春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

 録音では、司法、政治、経済等の諸制度と福音の関係を、富の具体的な事例を挙げながら解説しました。山上の説教を福音として読みうるのでなければ、わたしどもはこの相対的な社会において主体的に例えば経済活動に従事することと、神に仕えることとのあいだに秩序を見出しえないことになります。福音により因果応報の相対的な世界、社会生活を秩序づけることができると論じています。次回が「結論」です。2024年3月16日

四・三 善悪因果応報説を乗り越える福音 

 旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐みの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:24)であり、その応答が受領、承認としての信である。

神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスの自己言及に集中する限り、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。われらの罪の贖いは父と子の協同作業であったからである。パウロによれば、「あらゆる者たちは、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」となった(Rom.3:24)。そこに自らの義を「誇る」者は誰もいない、プレゼントだからである。

 この無償性は単純な善悪因果応報説では決して主張されない。とはいえ、父と子の間で、配分の正義のもとでWin-Winの関係として互恵的に記述することが許容されていよう。「息子よ、よくやった。褒美をあげよう、何が欲しいか」。「父よ、彼らは知らないのです、彼らの罪を赦してやってください」。「それが君の願いか、それでは人類の罪の赦しを君にあげよう」、何かこのような応報において、人類の罪の贖罪をアンセルムスと共に受け取ることが正しいと思われる。その罪の赦しはイエスを介してわれらに贈られる。「悔い改め、福音を信ぜよ」。

 イエスの迫害に付き従える光栄に預かった事実のみで、この言葉「報い」は功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実として理解されうる。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。愛を介して働いている信を生きる者は旧約の古い革袋の業の律法をも満たす者ではあるが、無比較的、端的な善がそこにある。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。父と子の自己完結的な正義は人間に対しては純粋に無償の「贈りもの」だからである。

 

四・四 相対的な正義と信による乗り越え 

 このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された(7:1,5:33-37,5:31,5:39)。これら制度化は肉の弱さへの譲歩であると言える。誰もが神の前に生きているなら、山上の説教をそのまま生きていたであろう。

 イエスは「君たちの心が頑ななのでモーセは君たちに君たちの妻を離縁することを許容したのであって、始めからこの通りではなかった」とまたパウロも「君たちの肉の弱さ故に人間的なことを語る」と人間中心的にものごとに対処することを譲歩として認めている(Mat.19:8,Rom.6:19)。人間同士の契約に基づく司法、政治経済、防衛等の社会諸制度は相対的な正義のもとに営まれている(Mat.19:8,Rom.7:24, cf.Mak.10:4)。

 しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく相対的、比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。例えば裁判官が懲役九年であるべきものを八年と判決する場合のように、自ら相対的な判断のもとに審判する時、端的な正義においてある神の前に出ないでよいという免責にはならず、その都度悔い改め、憐みを信じ仰ぐ。この相対的な世界において委ねられている正義はあくまで契約社会のなかでのことであり、神の前においては信に基づく端的な正義がキリストのゆえに無償で与えられる。ただし、現実社会の契約も相互の信に基づくものであることが求められるであろう。

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春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一(最終回)

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