パウロの思考様式について―対話―
11月6日(水)大頭研究会
『信の哲学』の骨子
千葉惠
対話を視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=cDJU_Iwm0NM
主張 「神の前と人の前の分節とそのキリストによる媒介:ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離」
モットー 1 パウロのテクストが立ち上がる現場に立ち会う (五つのボックスと一つの〇のロゴスとエルゴンにおける関わり 下巻 p.418「ローマ書におけるエルゴンとロゴスの相関図」添付)。
モットー2 福音はユダヤ人にもギリシア人(異邦人)にも等しく分かち合われ共約的に理解されうる。「一つの同じ霊がこれらすべてを働く、個々人に望むように分割しつつ。というのもまさに身体(からだ)は一つでありそして多くの部分を持つが、身体の部分すべてが多でありつつ一つであるように、キリストもまたこの仕方であるからである。というのもわれら皆は一つの霊において一つの身体へと潜浸させられたのであり、それがたとえユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ、自由人であれ、そしてあらゆる者たちは一つの霊を飲んだからである」(1Cor.12:12-13)。
基礎テクスト:パウロの方法
パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。
〇「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。
ロゴスとエルゴンはアリストテレスにより明確な理論化が提示されている(1オクターブの調和音は1対2の弦の比(ロゴス)が空気を振動させ今・ここで働く、とは言え素材である空気が比を保持できなくなると、その複合的な働きは止む、ただし理はそのままロゴス上理(1対2)である。遺伝子のロゴスとそのコピーのエルゴン等)。これらは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。
J.エレミアスは言う。「聖書的空間においては、神の霊が自らを顕す時には常にそれは二通りの仕方をとる。即ち「働きと言葉において(en ergō kai logō)」である(Luk.24:19,IThesa.1:5 等多数)。この両者は互いに分かちがたく(unloslich)共存している。働きの伴わない言葉はなく、告知する言葉の欠けた働きもない。イエスの場合も然りであり、その最終的な啓示は二通りの仕方で、即ち力ある働き(本書10節)と力を与える言葉(本書11-12節)において自らを明らかにする(Mat.11:5ff)」『イエスの宣教』(S.89,161)。
(エレミアスが「常に」これら二つの様式の相補性のもとに霊的な啓示が歴史に刻まれているとすることはまことに適切であるが、史的イエスの研究をより包括的なロゴスとエルゴンの相補性のもとに遂行する。イエスの霊的な言葉と働きは一つの今・ここのエルゴンであり、パウロ神学はそのロゴスであるという立場から、「パウロのロゴスが真であるなら、イエスの言行はこのようなものであったに違いない」というエルゴンに対するロゴス上の要請を提示し、それに最も近似な福音書の報告をイエスの今・ここの働きの近似なものであったに違いないと論じる)。
1循環論証をめぐって
プロテスタントの中心的使信は神の前とひとの前を分けない思考様式から導かれる。
「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(カルヴァン)。「信じることは信じせしめられることだ」(ルター)。これはそのつど、今・ここで聖霊の執り成しの働き(エルゴン)を求めることに他ならない。「蛆虫のつまった頭陀袋」である「私が右手で為す善行を左手に知らせないとするなら、それは神がキリストにあって為したまう奇蹟である」(ルター)。
この主張の真理性は、信じるということは今・ここで神により愛されているということを信じることに見いだされる。心から信じるということは、それは今・ここのことであり、正しい理解であると思われる。「信じます。信なきわれを憐みたまえ」。そこから容易に「信仰のみ sola fide」=「恩恵のみ sola gratia」が導かれる。
この神の前と人の前を分けない議論は双方から議論を始めることができ、循環論証に陥る可能性を抱える。究極の循環の事例、聖書の真の著者は聖霊であり、聖書を真に理解するのは聖霊の内在による促しのもとに読むときである。聖書の真の著者と真の読者は聖霊である (聖霊による一人芝居a self-contained play by HS)。ルター主義的な恩恵と信仰の循環は次のようになる。恩恵を信じる→信じることは恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である ad infinitum)。
循環論証の不健全性は、証明されるものが証明するものとなり実質的には何も証明しないことから明らかになる。蛇が自分の尻尾をおいしいと食べ続け、とぐろを巻いている蛇の自己食尽に比せられる。解釈学的循環を主張する人々は例えば子は親により「形成される」。その子が親を理解するとき、それは既に形成された理解を投映していると言われることがある。子はそんなに愚かではなく言わば親に洗脳されてしまうとは限らないであろう。パウロによればひと(肉は自然的な身体を抱えた生の責任ある行為主体)は相対的に知的に自律した者である。
聖書学者や歴史家が遂行している先行理解の遮断:パウロの宗教的出自、当時の政治や歴史、社会構成の状況などパウロが属していた生活の座の考察からテクストを読むその態度を捨てる。「わたしは君たちが読み、しかも理解することがらの他何も書いていない。君たちが完全に理解してくれるようわたしは望んでいる」(2Cor.1:13)。
パウロによる解決:「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。
パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとに聖霊の執り成しの言葉を語る(Rom.5-9:6)。他方、神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。その働きそのものを語りにより表明し(テルテオが)書き留めている、そのテクストそのものを創作している現場に立ち会う。
Papias(circa 60-130)以前は「マタイ福音書」等は匿名でただ「福音書」と記されていた。その主な理由は真の著者は聖霊であって、筆記者自身ではないと筆記者が信じていたことが挙げられる(蛭沼寿夫『新約正典のプロセス』p.145)。この逐語霊感説はパウロ的には神の意志や認識がイエス・キリストを介して知らされているほどには明確には知らされていないというたぐいの教説である。「聖書」が神の言葉と語られるとき、神ご自身がこの人間の記した文書・神と関わるヒューマンドキュメントにおいて表されることを認可・許容したという意味。他方、「神の言葉(logon theou hos = キリスト)は君たち信じる者たちのうちで働いていたまう(energeitai)」(1Thesa.2:13, cf.1Cor.1:30 「われらにおける神からの知恵」、)とみ言葉の受肉そして聖霊の内在による働きを表現することがある。
なお循環の問題は神の前と人の前の癒着(常にエルゴン上の不分離の主張)によるだけではなく、例えばブルトマンは歴史的手法そのものが循環であると主張する。「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、循環論証の一種であることを認識することは、本質的に重要である。というのは、共同体の生活契機は文学的伝承の様式から遡及的に推定されねばならないし、逆に様式は共同体の生活から理解可能となるだろうからである。この二つの見方から必然的に生じる往還関係と二面性を規制し、どこから着手すべきかを規定する方法は存しない」(ブルトマン『共観福音書伝承史I』p.12)。ここで「遡及的に」において伝承された文書などの人間的な認識や実践から共同体という客観的なものごとの特徴の認識へのアクセスが遂行されるということを意味している。他方、文書の諸様式例えば奇蹟物語、譬え話、知恵の教え、預言、受難予告等はこれらがそこにおいて遂行されたものごととしての共同体の実際の働きに基づく。つまり、ものごとの在り様の認識は文書(書かれたもの)に依拠し、文書の作成はものごとの在り様に依拠している。書かれたものとものごとないし歴史は相互依存の関係にある、換言すれば、ものごとと歴史叙述は相互に癒着しているとブルトマンは肯定的に(「本質的に重要」)主張している。歴史学の手法は共同体の実際の認識への接近手段である→共同体の実際の生活様式(生活の座)が文書(歴史叙述)の様式がいかなるものであるかを決める→その実際の生活様式も文書によって接近される→その文書も実際の生活によって規定される。(解決案 最善の説明はものごとの実際の在り様を捉えることができるという実在論的歴史叙述の立場を取ること。ブルトマンは存在様式と認識様式を癒着させている)。
一般的に、歴史学の基本的な手法、目撃、想起、古文書、遺跡など証拠を挙げることによる過ぎ去ったもののそれ自身として特定する企てである(パウロも復活の目撃証言者として500人を挙げている(1Cor.15:6))。歴史学の手法は経験主義的、実証的な観察可能性の枠組みのなかで遂行される。これはイエスがキリストであることを論証することができるかが問われ、これは歴史学によっては確定されないとしばしば主張される。他の学問的アプローチ例えば文学、聖書学、神学、哲学により補われねば、ナザレのイエスの呼称の多様性に見られるように、イエスが何者であったかを掴むことはできない(「預言者」「ラビ」、「神の子」、「人の子」、「ユダヤ人の王」、「キリスト・メシア」)。
カトリックはプロテスタントが陥りがちな言葉とものごと(今・ここの働き)の癒着に対し人間の魂の相対的な自律性を認め、アリストテレス哲学に即し、有徳な人間は聖人にまで至る。もちろんそこに恩寵の注ぎはあるであろうが、理論(ロゴス)上神の前と人の前を分離することを許容している。新教は旧教におけるあまりの人の前の自律性の譲歩に胡坐をかいてしまったことに対するプロテストである。
ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離をパウロそして福音書に見出すことができる限り、カトリックとプロテスタントは和解できる。最も望ましいのは先在のロゴスが肉に今・ここで内在している状況である。「言葉は肉となった」。言葉を言葉として摘出でき、言葉の肉におけるその都度の働きは今・ここの個別的な出来事として基本的に観察される。イエスは神の前に義であった。肉の弱さを抱えつつも「神の子の信」「天の父の子」の信により、神の前につまり神の認識のもとでは肉の弱さに負け罪に陥ることなく神の意志を死にいたるまで信の従順により完遂した。
2ロゴス上の分節とエルゴン上の不分離のテクスト上の根拠
神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」((A)「神の前の義人」と(B)「神の前の罪人」)として理論(ロゴス)上析出することができる。神の啓示行為は三か所において動詞形で表現されている(Rom.1:17(3:21-26)(信に基づく義認),1:18(神の怒り(業の律法に基づく)、8:18(終わりの日の審判))。(A)「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25)、(B)「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:19-20)。
この神の働きの報告とともに、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に、身体の限界が自己の限界であると考えがちであり、神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。相対的自律性のもとにある(C)「肉」は(A)「義の奴隷」でも(B)「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在である。
そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。
ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象である。例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という聡明な小学生の適切な応答に相互の補いあいの必要が正しく見いだされる。理論上そのとおりでも身体をもつ者には実践上ままならないことが日常的である。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。
3 発見者の喜び:ローマ書3:21-31
「21世紀の宗教改革77条 序論」から抜粋
3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心
3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点
使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれた(エルゴン)ものである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。
信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。神はご自身の義の啓示の媒介として歴史のなかで生起したイエス・キリストに帰属した信を用いられたが、パウロはその信の出来事を自らの出来事であると受け止めるよう命じる。
このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに「信」をめぐる「ローマ書」の言語哲学的研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。
カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。
実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのである。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行された。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のものになると思われる。
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。
この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも、心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されている。
「イエス・キリストの信を媒介にして」については諸条項において解明されるが、ここでは本改革の鍵となる箇所であるだけに次の事実を指摘しておく。職名を伴う固有名「イエス・キリスト」は「イエス」や「キリスト」と異なり行為主体として用いられることはなく、媒介の前置詞「において」や「介して」を伴う(第12、14、15条)。この啓示行為の主体は神であり、御子ではなく、それ故にこの「の」は主格的属格ではない。また啓示は神の行為として神の前のことがらであり、神が理解する限りの「信じるすべての者」が啓示の差し向け相手となり、肉の弱さのうちにあるひとがイエス・キリストに対して持つ強い弱い信仰が啓示の媒介となることはないがゆえに、この「の」は目的的属格でもない。
この「の」は帰属の属格(genitive of belonging)である。イエス・キリストに帰属したこの「信」は歴史のなかに生起した出来事の範疇において記されている。ナザレの「イエスの信」(3:26)即ちイエスが自ら神の子であるという信仰(=信)のもとに生きた従順の生涯に基づき、神はそれを嘉みし油注ぎ「キリスト」である「イエス」に帰属した信としてご自身の義の啓示に用いられた。啓示の行為主体は父なる神であるため「イエス・キリストの信」という語句の使用において行為者イエスへの言及なしに、神の義の啓示の媒介として用いられた歴史のなかで生起した信をこの語「信」は指示している。この「信」は「信が到来する以前には」(Gal.3:23)と語られることもあり、行為主体への言及を括弧に入れ歴史のなかに到来した信を神はご自身の信義と分離なき十全な信として嘉みし用いられた。ナザレのイエスは行為主体として自らが神の子であるという信を十字架に至るまで貫いた。啓示の専決的な行為主体である神はその生涯にわたる御子の従順の信の生涯を嘉みされたが、パウロはその事態を啓示行為においては二人の行為主体を想定できないことからイエス・キリストに帰属した信として名詞により総括的に表現している。
その啓示の差し向け相手である「信じる者すべて」は神にその信仰が嘉みされている者すべてのことであり神ご自身が理解する限りの神の前の信徒が指示されている。ここでは肉の弱さにおいてある生身のひとの心的状態として強い、弱いのある信仰は問題とされず、嘉みされた信であることが問題とされており、その信の持ち主は神が義であることを知っている。神の信にはひとは信により応答することが人格的な関係として相応しく、知らしめは信じなければ理解されないという認知的、言語的制約からしても「信じる者すべて」という全称量化は不可欠となる。
続いて、神の義がイエス・キリストに帰属した信を媒介にして信じると神が看做す者すべてに啓示されたことの理由が展開される。「というのも分離はないからである」。ここで神の信義の啓示が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に「区別(差異)がない」と看做したことを媒介にして遂行されたとしたなら、彼らの区別なき罪の故にであるというならまだしも、いかにも不可思議である。というのもひとがイエス・キリストに対して持つ区別なき信仰という一つの心的状態が啓示の媒介となることは理解困難だからである(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より理解可能なものとなるが5章まで愛の議論は封印されており、ここでは信義の関係に議論が集中しており、信ひとすじにより正義の確立が知らされている。「なぜ[分離なき]かと言えば」と23節から26節まではこの信義の分離のなさが、長い一文において説明されている。
この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」としての愛の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく(第I部)。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争について、それに伴い万人救済説についても終止符を打つことができる(第II部)。さらに、福音に基づく一切の秩序づけの試みは人間の心魂の構成要素と働きについて理解を提示する(第III部)。また、結婚や同性愛等の具体的な問題にもこの運動の方向を示唆する(第9、33条)。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる(第IV部)。
この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題とその論説を77か条挙示する。
これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない(例えば、三位一体や神の言葉にしてひとの言葉である「聖書」の理解についてのこの運動の基本的立場の提示は第44条)。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。