2022年度入寮式が行われました(4月10日)式次第、式辞
2022年度登戸学寮入寮式
式次第
入寮式
2022年4月10日(日)14:00~
登戸学寮
司会 佐々木さら
前奏
讃美歌 533番
聖書朗読 詩編100篇
開会の祈り
挨拶 理事長 小島拓人
来賓祝辞 監事 黒崎稔
歓迎の言葉 Robert Seth Quant
新入寮生スピーチ
井村咲月、温ハンビッ、川嶋すず菜
小林侑真、曽我大輔、原島寛之、牧真人
道下朱理、吉野泉
式辞 寮長 千葉惠
讃美歌 531番
閉会の祈り
後奏
記念写真撮影
式辞
千葉 惠 2022.4.10
歓迎
このたびは大学入学、再入学ならびに登戸学寮入寮まことにおめでとうございます。これまでの努力が報われ新しいステージに立つことができなによりです。新たな展開を願っています。本日のこのおだやかな春の光が皆さんを祝福していますように、わたしども学寮関係者一同も皆さんを祝福しまた心から歓迎します。よかったです。
この春入寮された若者たちは今何を胸に抱いているのでしょうか。日本の中心である首都圏での新しい生活に対するまたひととの出会いへの期待、そして人生設計における新たな自己の位置づけを見出し、今後の歩みの模索、そのようなことがらに思いを馳せていることでしょう。若者らしくワクワクドキドキする新しい生活の始まりです。将来の日本と世界の行く末、帰趨は若者に託するしかありません。私どもの乗り越えるべき課題を確認し、解決に向かうわたしどもの心の一番基本的な在り方について共に考え歓迎の言葉としたいと思います。
時代の変遷と変らない一人称の責任ある自由(心魂の人格形成)
学寮は1958年の設立ですので、65年目を迎えています。この間、日本も世界も著しい変化を遂げました。とりわけ科学技術ならびに医学の進展には著しいものがあります。当時は、子供たちはトランシーバーという無線通信用具でせいぜい20メートル離れた友達と半分隠れ顔をだしてボタンを押しては話しかけるそのような遊びをしていたのです。今ではスマホが普及して相手が地球の裏側にいても会話ができ、GPSによりどこにいるかわかります。ヒトゲノムが完全に読まれ、生命の設計図が解読されました。iPS細胞により原理的にはあらゆる細胞を作成することができるようになりました。かつては、情報発信者はテレビ局や新聞社など限られた媒体・メディアでしたが、今では誰もが情報を動画でアップすることができます。株式の売買も大量に瞬時に電子的におこなわれ、商取引も店に買いに行かずともできるようになりました。昔平安時代には「平家にあらずば人にあらず」と言われましたが、今では「IT専門家にあらずば人にあらず」と言うことができそうです。またこれは監視社会の息苦しさとともに「隠されているもので顕わにされないものは何もない」という聖書的な人間観がより現実的なものになってきたと言えます。
このように一方では1と0の情報処理技術は原理的には個人の身体に依拠するところありませんので、個人に依存しない三人称の言語により再現可能かつ検証可能で普遍的な知識が蓄積されていきます。自然科学、医学そして技術の領域における学習内容は著しく進展増大し微視的なナノ空間から宇宙空間に至るまで探求されています。誰もが共有できる定量的で客観的な解明が日々蓄積されていきます。いつの日にか、手足を必要とせず、水溶液のなかに脳がいれられ電極が差し込まれて生存する新たな種が出現するかもしれません。
他方、わたしどもは国籍も親も選べず親ガチャの偶然性のなか、或る与件のもと身体をかかえた生を授かります。それ故、同じひとは誰もいません。生得的な与件において各人異なりますが、もの心ついたときから一人称の言語を用いる責任主体として誰もが唯一無二の生を引き受けているということ、そこに人生の醍醐味があると言えます。三人称の膨大な情報にかこまれつつ、ひとは心をかかえて宇宙の底が抜けるような悲しみと不安そして天にも昇る喜びを持ちうる不思議なる存在者として、一人称の世界を生きています。皆さんひとりひとりの心がそしてそれ故に人生がなんと君の責任ある自由に委ねられているのです。それも気の狂った為政者がひとりいるだけで、それまで営んできた人生が破壊されてしまうそのような不安定な世界に投げ出されて一人で生きています。わたしどもはこのようなものである人間と自己を一人称と三人称の送り返しのなかで探求せざるをえません。
誰もが産まれた時には死に対して十分に年をとっていますが、わが国における平均寿命としては80年以上生きるそのような状況が出来しています。これは人類の叡智を結集してその都度の課題を克服してきたからです。例えば、ルイ14世のように「朕は国家なり」と司法(裁判)と行政(政策執行)と律法(法制定)を欲しい儘にした封建時代においては、人の生命や人権、即ち生殺与奪の権は君主に帰属していました。今回のウクライナ侵略に見られますように、正義に基づいた法治国家を築くことの重要さをわたしども今リアルタイムに経験しています。人類は生命をかけて秩序ある自由な社会、基本的人権を求めて苦闘してきたのです。
2000年前ナザレのイエスが生まれたころ全地球の人口は2億5千万人でした。紀元1600年頃に5億人、1800年に10億人となりそして1920年には20億人であり、現在約80億人が同じ空のもと同じ時の流れのなかで生活しています。20世紀から今世紀における60億人を超える著しい増加は人類の生存上の普遍的課題である飢餓、感染症、病気、紛争等寿命を縮めるあらゆる課題を克服しての勝利を遂げたことを示しています。紛争による殺戮、暴力も20世紀後半以降減っていると言われています。これは歴史に学び、同じ悲惨な眼に次の世代をあわせはならない、また同じ過ちを二度と繰り返すまいという悔い改めと叡智の結集によると言うことができます。
他方、人口爆発や技術の進展による自然環境の破壊がもたらす新たな問題が発生し、地球と人類の持続可能性が問われています。飢餓や紛争による殺戮、難民の発生さらには地球を何度も破壊してしまうほどの核兵器の開発など、今人類は生存のまったなしの課題を抱えています。
またわたしども先進国の日本に住む者の内面においても、情報の渦、大嵐に翻弄され、落ち着いてひとつのことに取り組むことが難しくなっています。技術文明のリズムが身体を持つわたしどもの生のリズムを支配し、わたしどもは自ら生み出したものにいつのまにか隷属しています。身体の感覚器官を介する直観や身体のアナログ的な或いは定性的な反応はわりきれない不明瞭なものとされがちです。反応の速さが競われ、身体との関連においてある心の成長が抑圧され、偏りへの圧力がかかっています。例えば、レーチェルカーソンはこう警告しています。「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、私たちの多くは大人になるまえに澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしも私が、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けて欲しいと頼むでしょう」(三浦永光『人間存在に内在する宗教性について』p.59(新教出版社 2021))。
大人や社会そして現代の風潮は本来ひとの心に備わっているはずのこの種の驚きの感覚を鈍らせてしまいます。鈍くなり、出来上がったシステムや組織さらには知識の体系に自らを適応させることが大人になることだと考えられています。そのとき、わたしどもは何かを失っていくことについてさえ気づかずに、社会や組織の理(ことわり)、システムに飲み込まれていきます。
わたしどもはただ自然の猛威や世界史の荒波にもまれて海の藻屑と消えていくだけの存在なのでしょうか。人類は自ら制御できない欲望を吟味、反省することなく何らか正当化し科学技術を利用し自然資本を食いつぶし、格差を助長したうえで争により自滅に向かうのでしょうか。10人殺せば極悪人であるが、100万人殺せば英雄になるという何も確かなものがない心を抱えているのでしょうか、それが問われています。パスカルは問ます。「人間とは何という珍奇、妖怪、矛盾の主。宇宙の栄光にして宇宙の廃物、真理の受託者にして曖昧と誤謬のドブ、愚鈍なるみみず、この縺れを誰が解くのか」。君たちは新たにこの問いの前に立たされており、各人はその解答を求められています。俺が私が解いてやる、この気概こそわたしどもに求められています。
学寮の存在理由―心の根源的在り方―
この時代にあって、学寮は皆さんに何を提供できるのでしょうか。まず、生活の基本として寮内のトイレや風呂などを清潔に保ち、バランスのとれた食事を提供することによりみなさんの健康維持に貢献することです。この二年間調理スタッフのご努力により、健康を大きく損なったケースがなかったことは感謝です。また、共同生活において重要なことは、秩序を保つことであり、約束ごとをお互いに守ることにより楽しい快適な生活を共に送ることができます。札幌農学校の校長として赴任したクラーク先生はこの規則遵守についてはただ一言、Be gentlemanと言いました。学寮にあてはめるなら、Be gentleman and be ladyということになるでありましょう。なお、老婆心ながら、皆さんが入寮するとき、誓約書にサインしてもらっています。内容覚えていますか。もう一度確認ください。
第三に、学寮創立の精神の具現化にこそ学寮の存在理由があります。学寮の伝統である心魂(こころ)の探求として、豊かで深い精神性の涵養に貢献することです。自己尊大化、自己の拡張として所謂色、金、名誉と呼ばれる定量的に計測され大きさや量を誇るこの世が求めるところとは異なるものに価値を見出しうるかに挑戦します。これらは成功の分かりやすい規準かもしれませんが、そこには心とその心が宿る生命原理である魂が欠落しています。イエスは言います、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:28)。「その心によって清らかな者は祝福されている」(Mat.5:8)。
わが国においてキリスト教徒は1パーセントと言われます。この道は神との関係においては「罪」と呼ばれる自分の中にある残念なところを克服しつつ、神と隣人に自分の人生を捧げようとする、狭く細いしかも真っすぐな道なのです。なぜこんな道が2000年も歩まれ続けているかと言えば、心の奥底にこの道を確かだと承認する部位があり、人間の本来性にかなったものだからです。光が差し込み明確に歩むべき道を示し続けるからです。
イエスは言います。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。軛とは牛を二頭平行につなげるものですが、イエスと軛により繋げられ歩むとき、彼の呼吸そして柔和と謙りが体温と共に伝わってきます。この軛という信、信仰という心の根源的な在り方によりイエスと共に歩み始めるとき、心の底に平安と人生の確かさを見出します。信が二番底とでも言うべき心の部位に生起するとき、ひとはその心と身体に秩序を持ちます。
パウロはこの部位を「内なる人間」と呼んでいます。ポテンシャルとして誰もが心の奥底にこの部位を持っていますが、人間的にはなかなか発現されないかそれに気づかないのです。この部位を発見する方法が一つあるとすれば、幼子のように信じることです。そのうえで聖書を読むと力と平安をいただきます。幼子のように神の子であると信じることが難しいということであるなら、そこに至るべく、自らの心が底なしである、確かなものが何もないという空虚さ、苦悩の経験を必要としています。読書会でとりあげた、宇佐美りんの『推し燃ゆ』と遠藤周作の『海と毒薬』において、文学者たちは底なしの心を描き、その克服に苦闘しています。遠藤の『海と毒薬』は良心の発動というものの確かさについて考えたいひとには必読書です。時間の都合でここでは最年少芥川賞作家宇佐美りんの作品を紹介します。
『推し燃ゆ』―偶像(idol)崇拝と底なしの心―
『推し燃ゆ』の主人公あかりは5歳のときから、ピーターパンを演じた12歳の真幸(まさき)がアイドルとして成長するその過程を追っかけてきました。その推しのまさきがファンの女性を殴ったことが報道され、SNSが炎上する、物語はそのように始まります。作家はあかりの推しとしての在り方をこう表現しています。(引用です)「アイドルとの関わり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品に興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品だけが好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人・・。あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」(p.18)。かくしてあかりにおいては「ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聴き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに閉じられて部屋に堆積している」(p.17)。
この解釈し続けるあかりは推しの身体に自らがはいりこみ、推しが見、感じるものを自ら共有したいという欲求につき動かされています。このアイドル、偶像崇拝の背後に、アカリが常にかかえている自らの肉の重さの感覚があります。あかりは自らの肉の重さに慄いています。見学にまわった水泳の授業の描写でこうあります。(引用です)「あたしが重ねて持っているビート板を「ありがとね」と言いながら次々に持っていく女の子たちの頬や二の腕から水が滴り落ち、かわいた淡い色合いのビート板に濃い染みをつくる。肉体は重い。水を跳ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。先生のなかでもずば抜けて若い京子ちゃんは、両腕を脚に見立ててこすり合わせながら、太腿から動かすのだと教えた。たまに足先だけばたつかせる子もいるけどさ、無駄に疲れるだけだからねあんなの」。あかりは身体と離れない自我の重さをいつも感じている。推しに自己を埋没させることにより、この重さから解放され、生の意味を見出している。
その推しが殴打事件を機にアイドルを卒業することになる。追いすがるリポーターの「反省しているんですか」という問いかけへの彼の応答にアカリは意図的なものを感じ取る。作家は描写する(引用です)「振り向いた眼が、一瞬、強烈な感情を見せたように思った。しかしすぐに「まあ」と言った。機材や人を黒い車体に移り込ませて車が走る」。SNSのコメント欄があふれる。(引用です)「反省して戻ってきてほしい。マサキクンいつまでも待ってるよ」「自分が悪いのにああいうところで不機嫌になるあたりね」「不器用だなあ。ちゃんと説明すればいいのに」・・」あかりはこれらに一切同意せず、(引用です)「推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう」と言う。そこからアカリは推しの殴ったファンへの愛をかぎつける。
アカリは推しの最後のコンサートに行く。(引用です)「第一部が始まり推しの煽りが聞こえた瞬間から、あたしはひたすら推しの名前を叫び、追うだけの存在になった。一秒一秒、推しと同じように拳を振り上げコールを叫び飛び跳ねていると、推しのおぼれるような息の音があたしののどへ響いて苦しくなる。モニターでだらだら汗を流す推しを見るだけでわき腹から汗が噴き出す。推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを推しが引きずりだす。だからこそ、推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした。推しの魂の躍動が愛おしかった。必死になって追い付こうとして躍っている。あたしの魂が愛おしかった。叫べ、叫べ、と推しが全身で語り掛ける。あたしは叫ぶ、渦を巻いていたものが急に解放されてあたりのものをなぎ倒していくように、あたし自身の厄介な命の重さをまるごとぶつけるようにして叫ぶ」(109)。
もちろん、その陶酔の時間は過ぎ去る。(引用です)「推しの歌を永遠にあたしのなかに響かせていたかった。最後の瞬間を見届けて手許に何もなくなってしまったら、この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった」(112)。このように作家はアカリの陶酔と空虚を描いていく。
一足の靴下がベランダに干してあるその光景が最後に描かれます。スクショに移った背景から引退した推しの新居がわれてしまい、アカリはそこにいく。(引用です)「会いたいわけではなかった。突然、右上の部屋のカーテンが寄せられ、ぎゅぎゅ、と音を立てながらベランダの窓が開いた。・・目が合いそうになり、そらした。たまたまとおりかかったふりをして歩き、徐々に速足になって、最後は走った。どの部屋かはわからないし、あの女の人が誰であってもよかった。・・あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量のものよりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった」(121)。
この作品は古典的なテーマを現代的なセッティングのもとで描写したものです。その表現の斬新さにおいて古典的な情熱恋愛を若者の日常の装いのもとに描いています。恋愛感情はamare amabam「わたしは愛することを愛していた」(アウグスティヌス)と古来言われるように、自らの濃密な感情を味わっていたい、その感情の高揚を維持すべく、イメージに集中します。或る女優さんが「恋をしているときの胸のトキメキが好き」と言うように、相手をありのままに受け止め愛しているわけではなく、自らの心臓の鼓動、心拍数を愛しています。そこでは恋愛対象は濃密な感情を生み出す装置として機能しています。だからこそ、何かの幻滅により一気に情熱曲線が下がり覚めてしまいます。
ありのままのマサキを知るべく解釈し続けているあかりはそのようなイメージへの集中とは異なると主張していように見えます。とはいえ、このような解釈を介してマサキの見ているものを見、感じるものを感じたいという思いは恋愛の特徴である一種の自我崩壊と呼ぶことができます。自我が溶けてしまっているところでは抵抗がありませんから何でも赦せてしまう。自らを放棄し、没入そのものにより自ら生息していると言うことができます。この古典的なテーマをとりあげつつ、若い作家の感受性と表現力は読者をひきこむことに成功しています。
ひとはこのように自らを捧げられるものを誰もが求めています。しかし、それは偶像崇拝(idolatory)であってはならないはずです。ルターは「汝が汝自身を寄りかからせているもの、それが汝の神だ」と言いますが、まことの神以外は偶像となります。それは偽りであり空しい信の対象であり、偽りである限り裏切られます。そしてそれは過ぎ去りゆくものです。信の対象、人生を捧げるにたるものは堅固で永続する真理でなければならないはずです。この短い学寮生活において共にこれを探求したいと思います。
真理の探究の手がかりとしての古典そしてイエス・キリスト
真理の探求の手法は歴史の審判を経た聖書テクストへのひたすらなる尊敬のもと、ルターが「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」と言うように、正しい理解に集中します。これは内村鑑三や黒崎先生、塚本先生以来の無教会の伝統と言えます。
黒崎先生と学生時代以来の親友で内村の弟子であった塚本虎二は自らのイエス伝研究を通じてこう語りかけます。「後代教会の誤った宗教心がゆがめたり、隠したりしているものを学問の力で取去って、直接ガリラヤの大工の子、イエスの姿を見えるようにしようと努力してきた。―その結果イエスが私達と同じく、完全に人間であることが解った。―ところが一方このようにすっかり人間になったイエスが、他方では今までよりもはっきり神の子の姿をもって私達の前に浮かび出たのである。―どうかただ機械的に、漫然とイエスを神の子と信ずるのでなく、疑わしい所は遠慮なく疑ってもらいたい。そうすると多分、我々と同じにこの地球の上を歩き、空気を吸い、食事をして生きた、あくまでも一人の人間であるイエスに、人類創造以来の凡ての人と違った、この人だけは人間でない、神の子であると言わざるを得ないものが出て来ると思う」(『聖書知識』三一〇号)。
古典classicsとは歴史の審判に耐え、逆に歴史を審判しています。古典がまだ自らに訴えかけないとしたなら、わたしどもはまだその一つの歴史を営んでいる人間になっていないとも言えそうです。当方70年近く生きてきましたが、この数十年間、聖書やアリストテレス等の古典テクストの正しい理解に埋もれてきました。文字通り悪戦苦闘でした。古典の研究を通じて得た人間理解、理論のもとに自らと周囲の人々を実験台として、ひとの心魂の動きを吟味、検証してきました。そして今、人間とは何かという問いに対して、一つの信念を持っています。二千年ものあいだ歴史の審判を経て、しかも今、歴史を審判している、力強く働いて人生を導いてくださる方はイエス・キリストであると信じております。彼は真の人間であり、神の子であると受け止めています。文学者たちも虚無や不安の背後に何か人生に確かのものがあるのかを探求し、登場人物のディーテールを描いていきます。わたしどもは、人間探求の様々な事例に学びながら、とりわけ神と人間を媒介する存在者であると聖書に伝えられたナザレのイエスを共に学んでいきたいと思います。心の奥底にどんなに吟味しても壊れない確かなものを見出しうるなら、これは幸いなことだと思います。以上皆さんの新しい人生への贐の言葉とします。