21世紀の宗教改革:福音への帰還と福音の真理への与り

第二回大頭研究会要旨 「21世紀の宗教改革:福音への帰還と「福音の真理」への与り―福音は決して手垢で汚せない!―」 2025.1.15

オンラインにて視聴いただけます。

主にある友へ、
 早くも1月の後半に差し掛かっています。続いてお元気でお励みのことと思います。こちらはロス郊外の大火事と世界の動きで落ち着かない中にいますが、守られています。
 1月15日に持たれた「千葉先生を囲んでーその2」の動画YouTubeと要旨をお送りいたします。要旨は77条にわたる「21世紀の新しい宗教改革」に至る経緯を含めて記されていて、動画でその流れを追うことができますので、是非ご覧ください。
 なお「千葉先生を囲んでーその3」を4月9日(水)午後1時半から3時までで予定しています。講義内容と資料は後ほどお送りいたします。
 皆様の続いてのお働きと歩みの上に豊かな祝福をお祈りいたします。上沼昌雄

https://youtu.be/pnIxuW8vOlo

 〇宗教改革の sine qua non (不可欠条件)

 懐疑と信仰の循環の自己食尽に打ち勝つには探求によって得られる「キリスト・イエスの認識の卓越」とそれに伴う「内なる人間」の刷新による「変身」がキリストに似た者となるべく不可欠であるということ。

 一同が「福音の真理」の新しい読みに心から納得して、福音の喜びにあふれていること。

 その喜びの福音を異邦人の言語(英語)にして広く普及させること。

〇人類は一回限りの歴史を辿っている。16世紀の宗教改革はその後の歴史形成に大きな影響を与えた。21世紀の宗教改革は福音への帰還を通じてまたその真理に与(あずか)り、あらゆる実り豊かな行為においては心魂の根源において疑いなき幼子の信が生起することが求められていること、そこに喜びが伴うことを伝える。また知性において躓きにある人々に福音が理に適うものであること、誤訳が正された時、どれだけの知的解放が得られるかを伝える。信の哲学は一般的に心魂における信の根源性を開示し神学の基礎を与える(クレメンス引用)。また福音が健全なものであることの証として、正しい信仰は愛を生みだすものであるが故に、信じる者はその正しさの証として隣人愛に向かう(Luk.7:47)。キリスト教会内の目標としてカトリックとプロテスタントの和解に心がける。ひいては歴史の平和的形成に貢献することもあるであろう。

「主の到来以前には哲学はギリシャ人にとって義のために必然であった。・・主がギリシャ人を召されるようになるまで、哲学はギリシャ人に直接に、根源的なものとして与えられていたに違いない。なぜなら、ちょうど律法がヘブライ人をキリストに導いたように、哲学は「ギリシャ人の精神」をキリストに導く「教師」であったからだ。つまり、哲学はキリストにおける完成への道を整える手段であった」(アレクサンドリアのクレメンス 2世紀前半)。

 

  → パウロは主の年一世紀における(旧約)聖書学者であり同時にギリシャ哲学者であった。「主の到来」によりパウロは「キリストにおける完成」を理解する哲学的基盤を与えるものとなった。「福音は人間に即したものではない」その「福音の真理」は人々の間に留まり、分かち合われる(Gal.1;11,2:5)。

 

「先に伝えたように、今私は再び言います、もし誰か君たちが受け取ったものとは異なる福音を宣べ伝える者があれば、呪われてあれ。というのも、私は人々を説得しているのかそれとも[誤った福音により]神を説得しているのか、或いは、私は[神ではなく]人々によって喜ばれることを求めているのか、ということだからです。もし私が人々を喜ばせようとしてきたなら、私はキリストの奴隷ではなかったことになります。というのも、今私は君たちに知らせるからです、私によって伝えられているその福音は人間に即したものではありません、というのも私はその福音を人々から受け取ったものでもまた教えられたものでもなく、むしろイエス・キリストの啓示を介してのものだからです。というのも、君たちは私がユダヤ教にあったときの私の回心を聞きました、すなわち私は度を越えて神の教会を迫害しそして破壊したからです、・・。2:4ひそかに入り込んだ偽兄弟の故に、彼らが誰であれキリスト・イエスにおいてわれらが持ったわれらの自由を偵察すべく忍び込んだのです。われらはひと時も彼らに従属し譲歩しませんでした、それは福音の真理が君たちに留まるためです」(Gal.1:9-2:5)。

 

〇キリストを知ることそして彼の復活の力に与ることの絶大な価値を知ることが宗教改革の目標となる。

 

「私は熱心に関して教会を迫害する者であり、律法における義に関しては落ち度なき者となりました。しかし、私はキリストの故に私にとって何であれ利得であったものごと、これらを損失であると思うにいたっています。しかしまことにその上むしろ(menoun ge, yea rather)、私はわが主キリスト・イエスの認識の卓越していることの故に、あらゆるものごとを損失であると思っています、なおその彼の故に私はあらゆるものごとを失い損しましたが、私はそれらを塵芥(ちりあくた・排泄物)であると思っています。それは律法に基づくわが義ではなく、キリストの信を介した、その信の上の神からの義を持つことによって、彼を獲得するにいたるためでありまた彼ご自身のうちに私が見いだされるためです、その結果、 [キリスト]ご自身とご自身の復活の力能を知ることになります、そしてご自身の死と同じ形姿の者となることによって、ご自身の諸々の受難への共同の与りを知ることになります、もしいかにかして死者たちのなからの復活に到達するのなら」(Phili.3:6-11)。

〇わたしたち誰もが同意できることがある。パウロはここにいる誰よりも神についてその認識、行為をより良く知っている。なぜなら、あまりにも理解しがたき文章の連続であるが、少しずつ理解するにつれ、もっと理解したいと思うそのような議論が展開されているからである。そして人類はこの書簡とその神学理論のもとにあるイエスのエルゴンが報告されている福音書を最も多く読み、愛しまたこだわり続けてきたからである。「ローマ書」における彼の主張の一つは生身の自己(C)と罪の癒着さらには義との癒着を解くことであり、「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」の言語網を展開することにあった。神の前の自己完結性の言語網は神になりかわって、神の福音を報告する大胆な行為である。彼は「或る部分より一層大胆に書いた」と言っている。神の前と人の前の分節故にこそ、聖霊の執り成しの働きまた罪との癒着も明瞭なものとなる。

それ故に、これは探求を促すのであって、彼を信じ教師である彼の教えを鵜呑みにすること(洗脳されること)ではない。信仰という自らの意識のなかに彼の教えを閉じ込めることでもない。そこには必然的に解釈学的循環が生じる。パウロ自身言う、「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは」。パウロと共に「叡知の刷新」(Rom.12:2)により神について探求する。「後ろのおのごとを忘れつつ、先のものごとに体を伸ばしつつ、キリスト・イエスにある神の上からの召しの褒美を追い求める」。

神ご自身の認識や判断をパウロは報告しており、神の前の言語に習熟する必要がある。われらが人間中心的に考えるものとは異なる壮大なる計画のもとにおける救済の行為の報告がパウロにより展開されている。「主は言う、わが思いは君たちの思いと異なり、わが道は君たちの道と異なれり。天の地より高きが如く、わが道は君たちの道よりも高く、わが思いは君たちの思いよりも高し」(Isaiah.55:8-9)。パウロによれば、われらが信じることの喜びにおいてないのは、それは「叡知の機能不全」(Rom.1:28)のゆえに、罪に引き渡されてしまっており、神の憐れみの思いを知ることができないためである。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

ひとは問うでもあろう。神の言語網に習熟すると言っても、それは人間の言葉で理解する限りの神の認識や判断の報告となる、と。人は自らの意識の外にでることはできず、神の前のことがらをそれ自身として析出することは不可能であり、それは思い込みとしての信じ込みによってしか、神の言葉として祭りあげられないのではないか?さしあたり、これに対しては「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)のであり、人間の言葉でなければ、異言になってしまうであろうと応えることができる。神は人間の弱い言葉によりご自身のことが伝達されることを許容したのである。

さらに、この意識内の自己食尽から逃れるには、実在論のもと、知識を求める探求が不可欠となる。神の前の自己完結的な整合的な言語網の解明は第一段階のロギコス意味論の解明である(logikos「いかに語るべきか?(pos dei legein)」という問のもとでの矛盾律に基づく言語の規範的な使用)。それをもとに、その指示が届くものとして意図された対象が存在するか、即ち働きにおいてあるかを知ることへと向かう。ものごとはそれ自身の理(ロゴス)を持ち、それが働きにおいてあることを掴むとき、それは意識内のことがらではなくものごとの認識である。ものごとの理を心魂の最善のロゴス(言葉)は掴むことができる。心魂の言語網内における整合説の真理は心魂とものごとの対応説の真理の基礎である。

〇探求とその方向

パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとにキリストの執り成しの言葉と働きを語る。一方で直接的な聖霊への言及のなかで、肉の弱さにおいてあるわれらへの具体的な今・ここにおける執り成しの働きを報告している(Rom.5-9:6)。これは「霊と力能の論証」と呼ばれる(1Cor.2:4)。

他方で、聖霊への言及なしに、彼は神の前の二種類の啓示の言葉を報告している。彼が言葉を語りだす現場はイエス・キリストにある神の啓示行為に眼差しを注ぎつつ、またもう一つの神の啓示行為であるモーセに律法を授けた状況に眼差しを注ぎつつ、言葉を紡いでいる。なおモーセ律法は福音に秩序づけられるものとして位置づけられている。「キリストが信じる者すべてにとって義に至る律法の目指すものである」(Rom.10:4)。パウロはこのように聖霊への言及なしに神の前の信義をめぐる神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。

これは「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)と呼ばれる。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。神の知恵はご自身の信義の媒介であるキリストを介して啓示されており、キリストの叡知の発動を受け取ることにより知ることができる。一方で父と子の協働による神の啓示行為があり、それは十字架と復活に至る信の生涯を通じて啓示されており、他方、生前のイエスが「われは汝らを残して孤児とはせず」、「助け主を送る」(John.14:16.18)と約束したように、聖霊が派遣される。それはわれらの心魂の内奥において呻きをもって、懐疑からの即ち罪からの解放を促している、「あの二千年前の十字架の死はおまえの「古き人間が共に磔られ死んだ」と神が理解していたまう」、と。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」。罪の欺きはここにも潜む、「本当に神は、聖霊はそう言ったのか」と。ひとはどこまでも罪と癒着する。生ける清い神の前にでないでよいとするアリバイを工作する。人生に誠実であろうとすれば、少なくともこう語りうる、「真理のみに従って生きていこう、真理の探究だ」、と。

 

〇 パウロの実在論

われらは実在論の立場に立つべきである。実在論とは世界はそれ自身独立に自らのロゴス(理)を持つ或いはそれにより構成されており、人間の最善の理論(ロゴス)はその世界の理(ロゴス)を開示できる、真理を把握できるというものである。それは探求論として「名前(句)は何を意味表示するか?」即ち「語られているもの(例えば「神」)は何であるか?(ti to legomenon esti;)」(アリストテレス)という言語次元における意味の把握に始まる。「神」という語句は「それより先の存在者がない根源的存在者であり、宇宙を理のもとに創造するもの」の如き、探求の始点と方向を提供する。提示された名前や語句の意味は現用言語の網の目のなかで理解され、そして探求の方向を定める。書かれたものに他ならない聖書も一つの現用言語として、「神」の語の意味の理解に貢献する。そこから探求が始まる。(リクールはまず聖書が真であると信じなければ理解できないというが、必ずしもそうではない。書かれたものとしてその語句の意味連関の解明に従事することは聖書が神の言葉であるとも真理を告げているとも信じることなしにも理解できる。これが信じる者にも信じない者にも分かち合える共約的な言語の意味の理解を提供する)。

続いて、その名前により指示されるものが「存在するか?」そして存在の発見は存在だけを発見するということはなく、その自体的また付帯的属性の把握を介してその存在が知られる(例えば「アブラハム、イサク、ヤコブの神」)。その存在の知識に基づきその名前が意味表示しその存在が確認されたところの本質即ちそのもの自体は「何であるか?」が探求される(例えば「神は全知全能でありまた愛である」)。

アリストテレスは問う、「われらは或るものどもについては[事実(SはPである)から理拠(なぜSはPか)とは]別の仕方で探求する。例えば「ケンタウロス或いは神は存在するか或いは否か?私は「Sは存在するか或いは否か?」を端的な仕方[Sのみの表示]で語っている。・・存在することを知って、われらは「何であるか?」を探求する、「神は何であるか?或いは人間は何であるか?」(An.Post.II1.89b31-35)。

発見的探求論においては、パウロによれば天使や擬人化される罪はリアルに存在するものとして発見されており通常幸運や不運に帰してしまうものを乗り越え、神の意図を探求する。探求の第一段階にある初心者はパウロのその主張を言語次元のみにおいて整合的であるかを吟味する。そのことは許容されている。「信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聴くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」(Rom.1014-15 神による召し→宣教→聴く→信じる→呼びかける。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」)。

神の予定は、パウロと同朋が「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召し出された者たちには、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)という知識主張の理由として挙げられている。「なぜなら、ご自身は予め知っていた者たちを、御子自身が多くの兄弟のなかの長子となるべく、ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められたからである」(8:29)。永遠の現在のうちにいる神の前ではわれらが明日何をするかまで明らかであるが、神の認識や意志(例えば予定)は個々人にはイエス・キリストにおけるほど明晰には知らされてはいない。かくして、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのこととして信じることは常に実質的であり続ける。

〇 解釈学的循環

 ルター「全聖書がキリストを示し、またパウロがキリスト以外のことは何も知ろうとしなかったので(1Cor.2:2)、全聖書がキリストを説き進めているかどうかを検討するとき、聖書が聖書の解釈者である(scriptura scripturae interpres)という言葉はあらゆる文書を判別する真の規準となる」。(cf.W.A.7.97.21ff scriptura..sit ipsa per sese certissima, facilicima, apertisima, sui ipsius interpres, omnium omnia probans, iudicans et illuminans (聖書は自らによりそれ自身最も確実であり、明らかなものであろう、あらゆる文章があらゆる文章について証明し、判断しまた照明しつつ)。

 真の聖書の著者は聖霊であり、真の聖書の読者は聖霊である。究極的な循環ないし、自己完結。これは神の前の出来事としてありうることである。そしてそれを人の前のこととして肉の弱さを助ける聖霊が主導権を握るとき、そこではもはや一人芝居self-contained playになっている。循環がそこでは生じる。

  「神の言葉は真理である」。「何故か?」。「神は聖書において聖霊を通じて語っており、書かれたものとしての聖書は聖霊を介して読まれるとき、その真理を把握するからである」。神の前の言語はこのように振る舞うでもあろう。ルイス・キャロルの「アリスの不思議な冒険」に登場するハンプティダンプティが「語句の意味は吾輩がそのように意味すると定めたころのものである」と主張する。これは「神」の定義上、万物の創始者にしてそれより先行する存在者がなく、それより先行する言語もない存在者については「神」が語句の意味を決めるそのような仕方で語句の意味は定まるであろう。

ルターが強調する正しい聖書の理解をもたらす聖霊はその著者でありその読者でもあり、そこには究極の同語反復ないし循環が成立することであろう。これは神がそのように定めた場合には、被造物においてもそれは妥当するでもあろう。「人間よ、神に言い逆らう汝はいったい何者か?」(Rom.9:20)。

これは真理でもあろうが、神の前における神と聖霊と神の言葉としての聖書のあいだの相互関係が報告されており、肉においてある生身の人間はそれをその都度信じるよう促されている。その意味で信じることに神の前の出来事が吸収され、還元されてしまう。信仰の自己食尽がそこに始まる。 この循環を切断するには、神の前と人の前を分節し、そのうえで相互の関わりを明晰に秩序づけることに求められる。

〇パウロはその方法論をこう語っている。

「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはない。この「語る」は人間中心的なC次元におけるパウロの責任ある自由のもとでの言葉である、ただし彼の自覚としては 「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって」即ち、キリストが私を介して言葉により語っており、また私を介して働いているという自覚のもとにあった(cf.「われらの福音は君たちにロゴスにおいてのみ(en logoi monon)生じたのではなく、[神の]力能においてそして聖霊においてそして完全な確かさにおいて生じた」(1Thesa.1:4)。ここでも言葉は聖霊の働きとは分節されている)。

聖霊の執り成しにおける語りと働きはD次元のものである。これを記号化すると、and/or となる。アンドスラッシュオアをパウロは肉の弱さのゆえに譲歩として許容している。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)。自覚としては聖霊の媒介のもとで語っているLogD(&)LogC(a-in C)が、人間が受け止めたものである神の前(a-in C)を人間中心的な語りとして自己責任で語っている(LogD(or)LogC(a-in C))。この双方の可能性を表現するものが&/orである: LogD(&/or)LogC(a-in C)。なお今・ここの語りはエルゴン(Er.)であるが、それを一般化するならロゴス(Log)である。

 人間中心的な語り即ち人間的な現用言語の枠のなかで名前の語句の意味の理解を探求の第一段階とする。そこではパウロが言葉を紡ぎだす際の指示上の意図を括弧にいれ、テクストを書かれたものとして受け止め、人称や時制や法等その文法の分析および特徴ある文体の析出さらに文やそれを構成する単語の関連の分析を通じて語彙の意味の理解に従事する。

「聖書」は生きて働いているでもあろうが、書かれた文書に他ならない。人間によって書かれたものは文字の集積であり、それは他の関連語と一つの言語網を形成する。名前や語句等文字の意味はその書かれたものの構成員との関係により理解される。「聖書」は実際に生きた神の言葉であるかを括弧にいれ、文字の集積のなかで例えば「神の言葉」は「ユダヤ人」との連関に置かれる。「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)。この発話は預言者やイエス、パウロのようなユダヤ人が神の言葉を責任を担って報告していることを伝えている。

これらの手法をもとに「ローマ書」全体の「ロギコス意味論」と呼ぶ分析のもとに五つの整合的な言語網を析出した。これらの層は例えば「神」、「イエス・キリスト」、「聖霊」そして「われら」や「彼ら」等の人称代名詞が動詞や前置詞を伴っての言語的な振る舞いの分析を介して析出される。この整合的な言語網はそれぞれ「文字的意味(sensus literalis)」を有しており、そのもとにパウロが意図している指示対象との今・ここの認識ないし出会いに向かう。ロゴスを介してのエルゴンによる対象の存在と本質の探求が始まる。

 この探求の過程は実在論のもと秩序づけられており、発見が成功した場合には聖霊や罪はわれらの外に働きにおいてある即ち実在していることを認識する。最善のロゴスはものごとそのもの、神の前の事実を捉えることができるであろう。「知恵はその諸々の働きからその正しさが証された」(Mat.11:19)。

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クリスマスメッセージ・第一コリント13章