枡形山春の聖書講義―宗教改革(2)山上の説教の神学的展開――

宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―

A Religious Reformation‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.

 

モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」

Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’

                                                                             千葉 惠

77か条の提題 

77Theses (With English preface and table of contents)

 

目次

序言

1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―

1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父

1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音

 

2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―

2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―

2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性

2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音

 

3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―

「宗教改革「信のみなもと&みなもとの信」―極東発Wittenberg & Rome経由、福音への帰還」第二回目です。77箇条の提題を示しますが、今は序言を何回かにわけて朗読しています。その第二節途中までです。

2 山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―

                                     2021年2月21日

2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―

 ここではナザレのイエスの生涯がパウロによりいかに神学的に理解されているかを確認したい。福音書とパウロの書簡の対話を遂行する。最初に二人の置かれた状況の相違を確認する。イエスの信仰の招きが業のモーセ律法の遵守の要求のただなかで遂行されたのに対し、パウロは神の力能の働きである他に例を見ないイエスの十字架の処刑死とその三日後の甦りの出来事から彼の一切の神学的思考を展開している。彼はイエスの甦りが人類に何をもたらしたのかを受け止め、そこから信に基づく義とその義の果実としての愛が生まれるその神学理論を展開した。

 パウロは、神によるアブラハムへの約束に対する信実が歴史上御子の受肉と受難と復活において証された、その「神の信」(Rom.3:3)を基礎に彼の神学を展開する。信は人間にとっては賢者に至る知識をめぐる認知的要素と聖者に至る有徳をめぐる人格的要素の成長への基盤となるが、神は認知的、人格的に十全である。パウロは、神によるご自身の約束への信実がナザレのイエスにおいて成就されたと主張する。その約束に対し神は信実であり、神が正しい方であったこと、即ち「神の義」は「イエス・キリストの信」を媒介にして人類に明らかなものとされた。パウロはこれをひとつの神の意志として受け止め「信の律法」と呼んだ。それはモーセを介して知らしめられたもう一つの神の意志をパウロは「業の律法」と呼んだが、彼はこれら二つの神の意志を信に基づく義と義の果実としての愛として秩序づけた。

 常に心に留めるべきことは、山上の説教はナザレのイエスそのひとが今・ここにおいて純化された究極の律法を語りつつ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と信仰に招くことにより、その内面化された愛に収斂される律法成就の道を示したことである。イエスご自身は神の愛の先行性を自ら生き抜きご自身がその道となったがゆえに、パウロは神の愛の先行性に基づき愛の相互性を秩序づけることができた。まず、神との正しい関係が確立されることなしには、人間の一切の営みは秩序を得ることはないという明確なメッセージをナザレのイエスは発信した。しかも、彼はユダヤ人の伝統に留まりつつ、旧約の律法を内側から破ることによって、新しい生命に満ち溢れる信仰に招く福音を展開した。福音と律法を静的な関係において捉えてはならない。イエスはガリラヤの野辺を歩きながらリアルタイムに神の意志を実現しつつあったのである。もし彼が公生涯の終わりに十字架から下りてきたしまったなら、神のみ旨は実現されてはいないと看做され、福音の啓示の媒介者として用いられることはなかった、そのような緊張のなかで、肉の弱さを抱えたイエスご自身により一言一句、一挙手一投足が遂行されていたのである。われらはそこに同じ人間として山上の説教を成就しうる可能性と力能を見出す。そして人類の誰かにより山上の説教が語られた事実に、われらは人類に絶望することはない。ましてや彼はそれを信の従順により完遂した方である。

 パウロそして福音書記者たちも十字架と復活と昇天ののちにナザレのイエスが何者であったかをめぐり信に基づく義と選びの神学さらにはその伝記を書き残したのであった。パウロは歴史の展開のなかで信の従順を死に至るまで貫き、父なる神の専決行為による甦らしが生起したことのゆえに、福音の成就した視点から「この方はわれらの背きの故に引き渡されたそしてわれらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)と語ることができた。御子の十字架と復活は神の前で即ち神ご自身の理解として、歴史のなかで身代わりの死によるわれらの罪から信仰による義化への移行の成就として知らしめられた。「イエス・キリストの信」を介した「神の義」の啓示は「信の律法」としてわれらに業のモーセ律法からの解放と、信に基づく義による業の律法の新たな秩序づけとして位置づけることができた。

 十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」(Rom.6:10,cf.1Cor.15:6)のことであり、他の誰かによって再現されるものではない。さもなければ、父なる神は御子の信の従順を贖いに不十分なるものと看做し、御子を裏切ることになる。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。

 心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものであり、しかもその告白は信じることできるというそのことの喜びを与えるものだからである。種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神のみ言葉、み心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mac.4:2-10)。

 この譬えにおいてみ言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとにみ言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。

 パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。神が愛である限り、この人生は良き土地となる、復活の主が共にいたまうからである。「主はわたしの運命を支える方。測り縄はわたしに向けて佳き地に落ちた、わたしは良き嗣業(ゆずり)を得た」(Ps.16:5-6)。

 なお、当のイエスご自身も苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らが信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mac.9:23)。あらゆることは当然愛の業に収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性

 モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定まる。パウロにおいては福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)と位置付けることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは前提されている。

 神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている、もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。

 新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。

 「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めを秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。

 ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 パウロも言う、「知識は高ぶり、愛は[徳を]建てる。誰かもし何かを知っていると思うなら、その者はまだ知るべきその仕方で知ってはいない。誰かもし神を愛するなら、その者はご自身により知られてしまっている」(1Cor.8:3)。高ぶりのなかで何かを知っていると主張するとき、愛されていることを知ることはできず、知るその仕方は少なくとも神の愛を前提にした愛の相互性に基づかない。「われらは知っている、神を愛する者たちには、彼らは計画に即して召された者たちであって、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)。ひとは神の計画のもとに神により知られ、愛されることによって愛するのであって、その愛を自覚せず、求めない者には善へと協働する愛は生起しない。まず神に今・ここで愛されていることの信が不可欠であることは神の愛の先行性が隣人愛の相互性を保証することを含意している(cf.1John.4:7-8)。

 ひとはとりわけ自らの偏った認識により高ぶり、自らの与件を忘れ、恩義や憐みへの感謝をすぐ忘れてしまうからこそ、「七度の七十倍赦すこと」(Mat.18:22)がイエスにより求められる。彼はその理由をたとえ話で伝える。或る王が家来を憐れに思って、その負債を赦したが、その家来が自らに負債ある者を赦さず、牢に入れた。王はこの態度に怒って言う。「悪い僕だ、・・わたしが君を憐れんだように、君も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(18:32)。われらは皆キリストにあって既に七度の七十倍は赦されている。

 それほどまでに、ひとは自らへの他者からの恩義を負担に感じ、一人で成し遂げたかの如くに思いこむ。「誰が汝をより優れた者としたのか、汝は受け取らなかったものを何か持っているのか。もし汝が受け取ったなら、何故受け取らなかったかのごとく誇るのか」(1Cor.4:7)。パウロはただ十字架を誇る。「われらの主キリスト・イエス、その彼を介して世界はわたしに磔られ、わたしもまた世界に磔られた、その十字架以外にわたしに誇ることが生じることは断じてあってはならない」(Gal.6:14)。このキリストの受苦(パテーマ)がわれらのパトス(受動)を造り変えていく。受動の強さが能動の高さを生み出していく。「愛は忍耐強く、情け深く、ねたまず・・誇らず、高ぶらず、礼を失せず、自らの利益を求めず、いらだたず、恨まない」(1Cor.13:4-5)。愛のうちにあるものは否定的なパトスに引きずられることはない。愛は「誰に対しても悪に対して悪をかえさず」(Rom.12:17)、「互いに兄弟愛において慈しみ、相互に尊敬において導き手とする」(Rom.12:10)。愛は支配からも被支配からも操作や差別からも唯一自由な所で心に生起する神の子同士のわれと汝の等しさであった。右の頬を打たれたら左の頬を向けつつ、いつの日にか敵が友となる希望によりシーソーのアンバランスは現に平行を得ている。

 

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