春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その七
(本日の録音ではとりわけ山上の説教をめぐる一般的な解説を語りました)。2024年2月27日
第三章 山上の説教は福音である
三・一 山上の説教の歴史的位置
ナザレのイエスによる山上の説教は人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。これは「いかに生きるべきか」という倫理学の問への限界的な生の描写として一つの応答であると言えよう。福音をそれ自身として析出しつつ倫理学的次元での対話が可能になるとき、信じる者にも信じない者にも一つの共通で明確な理解を提示できるであろう。以下、山上の説教は福音の宣教であり、預言者と律法の純化を介して間接的な仕方で福音を述べ伝えている、即ち(1)自己言及的な発話であることを確認しつつ、その周辺の一般的な基礎づけ、土台として倫理的次元を持つこと、またそれがいかに信仰により内側から破られまた秩序づけられるかを論じたい。三人称で語られる八福の終わりに一人称「わがため」(Mat.5:12)への言及またモーセ律法の先鋭化において一人称「わたしは言う」(Mat.5:21)の言及において主体的な預言と律法の受け止めがなされている(山上の説教からの引用は章節のみ記す)。そこにこの説教の背面がせり出しており、預言と律法はこの「わたし」により刷新され、秩序づけられている (神についてまた聖書の翻訳においてイエスについて敬語表現を用いる)。
ナザレのイエスの山上の説教(マタイ福音書5―7章:「平野の説教」(ルカ6:17-49,11-12,14章参照))はこの二千年のあいだ、人類にとって最も突き詰めた人間の偽りのない生としてひとの可能性を提示する希望の源泉ともなり、この厳格な規範と自己の落差に苦悩を引き起こす原因ともなってきた。この説教が持つ実際生活との緊張故にこそ、人々の記憶に残り思想や政治そして平和運動、司法や経済から隅々の市井の生活の現場においてまで諸々の文脈において論じられてきた。この説教は人間とはいかなるものであるかの探求を促すテクストとして聖書学や神学はもとより、倫理学、文学等において多様な論争を提供してきた。今日まで人々を印象付けて来たこの伝承の背景にはイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)はその一言一句および一挙手一投足に侵しがたい力と権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力があるからであると思われる。イエスの「権威」(7:29)は聴衆の自己満足と自惚れの偽善を暴いていくその一連の言葉が適切でありその対極に位置付ける自らの言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。
彼の言葉と働きは常に彼の「天の父の子」の信の根源性、「神の子の信」の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている(5:45, Gal.2:20)。歴史上、彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくると信じ、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがり、その都度心の刷新がなされてきたことが連綿と記録されている。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していたと論じられる。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
このあまりの尋常ならざる教えの故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望に陥り、或いは無視のうちにそして何らかの逃避に向かった。この教えに対し、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えであると解した[i]。
或いは、ひとはこの一群の言葉を人類の一定数が記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。イエスの清さが輝きわたり、一切を光で満たし、心の内奥が光に照らされ、何も隠すことのできない明らかさにひとは立たされる。隠れなきこの究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったと報告されている。この澄明さが人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、天の父のみ旨の教えと行使を介して一つの倫理学の教説とならしめている。
イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての皮膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。また、灯を灯して枡の下に置く者はいない、燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らす。このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの善い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。そう語りうるのは「天の国は近づいたからである」(Mat.4:17)。
彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧しい者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また定型句として繰り返す「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、わたしは言う」という切り返しにおいて、イエスはモーセを介して授けられた神の意志であるひとのあるべき振る舞いを記した律法を自ら先鋭化する(5:33,5:22,5:28,5:32,5:39,5:44)。これらの律法理解はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を信の従順により十字架の低さに至るまで生きたことに気づかされる。彼は最も低い所に、祝福の安全網を自らの言動を介して敷いた。ゴルゴタの極限状況において真の人間を伝える表情とはいかなるものであろうか。苦痛のなかに目の輝きがあった。その輝きは心の清い者の祝福であったであろう。
最も低い者に救いを伝える教えは誰にもわけへだてなく適用される教えとなる。普遍的な人生の指針が一つの倫理学説の資格を持つとしたなら、また何らかのロゴスとエルゴンの相補的な検証、真理性の確認が遂行されるなら、普遍的次元において他の諸教説と分かち合いつつ独自の倫理的教説を展開していることになろう。
[i] H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)