柔和な者

日曜聖書講義4月26日 山上の説教(4) マタイ5:5 要旨

「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。

                                      千葉惠

 この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、競争心、自己顕示などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所。なおこのWeb版はこの12年間で約34万回のアクセスがあり、1日約100件今日まで読まれ続けている)。

 身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和な者は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし寛容であり、赦すことができる態勢である。

 聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。イエスご自身が柔和なひとであった。彼は言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえにかつぎ[繋ぎとめ]なさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの「アッバ父よ」と呼びかけすがる素直な幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のようにすがること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。

 
CC 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3894456

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「地を継ぐ」はまずアブラハムに対する神の約束に基づき地を継ぐことに見られる。「見よ、わたし[主]はこの地[カナン]を汝ら[モーセの後継者ヨシュアら]に与える。行ってこの地をとれ、わたしは汝らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその後の子孫にこれを与えようと誓ったのである」(Deut.申命記1:8)。アブラハムへの約束から始まり神の意志は異邦人の救いに向かう。

「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:15)である福音はイエスご自身が「神の子の信」のもとにご自身の使命を遂行されたことのなかに啓示されている。福音はユダヤ人にも異邦人にもただ神の子の信に生きたイエスをキリスト(神に油注がれた救い主)であるという信に生きる者に開かれている。神の子が信実であったとき、ひとはその信に対し信によって応答する。「しかしもはやわれは生きてはいない、われにおいてキリストが生きている。しかし、今われが肉において生きているところのものを、われは、われを愛し、わがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。われは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:20-21)。相続者はもはや「業の律法」即ちモーセ律法のもとに生きたユダヤ人に限られず、誰であれ「イエスの信に基づく者」(Rom.3:25)と神が看做す者のことである。「それ故、かくして、兄弟たち、われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず、というのも、もし汝らが肉に即して生きるなら、汝らは死ぬばかりだからである。しかし、もし汝らが霊により身体の諸行為を死なすなら、汝らは生きるであろう。というのも、神の霊に導かれる者である限り、その者たちは神の子だからである。なぜなら、汝らは再び恐れに至る奴隷の霊を受けたのではなく、われらがそのなかで「アッバ父よ」と呼ぶ、子としての定めの霊を受けたからである。御霊自らわれらが神の子たちであることをわれらの霊と共に確証したまう。もし、われらが子であるなら、われらは相続人でもある。かたや神の相続人であり、他方キリストと共同の相続人である、いやしくもわれらが共に栄光に与るべく、共に苦難に与っているのなら」(Rom.8:12-17)。

 柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている[さいわいである]。主がその罪を数えざる者は祝福されている[さいわいである]。その心に偽りなき者は祝福されている[さいわいなり]」(Ps.詩篇32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている[さいわいである]」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ光のもとに歩調をあわせて歩む者である。

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