

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一回(最終回)

録音においては、この講義の背景にあるものまた今後の計画などを話しながら結論をお読みしました。最終回ですので、祈りました。よい春をお迎えください。2024年3月16日

結論

 ひとは問われている。善悪因果応報の法則を信じるか。それならば善いリターンを得るべく、黄金律のもとに生きよう。これは道徳的次元のみにおいて語りうる実践的効力の教えである。しかし、山上の説教においては、善悪因果応報を無視したと思われる無償の「贈りもの」が「善人にも悪人にも」差し出されている。それが神の憐みであり、その極は御子の十字架と復活である。この福音は自己完結的であり、ただその差し出しの前にひとは立ち、その恩恵の外に立つことはできない。神の前の出来事は自己完結的であり、ひとの前の出来事は譲歩された相対的な自律性においてあり、端的な自律性においてないからである。神の前に憩うまで、ひとの良心は宥めをえず、信によってしか理解できないこととして何よりも恩恵はわれらが汚すことのできない一切を支える根底的な場所において明白に立てられたからである。山上の説教はそれを自然事象そして人間事象を介して教える。「聞く耳ある者は聞け」。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。そのひとは永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として神の意に「即して」執成している(Rom.8:27)。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,2:40)。愛は信の律法に転換されている。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 ひとはすべてキリストを介して、無償で贈りものとして神からの正義を受け取る者とされた。善から善、悪から悪への因果応報の法則は父と御子の協同行為によりわれらの心魂の根底において一旦断ち切られている。パウロは福音の自己完結性を伝え、神の二つの意志である業の律法と信の律法がいかに秩序づけられるかを述べている。父と子の協同作業は自己完結的であることが、神自身の即ち神の前の事実として自己言及において報告されている。神のみ旨はパウロによりこう報告されている。「われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。

 しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるすべての者に明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」(Rom.3:19-26)。

 パウロはこの神の前の自己完結的な啓示行為を報告したのちに、それがもたらす人間の心魂の在り方についての認識をこう報告している。「かくして、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。それゆえ、人間は業の律法を離れて信によって義とされるということを、われらは認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を介して無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然からず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:27-31)。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において、しかしリアルタイムの媒介行為を遂行しつつ、山上の説教を語りそれを生きた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。福音において神の愛が与えられているからである。

 ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が今ここで生きるわれらの「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験しその自覚なしには、また相手方の状況についての知識と識別なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、どれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

 録音では、司法、政治、経済等の諸制度と福音の関係を、富の具体的な事例を挙げながら解説しました。山上の説教を福音として読みうるのでなければ、わたしどもはこの相対的な社会において主体的に例えば経済活動に従事することと、神に仕えることとのあいだに秩序を見出しえないことになります。福音により因果応報の相対的な世界、社会生活を秩序づけることができると論じています。次回が「結論」です。2024年3月16日

四・三 善悪因果応報説を乗り越える福音 

 旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐みの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:24)であり、その応答が受領、承認としての信である。

神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスの自己言及に集中する限り、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。われらの罪の贖いは父と子の協同作業であったからである。パウロによれば、「あらゆる者たちは、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」となった(Rom.3:24)。そこに自らの義を「誇る」者は誰もいない、プレゼントだからである。

 この無償性は単純な善悪因果応報説では決して主張されない。とはいえ、父と子の間で、配分の正義のもとでWin-Winの関係として互恵的に記述することが許容されていよう。「息子よ、よくやった。褒美をあげよう、何が欲しいか」。「父よ、彼らは知らないのです、彼らの罪を赦してやってください」。「それが君の願いか、それでは人類の罪の赦しを君にあげよう」、何かこのような応報において、人類の罪の贖罪をアンセルムスと共に受け取ることが正しいと思われる。その罪の赦しはイエスを介してわれらに贈られる。「悔い改め、福音を信ぜよ」。

 イエスの迫害に付き従える光栄に預かった事実のみで、この言葉「報い」は功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実として理解されうる。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。愛を介して働いている信を生きる者は旧約の古い革袋の業の律法をも満たす者ではあるが、無比較的、端的な善がそこにある。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。父と子の自己完結的な正義は人間に対しては純粋に無償の「贈りもの」だからである。

 

四・四 相対的な正義と信による乗り越え 

 このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された(7:1,5:33-37,5:31,5:39)。これら制度化は肉の弱さへの譲歩であると言える。誰もが神の前に生きているなら、山上の説教をそのまま生きていたであろう。

 イエスは「君たちの心が頑ななのでモーセは君たちに君たちの妻を離縁することを許容したのであって、始めからこの通りではなかった」とまたパウロも「君たちの肉の弱さ故に人間的なことを語る」と人間中心的にものごとに対処することを譲歩として認めている(Mat.19:8,Rom.6:19)。人間同士の契約に基づく司法、政治経済、防衛等の社会諸制度は相対的な正義のもとに営まれている(Mat.19:8,Rom.7:24, cf.Mak.10:4)。

 しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく相対的、比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。例えば裁判官が懲役九年であるべきものを八年と判決する場合のように、自ら相対的な判断のもとに審判する時、端的な正義においてある神の前に出ないでよいという免責にはならず、その都度悔い改め、憐みを信じ仰ぐ。この相対的な世界において委ねられている正義はあくまで契約社会のなかでのことであり、神の前においては信に基づく端的な正義がキリストのゆえに無償で与えられる。ただし、現実社会の契約も相互の信に基づくものであることが求められるであろう。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 録音においては、山上の説教を福音として読むことができることによって、いかにイエスとパウロが連続的なものとして捉えることができるかを語っています。「裁き」と「識別」の行為がいかなるものであるか、光の倫理学のシミュレーションのもとに語っています。 2024年3月13日

第四章 山上の説教の倫理学と信による秩序づけ

四・一 善悪因果応報の倫理的教説

黄金律におけるひたすらなる善意の行為原則

 イエスの教えから倫理学を引き出すとすることができるとすれば、それは一切が明らかなところでは、ひとはいかなる法則性のもとに行為を遂行するかそしてその実践的効力をどこに求めているかを明らかにすることである。神の前にも人の前にも普遍妥当する法則があるとすれば、その連続性を保障するものでなければならない。神も同意し人も同意する法則とは光がもたらす透明性が持つ普遍的妥当性ということになろう。これまでの論述は倫理学の第一の特徴である態勢と行為の平行関係は跳ね返りの法則において確認されている。また倫理学の第二の特徴であるロゴスとエルゴンの相補性、認知的徳と人格的徳の共軛も不可欠な前提となる。イエスの天の父はまさにそのような神であったことをこれまで論じたので、これに関しても倫理学の要件を満たしていると言える。第三の特徴である幸福が神的なものに開かれていることは八福で確認した。従って、イエスの福音の宣教における自己言及性とひとのそれへの信による応答を一時的に括弧にいれる限りにおいて、倫理的教説として特徴づけることができまた対話可能なものとなろう。

 憐みの連続性と悪さの不連続性はそれぞれ交差しない形で果実をもたらすことをこれまで確認してきた。律法の純化、先鋭化の試みは善悪因果応報の枠のなかでまとめられている一つの倫理的教説であると言ってよい。神の業の律法における意志・み旨は倫理学的には善悪因果応報の法則のもとに知らされている。イエスはそこから行為の一般原則を導出する。「かくして、君たちは人々が君たちに為してくれるよう欲するならば、そのかぎりのものごとすべてを君たちも彼らにそのように為せ。というのもこれが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.5:12)。ここで「黄金律」と呼ばれる愛敵に至る隣人愛への命令がモーセ律法と預言者が目指していたものに他ならないとされている。この表現は「レビ記」にある隣人愛の命令「汝は汝の隣人を、汝が汝自身を愛するように、愛するであろう」(Lev. 19:18, Gal.5:14)よりも一般的な表現である。これは山上の説教全体に言えることであり、イエスは「罪」や「信仰」そして「悔い改め」等の宗教用語は用いない傾向にあり、その代わりに「過ち」や「求めよ」そして「仲直りせよ」のような表現が用いられている。聴衆たちにわかりやすい日常語を選んだ、或いは道徳的次元を明確にするためであると言える。人々にしてもらいたいことはよくしてくれること、赦してくれること、愛してくれること、なにかそのようなものごとであり、それを先ず君から実行せよという命令である。

 イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、善き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。他方、疑心暗鬼による負のスパイラルは恐れに起因することが多い。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の否定的な反射性の好事例である。「愛は恐れを取り除く」という仕方で善意によって、負の螺旋下降をブロックする黄金律は合理的なものとして支持されよう(1John.4:18)。

 ただし、黄金律は神の憐みの先行性とそれへの信なしには人間中心的な功利主義的にも捉えられがちであろうが、これも認知的なものと人格的なものの共軛によりブロックすることができる。光の透明性の倫理学において次世代AIであれ一切を正確に知り審判する叡知体を想定することは、認知的次元だけではなく人格的次元をも要求せずには双方の共軛が成立せず、限りなく人格的神の要請に近づくことになる。

 憐みの悪人の交差なき善悪因果応報の法則性の根拠は一切を知る天の父が公平に審判することに見られる。「もし君たちが人々に彼らの過ちを赦すなら、君たちの天の父も君たちにも赦すであろう」(6:14)。「裁くな、裁かれないためである」(7:1)。まず、君自身からしてもらいたいと望んでいるものごとを、人々に行使せよと命じられる。愛敵にまで純化された善悪因果応報が妥当する限り、黄金律は信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する道徳法則となる。

 イエスはモーセ律法の純化により自己への厳格な適用と隣人への寛大な憐みの適用こそ神のみ旨であると言う。愛敵即無抵抗即ち「悪人には手向かうな」(5:39)などの厳しい教えの自己への適用において自らの偽りが暴かれるが、悔い改めの信により克服し隣人愛に向かう。他方、隣人への対応において「裁くな」、「赦せ」と端的な憐みが命じられる。ルカの平野の説教において神の憐み深さは量り枡の譬えに見られる。「君たちの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。君たちはひとを裁くな、そして裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そして咎められないであろう。赦してやれ、そして赦されるであろう。与えよ、そして君たちにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を君たちの懐に入れてくれることだろう。というのも君たちが量るその量りで君たちに量り返されるからである」(Luk.6:36-38)。隣人への憐みは神の憐みにより基礎づけられ、イエスのその実践的効力ある行為原則は信である。光の倫理学においては善悪因果応報への信が機能する。

 イエスは裁くなという命令の理由に「君が量るその量りにより量り返されるからである」と言う。これは善悪因果応報に基づく跳ね返りの法則の一般的表現であり、憐みを量りにすれば、神から憐みをかけられる。正義を量りにするならば、神から正義によって量られる。キリストを量りにするなら、キリストによって量られる。従って、先行行為主体が行為を選択するその領域において、応答を受け取る、仕返しをされるということである。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)と語られるように、悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。イエスの厳しい現実認識によれば、否定的な言葉や内面の悪意でさえ滅びに定められている。殺人をめぐる先鋭化においては「しかし、わたしは言う、「自分のきょうだいに怒る者はすべて審きに服するであろう」。誰であれきょうだいに「馬鹿」と言う者は法廷に服するであろう、「鈍重」と言う者は、地獄(ゲヘナ)の火に服するであろう」(5:22)。またこう言われる、「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」(7:24)。実践を伴わない者はものごとがよく見えていない愚か者であり、最悪滅びに定められる。業に応じた公正な審判がくだされる。

 悪を抑止する業の律法のもとでは正しいしかし相対的な審判が遂行され、働きに応じて相応しい果実を得ることになるであろう。「目には目を」の業の律法のモーセに対する啓示は相対的な跳ね返りの法則の啓示であったと言うことができよう。光の透明性の倫理学においては、集積したデータのなかではイエスの審判は最も厳しいものと判定するであろう。しかし、神の完全性、天国の律法の法則を知っていれば、同意するであろう、そのようなことがらである。一切が明らかなところでは、憎悪も実際の殺人も同罪とされる文脈はありうる。後に実際殺人することも見抜いていようし、憎悪により多くの悪を周囲にまき散らすことも計測されるであろう。倫理的教説として、いずれが優れているかを論じる段になると、やはり一切を知っていることそして人格との共軛が成立していることが、鍵となるであろう。そのなかにあって、肯定的な黄金律を実践に移すことには同意が成立しよう、その普遍妥当する法則性への信のもとに。

 

四・二 裁きから愛の識別へ 

 イエスは自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨でないと言う。それは愛を説く黄金律にも反する。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。ひとは神の位置或いは一切が透明である叡知体の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。透明な倫理学においては、裁きにより優越を示す悪しき動機付けはその悪しき果実を得ると端的に語られる。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に何等かの量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を識別、判別する。豚には真珠ではなくトウモロコシを与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。そのとき、ひとの目から塵を取ってやることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。パウロも言う、「祝福されている、自ら識別するものごとにおいて、自らを審判しない者」(Rom.14:22)。この意味で黄金律は司法制度を前提にしている従来の人間中心的な倫理学に一つのレッスンを与えているとも言えよう。

 愛は信義の果実である。神の愛への信に基づき罪赦され、その義の証は愛しうることに見られるがゆえに、歯を食いしばって敵をも愛する。キリストはわれらが滅びを望むそのひとのために死んだのである(Rom.14:15)。キリストは自らの敵のために死んだことにより、罪とその値である死を滅ぼした(Rom.8:1-3)。ここに信から義から愛への一本道が見いだされる。その信頼とは敵もキリストにあって神に愛されていることの信である。神の愛の先行性が恐れに基づく負のスパイラルをブロックする (Rom.12:14-21)。一切を正確に知りしかも憐み深く公正な神への信が悪に対して善によって打ち勝つことを可能にする。これがイエスの神のもとでの倫理学の実践的効力である。この信の実践的効力に対応するものは人間中心的な倫理学においてはやはり交差なき因果応報を肝に銘じることであろう。カントの道徳法則の普遍妥当性に基づく断言命令もこれに基礎づけられる。先に幸福が自らの力能のうちにないことを確認したが、やはり、倫理学は信に開かれていると思われる。人格なき普遍妥当する法則はどれだけの実践的効力を持つか、山上の説教の側から問われよう。

 

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八

 録音では、「木は実によって知られる」をめぐるこれまでの神学者たちの困惑に応答を試みました。イエスは道徳的次元に屹立しています。この善悪因果応報の譬えは倫理的次元のみにおいて理解されるものです。それ故にこそ、聖霊の媒介を語らない山上の説教において、福音と倫理はイエスの語りを介して適切に秩序づけられています。2024年3月12日

 第四の倫理学的解釈

 これらの聖書学的、神学的理解に対して、道徳的理解とは、光の透明性のなかでは、普遍的であり、この事例は根源的な道徳法則の例証として挙げられており、文字通り、「善い木は善い果実を実らし、悪い木は悪い果実を実らす」のであり、各人の心魂の態勢に応じて、行為は善くも悪くもなるということを聴衆に教えている。イチジクはイチジクを生むこの自然の秩序正しい複製機構は生命を預かる神からの善人にも悪人にも注がれる憐みである。これは(2)の自然事象を介した恩恵の注ぎである。同時に、これは(3)不十全で悪しき者には善悪因果応報のはねかえりの法則を教えて、警告している。黄金律のもとに生きるように促される。このいずれでも生きうる者に、種蒔きの譬えにあるように、自らが善き地であると憐みを信じる者は数十倍の実りをもたらすであろうと励まされている。(1)イエスの自己言及を信じるかという切迫性のもとに立たされている。

 神学的には神はモーセ律法、業の律法の啓示において、自らの審判規準を知らしめており、イエスはそれを純化したうえで神のみ旨として教えている。「「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入れていただくのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入れていただくことになるであろう」(7:21)。従って、イエスはこの譬えを割り引いて或いは第三者をもちだして、つまり原因だけや結果だけそして聖霊の介入による双方の媒介という解釈の手前で、この心魂の態勢と行為の関係の道徳法則を教え、聴衆の良心に委ねている。聴衆はここで神のみ旨がいかなるものであるか聞かされたこととなり、「まず、御国とご自身の義を求めよ」が人間にとって根源的な行為であることの共知の種が蒔かれたと言える。

 

プロテスタント的理解とその反論

 E.シュヴァイツァーは常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対して反語的に自動機械ではないかと問う。「善い人間が必然的に、自動的に善い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも善い人間になることができないということを意味していないのだろうか」[i]。第四の立場からすれば、責任ある自由のもとにある中立的道徳的存在者であるひとは自動的にいずれかにみちびかれているのではないというものとなる。ただし、態勢と実践の並行性は否定されてはいない。むしろそれは創造の持つ秩序正しさの祝福である。

 シュヴァイツァーは「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しか残っていない、ということなのであろうか」と問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係が強調されるが、山上の説教を語るイエス自身はリアルタイムにおいて福音を実現しつつあり、野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となるべく生きることに関して律法と福音の間に律法の業と福音への信仰のあいだに分断を見出してはいない。「まず、御国とご自身の義を求めよ」と神との正しい関係の構築のもとにリアルタイムの媒介行為を遂行している。

 また聖霊論的解釈、ルター主義的解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じるとして、ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(善い意志)を持っている限り、善い木なのである、というものであった。ルターは善い木を信仰であるとした」(前掲書p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その善い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として善い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに善い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに第一の立場は第三の立場に吸収され「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになる。木とその果実の譬えは、上で指摘した対人論法のもとで語られており即ちモーセ律法の枠のなか或いはより根源的には自然法則の枠の中で語られており、その前提のもとにイエスはリアルタイムに福音の説教と権威ある言語行為という媒介行為を今・ここで遂行している。それ故に原因と結果の分断にも聖霊による媒介にも与せず割引なしに語られている。この自己限定のもとにある説教においては聖霊の媒介を要求すること、第三のものをもちこんで丸く収めることはできない。イエス自身が目の前にいるのであるから、その必要はない。「祝福されている、君たちの目と耳は」(Mat.13:17)。

  

山上の説教が語られた文脈―生命の迸り―

 ひとが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成していることをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う[ii]。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成しているという信はその内容として正しいものである。

 しかしながら、イエス自身は「イスラエルの失われた羊にのみ遣わされている」として旧約の伝統のなかに自覚的に留まったが、彼自身が生命に溢れる言わば新しい葡萄酒であったために、古い革袋を破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。われらはここで生身のイエスは、一挙手一投足において神の国を持ち運びつつも、十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。

 福音書記者マタイは、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方でイエスの死後執筆したものであるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシヤとして内側から破っているその現場をその都度報告している。イエスは「人々がアザミから葡萄を茨からイチジクをまさか収穫することはない」と自然が持つ複製機構の秩序正しさに見られる神の憐みを語るが、自らがその心と身体において神の憐みを実現するその一挙手一投足を生きている。イエスはこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語った。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない、そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。その現場の切迫性のなかで聞かねばならない。これを正面から引き受けるとき、聴衆はイエスについていく者となる。その心の内側でイエスに現れた神の憐みを承認し、受領している。それを「信仰」と呼ぶ。

 かくして、イエスは一方では道徳的次元ではそのまま「跳ね返りの法則」とでも言うべき、態勢と行為の相即性が神のみ旨であることを告げ、神の前のことがらとしてその道徳的次元の手前で神との正しい関係を構築するよう招く。ここに、パウロの言う、「業の律法」と「信の律法」の神の二種類の律法が秩序づけられる現場にわれらは自ら証人として立っていることを見出す。なお、跳ね返りの規準は一層シャープになっており、善悪因果応報の「善」の実質的概念はイエスによる律法の純化と遂行により、究極的には「愛敵」に変質している。

 イエスは山上の説教の純化された道徳を割り引くことなく提示しつつ、その遂行する手前で或いはその遂行のために、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることこそ第一になすべきこととして語っている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。なぜなら神は憐み深い方だからである。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。

 イエスの言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であった。ただしイエス自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら内省するとき、山上の説教における律法は単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ掛け値なしに展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。少なくとも人類には山上の説教を生き抜いた一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実を心にとめる。これを「十字架への信の道と道徳の今・ここの共存」と呼ぶが、これは何らか他の三つ、心情倫理的自己満足、律法主義的解釈、聖霊論的解釈即ちルター主義的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。彼は人間とは何者であるかを端的に明らかにしている。

[i] E.シュヴァイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』 p.257佐竹明訳 (NTD刊行会 1978)。

[ii] 『信の哲学』上巻p.534参照。カルヴァンRom.8:9注解。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十七

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音とりんりその十七

録音においては、福音と倫理の関係をAIの現在地点の紹介とともに秩序づけています。13年前の郷里宮城における3.11の日を回想しつつ。2024年3月11日

三・三・五 道徳的次元の内破そして信仰への招き 

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。これは神のみ旨の表明であるが、それを一旦括弧にいれて一切が明らかであるところでは、このような完全な道徳を提示することは十分にありうることだと想定することができる。イエスは自らの言行一致がもたらす「権威」のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて「偽善」や「貪欲」を指摘し道徳的次元をその内側から破り出て、「まず御国とご自身の義を求めよ」と信仰に招いている(5:23,6:33,16,7:5,16)。福音の確立のただなかで、「一点一画」とも廃棄されない愛に収斂する業の律法を正面からそれ自身として引き受けている。

 この土俵の共有という対人論法において一般的な人生の理解として前提にされているのは、まずひとは生命に至る狭い門から入るか滅びに至る広い門にはいるか二者択一を迫られている中立的な道徳的存在者である。「狭い門から入れ」という促しの背後に、個々人は生命と滅び双方の可能性のもとにある責任ある行為主体である。「滅びに至る」門は広く、「生命に至る門は狭く」その道も細い。各人究極の二者択一のもとに自らの道を選択する(7:13-14)。

 そのことが含意していることとして、ひとは常に善悪を判断する道徳的存在者だということである。そしてそれぞれの善きまたは悪しき心の態勢からそれに応じた行為が生み出されて、悪しき心から善き行為が生まれることはない。双方は交差しない。これはアリストテレスの行為やパトスが態勢の現れであるという態勢論の議論のなかで、イエスも同意することを引用により確認した。ここではこう語られる、「偽預言者に警戒せよ。彼らは羊の皮を身に着けて君たちのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。君たちは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアザミから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての善い木が善い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。善い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は善い果実を生み出すことができない。善い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から君たちは彼ら自身を知ることになるであろう」(7:15-20)。

 シャロンの平野にはとき色の杏子や桃の花が咲き、種を落としまた同じ種の個体が芽生える。この「最も秩序正しい」自然の複製機構の安定性の類比により、イエスは、葡萄は葡萄を生む、ように、善い木は善い実を結ぶと言う。否定的なものはその反対語により理解される。これら善い木がもたらす善い果実と悪い木がもたらす悪い果実は交わることがない。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7:26)。岩盤の上に家を建てる者と砂上に家を建てる者の賢さと愚かさの二分のように、道徳的責任のもとに二者択一のもとにある人はいずれかを選択するとき、交差の可能性、地獄への道から天国への道の転換の可能性は考慮されていない。

 

三・三・六 木とその果実の三種類の解釈 

 聖書学的、神学的にはこの事例は大別して三つの解釈を引き起こしてきた。一つは従来「心情倫理」と言われたもので、原因となる心の在り方がよければ、ちょうど善い木であっても嵐や土壌汚染で善い果実を結ばないことがあるように、善い働きがなかったとしてもやむを得ず、善意志だけが神に嘉みされるという立場である。

 もう一つは「責任倫理」と言えるもので、結果だけがすべてであり、善い果実を実らすもののみが善い木であると神は看做しているので、心の在り方がどのようなものであろうと、果実により審判されるという立場である。第一の立場は自ら自己満足のうちに所謂心情倫理の次元に留まるか、誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性を通じて信仰に招くかのいずれかとなる。後者はルター主義的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と言える。第二の結果責任が問われているという立場は一つには道徳的な次元で自らの力で善い実を結ばないものは火で焼かれてしまう、立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解が展開されている。U.Luzは神についてこう語っている、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」[i]。これを律法主義的解釈と呼ぶ。

 もう一つは原因と結果の「全体」が神に問われており、双方を媒介するものがある限り、善い果実をもたらすと神が看做しており、この譬えはそれを結果である果実の側から述べているという立場である。第三の立場について、J.Schniewindは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言う[ii]。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。

[i] U.ルツ『EKK新約聖書註解I/1』 p.594小川陽訳(教文館 2009)。

[ii][ii]J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』 p.211量義治訳(NTD刊行会 1980)。シュニーヴィントの「全体的人間」の提案はルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。『信の哲学』上巻第三章、第五、六節pp.542-565参照。


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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十六

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十六

本日の録音は「明日のことを思い煩うな」という山上の説教の一つの山場です。生命は主のものであり、魂は食物がそれのためにあるそれとしての目的であり、食物のために生きているわけではないことが語られています。天に宝を積むことが説得的に展開されています。 2024年3月10日

三・三・四生命の主である神への信頼による思い煩いの克服

  イエスはその言葉と働きにおいて福音を持ち運びながら業の律法を福音に秩序づけている。イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、君たち、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においてはまみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。「君たちの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。

 各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善きものが秩序づけられる。「まず御国とご自身の義を求めよ、そしてこれらすべて[衣食住等]は君たちに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:33-34)。イエスは「業の律法」と「信の律法」をパウロのように言葉として分けることはなかったが、律法の遵守は信の従順により遂行され一切の営みは愛に収斂している。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。それが「まず、御国とご自身の義を求めよ」における、「まず」がもたらす転換である。神との正しい関係をまず求めよ。

 この転換をもたらすものとは神が生命の主人であるというイエスの認識である。生命は神のことがら・マターである。「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう」(Job.1:20)。「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子供の生命も同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3,cf.Jer.21:8,Eccl.3:1-2)。イエスは生命のことで煩う者を「信小さき者たちよ」と叱責する。かくして、「まず、御国とご自身の義を求めよ」が導出される。

 天の父が憐みをかけていることは知らされており、イエスは聴衆に何よりも「天国に宝を積む」その心の方向において憐みへの信仰を促す。神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせている。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日、野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐みへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。

 イエスもパウロも「霊」、「魂」そして「心」を分けて使うが、「魂」は生命原理として心的事象の基礎にあり、そのうえで「心」が意識事象など心的行為を遂行する。イエスはこう語る。「それ故に、わたしは君たちに言う、君たち[心]は何を食べ、何を飲もうか、君たちのその魂[生命原理]について思い煩うな、また君たちは何を着ようか君たちの身体について思い煩うな。魂[生命原理]は糧より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。ここでイエスの呼びかけ「君たち」は生きていて触れうる身体即ち「統合体」とその行為主体である「心」を二重に指示している。例えば、「彼は優しい」という発話において、生きている彼とその行為主体である彼の心双方に指示が届いており、「彼の心は優しい」或いは「彼は優しい心の持ち主だ」と同値であり、代替可能である。「ひと」即ちその主体である心と生命の源である魂の関係について、イエスはこうも言う、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命原理]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。ここでも「ひと」によりその心に指示が届いている。生命の源である魂が不正により損失を蒙るなら、心が世界を不当に支配したとして、心は魂の代価をその何によって償うのか。

 イエスはここで君たちの生命の源である魂は食物より一層大切なものである、つまり君たちの魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、君たちの心はその生命の源である魂のほうこそケアすると語り直すことができる。そのうえで、生命に関わる衣食住のことで煩うな、それらは生命原理である魂のためにあるが、生命を煩いにより「わずかでも延ばすこと」はできないからであるとされる。神が生命の支配者である。「君たちのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、君たちに言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、君たちにはなおさらのことではないか、信小さき者たちよ」(6:26-30)。

 同様に誓うことは自惚れであるとして、一切誓うな、その理由として「髪の毛一本すら、白くも黒くもできないからである」と語られる(5:36)。確かにわれわれは自然上髪の毛の色を変えることはできない。自然法則に基づいて、生きざるをえないように、神の前の法則を正しく知る必要がある。神の前では誓いは無用であり、「然り、然り」「否、否」の応答で足りる。われわれの人生は一切神の配慮のもとにある。信仰のみがその神との正しい関係を構築する、とイエスは語る。

 天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は信仰により父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は善いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には良いものを与えることを知っている。君たちの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:7-8,11)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。信に基づく義により律法の遵守そして生活は秩序づけられる。彼はモーセ律法のただなかで、「まず」により双方の秩序づけをリアルタイムに企てている。この言葉はリアルタイムの媒介行為でもあるであろう、彼が神に嘉みされ遣わされている限りにおいて。言ってみれば、十字架への途上において彼は神の国を今・ここで持ち運んでいた、罪がなかったからである。

 このイエスが置かれた状況を見誤るとき、福音と律法の判別というできあがった一つのキリスト教神学の視点、枠組みから山上の説教を解釈してしまう。彼は神の憐みをその信により、受け止め伝え、愛敵において神の完全性を生きつつある。「この杯は君たちのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序づけるべく人類に与えられている。イエスが信の律法のもとに福音を成就し、純化された律法を愛に収斂させつつ生きており、そして生き抜いたことにより、われらも律法を満たす道を知らされた。

  われらがイエスの言葉と働きによる彼の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの協同の知識・良心である。彼はその共知を求めつつ、聴衆を導き、言葉と働きにおいてリアルタイムに福音を実現していった。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその人との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。

かくして終末まで律法の一点一画たりとも廃棄されないとイエスが自信をもって語りうるのは、彼が信に基づく正義を実現しつつあるなかで、愛を生み出す力強い信を抱き、愛において神の国を実践していたからに他ならない。ここでも「律法」は彼のもとで新たに理解され、自ら信のもとに満たしておりそして生涯通じて満たし抜こうとしている神の意志として理解されねばならない。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

録音ではイエスの現場性すなわちユダヤ教の伝統を引き受けながら彼の生命がほとばしりで古い革袋を破る新約の喜びの現場性をつかむことの重要性を語りました。2024年3月9日 

警告

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。

 この説教はその道徳性の根拠に「君たちの天の父が完全であるように、君たちは完全であることになろう」が高い理想として掲げられる。それ故に勢い厳しい言葉が連続的に繰り出されている。「もし右手が君を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ、身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(Mat.5:29-30)。ここで最後の審判における全身の滅びを回避するものとして途上における身体の躓かせる部位の損失が推奨されている。「躓き」は自らないし隣人を転倒させ前進を阻む障害物である。ひとは自らの心魂がいかなる態勢にあるか自覚することは難しいが、光が心の内面を照らすとき、自らの前進をブロックする頑なものの存在に気づくことがある。何らか最後の審判に至る途上の部分的審判を経験するとき、躓きを取り除き或いは方向転換し最後の審判を避ける肯定的な前進に向かう。そのとき懐疑は喜ばしい探求に代わる。肉を抱える限り、再び躓き懐疑に襲われても、探求の感覚を思い出し再び立ち上がる。

 躓きを置く者は憐みをかける者との対極に位置する。この直截さは憐みの肯定的影響力とその対比にある躓きの否定的影響力が時系列の連続性において交わらない二つの生の原理として地上の生と来世が捉えられていることを示している。交わることのない二つの道がある限り、否定の道から肯定の道への移行はあるとすれば信仰により飛び越えねばならない。これはアブラハムの信仰の先駆に見られるように、「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」、その信に基づく義は旧新約双方の基礎にある(Rom.4:5)。

 

三・三・三 リアルタイムの説教とリアルタイムの媒介行為

  山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元を正面から引き受けそこに留まっていることに気づく。律法の「一点一画」とも疎かにされない。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるようにアブラハムの子孫たちに信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。「求めよ」は実際に神へのねだりとして信頼を前提にしてはいるが、ことさら「信ぜよ」とは語られない。純化された律法の文字通りの遂行にこそ神のみ旨のあることに、この説教の主眼がおかれている。そのことにより文字通りの先鋭化された律法の遂行は低く見積もられること、軽視されることを拒否している。このことはひとつには旧約の伝統のもとにある聴衆に躓きを与えないように、彼らの立場を正面から引き受けたことを含意しているが、しかし、これは何よりも神がモーセと民に業の律法を与えた時の神のみ旨だからである。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。

 しかしながら、一点一画とも疎かにされないはずの律法が偽善により汚されてしまっているという現実がある。それ故にイエスは律法遵守の新しい道を示そうとしている。イエスは旧約の枠組みにおいて自らを「預言者」(5:12)として位置付け、天の父の認知的、人格的完全性に基づく憐みを賛美し、愛敵に至る道徳的完全性を命じている。この厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。ナザレのイエスは揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いたことが報告されている。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからであり、また彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教えを説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。

彼は自己欺瞞者かが問われる。イエスが遵守不可能なことを要求しひとを苦しめるとすることは、憐み深いイエスを自ら裏切るものである。イエスは旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。この説教を「リアルタイムの説教」と呼ぶ。福音書はイエスのその都度の文脈において彼の語録を伝えるものである限りにおいて、リアルタイムの報告書であると言うことができよう。

 他方、彼は「リアルタイムの媒介行為」とでも言うべき天と地を繋げる働きを今・ここにおいて遂行している。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう」と彼と共にいることに平安があると語っている (Mat.11:28)。これは聖霊の派遣の約束ではない。また彼は「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいると語る。これも必ずしも聖霊の派遣と理解する必要はなく、イエスが身体的に共にいると言っていると解する文脈も必ずある。

 これはイエスの(1)自己言及であると言え、神の御子にふさわしい。メシヤの秘密で確認したように、彼は自己認識に変化があったわけではない。「神の子の信」のもとに、一挙手一投足において神の国をその肉において持ち運んでいた、ただし、彼とその現場を共にするものとのあいだに限定されてはいるが。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は君たちのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。これも「君たち」と呼びかける生身のイエス自身を神の国と同化させている自己言及である。今・ここにおいてイエスと共にいる者たちは不思議な安息と平安、喜びを経験していた。

 イエスの自覚としては山上の説教の現場でも同様でありリアルタイムの言葉による神のみ旨の伝達そのものがリアルタイムの媒介行為である。彼に言葉と実践の乖離なき権威と力がなければ、あれほどのおびただしい群衆が集まることはなかったであろう。その意味において今・ここで福音は実現し、展開されていると言うことができる。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十四

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十四

 (2024.3.8 多摩川河畔にある枡形山は雪の朝です。愛敵について語りました)。

 

愛敵

 イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを君たちは聞いている。しかし、わたしは君たちに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。君たちが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、君たちにいかなる報いがあるのか。取税人たちも同じことをしているではないのか。またもし君たちが自分のきょうだいたちだけをもてなすなら、君たちはどんな特別なことをしているのか。異邦人たちもまた同じことをしているのではないか。そのとき、君たちの天の父が完全であるように、君たちは完全であることになろう」(5:43-48)。

 愛敵において神の完全性に倣う者とされている。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。愛とは支配からも支配されるところからも唯一自由な心の場所において生起する我と汝(私とあなた)の等しさである。愛敵において、ひとの人生は天の父がそうであるように、「完全であることになろう」と語られる。ここで人生のゴールが明確に提示されており、一般的には「最も望ましい人生は何か?」の問いには愛敵の生と応えることができる。

 二千数百年前「レビ記」の記者により、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り継ぎ命じたことが報告されている。「汝自身の如くに」により表現している「汝」は自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な心の場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「わたしは君たちの神となり、君たちはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。

 

パリサイ人と配分的正義

 山上の説教の論敵は自己満足的なパリサイ主義者である。善きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じる。イエスはそこでパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:2,6:5,6:16)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。これは「目には目を、歯には歯を」に見られるように相対的な正義である(5:38)。彼らの背後に過剰を欲する貪欲が支配している。「羊の衣のうちに君たちのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である」(7:15)。欲深き者は自らが悪しき者であることを知らない、清さとの対比することができないからである。ひとはコントラストにおいて自らの位置を知る。イエスとのコントラストにおいて自らの穢れを知る。

 とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。例えば万引き家族との共知においては万引きに良心の痛みを感じることはないが、次第に共知の相手が鋭くなることにより、痛みの発動の文脈も異なる。イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。色情視をめぐって右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえという警告は実は神自身によるモーセ律法のもとでの認識である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。

 

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

(録音においては、預言者的な生の八福をおえましたので、これまでのまとめを最初に語りました。途中からお聞きの方はこれまでの要約としてお聞きください。今回からモーセ律法の純化、先鋭化の話です。イエスは一挙手一投足において純化された律法を満たしつつある、その生の前提、イエスご自身の律法理解を語っています。

三・三 山上の説教の倫理学

三・三・一 天と地の透明性のシミュレーション 

 山上の説教は「天国」や「地獄」への言及など宗教的言明の纏まりに相違ないのであるが、イエスは倫理的主題について論じ研ぎ澄まされた良心にとって咎めとなり宥めとなって心に残る信じる者にもそうでない者にも人間一般に妥当する一つの倫理学説として読むことを可能にする議論を展開していると思われる。それはひとの心が光に照らされ一切明らかになるところでの人間の偽りなき生の一つの想定(シミレーション)が展開されていると捉えることができるからである。父と子の人格的な自己完結性を括弧にいれるとしても、そこから導出される普遍的な言明は完全な理解を可能にするものであり、一切を知り正確な審判を遂行する何らかの知性体を前にしてひとはどう振る舞うのが合理的なのかは一つの倫理的問である。

 その明らかさは神の憐みと律法である。一方は自然事象を媒介にし、他方はモーセへの十戒の啓示を媒介にして明らかにされている。ここではまず律法について、イエスがいかなる見解を持つか、そしてこれに関しても彼自身はいかに受け止めているかを明らかにし、それが倫理的地平を形成すること、そしてそれが倫理から福音に移行することにより、律法が満たされることを確認したい。 


三・三・二 律法遵守への尊敬と福音のリアルタイムの実践


 イエスは律法への尊敬のもと自らの基本的な立場を表明する。「わたしが律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと、君たちはそう看做すことがないように。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、君たちに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最も小さい者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるその者は天の国において大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは君たちに言う、もし君たちの義が律法学者たちとパリサイ人たちよりもいっそう優るのでなければ、君たちは天の国に入れていただくことはないであろう」(5:17-20)。

 「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。その展開のなかで、イエスは旧約から新約の途上において、神の意志の表れである「モーセ律法」、「業の律法」への衷心からの尊敬を表明し、終末に至るまで「律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはない」と主張する。ただし、イエスもパウロも数百の律法を愛の律法に収斂させており、愛が満たされるとき、一切の律法が満たされると解している。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。イエスは預言者的生に与えられる八福に続き、旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝える。

 ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、自己義認の自己満足のうちにいるパリサイ主義者の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心に潜む偽りをモーセ律法の急進化、内面化そして純化により指摘する。その論法はまず定型句で「君たちは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは君たちに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。ここでも一人称「わたし」が語られ、律法の純化の背後にイエス自身が満たしつつありまた最後まで満たすであろう神のみ旨・み心が開示される。「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。ここではそれは具体的に殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される、そしてそのうえで律法成就の道を知らしめる。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

 (録音では理論(ロゴス)と実践(エルゴン)の相補性について、水や空気、光のような恩恵の枠のなかで生きるように無矛盾な福音の枠の中で生きることの自然さと恩恵について語っています)。2024年3月6日

天の国

 イエスは様々な場面で悲しむひとであり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清いひとであり、平和を造るひとであり、それ故に義の故に迫害された。これら八つの態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思うことであろう。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。ひとはここに逃避的な宗教の嫌な臭いを嗅ぐでもあろうが、この人生を正面から引き受ける限りにおいて、最も透明な清い場所との関連でこの世界を秩序づけることは非難されることではないであろう。

 天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派は復活を否定していた(Mat22:23)[i]。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。

 イエスはその伝統のなかで天の父への直截で親密な祈りを教える。「天にいますわれらの父よ、あなたの御名が聖とされますように、あなたの御国が来ますように、あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらもわれらの負債者たちを赦してしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪からお救いください」(6:9-13)。

 

「平和を造る者たち」

 旧約人とは異なり、彼の軛に繋がれて共に歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与えるものとなる。柔和な者はそのまま喜びと平和を造る者となる。イエスは平和を造る君であった。「祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである」。イエスは「わたしは既に世に勝っている」また「わが御国はこの世界に基づいていない」とも言った(John. 16:33,18:36)。パウロも語る、「われらの国籍は天にあり」(Phil.3:20)。平和を造る者は「神の子」と呼ばれるであろう。宝を天に持つ者はこの世界で争わず、譲ることができる。平和を造る者は信仰の存否にかかわらず、柔和であることをめぐっては誰もが同意するであろう。というのも、競争心や闘争心、支配欲の強い者は平和を造る者とはなれないからである。彼らは正義の名においてひとと争うことを辞さないからである。「主は羊飼い、わたしには何も乏しいものはない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣した。平和の君イエスは驢馬(ロバ)の子に乗ってやってくる平和の君であった(Mat.21:1-11)。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。預言されたまたそれを遂行するイエスの低さ故に人類は平和への希望を持つことができる。

 

自己完結的な一つの体に繋がる一部位

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストと共にいる限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。イエスは言う、「わたしは葡萄の木、君たちはその枝である」(John.15:5)。パウロは言う、「君たちはキリストの体でありまた諸部分に基づく肢体である」(1Cor12:27)その特徴はパウロによれば機能はそれぞれ異なるが同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは君たちに勧める、それは君たちが皆同じことを語りそして君たちのあいだに分裂がなく、君たちが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、君たちわが喜びを満たせ。それは君たちが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、君たちが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。それは一つの体に与かっているからである。「われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか。パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:17)。

 福音の自己完結性のもとキリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。葡萄の木であるイエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ぶものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではなく、自らの自然的な与件の能力の数十倍の実りをもたらすこともあろう。ひとは自己完結的に既に成就された完全性においてあるキリストにつらなるとき、それは彼の体の各部位として繋がる(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であり、自らの役割を知るに至る。

 

三人称から二人称への変換にせり出す自己言及

 第八福まで三人称による祝福者の規定であったが、最後に山上の聴衆に「君たち」と二人称で呼びかけ、イエスは自らについてくるように励ます。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」。イエスに従う者たちに彼は「わがために」迫害される者となることの覚悟を求めている。八福の一般的な三人称から二人称への変換による聴衆への祝福の語りかけにおいて、この人称の変換は臨場感、現場感を伴い緊張をもたらす。

 八福はイエスが自ら生き抜く心的態勢であり、彼はそれを実践しているなかで、聴衆にも新しい福音の担い手となるよう励ます。実際終末預言においてイエスはこう語る。「そのとき彼らは君たちを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして君たちはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう」(Mat.24:9)。実際三世紀後半までキリスト教徒への迫害は歴史に刻まれた。歴史の終わりまでイエスの名の故に地の塩、世の光としての役割を担う者となるようイエスの話を聞いてしまった「君たち」は励まされている。それほど神のみ旨は目覚めた者においてのみ遂行されうるものである。「祝福」の諸相において確認してきたように、イエスは旧約聖書が自らの生の預言でありまた保障であると信じている。三人称で語られた八福も実は間接的には語るイエス自身の(1)自己言及であった。それ故にこれも彼は神に祝福された者であったという信によってしか突破できないそのような祝福である。

[i] 千葉惠「聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―」『死生学年報2022』(東洋英和女学院大学死生学研究所編 2022)。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

(録音では信仰と憐みの関係を解説しています)。2024年3月3日

「憐れむ者たち」

 イエスはその心によって清く、憐み深かった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.14:14,20:34,Mak.1:41、6:34)。イエスは羊飼いのいない羊のように彷徨って他に寄る辺なく彼についてくる群衆に「腸(はらわた)(スプランクノン)」即ち心の底から身体的反応を伴い苦痛を感じた。そして彼は群衆を救いだすべく神の国について「多くを教えた」と報告されている。「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。心清い者のみが憐れむ者となる。

 福音書のイエスの言葉に、小さな者への憐み、愛が福音のもとに生きている証となるとされる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから君たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、その状況は天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。「憐み(eleos)」は一般的にその当人に相応しくない困窮を蒙ったひとに向けられる感情である。アリストテレスは「憐み」を定義して言う。「憐みとは、破壊的な或いは痛ましい悪がそれに相応しくないひとに(tū anaxiū)降りかかっているように見えることに伴う一種の苦痛である、その悪しきことはそれが近づいているように見えるとき、自分や周囲の誰かが蒙ることを自ら予期するところのものである」(Rhet.II8,1385b13-15)。この人間同士の間で生じる憐みが生起する文脈は自然界のことがらであれ人間同士のことがらであれ悪しきことがそれを蒙るに相応しくないひとに降りかかっている場合に生起する感情である。その憐みの感情実質はある種の痛みを伴うとされる。

 イエスが何故彼についてくる群衆を「深く憐れだ」かと言えば、人間は、本来、愛に満たされている天の父の子であり、それに値しない、相応しくない(anaxios)悲惨な現状を目にしたからであり、その憐みは痛みを伴いつつ同情、共苦、共感として抱いたのであった[i](Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)。イエスが山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言において明らかなことは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。ひとは一度でもこのような視点をもったことがあるかが問われる。誰か知らない人々が悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうかが問われる。キリストの受け止め方が自らのものにならないということは、自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。少なくとも「叡知の刷新により変身させられよ」における変身とは態勢そしてパトスにおいてもキリストに似た者になることに他ならない(Rom.12:2)。パウロは「わたしが生きているのではない、キリストがわがうちにあって生きている」とまで言う(Gal.2:19)。ひとの心的態勢はどこまでも途上であり、イエスに似た者になるにつれて、神のみ旨を実現していくことになる。そうすると、イエスの(1)自己言及は間接的にその都度われら個々人を介することになる。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、知と無知、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至り、隣人が自らと等しさにおいてあることを知る。イエスにおいてはこの憐みが癒しなどの不思議な業を実現させた、ただし相手に信がないときにはその憐みを遂行できなかったとされている(Mat.8:58,Mak.6:5)。憐みは自ら愛されたことの信を前提にしておりまた信頼関係のないところでは肯定的な力が遂行されるないからである。魔術師シモンが自らの力の誇示の為にペテロから奇跡をおこなう力を金で買おうとしたが、そのような心にはイエスの心は宿らない(Act.8:9-24)。山上の説教はイエスの清さにふさわしい。他の誰が語っても偽りになってしまうであろう。真の人間においては山上の説教を生きることが人間にふさわしい、神のみ旨がそこにあらわされているからである。

[i] Kittel,Theological Dictionary of New Testament VolII.p.477 eleos (Stuttgart 1964).

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 録音には本稿を読んだ読者の方(『信の哲学』上巻を四度、「身代わりの愛の力能」(「方舟」61号)を七度読まれた医師の方)から適切な感想を頂きそれを紹介しました。なおヴェーダー『山上の説教』(峰重訳 日本キリスト教団出版局、2007)における山上の説教と倫理の断絶を紹介しました。ヴェーダーの説を文章でも紹介しておきます。「神支配はあらゆる報復の終焉を
もたらすものであり、そしてそれゆえに、すでに今、応報を終わらせることが適切である。この異質性は、一切結果に方向づけられていない倫理がここに現れていることと関係している。その倫理は、抑圧者がどの程度そこから利益をうるかという点は気にかけていない。一方でそれは、良い結果を伴わずに行為を動機づける。その意味でこの倫理は、効果がないゆえに不正であるという抗議に先んじている。行為はこの世におけるその目的に基づいてではなく、神支配におけるその起源に基づいて考察される。これは倫理的なもののあらゆる終局化の終焉である。・・・イエスは神の要求をまったくのところ、神観念から「今」へと突入してくる神支配から描くのである。・・このことはこの世的にも肝に銘じておくべきことのように私には思える。あまりに多くの悪事が、立派な木j的のためにすでに実行されている。この目的に方向づけられた倫理は、なおこの世の尺度へと組みいれられ得る。立派な目的にではなく、ただ善そのものに方向づけられた倫理は異物であり、異物のままなのである。問は、現代の世界において、そもそもそのような異質な倫理にどんな意味があるかということだろう」(嶺重訳 p.164-65)。山上の説教は倫理的なものの終焉ののちに位置づけられるとする異質性の主張は、本稿における「信じる者にも信じない者」にも理解できる倫理地平をイエスは明らかにしているという立場とまったく異なる主張である。本稿では「福音」の独自性は確保されるが、それとの関連で他の三つの種類のイエスの語りが展開されていることまた実践的な効力を持つことを論じました。2024年3月1日


穢れ

 清さとの対比されるもの、その対義語は「穢れ」である。眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。悪霊の存在を認めない者も悪い人間が一層悪くなることを認めることができるなら、一つの説明として理解できよう。例話によれば霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。

 「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。これは人生の空虚感として誰もが何らか経験していよう。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。現代人は自らうみだしたテクノロジーをもはやコントロールできず、手をこまねいてその人工的産物の特異点までまたその自然的影響による破局を待っているように見える。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。自らと人類の心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。

 パウロは心に葛藤を引き起こすように勧める。「わたしは律法は霊的なものであると知っているが、他方、わたしは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されている。というのも、わたしが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわたしは認識していないからである。というのも、わが欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]を為さず、憎むところのもの[死]をわたしは作りだすからである。しかし、もしわたしが欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。しかし、今やもはや、わたしがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、わたしは知るからである。というのも、善美を欲することはわたしに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわたしは作らずに、欲せざるところの悪をわたしは為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわたしが為すなら、もはやわたしがそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7:14-20)。この発見は聖霊の発見との対比において認識されることがらであろう。空虚な者は「その霊によって貧しい者」となるかがその分水嶺となる。

 心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。

 しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。「良心の発動なぞくそくらえだ、善も悪も嘗め尽くせ」。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「なぜ私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為するということになる」[i]

 確かにわれらは屁理屈をこね、良心の発動を紛らわせようとする。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。

 しかし、身体においても痛みに気づかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、或いはそうでなくとも内省により自らの過去に思いを致すとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。この説教は霊に訴えることなくまた「善人と悪人」の判別以前、道徳以前のことがらとして光や心や肉体の痛みのような自然的事象に神の憐れみを見る。自然事象が神の支配のもとにあること、この点については、イエスはきわめて自覚的である。

 

信の根源性―穢れからの悔い改め―

 或る時、イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものに触れたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。

 イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。・・万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isa.6:3,8:13)。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに不十全性、分裂そして罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して一切を知る神にまみえる。神の存在を認めない者も、一切が自己完結的な明徴さにおいてある場合に、ただし一切を見通せない肉の弱さにおいてある人間には事柄そのものが次第に明らかになるという想定、シミュレーションのもとで、倫理学を構築することはありうることである。この想定も、いずれ人間も認知的に十全な者となるという一種の信により支えられている。

[i] ニーチェ『人間的あまりに人間的 Ⅱ』「漂泊者とその影」五二、中島義生訳、三一五頁(ちくま学芸文庫 一九九四)。ただし、パウロは良心の内容が「幼少時代のわれわれに、・・かつて尊敬したり恐れたりした人々が理由なく規則的に要求したものの一切」という見解には同意しないであろう。彼は「共同―証人」に神を挙げることもあり、自らの刷り込みによるものではないとする。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

 (録音では感情の文法そして良心の解説がなされています)2024年2月29日

「悲しんでいる者たち」

 イエスは友ラザロの死にあってまたオリブ山からエルサレムの陥落の日を思い「涙を流した」(John.11:35,Luk.19:41)。「祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである」。感情の文法によれば、愛しいものを喪失するその文脈において悲しみを感じる。この喪失感を味わうことのない者は愛を知らない者である。「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」(パスカル)のであり、生きることそのものから遠ざかってしまうであろう。

 

「柔和な者たち」

 イエスは柔和であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は善きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の善き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信・信仰のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。地を受け継ぐとは先祖の土地を継承することであるが、ここでは天の国を受け継ぐことを意味していよう。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう)を受けました」(Ps.16:6)。

 イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、天に招きいれられることであろう。その彼はこの地上で栄光を捨てひととなったその低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和を生き抜いた。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛と荷とは自らが神の子であるとの信仰により柔和と謙遜のうちに歩むことである。キリストの低さと共にあることによりこの世とその比較の世界から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが自由にされた生に力を与える。イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を受け取った者は謙遜を学び自らより弱小者への憐みを抱き、義に飢え渇く者となり、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

「義に飢え渇く者たち」

 イエスは義に飢え渇く者であり、義のために迫害される者であった。「祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。・・祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」。彼は「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」と律法の義・正義の厳粛さを揺るがせにせずに、その正義は愛敵に至って初めて満たされると主張した(5:20)。愛敵において「神が完全であるように、君たちは完全な者となるであろう」と語られている(5:48)。義に飢え渇く者とは正義、公正、等しさの分配の不在に苦しむ者たち、例えば、戦争や犯罪等による理不尽な死等の経験者とその加害者たちがそうである。預言者は為政者の不義な圧制のもとにありながらも、神の言葉を預かり審判と解放の希望を語るが、それ故に洗礼者ヨハネに至るまで迫害された。このような正義の実現を求めることとは別に、それとは異なる義を求める者たちがいる。彼らは敵を愛することのできない自己を見出し、その良心の咎めを感じるその霊によって貧しい者、義に飢え渇く者であり、祝福される。預言者的な義人と共に、二心や私心なく心清く、真理を求め正邪を明らかにする信念をまげない者たちの祝福が語られている。

 

「その心によって清らかな者たち」

 第六福の「その心によって」清らかな者たちも、「その霊によって」貧しい者と同様の与格構文であり、統一的な行為主体を表現している。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられている。「祝福されている、その心によって清らかな者たち、彼らは神を見るであろう」。イエスの復活は心の清さの結果であり、永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生きたその清さによるものである。復活は、再び死ぬ蘇生とは異なり、人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらである。

 イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。君たちは、神と富とに仕えることはできない」(6:24)。「その心によって清い者」とはその心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされている。「灯をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。君の身体の灯は目である。目が澄んでいれば、君の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、君のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし君の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、灯が明るさによって君を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲から仰がれる。そのように「世の光」はこの世界をよく見えるようにすることにより天と地を繋ぎ支え、導く(5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは悲惨のただなかで仰ぎ見る、「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。清い者はその心の分裂から解放されている。「君たちのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も君たちに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。天の父の嘉みを得るか否かは、心から隣人を赦し愛しているかにかかっている。その者は分裂がなくその心によって清くされている。

 

良心

 かくして、清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。「良心」は「共知(sun-eidēsis, con-science)」である。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。これが共知であるからには、ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。最終的には良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座であり、神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが君たちの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。

 山上の説教を語ることをイエスに動機づけるものは人々の「良心」の可能性への彼の信である。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、そこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や善きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。彼は祈りを教える、「あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも」(6:10)。

 天の父は御子をわれらに無償で捧げている。それ故にキリストが共にいることを心から焦がれるかが問われている。心がキリストのように清くなることを宝とするかが問われている。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる。清い者は神を見るであろう。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その八

    (本日の録音では塚本虎二先生50周年記念号を昨日拝受し、無教会の流れを振り返っています)。 2024年2月28日

三・二 八福

 イエスは山上の説教において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心の在り方、心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(5:1-12)。イエスは詩篇等旧約に展開される「祝福、幸い」を念頭に八度「アシュレーイー(祝福されている)」と山上で叫んだ。「祝福されている(アシュレーイー)、悪しき者の謀略(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に座らぬ者、・・祝福されている(アシュレーイー)、すべて彼[主]に依り恃む者たち」(Ps.1:1-2:12)。マタイは八福を「マカリオイ」とギリシャ語で彼のシャウトを伝えている。

 「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」(5:1-12)。

 八福が三人称で一般的に語られるが、しかしそれはイエス自身を間接的に指示していたことを確認することができる。三人称は神に祝福されている者と聴衆とのあいだの心の在り様の差異を知らせるものであった。聴衆はそのままでは祝福の対象ではなかったのである、ただし、最後に二人称で祝福が語り掛けられる、迫害のなかでも自らについてくるようにとの励ましととともに。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき」。イエスは自らの迫害のただなかにあって、或いは今後の厳しさの予見のなかで、その視点から八福を選びだしている。そのことをこの二人称の呼びかけは示している。

 この世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられない柔和な者その心によって清らかな者そして憐み深い者たちこそ、神が嘉みし祝福する相手なのである、心にかける愛しいものを失い悲しむ者とともに。ここでは罪赦された者の祝福は挙げられてはいない。「祝福されている(アシュレーイー)、不法を赦され、罪を覆われし者たち。祝福されている(アシュレーイー)、主にその咎を数えられざる者たち、その心に偽りなき者たち」(Ps.32:1-2)。イエス自身がことさらこの祝福を挙げなかった理由としては、彼自身が罪なき者であったことが背後にあるであろう。彼自身は当然この祝福に思いを馳せつつも、彼は八つの項目を自ら律法への尊敬とその遵守のもとに、その心の態勢において神に向かう者そして隣人に対して憐みの態勢においてある者、そして神の正義を求め飢え渇き、迫害に耐え平和を造る柔和な者たちに眼差しを向けて枚挙したと思われる。八福はイエス自身のそれまでのそして発話時点からしてその後の生を暗示している。或る時イエスが高い山に登った。彼はそのとき光輝に満たされ変貌を経験したが、父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(Mat.17:5)と祝福した。その八福を語った人は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる人であった。イエスは八福のもとに生きそしてそれの故に死んだ。山上の聴衆に自らに従う生が祝福であるとして励ましている。

 

「その霊によって貧しい者たち」

 イエスはゴルゴタの丘で断末魔の苦しみのなかで一時父なる神を見失った。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになりましたか」(Mat.27:46,Ps.22;1)。彼はそのとき自らの霊によって貧しくなっていたその状況のなかで、「わが神、わが神」と呼び求めて父なる神に縋り付いていた。それがこの祝福の差し向け相手であることを明らかにしている。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち、天の国は彼らのものだからである」。十字架上でイエスには感知されなかったが、「神はキリストのうちにいました」こと「神は彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」ことがパウロにより報告されている(2Cor.5:19,Rom.3:26)。彼の生は自らの責任ある自由のもとにあるものであったが、同時に天の父との協同作業であったと言うことができよう。

 第一福において祝福の差し向け相手が明らかにされており、イエスの言葉はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られている。それがたとえソロモン王であれ無一物であれ、その魂の根底に寄り縋る貧しい心だけを見出すとき、祝福されている、幸いだと呼びかけられる。それは天の国に入れて頂けるからだという。

 ここでは「霊」は個々人が聖霊を受領する力能ある部位として心魂の最も根底に備わる「内なる人間」と呼ばれる行為主体のことであり、「心(kardia)」は聖霊が注がれる心魂の最も深い座をも含む思考や感情など心的働きの座・主体であることを押さえておく(2Cor.16, Rom.7:24)。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

かくして「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」のであるから、われらの愛するものに応じて、心の向き・関心が定まる(Mat.6:21)。パトスや行為は態勢の徴に他ならない。その内なる人間に即して自らの貧しさを自覚するとき、ひとは自らの宝を天に認識するに至り仰ぎ見る。

 この状態は例えば魂の肉の一つの支配部位である「貪欲によって」経済的に貧しい者になった者とは対比される。ルカの「祝福されている、貧しい者たち」はその意味で「神に寄り縋る」が補われる必要がある、一般的に経済的に貧しい者は頼るものが富者より少ないため、天を仰ぐ機会が多いとは相対的に言えることではあるが(Luk.6:20,cf.Isa,61:1)。他方、イエスは七十人の派遣による伝道が成功したとき、「聖霊によって喜びに溢れた」(Luk.10:21)。これは、その霊によって富んでいる、そのような状態であり、当然これも祝福されている。霊によって貧しい者は天国を求めざるをえず、霊によって富んでいる者は天国の証を得ており、双方とも天国と関係づけられる限りにおいて、「天国は彼らのものだからである」。

 ルターは「汝が心を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言った。われらは英雄やスポーツ選手やアイドルに縋りつく。彼らに自己を投影し、彼らの成功を自らのものとする。自らの生の喜びを彼らによって満たしてもらおうとする。アリストテレスは自己に向き合わずに、次々に人々と交わることに時間を費やし、自己から逃避ばかりしている人間を「劣悪」と呼んだ。「その劣悪性の故に嫌悪されている者たちは、生きることを憎悪しまた逃避するそして自らを破壊してしまう。悪しき者たちは日常を共にすべき相手を外に求め、かえって自分自身を避けている」(EN.IX4,1166b11-14)。確かにどんなに弱くとも、われらはわれら自身と共に生きていく。そのわれらが自らの霊によって即ち根底において満たされないものを抱えるとき、眼差しは天に向かう。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。どうか、主が君を助けて足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださるように。主は君を見守る方、君を覆う陰、君の右にいます方。昼、太陽は君を撃つことがなく、夜、月も君を撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけて、君を見守り、君の魂を見守ってくださるように。君の出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」(Ps.121:1-8)。ひとはこうして再び立ち上がる。

 パウロも励ます。「神は、「光が闇から輝きいでるであろう」と語られた方であり、その方はキリストのみ顔のうちにある神の栄光の認識の輝きに向けてわれらの心に照らしたまうた。われらはこの宝を土の器に持っている、それはその力能の卓越性がわれらからのものではなく神のものとしてあるためである。あらゆることがらにおいて圧迫されても困窮せず、途方に暮れても絶望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びず、いつもイエスの死を身体において(en tōi sōmati)持ち運ぶ、それはイエスの生命がわれらの身体において顕れるためである。というのも、常に、われら生きている者たちはイエスの故に死へと引き渡されているが、それはイエスの生命がわれらの死すべき肉において(en thnētēi sarki)顕れるためだからである」(2Cor.4:4-11)。「肉」は身体を抱えた生物における一つの生の原理である。途方にくれても、祝福された者は絶望しない。最も低いところにセーフティーネットが敷かれそこにキリストが共にいるからである。

 イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている善きものとは異なる善きものがあるのではないかという思いにいたる。「ヘラクレイトスは言う、「驢馬は黄金よりも藁屑のほうを選ぶであろう」。というのも驢馬には黄金よりも食物のほうが快いのである」(EN.X5,1176a7)。この世の富、自らの人徳、名誉そして地位の所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。世の豊かさに満ちている者は一つのことを欠いている、その霊によって貧しいその心を欠いている。それ故に天国の知識をも欠いていよう。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七

        (本日の録音ではとりわけ山上の説教をめぐる一般的な解説を語りました)。2024年2月27日

第三章 山上の説教は福音である

三・一 山上の説教の歴史的位置 

 ナザレのイエスによる山上の説教は人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。これは「いかに生きるべきか」という倫理学の問への限界的な生の描写として一つの応答であると言えよう。福音をそれ自身として析出しつつ倫理学的次元での対話が可能になるとき、信じる者にも信じない者にも一つの共通で明確な理解を提示できるであろう。以下、山上の説教は福音の宣教であり、預言者と律法の純化を介して間接的な仕方で福音を述べ伝えている、即ち(1)自己言及的な発話であることを確認しつつ、その周辺の一般的な基礎づけ、土台として倫理的次元を持つこと、またそれがいかに信仰により内側から破られまた秩序づけられるかを論じたい。三人称で語られる八福の終わりに一人称「わがため」(Mat.5:12)への言及またモーセ律法の先鋭化において一人称「わたしは言う」(Mat.5:21)の言及において主体的な預言と律法の受け止めがなされている(山上の説教からの引用は章節のみ記す)。そこにこの説教の背面がせり出しており、預言と律法はこの「わたし」により刷新され、秩序づけられている (神についてまた聖書の翻訳においてイエスについて敬語表現を用いる)。

 ナザレのイエスの山上の説教(マタイ福音書5―7章:「平野の説教」(ルカ6:17-49,11-12,14章参照))はこの二千年のあいだ、人類にとって最も突き詰めた人間の偽りのない生としてひとの可能性を提示する希望の源泉ともなり、この厳格な規範と自己の落差に苦悩を引き起こす原因ともなってきた。この説教が持つ実際生活との緊張故にこそ、人々の記憶に残り思想や政治そして平和運動、司法や経済から隅々の市井の生活の現場においてまで諸々の文脈において論じられてきた。この説教は人間とはいかなるものであるかの探求を促すテクストとして聖書学や神学はもとより、倫理学、文学等において多様な論争を提供してきた。今日まで人々を印象付けて来たこの伝承の背景にはイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)はその一言一句および一挙手一投足に侵しがたい力と権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力があるからであると思われる。イエスの「権威」(7:29)は聴衆の自己満足と自惚れの偽善を暴いていくその一連の言葉が適切でありその対極に位置付ける自らの言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。

 彼の言葉と働きは常に彼の「天の父の子」の信の根源性、「神の子の信」の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている(5:45, Gal.2:20)。歴史上、彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくると信じ、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがり、その都度心の刷新がなされてきたことが連綿と記録されている。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していたと論じられる。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。

 このあまりの尋常ならざる教えの故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望に陥り、或いは無視のうちにそして何らかの逃避に向かった。この教えに対し、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えであると解した[i]

 或いは、ひとはこの一群の言葉を人類の一定数が記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。イエスの清さが輝きわたり、一切を光で満たし、心の内奥が光に照らされ、何も隠すことのできない明らかさにひとは立たされる。隠れなきこの究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったと報告されている。この澄明さが人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、天の父のみ旨の教えと行使を介して一つの倫理学の教説とならしめている。

 イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての皮膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。また、灯を灯して枡の下に置く者はいない、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす。このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの善い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。そう語りうるのは「天の国は近づいたからである」(Mat.4:17)。

 彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧しい者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また定型句として繰り返す「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、わたしは言う」という切り返しにおいて、イエスはモーセを介して授けられた神の意志であるひとのあるべき振る舞いを記した律法を自ら先鋭化する(5:33,5:22,5:28,5:32,5:39,5:44)。これらの律法理解はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を信の従順により十字架の低さに至るまで生きたことに気づかされる。彼は最も低い所に、祝福の安全網を自らの言動を介して敷いた。ゴルゴタの極限状況において真の人間を伝える表情とはいかなるものであろうか。苦痛のなかに目の輝きがあった。その輝きは心の清い者の祝福であったであろう。

 最も低い者に救いを伝える教えは誰にもわけへだてなく適用される教えとなる。普遍的な人生の指針が一つの倫理学説の資格を持つとしたなら、また何らかのロゴスとエルゴンの相補的な検証、真理性の確認が遂行されるなら、普遍的次元において他の諸教説と分かち合いつつ独自の倫理的教説を展開していることになろう。

 

[i] H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その六

               (録音は以下の文章に解説を加えながら行われています)     2024年2月26日


二・七 有徳性が人間のパトスや行為の「尺度」である 

 この断言命令(「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421))に含まれる道徳法則の普遍性と実践的な効力はアリストテレスにおける次の命題に相当すると思われる。「徳そして善き人がそれぞれのものごとの尺度であるなら、この人に現れる快が快であり、この人が喜ぶ快いものが快いものである」(EN.X5.1176a17-19)。この「尺度」は「いかに生きるべきか(pōs biōteon;)」および「最も望ましい人生は何か(tis hairetatos bios)」の問に対する、魂における態勢とパトスをめぐる普遍的な規範であると言える(Pol.VII1.1323a1)。有徳性が行為のゴールとして、人生の尺度、規範とされる。魂の働きである行為やパトスはその有徳な心魂の態勢に基礎づけられる。「快や苦」のパトスと「働き・行為(ergon)」は「ヘクシス(魂の態勢)のセーメイオン(サイン(徴)、証)である」(EN.II4.1104b3,Rhet.I.9.1367b31)。先述のように、選択できない身体的反応や「われら次第」(1113b9)と言われる選択による行為において、その人の内面的な道徳的実力が知られるという立場である。態勢の涵養が倫理学の主題となる。魂の態勢とパトスや行為の関係は有徳性を尺度として普遍的に妥当すると主張されている。

 普遍的命題が普遍的に妥当適用される真理を伝えるとしても、先に見たように、理論が万人を普遍的に拘束するが、個人的には誰をも拘束しないということはありうることである。ひとは真なる理論を拒否することができるからである。それはロゴス(理論、理性)の弱さや限界によると言うべきということもできようが、むしろ心魂の全体が秩序づけられていないと言うべきであろう。ひとは虚偽や不明瞭性そして暗闇をより好むことがある。真理は不都合な真実であり、ひとはそれに眼をつむり避けるということがある。アリストテレスによれば、これはロゴスとエルゴンの相補性が機能していない状況である。というのも、認知的態勢と人格的態勢が共に軛に繋がれているなら、「欲求的叡知」が発動すると想定されているからである。どんなにコストがかかろうとも正しいことをすることに喜びを感じ、実践知が掴んでいる最善の行為選択肢を選ぶことを欲求する者は有徳な者である。

 

二・八 道徳法則や有徳性と幸福の関係 

 カントは格率を普遍的法則にならしめる義務こそ格率の道徳化を介してひとをして有徳にすると理解する。「道徳的法則は最も完全な存在者にとっては意志の神聖性の法則であるが、すべての有限な理性的存在者にとっては義務の法則であり、道徳的強制の法則である」(KpV.V82)。最高善として誰もが求める幸福は有徳性への眼差しに基礎づけられ、意志が義務と合致するところに成り立つ。その有徳性は「道徳法則の遵守と調和的に一致する、最高の世界最上善としての理性的存在者の幸福」に方向づけられる(KU. 87節)。人生全体において魂の全体性が、欠けなき満月のように「完璧な正方形」(EN.1100b21)のように秩序づけられ満ちていることを幸福と看做すことについては誰もが同意することであろう。

 双方とも有徳性を幸福と同定してはいない。アリストテレスにおいては「幸福」は確かに「十全な徳に即した魂の或る実働(energeia tis)である」(1102a5)が、「諸力能のうちにない」ので「称賛よりも尊崇」の対象ではないかが問われるそのようなものである(EN.1101b12)。幸福の定義に見られる「或る実働」の「或る」には「快い・喜びを伴う」が代入される。われら次第である選択の外にある生の与件や幸運等の「外的善」(1101a15)を考慮せざるをえず、たとえ有徳性形成に資する限りでそれらは善と呼ばれるにしても、「人生全体」が幸福の射程であるとされる限り幸運や不運を避け得ない。そこに「エウダイモニア(神からの善き守護)」という語の構成からして、「神的な定め」や「神々の贈り物」(1099b10)としての祝福による支えを必要としており、神的な「祝福」を考慮せざるをえない。彼はこう言う。「善き人々と成るのは、或る人々は(2)自然によって、他の人々は(1)習慣によって、他の人々は(3)教えによってであると考えているが、自然のものごとは、(1)われら次第で内属するのではなく、(2)何か神的な諸原因故に真実に幸運な者たち(dia tinas theias aitias tois hōs alēthōs eutuchesin huparchei)に内属すること明らかである」(X10.1179b20-24)。このことは神が人間に関わるとき、自然事象例えば魂の働きに関わる自ら選択できない喜びや快、平安等のパトス等生理的変化を介して憐みをかけ幸運を授けるという仕方で善き人を形成する。神が自然を介して善き人を幸運な者にすることが明言されているが、アリストテレスは幸福のロゴスを補うものとして嘉み、喜び、快さに確認されるその都度の神的な祝福を語る[i]

 カントも『判断力批判』において「幸福」が人間存在の「絶対的価値を評価する規準」ではないとする。「というのも、・・幸福を自らの究極的意図とするなら、そのことによっては・・「いかなる価値を人間は自ら持つがゆえに、自らに対して自らの現実存在を快適なものとするのか」は全く理解されないからである」(KU.86節)。「幸福」は理性的で有限な人間が道徳法則に即して何らかの究極的目的を定立することのできる「主観的条件」である。「最高の自然的善」である快適な幸福は、「人間が「幸福であるに値すること」としての倫理性の法則と一致するという客観的条件のもとにある限りにおいて」人間存在の究極目的に結び合わされる(87節)。

 この二つの要件に基づき、カントは神の存在を要請する。「究極的目的」は道徳法則を通じて課されており、幸福と倫理性の法則とを「われらは自らの理性力能の一切をもってしても、たんなる自然原因によって結合し、先に挙げた究極的目的の理念[「世界において自由を介して可能となる最高善」]に適合したものとして表象することは不可能である。かくしてこのような目的の実践的な必然性の概念は・・、われらが自らの自由を、自然の原因性以外のどのような原因性とも(手段として)結びつけない場合は、そうした目的の実現をめぐる自然的な可能性という理論的概念と一致するにはいたらない。かくしてわれらは、道徳法則に適合して究極的目的を掲げるために、何らかの道徳的世界原因(一つの世界創始者)を想定しなければならない」(87節)。アリストテレスもカントも有神論のもと「幸福」を究極的には神学的概念として捉えている。

 その倫理学が神学的である影響力ある二人を取り上げたのは恣意的と思われるかもしれない。しかし、神を想定せずには、彼らにとっても人生を全体において理解することはできないとすることは、人生が幸運や不運のもとに人間の選択や努力を超えたところに営まれることを考慮する限り、道理あることである。少なくとも二人とも人間の魂の道徳的本性をめぐって客観的な普遍妥当性とパトス(欲望、感情等)を含めた「われら次第」である行為選択のあいだの統一理論を求めていたことは確認できよう。カントにおいては実践理性のもとでの断言命令の持つ普遍妥当性が格率を秩序づけ方向づけることにより実践的な効力を持つ。

 これまで倫理学を構成する三つの特徴を論じつつ、カントのみならず、ナザレのイエス以前のアリストテレスにおいても倫理学が神的なものに開かれていることを確認した。ここでは「神学」の持つロギコスな超越論的な特徴を視野に入れたうえで信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する一つの倫理学的教説として、山上の説教という人類史上最も有名な説教を理解できるかを問う。伝統的に倫理学においては「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、「幸福に値する人生」はいかなるものかが問われてきた。これらの問いは、必然的に人間とは何であるか、その心魂に生起するパトス(感情や欲求)や善悪の判断そして行為と、それらがそのもとに培われる心の様々な力能と言える「態勢(hexis, habitus)」広く言えば「人格的習性(ēthos)」の探求を促す。人間の心魂の力能の習性の学が「倫理学(ēthikē)」であった(cf.EN.II1.1103a17)。

 以下、ナザレのイエスの山上の説教を認知的なものと人格的なものの綜合による倫理学的教説において捉えることにより、福音との関係を明らかにしたい。一般的な人間とはいかなるものかの探求の枠の中で、イエスの人生の教えがすべての人間に妥当する道徳的な教えとして実践的(行為遂行的)効力を持ちうるその論拠を問う。道徳性や有徳性が最高善である幸福をもたらすという倫理説を吟味しながら、山上の説教は道徳的かつ有徳に生きる実践的な力を行為主体に伝達するそのような次元において捉えうるかを問う。

[i] 千葉惠「アリストテレスの神学的倫理学―「神の贈りもの」と「徳の褒美」の祝福による媒介」『ギリシャ哲学論集』XX(ギリシャ哲学セミナー 2024)参照。


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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その五

山上の説教における福音と倫理その五

                2024年2月25日

 (今回も種々解説を加えながら録音しています)。

二・四 跳ね返りの法則「君が量るとの量りによって量り返される」 

 イエスは反射性、跳ね返りの法則を端的に表現している。「君が量るその量りによって量り返される」(Mat.7:2)は「裁くな裁かれないためである」の理由として提示されているが、これは単に最後の審判という神学的次元だけではなく、「君の宝のあるところ、そこに君の心もある」(6:21)という行為の目的論的構造とともに考察するとき、道徳的次元や行為の哲学など一般的に適用されるとイエスは主張していると思われる。ひとは何であれ大切にしているもの、求めているものそのものの価値により、量られる、即ちその枠の中で応答、報いを受ける、ちょうど金銭に貪欲な者が詐欺師にだまされるように。ひとは自ら量るその量りによってブーメラン効果とでも呼ぶべき跳ね返りを受け、それがはからずも自らの魂の現在地点ないし隷属を開示する。

 放埓者は放埓者相応の報いを得る。アリストテレスによれば習慣づけは本意からの自発的なものであり責任が帰属し、例えば放埓が非難されるのは「快いものどもへと人を習慣づけることは容易だから」であり、「彼らはこうした快だけを知悉しているがゆえに、これらだけを快と思っている」からである(EN.III12.1119a25, VII13.1153b35)。放埓者は欲望の欠乏充足モデルのなかに身を置き過剰な欲望を持ち、自らの偏った執着故に、多くの喜ぶべき喜びを放棄し、それが充足されないとき、必要以上に苦痛を感じる。「放埓者と呼ばれるのは、快いものを獲得できないという理由で・・必要以上に苦痛を感じることによる。・・放埓者はあらゆるものと引き換えにこれらの快を選び取る。かくして、それらを得られなければ、またそれらを単に欲望するだけなら、むしろ苦痛を感じる。なぜなら欲望は苦痛を伴うからである。快のゆえに苦しむことは不条理に思える」(III12.1118b27-1119a5)。哲学者は放埓者が自己矛盾的な存在者であることの不条理さを指摘し、維持不能性を開示する。快を求める欲望が苦痛を伴うという事態は何か愚かのように思われる。無限ループの刑に処せられているかのごとくである。光のもとにないから、その闇にとらわれているように思われる。

 ロゴスとエルゴンの相補的展開のもと善悪因果応報の法則を確証できるとき、人生の行為選択における明晰さに到達することになろう。この法則が偽であると主張する場合には、即ち「悪しき先行的行為選択に対して、善き果実が得られる」と信じている場合には、自ら反証を立てることが求められる、生涯かけて。もちろん善悪因果法則を信じる者もそれを生涯かけてその真理性を証明することが求められる。ロゴスはエルゴン即ち今・ここの検証の働きにより信用される。そして、自らの主張の真理性は他者からの悪しき対応を受けた場合に、善意をもって返すことが求められる。さもなければ自己矛盾となる。ソクラテスは「もし不正を行うか、それとも不正を受けるか、そのどちらかがやむをえないとすれば、不正を行うよりも、むしろ不正を受けるほうを選びたい」(プラトンGorgias.469C)と語り、また「善き人には生きていても死んでしまってからも、悪しきことは何一つないし、その人のことは、神々によって配慮されないことはない」(Apologia.41D)。自らへの対応においても自らの不利益や損害を実践的に受容することが求められる。習慣づけとはそのようなことにより、心魂の実力を養い、そのようにして獲得される知識は節制のうちに保全される実践知である。これが倫理学の第二の特徴である。

 この倫理学の第二の特徴は広く他の諸学との関連において浮彫になる特徴である。倫理学は他の諸学とは異なる独自の機能を担っている。数学や物理学のような知を求める理論学があり、工学のような制作を求める制作学(術)があり、政治学や倫理学のような善き統治や善い人生を求める実践学がある。そして倫理学の特徴として、それは単に知識や理論を求めているのではなく、最高善である幸福を目指す行為遂行力即ち生きる力、実践的効力を求めていることも同意されよう。

 

二・五 倫理学の第三の特徴—「幸福」は「われらの力能のうちにない」―

 

 倫理学の第三の特徴はこれまでの特徴を踏まえ人生の最高善とされる「幸福」や「祝福」の包括的な探求を遂行することである。人間の魂の分析に従事する『ニコマコス倫理学』において、アリストテレスは人間のあらゆる営みが、他のものの故、他のものかつそれ自身の故、それ自身の故に求め、選択する三種類に分類されるという。そして人は誰もがそれを究極的に求め、他のものの追求もそれのためである、そのような「最高善」を「幸福」と呼んできたとしてその理由を挙げる。「われらは常にそれ自身の故にまた決して別のもののゆえにではなく幸福を選択している。他方、われらは崇拝(・名誉)や快楽そして叡知さらにあらゆる徳を確かにそれら自身の故に選択するが(というのもわれらは[他の]何も帰結しなくともこれらのそれぞれを選ぶであろうからである)、しかし、それらを介して将来幸福になるであろうと判断しつつ、幸福のためにも選択している」(I7,1097b1-5)。

 彼はこの誰もが追求する幸福の探求を手掛けるさいに、伝統的な「大衆」や「賢者」たちの「通説」に耳を傾ける。それは人間の関心の最重大事だからであり、幸福内容の理解は「これこれ好き・~愛」(I8,1099a9)と特徴づけられるように個々人異なり、同一人においても時に異なるものであるが、その大枠においては同意が得られているからである。「恐らく、幸福を最高善と語ることは何か同意されるものに見えるが、しかし幸福が何であるかはなお一層明晰に語られるべきことが求められている」(I7,1097b22-4)。この幸福とは何であるかの一層明晰な理解のために神的な「祝福」(1098a19)が導入されたと思われる。

 「幸福(eu-daimonia)」という「名称」の伝統的理解として彼は「ダイモニオンは神かそれとも神の働きかである」と語るように語源的には「よいeu」の付加のもとで神からの善き守護霊の派遣が想定されているが、彼は一般的な理解を基本とする(Rhet.II23,1398a15)。「名称においても大抵の人々により同意されている。大衆も賢者たちもそれを「幸福」と呼んでいるが、「よく生きること」、「よく(うまく)為すこと」は「幸福であること」と同じであると判断している」(EN.I4,1095a18-20)。さらによく生きることは第一義的に人間の魂に属するものであろうから、「幸福な者」は「優れた魂を持つ者」と規定される (Top.II6.112a3)。並列されることの多い「祝福された者(makarios)」の語源として、「喜ぶ・嘉みする(chairein)」が挙げられる。「われらは人格的徳と悪徳とを快いものどもと苦痛なものどもに関わるものであると立てた、またほとんどの人々は幸福が快を伴うと主張する。それ故に、彼らは喜ぶこと(chairein)に因んで「祝福された者」をも名付けた」(EN.VII11,1152b5-8,cf. mala-chairein (being exceedingly pleased) →makarios))。

 倫理学の成否は「全体として善く生きること」(VI5,1140a28)の包括的な理解のもと、心魂の受動から能動、今・ここの行為の最善の選択に至るまでの道筋の理論(ロゴス)を構築できるか、さらには今・ここの魂の働き(エルゴン)が例えば受動的な個々のパトス(感情、欲求)、行為そしてそれに伴う快苦を介してそのロゴスの正しさを証するロゴスとエルゴン双方の補い合いを展開できるかにかかる。

 この目的論的な構造のなかで、先の第一、第二の特徴が秩序づけられる。「いかに生きるべきか」、「最も望ましい人生は何か」、を探求する倫理学が単に認識だけではなく、人生そのものに有益なものとして、ロゴスに即して生きる力を与えるものを探求することは道理ある。幸福に至るそのような実践的な力の探求が為されなければ、倫理学の務めを放棄するものであるとさえ言えよう。先の思考実験において、デヴィルが悪魔である限りその定義上、人間を破壊することを目的にしている故に、一見知性のうえで解けているように見えても、その背後に堕落させるトリックや罠が仕掛けられているに相違ない。悪魔に身を渡すことは、自らを滅ぼすことになる。ならば、真に信頼にたる存在者を信じて身を任せることの正しさが導出されよう。信が愛を生み出すそのような力ある信が正しい信仰、信頼であるとイエスは語る。「この女性の多くの罪は赦された、その証は彼女が多く愛したからである」(Luk.7:44)。言葉と働き、理論と実践のあいだに乖離がないこと、一般に正しい行為の動機づけはどこから得られるのか、この解明なしに倫理学は完成しない。

 

二・六 道徳法則の普遍性

  「最高善」とは目的論的体系の頂点であり、それ自身として求められ、他のものゆえに望まれることも選ばれることもないものであり、幸福(well-being)がそれであるという理解は道理あるものである。イエス自身、目的論的な人生観をもっていたことは先に確認したが、ルターの言葉「神の命令なら地獄にまで行く」は端的な信従の表明であろうが、神の命令に背くよりはそのほうが「善い」と考えていると反省的次元における捉え直しには同意されるであろう。その最高善が「幸福」と呼ばれる。それ自身善である道徳法則や有徳性はそこに到達する不可欠の要素であることも同意を得ることであろう。人間の魂の本来的な在り方として、イエスは信の根源性を説き、アリストテレスは最高善である幸福の本質的な要素としての徳の根源性を、カントは道徳的な経験の基礎に普遍的な道徳法則の根源性を説いたことは同意されよう。

 カントによれば、道徳法則の普遍的な適用こそが人間本性の道徳性を保障する。その道徳法則の普遍性は客観的に妥当する先天的な規範として意志そのものを規定し、幸福に相応しい人間であるべく遵守への切迫力を持つ。「道徳法則に即して自由を使用するにさいしての究極的目的の理念は主観的に実践的な実在性をそなえている」(KU.88節)。実践的効力をもつ道徳法則の無制約的な適用は立法者、行為主体を例外化することなく包摂するが、その普遍性はその断言命令が経験に依存せず、経験を導くアプリオリ(先験的)なものであることに基づく。言わば、その普遍性は経験に汚されることのないものとして祭りあげられることにある。

 カントは言う、「私は対象に関与するのではなく、対象についてのわれらの認識の仕方に、しかもこの認識の仕方がアプリオリ[観察経験以前的、先験的、ロゴス上]に可能である限りにおいてかかわる、すべての認識を「超越論的」と名付ける」(KrV.B25)。超越論的な考察とは「諸概念とのみ(bloss mit Begriffen)関わる」ことになり、「単にアプリオリな諸概念からはいかなる実在的根拠についても、いかなる因果性(Kausalität)についても、その可能性を認識することはできない」(KrV.B586/A558)。

 この超越論的な議論の先駆としてアリストテレスのロギコスな議論を挙げることができる。「神学(theo-logikē)」や「天文学(kosmo-logikē)」が語尾にlogikē(形式言論構築術→logic)を持つことは偶然ではなく、観察や経験の困難なものを対象とする学はこの思考様式に依拠せざるをえない。アリストテレスによればこれは矛盾律に基づき「いかに語るべきか(pōs dei legein;)」という言葉の分析力に基づく視点から「いかにあるか(pōs echei;)」の観察経験を導くないしその論理的、形式的思考による基礎を展開する言論の技術である。アンセルムスの「理性のみ」による神の存在論証は矛盾律に基づき背理法により神が単に「理解のみに在る」のではなく、「ものごとにおいても在る」のでなければならないことを存在主張として論証している(Proslogion ch.2)。それはカント的には「超越論的」な議論と親和的である。神学的対象については言語の力によるロギコスないしアプリオリな超越論的議論は経験の基礎として不可欠である[i]

 断言命令の基礎は「汝の格率[意欲の主観的原則]が普遍的法則となることを、その格率を通じて汝が意欲することができるような、そうした格率によってのみ行為せよ」(KpV.IV421)である。「格率」は単に恣意的な意欲ではなく、道徳法則への善意志のもとにある道徳的な意欲として秩序づけられる。自己矛盾を含むまた自己利益追求の格率は普遍化されない。例えば格率「他人のものは自分のもの」は、他人でもある自己は自らへの適用を承認しえず普遍化を許容できない。そこでは「善意志」が発動しているが、そのロギコスな規定はこうである。「無条件に善い意志とは、悪でありえない意志であり、したがってその格率が普遍的法則とされるならば自らこれと決して矛盾対立することのできない意志である」(GMS 8 BA 81/AA 437)。かくして、理論上、主観的な判断は道徳的であるべきものとして普遍的道徳法則のもとに秩序づけられる。「善悪の概念は道徳法則より先にあるのではなく、・・道徳法則に従ってのみ規定されなければならない」(KpV.V63)。実際、イエスの新しい律法理解は善悪因果応報の「善悪」の概念を極度にシャープにする。経験的に善悪を把握するとき、そこには普遍的な道徳法則がロゴスとして既に無制約的にしかも今・ここにおいて働いている。正しい働きがなされるときは正しいロゴスに即して遂行されている。


[i] 『信の哲学』 下巻第五章参照。


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