特集「コロナ禍で学んだこと」『季刊無教会』46号寄稿
御言葉の受肉―不可視なものの可視化
千葉 惠
この二一世紀のパンデミックCovid-19は人類全体で協力して対処すべき人類史的な状況を出来させている。人々は感染者の棒グラフの上下に一喜一憂している。全人類のワクチンの接種以外に(あの豪華な?)日常生活への回復は望めない。今回の相手は肉眼で不可視なため、生存を脅かすものに湧く恐怖は全方位に及ぶものとなる。学生寮の生活において日常交わる人々が恐怖の対象となりえ、相互に疑心暗鬼にさらされる。孫氏の兵法に「敵を知りおのれを知れば百戦危うからず」とあり、正しく恐れるにはウィルスの特徴、振る舞いを熟知するに若くはない。赤外線は熱放射を介してまた物質を突き抜けるニュートリノは地下水槽を介して可視化されるように、将来対話者が陽性か否か可視化されるようになるであろう。人類はこうして課題を克服してきた。とは言え、ウィルスは生物的存在者以上ではなく、人類の壊滅は身体のそれでしかない。「身体を破壊しても魂[生命の源]を破壊できない者たちから恐れを抱かされるな。むしろ、魂と身体を地獄で破壊できる方を恐れよ」(Mat.10:26)。
今回のパンデミックは、聖書的にはこの惑星に住む人類共通の問題というものが実際にあり、われらはひとりの不注意や身勝手が隣人を苦しみや死に追いやる運命共同体であることを伝える。われらは罪を犯し犯されつつ一つの宇宙船に乗り合わせている。「被造物全体が今に至るまで共に呻きそして共に生みの苦しみのなかにある・・われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ呻いている」(Rom.8:22)。今回この運命共同体は全体として救いを求めているという創造と救済の聖書的な人間認識を共有した。時代は(ようやく?)疫病、飢饉、貧困等聖書の伝える苦難に追い付いてきている。イエスは「不法があまねくはびこるので、多くの者の愛が冷える」その状況とともに預言する、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、様々な場所で大きな地震と飢饉と疫病が起こるであろう。恐るべきことと天からの大きな予兆が起こるであろう」(Mat.24:12,Luk.21:10)。この終末預言の警告のなかでイエスは人類を贖い、救い出すべく十字架に至るまで信の従順を貫いた。
人類は不可視なものの秩序ある可視化をロゴス(理、言葉)とエルゴン(その働き)の相補性において捉えてきた(例、一オクターブの調和音(合成体)=1:2の弦の比(ロゴス・形相)+空気(質料)[ロゴス上比と空気の分離、今・ここで奏でるエルゴン上の不分離])。生命の設計図としての遺伝子も四つの螺旋的塩基配列を秩序づけ、その情報それ自身は物質ではなくタンパク質合成の理である。先哲によれば、ロゴスとしての形相は生成消滅過程を経ることなく、質料を一なる合成体として働かしめる。今・ここの秩序ある働きは不可視のロゴスの証である。聖書にもこの相補性の事例は豊かであり、エマオ途上の弟子たちは「神とすべての民の前にエルゴン(働き・実践)とロゴス(言葉・理論)において力ある預言者となったナザレのイエス」について語りあった(Luk.24:19、eg.Rom.15:17.2Cor.6:7,1Thes.1:5)。
不可視なものの最たる方である神は「光あれ」の言葉により宇宙を創造された。そのロゴスが受肉した。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられた」(Phil.2:6)。
イエスは山上でモーセ律法の純化により人々の二心の偽りを摘出し、道徳的次元を内側から破ることにより信仰に招いた。そこで彼は言葉の力のみにより道徳、社会、自然、天国と地獄一切を天の父の完全性に秩序づけ、彼はその教えに生きまた死んだ。彼の生涯はその言葉と働きの合致故に偽りなき権威を伴った。科学技術や衣食住であれ、「汝らの天の父は、これらのものがみな汝らに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義とを求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるだろう」(Mat.6:33)。イエスはこう語り信仰に招く。人類の第一の課題は「天の父の子」となる信仰により不可視な神との正しい関係を作ることである。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを去った、というのも見えない方を見ている者として忍耐したからである」(Heb.11:27)。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。神の意志として「信の律法」(神が信であるとき、信じるか裏切るか)はモーセの「業の律法」(貪ぼるか貪ぼらないか)より根源的である(Rom.3:19,27)。
救いそのものがイエスにおいて可視化された。不可視なものの信仰が可視的なものにより確認される。「信仰は望んでいることがらの確証であり、見られていないものごとの[不可視に留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への[アブラハム等]先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りにより[先人たちの]諸時代が統一させられていることを、信仰により観て取っており(pistei noūmen)、見られるものが現れないものども[神の語り]に基づくことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。
人間のあらゆる肯定的、創造的営みの根源にこの信が位置づけられる。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを要求しているということは全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じる「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」、と(John.3:17)。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。復活は「告白」(Rom.10:9)を伴う信によってのみ突破されうる掌握困難な神の力能の顕われであり、甦りを信じることができるということ、それが喜びである。甦りは再臨による宇宙の完成に向かう。そのエヴィデンスは信に伴い豊かなものとなっていく。