2024年度入寮式が行われました
桜咲くこの春も新寮生4人と復学1人を迎えました。梅咲くころ8人の寮生を社会に送り出しました。お一人お一人それぞれ新しい働きの場所を得ての旅立ち送り出す側としては安堵しております。学寮はこのように若者たちが来ては去りしています。ここでの何年かの生活が少しなりとも、彼らの肉の糧、心の糧として滋養となり、社会で大きく羽ばたくことを願っております。
以下式次第と式辞を掲載します。
2024年度 登戸学寮入寮式式次第
2024年4月6日(土曜日)午後2時
司会 川嶋すず菜
奏楽 牧 真人
司式 千葉 惠
前奏
讃美歌 533番 くしき主の光
聖書朗読 詩篇100篇
祈祷 牧真人
挨拶 小島拓人理事長
来賓祝辞 小館美彦氏(春風学寮寮長)
歓迎の言葉 原島寛之
歓迎の歌 高田聖也
新寮生スピーチ 遠藤優弥、中村華子、廣橋環、堀内京(少林寺拳法演舞)、三浦千尋
式辞 千葉 惠
讃美歌 531番 心のお琴を
祈祷
後奏
2024年度入寮式式辞
4月6日
はじめに
桜咲くこの良き日に、遠藤優弥君、中村華子さん、廣橋環さん、堀内京君、そして復学の三浦千尋君、登戸学寮にようこそ。心から歓迎いたします。学寮を生活の基盤とする皆さんの学生生活が楽しく実り豊かなものとなりますように。そのためにわたしども親の愛をもってできるだけのサポートをしていきたいと思います。これも何かのご縁です。お互いに思いやり、助け合い良い日々をつくってまいりましょう。なおこの夏にテキサスからCalebさんが戻ってきますし、オクラホマからDaniel君が入寮します。楽しみです。
さて、皆さんを歓迎する言葉を探します時に、やはり私どもが置かれている歴史のなかでの位置を確認することから始めたいと思います。人類は一回限りの歴史を刻んでおります。20世紀に入り相対性理論や量子力学等理論物理学で革命的な進展がありました。この知識があらゆる物質を構成している原子核の力を摘出する技術を生み、広島、長崎につながりました。人類は宇宙に満ちている根源物質の法則の謎を解明し地球から生物を、或いは地球そのものを滅ぼしてしまう力を手にしました。
1990年代中半以降の情報革命は私どものライフスタイルを一変させました。21世紀生まれの皆さんはその時代の申し子です。思えば19世紀マイケルファラデーが簡単な磁石の実験から電磁波を発見しマルコーニが大西洋間のラジオ通信を成功させてから今日まで通信技術は日進月歩です。私が春風学寮の寮生時代、海外との連絡は往復二週間以上の航空便によるか高額の電話でした。今はラインで一斉に連絡できます。記録も残りますので、いかにも便利です。かつては情報の発信源は大手新聞であり放送会社でしたが、誰もが発信することができるようになり、情報源の独占やそれに伴う操作から解放されました。それにより政治や経済も大きな影響を受けるようになりました。ともあれ世界は瞬時の情報のやりとりにより、一言で言えばとても狭くなりました。聖書が言うように、隠されているものごとのうち露わにされないものが何もない、山のうえに建てられた街は隠されることができない、そのような透明な世界が到来するかのごとくです。
この利便性の享受とともに、情報の信憑性等解決すべき課題も増えています。一つは「君の宝のあるところ、心もある」と聖書に語られるように、大切にしているもの、価値を置いているものに関心が集まりますので、今日ではその情報の収集は膨大になります。大事小事の判別ができないとき、情報が選別され意見が偏りがちとなります。異なる価値への関心が薄れまた敵対関係を加速することに繋がり、社会の分断が促進されています。常にいかなる意味においてその反対が真理であるかを吟味する必要があります。 価値の偏りはものの見方の偏見・バイアスとなり、そこから情報のフェイク(捏造)即ち偽りを生み出すことに繋がります。ここでは最初に偽りの問題を手掛かりにして偽りを克服する信・信仰について、その正しい信仰の対象と正しい信仰の在り方について考えたいと思います。
現代における偽りの形
今日大学では自分の頭で理解しレポートや論文を書くのではなく、生成AI人工知能に書かせてしまうことが起きています。またAIは録音された声や画像をもとに、音声や動画を捏造することができます。これにより攻撃相手になりすまし人を貶め中傷することができると同時に、偽りの情報を拡散し、操作することもできます。何がフェイクで何が真実か判別しがたくなります。そのフェイクであったものが歴史を造りますので、それが歴史の真実となります。確かにこれまでも嘘が歴史の現実を造ってはきました。歴史の真相・真実と言いましても、偽りは大概の場合個人においても国家においても否定的、退廃的そして破壊的な現実をうみだしてきただけでありましょう。今回の大リーグの大谷選手と水原通訳の衝撃的事件は大きなレッスンです。虚偽、欺瞞、詐欺、誤魔化し、詐称、そして裏切り、その背後にある人間の悪、罪このようなものごとは人間関係や社会を劣化、破壊するだけであることを、歴史から学ぶことができます。ただ問題は真実を装うフェイクが巧妙なものとなり真理をさえ侵食し、偽りが勝利するように見え、今後ますます社会の混乱に拍車をかけるであろうことが容易に想像されます。
わたしどもはこのような時代に生きているのです。雲が低くたれこんでいても、その空の向こうには太陽がさんさんと輝いているのです。真理よりも虚偽を、光よりも闇を好むのか、公平よりも自己利益を、正義よりも不正を好むのかが問われています。嘘はそれを隠すためにさらなる嘘を重ねることになります。偽りの上に建てられた人生は偽りであることになります。私どもの側からは自分で気づかず真実と思い込む「心からの嘘」をも含めて嘘偽りと戦い、真実や誠実を願い求めるかが問われています。
心における偽りや偽善はいくつかの文脈で語られます。偽りは真理と戦うことであり、真理を隠すことです。真理を知っていながらそれを隠しつつ振る舞う時、即ち情念や欲望等により隠したい不透明な理由がある場合に偽りが生起します。また自分では気づかず反省が行き届かず、人前でそう見られたい自己と内面の自己のあいだに乖離があるとき、それも心の内面においては支配欲等二心、三つ心に支配されているとき、そこでの言葉や行いは偽りや偽善となります。その意味では「あのひとは真実なひとだ、真っすぐな人だ」という言葉は心が根底にある一つのものによって秩序づけられているここを意味しています。心の根底において人生を真実なものとして秩序づけるものは何でしょうか。これを共に探求しましょう。
知られているものと知られていないもののあいだにある人生
わたしどもの人生とはこれまで培ったもの、知っているものと知らないものの間で、或いは知らされているものと知らされていないものの間で、この中間時において営まれる生命活動です。かつて生きてきた足跡は記憶により知っており、それらの経験をもとに人は自己についてまたそこに住む社会そして地球環境について信念体系を形成し培っています。普段そのうえで暮らしてきた大地や交通網、空、水などの存在を自明なものとみなしており疑うことはありません。それらの信念のもとに未知の世界に一歩を踏み出すこと、それが人生ということになります。頬が風にあたり抵抗を感じるのは、前進している証です。ひとは自らにとっての善、幸福を求める存在である限り、未来に開かれている様々な行為選択肢のうちそのつど最善の行為を選択しようとします。ひとは多くの場合、何かの為に何かを選択し生きています。その「何かの為」が善であり人生は目的論的な構造を持っています。「前へ進め、前へ進め、だけど前ってどっちだろう」。このような歌がありますように、人生には前進と後退があることを知ることが不可欠となります。かつてできなかったことができるようになること、かつて魅力的であったが、そこでのつまずきや失敗を通じて、異なる価値が見えてくること、そうして人生は構築されていきます。
ニヒリズム(虚無主義)というものは、あるゆるものの価値は等価ないし無差異であり、人生には前進も後退もなく、善も悪もなく、一切は空の空である空しいという考えです。地球上から消えゆく運命にある人生は無意味なものであると考えることがあります。しかし、生物として臭ければそこから逃れ、飢えにより食を求める日々の行為がその虚無的な信念を裏切っています。生物は生存と繁栄を求めて生きるのです。この目的論的な構造のなかで人生に何か確かなもの、信じるに値するものがあるのかが問われています。愚かさなど理性の逸脱が狂信(fanaticism)を生み、恐怖など感情の逸脱が迷信(superstition)を生みます。誰もがこれまで培ってきた信念体系のもとに未来を切り開いていきますが、その信念体系を根底から秩序づける正しい信が不可欠となります。信じるべきものを信じる正しい信・信仰が生を秩序づけるからです
宇宙が自然法則、ロゴス(理論)を持つように、人生は明確な理(ことわり)を持っているということを信じることは道理あるものです。ナザレのイエスは言いいます、「アザミからイチジクは取れない」。即ちイチジクがイチジクを生む、この生物が持つ複製機構(copying mechanism)の秩序正しさはアリストテレスによれば「最も自然的なこと」と特徴づけられています。ひとはこのように自然の中で秩序正しい生物として生きているのです。他方、それだけではなく人生は幸運や不運に見舞われ、自らのコントロールの外にあるように思えます。人間は人生の空しさを気分として感じうる即ち自らを外側から生命活動を眺めることのできるそのような恐らく唯一の理性的反省的生物として生きています。
人生の空しさの気分や感覚は一方で空や海や日常的なものごとを自明なものとして看做しているからこそ、その信念体系を一旦離れて立つそのような視点から得られます。とはいえ、人生というフルタイムの仕事に従事している人間は人生の空しさ、無意味さを感じる抽象的視点に生物として立ち続けることはできないのです。日常の信念体系に戻っていきます。何か確かなものがあるのかという疑い自身が、なんとなく気分として感じる空しさから解放されたいという思い、確かなものがあれば理解したいし、できるという信念が背後で働いていることを示しています。確かなものを知るその可能性が一切ないことを知っていた場合、これはシシュポスの石転がしと呼ばれます。シシュポスは石を転がし山の頂上に辿りつこうとしますが、決まって最後のがけで突き落とされ、それを繰り返すことが人生だという理解です。人間がシシュポスであれば、そのような確かなものを求める不合理な反省や視点から解放されますが、幸運や不運に見舞われ知らされていない未来に開かれている人間にはその知は持ちえないのです。ひとは知と不知の接点に、中間に生きているのです。
それに加え日常の信、フルタイムの仕事に戻らざるを得ない以上、どの地点に立つにしても信から逃れえないのです。開かれている未来に向かうひとは何らかの信念から逃れえない以上、正しい信にこそ立ち返るべきなのです。パウロは言います。「信に基づかないものごとはすべて罪である」。
正しい信仰の在り方としての幼子の信
人生の真実の探求を可能にする正しい信は聖書によれば幼子の信・信仰です。ナザレのイエスは自らを神の子であるという幼子の信のもとに、神の国の福音(即ちひとを偽りから解放し救いをもたらす神の力)として自分自身を信じ従うように教え、その言葉通りに行いにおいて父なる神に死に至るまで信の従順を貫きました。イエスにおいては宣教する者とされる者は同一なのです。彼は言います、「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。
神の子が受肉し人となったなら、人類の救いはその人に依拠することになります。彼はまったく人として生き肉の弱さをかかえていましたが彼の前に開かれる最善の行為選択肢をその都度選択し、言葉と行いに偽りも乖離もありませんでした。それ故におのずと権威があり人々はついていきました。そして現在も彼こそまことの人であるとして、尊敬を集め従う者がやみません。イエスは言います、神が自然事象を介して善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせ、野の百合空の鳥を養い憐みをかけておられるように、幼子の信仰の持ち主は疑うことなく父なる神の恵み、無償の憐みを受ける、と。その幼子は生命をはぐくむ自然の恩恵の枠組みのもとにその枠への信頼のもとに生きているように、神の憐れみの枠組みのなかでその枠組みを意識しさえすることなく安心して天真爛漫に生きています。「幼子のように神の国を受け入れる者でなければ、決して神の国に入ることはできない」(Luk.18:17)。
天の父の憐みへの幼子の信仰は、そこでは生物を養う太陽の陽光や雨が恩恵として、生の枠組みを形成しているように、人生の枠を形成しています。人間はその枠組みから離れうる反省的存在者ですが、通常生きているものの外部に立つとき生の空しさを感じる抽象的な反省的視点は生の大部分を自明なものとみなす信念体系に寄生していること、その前提のもとにあることを確認し、やはり、そこに戻っていくのです。日常的な生の枠組みを疑わないように、幼子は天の父の憐みを疑いません。ひとは正しい幼子の信を求めていると言えます。従いまして、空しさを感じるひとをはじめ疑うひとは、誰もが、たとえ表面上否定したとしても幼子でありたいと思っていることが明らかになります。ひとは半信半疑のうちにも、空しさによる虚無に安住できるそのような生物ではないと言えそうです。人生が知らされていない未来に開かれている限り、どのような新たな状況にも対応できる、そのような確かで憩うことができ満ち満ちて生きることのできる秩序ある信念体系を求めています。イエスは招きます、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。
ひとは何らかの信念をもって生きていかざるをえない生物、存在者であるということは確かであり、人生がカオスではなく秩序ある理(ことわり)を持っていると信じることは、ひとが持つ魂の力能、可能性からみて道理あります。最終的には人間の本性として半信半疑のうちにではなく、秩序正しい生を可能にする確かなものへの正しい信を必要としており、その正しい信とは幼子のような信のことであると理解することは道理があります。聖書に「蛇の如く賢く鳩の如く素直」という言葉がありますが、幼子は騙されないように思えます。或る時6歳の娘が父親である私の傾向性を見て取っており、道徳的な善悪を直感とともにとっさに判断し言葉にしました。幼子が十分な認識能力をもっていることに私は驚きまた喜びました。
他方、人は多くの場合半信半疑であり、信じつつ疑いつつ生きています。そのとき、鍵語、キーワードは「喜ばしい探求」です。疑いや恐れそして虚無主義にとらわれているとき、それは人間本性に適っていないのです。わたしどもを再び立ち上がらせ、力を与えるのは、人生には道、正しい法、真実、確かなものがあるに違いないというこの世界への信頼です。ソクラテスはその真理に痺れ、生涯あらゆるリスクを背負い、どんなコストがかかっても真理の探究に生を捧げました。それ故に周囲をシビレエイのように痺れさせ、人生の探求に共に向かいました。これは幼子の信仰と言えます。また、パスカルは「愛から遠ざかればすべてから遠ざかる」と言いました。「愛」とは何でしょうか。「すべて」とは何でしょうか。「すべてから遠ざかる」のであれば生きることそのものから遠ざかるでもありましょう。私どもは幼子のように直感的に何かこの言葉は正しいと思うのではないでしょうか。私どもは知らされているものと知らされていないもののあいだで、生きていきます。その生が喜ばしい探求であるその原動力は或る安定した枠のもとに世界が成り立っているという信頼であり、神様は陽光や慈雨のように恵み深いという幼子の信仰です。確かなものがあるという信こそ人生を喜ばしい探求とさせます。
先日数人で映画「オッペンハイマー」を見に行きました。衝撃でした。そのあと、ドキュメンタリ映像で本人の言葉による「私は死である。世界の破壊者である」というヒンドゥー聖典のバガヴァットギータを引用しての彼の涙ながらの陰鬱な表情での告白を聞きました。そこに誇張や偽りを見出すことはできませんでした。地球の破壊者となってしまった自らの罪を担い背負っている姿が忘れられません。オッペンハイマーは水爆開発には道徳的理由で一貫して反対でありましたが、原子爆弾の1千倍の破壊力のある水爆が実現したとき、「核実験トリニティの翌日(1945年7月16日)に核戦争を抑止する国際的な組織を作らねばならなかった」という彼の言葉は「わたしの手は血にまみれている」という言葉と共に忘れられません。人類は神の栄光を顕すはずであった宇宙の創造の自然法則を知ってしまい地球を滅ぼすほどの核力摘出技術を生み出してしまいました。
ただ、思うのです。オッペンハイマーの映画の中で、彼に対する人物評の表現として用いられたintegrity(高潔さ)、良心の鋭さは彼の深い精神性、人文学の素養から来ているのです。マンハッタン計画における核開発の責任者となった人が、水爆開発者として良心の痛みなきテラーやコンピューター開発者の数学的天才フォンノイマンでなくてよかったと思うのです。彼はことの重大性を、人類の運命の帰趨を認識していたのです。神様は知恵の実を食べ楽園を追放されたアダムの後継の役割を20世紀においてはオッペンハイマーに任せたのだと思うのです。私どもの心の働きである真理と虚偽をめぐる知性と善と悪をめぐる道徳、即ち認知的徳・卓越性と人格的徳・卓越性は軛で繋がれているのです。その軛は道徳的良心を発動させますが、そのなかで最善の行為選択肢を実践していくのです。神に似せて作られた心が持つ価値認識と真理の知識は軛で繋がれるべきものなのです。そのつどの今・ここで最善を識別し、遂行していくのです。パスカルは言います、「人間とは何という珍奇、妖怪、矛盾の主。宇宙の栄光にして宇宙の廃物、真理の受託者にして曖昧と誤謬のどぶ、愚鈍なるみみず、このもつれを誰が解くのか」。私どもは親ガチャのもとこの人生に投げ出されています。そしてそれぞれこの縺れをほどいていくのです。人生は人間の真実の探求です。この学生時代に、この若いときにこそ、自分が持っている信念を吟味しつつ、共に学び、切磋琢磨しあいましょう。