権威ある祝福

2020年4月5日の礼拝 山上の説教 (1)マタイ5:1-3 千葉 惠

 序 マタイ福音書5章~7章 山上の説教の主眼

 イエスは群衆が山に登ってきたのを見て、お座りになったとき弟子たちが彼のみもとにやってきた。口を開き彼は弟子たちにこう言って、教えた。

「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである(5:1-12)。

 5章から7章は山の上での教えであるため、「山上の説教(垂訓)」と呼ばれている。「祝福されている」と訳される言葉は「幸いだ」と訳すこともできる。とはいえ神とその御座である天国との関連で語られているがゆえに、神に祝福されるのでなければ幸福であることはできないため、より直截に「祝福されている(cf.Blessed are the poor(KJV))」と訳した。これらは神に祝福される八つ(九つ(二人称含む))の心魂の態勢・状態またその働きにある者たちについて三人称で一般的に言われている。とはいえ、福音書のイエスの言葉は常に具体的な対話の状況・文脈のなかで対人論法により語られている。それ故にこの三人称表現も彼を求めて山を登ってきた寄る辺ない群衆に対して彼がもった今・ここの憐みからこれらの祝福が発せられていると考えねばならない。最後に二人称で「汝らは祝福されている」とあるから、直弟子たちだけではなく聴いている群衆も含まれている。イエスご自身はユダヤ教の伝統のなかで「イスラエルの失われた羊」に遣わされているという自覚をもち福音宣教を始められたが、この三人称の表現はユダヤ人であれ、異邦人であれ誰であれこの憐みのもとに含まれていることをも含意している(Mat.15:21-28)。語りの文脈の具体性と射程の一般性双方を捉えねばならない。

 実際、類似の宣教の文脈において「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mac.6:34,Mat.9:36)。彼は彼についてくる群衆を深く憐れんでいたのである。その憐みのなかでの神の国の宣教すなわち神の国がどのようなものであるかについての「教え」とそれがもたらす知識は弱ったひとびとを救いだす力である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めて山に登ってきたひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。これらの祝福が発せられた文脈が彼についてきた聴衆を励まそうとされたことそしてそれは今寄る辺ない状況で彼に従う現代人にも語り掛けられている。ひとはみな神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神と隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。

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