春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その一
春の連続聖書講義として「方舟」64号に掲載した「山上の説教における福音と倫理」を何回かにわけて、それも解説を加えながら公開いたします。そのつど録音された文章をその都度掲載します。
山上の説教における福音と倫理 (その一
千葉 惠 2024年2月16日
「イエスは、毎日、宮で教えていた。祭司長や律法学者、民衆の指導者たちは彼を殺そうと謀ったが、どうすべきか術を見出さなかった。というのも、すべての民衆が彼に群がって聞いていたからである」(Luk.19:47-48)。
「パウロはアゴラで、毎日、居合わせた人々と議論した。また或るエピキュロス派やストア派の哲学者たちが彼と議論した」(Act.17:17-18)。
「人間にとっての最大の善は、毎日、徳についてまた他のものごとについて議論を交わすことである、それらについて君たちは私が自分と他人を吟味しているのを、また吟味なき生は生きるに値しないと問答するのを聞いてきた」(プラトン『ソクラテスの弁明』38a)。
序
本稿においてナザレのイエスの山上の説教(「マタイ福音書」五―七章)を秩序ある仕方で理解したい。イエスはそこで普遍的な倫理学の析出を可能とする一般的な人間事象の認識を述べている。「君が量る量りで量られる」や「木は実によって知られる」などの心魂の態勢と行為のあいだの法則的な命題は善悪因果応報の跳ね返りの法則とでも言うべきものを導出させ、他の倫理学説との対話を可能にさせる。それにより、信じられるべきものである或いは信によってしか与(あずか)ることのできない「福音」は普遍的に了解可能な自然事象および人間事象のなかで心魂の根源として他の一切の営みを秩序づけるものであることを明らかにしたい。最初にイエスの語りが「福音」のもと四つの種類に秩序ある仕方で分類される複層的なものであることを確認する。続いて、倫理学の特徴を三つあげ、イエスの語りにも対応するものを見出すことができることを指摘し、倫理学との対話を試みそして人間事象の学問的な視野のもとで彼の山上の説教を分析したい。
旧約から新約への橋渡しとなる象徴的な説教群が山上の説教として編集されている。山上の説教はユダヤ教の律法を純化したものとして最も厳しい律法が展開されていると思われるが、それが実はまず福音の宣教であり、純化された律法が福音にいかに秩序づけられることにより遵守する実践的効力を得るにいたるかを伝えている。イエスはこの橋渡しを、奇蹟にも聖霊の付与にも訴えることなく、あまりの直截さと端的性の故にひとには躓づきを与えるが、誰もが少なくとも文字的意味を理解できる言葉のみにより伝えている。この説教をそのまま自ら実践し、旧約の古い革袋を自ずと内側から破り、福音の新しい革袋に喜びと平安そして生命を注いでおり、それによって律法が遵守可能であることを身をもって証している。
無償の「贈りもの」である罪の赦しの「福音」は天の父である神とその子イエスの協同作業として自己完結的に実現されている(Rom.3:24)。新約聖書において報告されているイエスの言葉の核である「福音」はその生涯の途上においても受難と復活においても福音の自己完結性のゆえに自己言及的なものであり、八つの祝福そしてモーセ律法の純化、先鋭化双方ともにイエスの言行において十全に理解されるものとなる。すなわち、彼は(旧約)聖書へのひたすらなる尊敬において自らの生を作り上げるが、預言と律法は彼を指示しまた彼において成就されるものであり、「聖書全体」がそれ故に人類の歴史全体がイエスとの関連において理解されるものとなっている(Luk.24:27)。「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」その内実を倫理学との対話を通じて普遍的な仕方で確認する(Ps.118:22,Luk.20:17)。
第一章 イエスの語りの複層性
一・一 「福音」の宣教と自己言及
ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。
イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信に出会い、その根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。
イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。
福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。
イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のためにわたしはいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり提供されるとして、受容するか拒否するかのいずれかによってしか関わることができない。その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。
福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の伝統のなかで言い伝えられる教説を取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。
イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つと理解している。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、わたしは彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。
ここで「奥義」とはイエスがメシヤであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。
イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシヤ]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。
天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であったということである。「わたしについてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。
なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る(神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である)。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは復活によってのみ反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。
甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか否かの態度決定が常に迫られている。そこでは「信じる」の対義語は「信じない」ではなく「裏切る」となるそのようなものである。宇宙を統べ治める父と子の協同作業の外に出ることのできる者は誰もいないからである。これが彼の言葉の根源的な層である。
パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないとわたしは確信するからである」(Rom.8:31-38)。
偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。これを信じるのか裏切るのか。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する倫理学はこの層を持つことはできない。
一・二 天と地の連続と不連続
イエスは天と地の媒介者として神の憐みと祝福を山上の聴衆に伝える。これが彼の(2)天と地の連続性の言葉である。彼は人間としてまた同胞ユダヤ民族として共有しているもののなかに、天の父のみ旨、意志を見出し、それに新たな光をあてる。彼はガリラヤの野辺の百合の花、空の鳥を愛で、生命を育む光や雨そして親子の情愛に見られる自然を介して働いている天の父の憐みと恩恵を語る。「空の鳥をよく見よ。種も蒔かず、刈入れもせず、倉に納めもしない。だが、君たちの天の父は鳥を養ってくださる。君たちは鳥たちよりも一層優れているのではないか」(6:25-26)。
この自然を介した天の父の憐みの宣教のなかでイスラエルの伝統において預言者たちとモーセにより与えられた律法に聴衆の心を向けさせる。彼は、政治的、宗教的圧制、弾圧そして貧困、病などの苦難のなか精神の輝きを失い諦めの思いに支配されていた同胞に、パレスチナの自然と伝統を正面から引き受け聴衆を新たな発見に導く。
天と地の媒介は自然事象や人間事象であり、それを明晰に伝達するのはイエスの言葉である。天と地は天来の光の比喩によりその連続体であることが伝達される。他方、イエスは(3)その不連続にも聴衆の思考を喚起する。一方で「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる」(5:45)その自然の恵みを語りつつも、地は「嵐」や地震などの自然災害に見舞われる(7:27)。一方「君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には善いものを与えることを知っている」のであり、これにより憐み深い父を連想させつつも、他方、地の父は「悪い者であり」虐待し姦淫する者たちである(7:9-11,5:27)。イエスは律法の純化により地上の不十全性を知らせつつ、天に眼差しを向けさせる。「君たちにあっては地上に諸々の宝を積むことがないように、そこには染みや虫が喰いそしてそこには泥棒たちが忍び込みそして盗むところである。しかし、君たちは天に宝を積みなさい、そこには染みも虫も喰うことがなくまた泥棒たちが忍び込むこともまた盗み出すこともない。というのも、君の宝があるところ、そこに君の心もあることになるであろうからである」(6:19-20)。この不十全な悪しき世界にあって、天の父が自然と人々を育み、導いてこられた祝福に思いをよせるように聴衆を導く。連続性は憐みという天来の光により確保され、不連続性は人間の「悪さ」によって生じる。この地上の否定的なものごとに不平を言い煩うのではなく、天の父の憐みに眼差しを向けさせる。
生命の力に息吹く神のみ旨が預言者と律法の純化、先鋭化を通じて、道徳的次元を乗り越え、人間の本来的な在り方としてまた新たな生命の在り処として言葉によって伝えられる。媒介者であるイエス自身が理解されるとき、連続と不連続の緊張は解消する、ただし、あくまでも肉の弱さにおいてある者たちにおける解消であり、常にその媒介者への立ち返りが不可欠となるそのような解消である。山上の説教はイエス自身の生涯を表しており、彼自身において満たされることにより律法から福音への真っ直ぐな道を指し示している。実際八福はすべてイエスの生涯において確認されること、そして純化されたモーセ律法はイエスにおいて実現されたことを確認する。このことは基本的に連続と不連続そして一般的な自然事象、人間事象((2)(3)(4))の言葉において語られる山上の説教も間接的に或いは預言的に(1)自己言及的でありイエス自身を指示していることを含意している。