春の聖書講義3―福音による一切の秩序付け―

宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―

A Religious Reformation ‘The Faithfulness of Source & the Source of Faithfulness’―Back to the Gospel, departing Far East via Wittenberg & Rome―.  

モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」

Motto. ‘fides fontis et fons fidei : Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei’                                                              

77か条の提題 

目次

序言

1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―

1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父

1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音

2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―

2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―

2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性

2:3 人類をその罪と苦難から救済に導く福音

3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―

 77か条の提題

2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音

 パウロの神学はナザレのイエスによりその生命と今・ここの躍動感を得ている。イエスはひとの肉の弱さに衷心からの「憐み(splangchnon=はらわた)」を示し、柔和であり謙遜であった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.Mac.1:41)。彼は彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは不公正や侮辱そして迫害に耐え、呪う者を祝福し「平和を造る者」にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 イエスはパリサイ人が眼差しを神の国に向けない偽りを見出し言う。「ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである」(Mat.23.23-25)。所謂色金名誉をつまり「肉の欲」を心魂の根底に置くとき、もはや眼差しは曇り肉に閉ざされてしまう。これらのパリサイ人攻撃は裁きではない。イエスは言う、「裁くな、裁かれないためである。汝がそこにおいて裁くその裁きにより汝らは裁かれるだろうからである」(7:1-2)。パウロも言う、「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めているからである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」。隣人にまた自己に対し自らの心魂の根底を問うことなく、これXをするかXしないかにより烙印をおすことは業の律法に即したものである。「同じこと」とは双方とも業の律法のもとに生きているということである。業の律法のもとにある肉は誰も義とされないのであり、自ら罪に定めている(第6?、27?条)。イエスは信の律法のもとに神の国を持ち運ぶ、即ち愛をその都度成就しているそのなかで、自ら気づいていないパリサイ人の「目にはいったおが屑」(Mat.7:5)を取ろうとしたのであり、業の律法のもとでの裁きではない。自らの偽りに気づいていないパリサイ人を救おうとするその愛の成就は十字架に極まる。パウロは言う、「キリストはわれらがまだ罪びとであるときわれらの代わりに死んだ、そのことにより神はご自身の愛をわれらに結び付けたのである。かくして、今や、われらは彼の血において義とされたのであるから、さらにいっそう彼を介して怒りから救われるであろう。なぜなら、もし、われらは、われらが敵であったときに、神と、ご自身の御子の死を介して、和解させられたのであるなら、さらにいっそう、われらは、和解させられた者として、彼の生命において救われるであろう」(Rom.5:8-10)。

 人間社会が自律したものとして自らを司法や行政、経済等制度化、律法化のもとに位置付け、さらに科学技術を促進させることは人間の知性の証であることであろう。医療や技術の進展にこそ例えば疫病の克服の光明が見られ、また教育を受ける機会が得られる。しかし、これらが神に頼らずにすむシステムの構築として肉を厚くするとき、二心、三つ心の偽りに陥る危険にさらされている。これらの営みは、最も良きものによる秩序づけなしには、自らの正当化の動機付けのなかで自ら理解する公平さ、技術革新、効率性の名のもとにある隠れた欲望、有利性を拡大するシステムの作成に向かう傾向性にあり、その結果心魂を罪に引き渡し、神への眼差しをそして隣人への愛を忘れてしまう。

 パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と肉の弱さへの譲歩のもとに「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもある中立的な存在者として人間を位置づけることがある。ひとは相対的自律性を認められているが、いつのまにか、神からの働きかけ、愛を忘れてしまい、神に帰属する端的な自律性を主張するに至る。それが罪である。蛇は誘った、「汝らは神の如くなるであろう」(Gen.2:5)。ひとはナザレのイエスを知れば知るほど、自らが天の父への信頼に生き抜いた彼のようでありえないことを知り、それを「罪」と理解し、そこからの解放を求める。換言すれば、受肉したイエスに繋がらない限り、神は単なる超越者となり抽象者となり、ひとは糸の切れた凧のようになるであろう。

 さらに、黙々とわれらに資源を与え続けるmother earthの自然の恵みについても人類は彼女と、今、正しい関係にあるかが問われている。母なる地球が言葉を話さないことをいいことに、ひとは紙に或いは電子的に数字を書き労働の対価として自らのあいだでは正義であると看做し、彼女から資源を受け取ることだけに固執している。人間の間で正義であればそれが許され、何万年も自らのサイズ相当の消費以上にでないカエルにはそれが許されないのは双方の知性の差異によるのか。何からもの許可など要せず、ただ欲望が欲しい侭に自然環境を汲み尽くしているのか。金銭はひとの生がそこにおいて遂行されるこの惑星にたいするあらゆる行動を正当化するかの問いが自然災害という形で投げ返されている。気候変動や風土病の拡大にその兆候が見られるのではないだろうか。環境税等により挽回を試みているが、神に対してはもとより、自然に対しても畏敬の念のもとに仰ぎ見ることは稀である。「もろもろの天は神の栄光を顕し、大空はその御手のわざを示す」(Ps.19:1)。創造主に栄光を帰すこの信によって創造の秩序のもとにある人間と他の生物と地球の正しい関係が築かれることであろう。

 この21世紀のパンデミックCovid-19は、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、ひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやるそのような運命共同体にわれらがあること、人類全体で協力して対処すべき問題が人類史的な状況のなかで生起していることを教えている。パウロは「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」と言う(Rom.8:22-23)。このグローバルな出来事は運命共同体としての人類が全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を含意している。疫病、飢饉、貧困は世界を不安定なものとし自国第一主義の風潮のなかで国際関係の緊張や戦争にいたることであろう。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」(Mat.24:12)その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Luk.21:10-11)。「そのとき大きな苦難が起きるであろう、それは世界の始まりから今まで起きなかったそしてもう起きないであろうそのようなものだ」(Mat.24:21)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。

 銀河のさらには宇宙全体のいつの日かの崩壊は人類の知性により或る程度予想されているものであるが、イエスのこれらの預言により単に人類の帰趨だけではなく、自然事象さえも、神による宇宙の創造から救済そして新天新地の創造にいたる神の歴史の中に位置付けるかが問われている。そのスケールを人類は考慮にいれることができるのか。肉の欲につけこみ誘い、ひととひととの関係を裂くものは擬人化される「罪」と呼ばれるが、その罪に同意する仕方で「自らの腹に仕え」、自らの腹を神とし「地上のものごとを思慮」する者には「罪が巣食う」(Rom. 7:7-25,16:18,Phil.3:19)。そしてものがよく見えないものとされ、ヴィジョンを失ってしまい目先のことに捉われてしまう。それ故にこそ、心魂の刷新により常に目覚めていることが求められる(cf.Mat.7:5,23:13-26,24:25-44,)。

 イエスは宇宙を支配する数式による物理法則をもご存知であったでもあろうが、各人の心魂の内奥に位置する神との共知の宿る良心からわれと汝の人格的な関係の正しさと豊かさを知らしめ、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」により一切の秩序づけを人格的に遂行された。一旦偽りとして破られた道徳的次元の再生において、愛に収斂し純化されるモーセ律法は神の国の信と希望のもとに、秩序づけられる。制度化や科学技術が許容されるのは神の国に秩序づけられる限りにおいてのことである。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神とひとの媒介者となったナザレのイエスそのひとのもとに常に立ち返ることにより、神の国はアクセス可能なものとなり秩序を見出すことができる。

 パウロも「一つのこと」即ち福音の出来事との関連においてすべてのものごとが秩序づけられ、それにより同じ愛のもと「同じことを思慮する」に至るとして喜びを語る。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、汝らわが喜びを満たせ。それは汝らが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、汝らが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。喜びを満たせとは共に喜ぶことによって、喜びを溢れさせようという促しである。肯定的なもの創造的なものへの根源的な信なしにはひとは個人において、社会や世界において秩序を見出すことはできないであろう。デヴィッド・ヒュームが『人間知性の探求』において「賢者は彼の信念を証拠に対して比例させる」(p.87)と言うとき、矛盾律に基づくロゴスの力能への顧慮による経験的な働き(エルゴン)との関係づけを欠き、感覚を基本的な認識の源泉にする経験主義はその限界故に経験的エヴィデンスの蓄積以上の信を語りえず、不可視なものへの信に基づく突破力をもたないであろう。世界はもっと確かであり豊かなのである。

 宇宙の創造者にして時空の外で一切を統帥する神、その御子はご自身の栄光を捨てひととなり肉の弱さをご自身担われた。ご自身は神の子であることの信のもとに天父の御意に沿うべく、歯を食いしばって「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていよ」と弟子に訴えながら、十字架の死に至るまで従順の信を貫いた(Mat.26:38)。この生身の苦悩が超越性と此岸性のあいだの観念の極性化、断絶を論駁する。信仰の観念化、思弁を乗り越えさせる。彼は自らの肉において神の国を担った。「神の国は汝らのただなかにあり」、「二人または三人、わが名において集まっているところに、わたしは彼らのまんなかにいる」(Luk.17:21,Mat.18:20)。イエスを介して人格的な神に出会う。イエスと共に担ぎ歩く良き軽い軛とは彼が人類のために切り開いた信である。彼はひとの子として信に基づき義とされる神の意志を完遂し、続く者に信の道を伝えた。この比量不能な恩恵即ち御子における信に基づく神の義の啓示において、ひとはこの世の煩いから解放され、良心の宥め、平安、柔和を得る。端的な比較を超える善が人類に与えられたからである。

 相対的、比量的なモーセ律法を乗り越える、より根源的な信に基づく神の正義・義はそこでのみ憐れみと両立した御子の従順の生を介して知らされた。滅びに至る門は広く、「狭い門」から入るべく、大地を固める「地の塩」として人間社会を黙々と堅固に下支えし、また自らの全身を輝かせ、「世の光」として「善き働き(ta kala erga)」のもとに先導する。「山の上に立つ街は隠れることはできない」(5:13-16,7:13)。そのなかで「右手で為す善行を左手に知らせない」歩みは一切を正確に知り、正義かつ憐れみ深い神の前での正しい判断を仰ぐことになる(6:3)。ひとは十字架の義を着て神の前に立つことができるだけである。受肉と信の従順の生により実現した恩恵の無償性に基づく福音のみが「わたしが律法を廃棄するべく来たと汝ら看做すな・・成就するべく来た」(5:17)を実現させる。福音において人類の罪と苦難の歴史のなかで救済に与る唯一の道が示された。

 

3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

 使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。

 このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。

 「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 [27]それでは、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。

 この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。(この節は次回に続く)。

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