「量り」の反射性(1)
春の聖書講義 4月30日 (原稿を用意しましたが、講義は自由に話しています。先週休講であったため、二週分の話をしたうえで対話を促します。対話は録音されていません。量りの反射性の話は複数回続きます)。
「量り」の反射性(1)
—道徳的反射性の主張は自然や歴史をも含めどこまで普遍的な法則か―
「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも汝らが裁くその裁きにおいて汝らは裁かれ、汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬たちにやるな、汝らの真珠を豚どもに投げてやるな、豚たちはそれらを脚で踏みつけ、向き直って汝らに突進してくることのないように」(マタイ7:1-6)。
「汝らの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。汝らはひとを裁くな、そうすれば裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そうすれば咎められないであろう。赦してやれ、そうすれば赦されるであろう。与えよ、そうすれば汝らにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を汝らの懐に入れてくれることだろう。というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである。イエスは彼らに譬えを語った。盲人が盲人を導くことはできない。双方とも穴に落ちるのではないか。弟子は師に優らず。しかし皆訓練することにより自分の師匠と同じようにはなるであろう。しかし何故君は君のきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。どうして君は自ら自分の目にある梁を見ることをせず、君のきょうだいに「きょうだい、わたしに君の眼にある塵を取らせてくれ」と語ることができるのか。偽善者、まず君の眼から梁を取り除け、そのとき君は君のきょうだいの目にある塵を取り出すようすっかり見えるようになるであろう
」(Luk.6:36-38)。
1反射性の諸次元
1.2二つのテクストの共通性と強調点の異なり
ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、正しい者と不義な者を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(Mat25:31-33)。パウロは途上の人間が裁くことを「罪に定めること」「有罪判決すること」「咎めること」と訳されうる語句(katakrinein)を用いる。それは自らに反射的に返ってくるものであるとして言う。「すべて裁いている汝、ひとよ、汝には弁解の余地がない。なぜなら、汝は他人を裁くそのことがらにおいて、汝自身を罪に定めている(katakrineis)からである。というのも、汝裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ業の律法のもとにあり、赦しではなく罪に定めあっている。
罪に定めることは旧約におけるモーセの業の律法の仕事である。「裁くな」においてイエスはモーセの業の律法の適用の否定にまで至っている。イエスは旧約の伝統のただなかで神の国の福音を持ち運んだ。「聖書」は神がそこにおいてひとと共にある「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集された。それは神の意志の知らしめが「モーセの律法」「業の律法」から「キリストの律法」「信の律法」へと展開されたことに呼応する (Jer.31:31,Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。
日常生活においては目の梁に対する呪いとしての断罪もあれば、目の塵と言える軽微な生活習慣に至るまでひとは誰かに否定的な態度を取ることがある。「裁き」は様々なレヴェルで遂行されている。このグラデーションとでも言うべき審判の濃度の変異はイエスが前提にしている「量り」と呼ばれる道徳的判断規準の適用範囲の普遍性に見られる。この普遍性はひとは誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する時に用いる規準(道徳的判断の視点)のそれである。それはマタイとルカで同様の文言において報告されている。マタイでは「汝らが量るその量りにおいて汝らにも量り与えられる」と、ルカでは理由文において「というのも汝らが量るその量りで汝らに量り返されるからである」と報告されている。
両福音書において同じ反射性が前提にされているが、マタイでは裁きと異なる識別することの重要性が説かれ、ルカでは赦しや贈与等肯定的な行為の反射の豊かさが強調されている。そのうえでひとは誰もが自らの認識規準、判断基準のもとでひとや出来事を判断せざるをえないが、それは神の意志や認識にできる限り対応するように遂行せよと命じられる。「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全であれ」(Mat.5:48)。そのとき、ひとの目から塵を取ってあげることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。
1.2 自然法則上の反射
反射性を一般的な文脈にどれだけ拡張できるかは興味深い問である。反射性は様々な次元で語られうる。ひとつには自然的な次元、また自己完結的な次元、さらには対人関係の次元、そして歴史上時間を経たうえでの反射性を経験する次元等が想定される。ひとは色眼鏡をかけると、網膜に映る映像は脳における処理を介してその色を反映したものとして現れ見て取られる。これは自然的な反射性の一例である。
1.3 行為における自己完結的な反射
ひとは数多くの選択肢のなかから一つをその都度最善と判断し選択するが、その行為を選択すること自体が一つの反射性の報いを受け取っている。「悪行の報いは悪業そのものである」と言われる文脈である。善業もそうであり、誰も見ていないところで誰かを助けたり、何らか良き行為をするとき、そうしなかった自分から自らにくだす識別や裁きとは異なる、良い自己認識を獲得する。これは自己完結的な次元における反射性である。
1.4 対人関係の反射と負のスパイラルを克服する応答
さらに、ひとの善意を信じて接する人は善意で返されることの多いことも、悪意をもって接するひとが悪意をもって返されることと同様に、しばしば経験することであろう。信用できないと認識しているひとの行動の受け止めはそこに裏があるのではないかと思え、ますます信用できなくなり負のスパイラルに陥ることも起きよう。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の反射性の否定的な好事例である。とはいえ、視点を換えて接することにより「見直した」ということが起こることも事実であり、改善していることを発見したり誤解していたことに気づくことも日常の経験である。パウロは悪意をもって向かってくる者に善意をもって返せと励ます。それによってしか負のスパイラルを逃れることはできないからである。「汝らを迫害する者たちを祝福せよ、祝福せよそして呪うな。喜ぶ者たちと共に喜び、泣く者たちと共に泣くこと。互いに思いを同じくし、高ぶった思いを抱かず、低き者たちと共にありつつ。汝ら自らの側で賢き者となるな。誰にも悪に対して悪を報いることなく、あらゆるひとびとの前で善き事柄に配慮しつつ。可能なら、汝らの側からはあらゆるひとびとと平和を保ちつつ。愛する者たち、自ら復讐することなく、むしろ怒りに場所を与えよ。まさにこう書いてある、主は言われる「復讐はわれにある、われ報いるであろう」。むしろ、「もし汝の敵が飢えるなら、手ずから一片食べさせよ、渇くなら、彼に飲ませよ。なぜなら、こうすることによって汝は炭火を彼の頭上に積むであろうからである」。悪によって負かされるな、善によって悪に勝て」(Rom.12:14-21)。
1.5 時間経過を伴う歴史上の反射
時間の経過を経ての反射性も経験することがある。種蒔きの譬えで神の言葉が「良い土地」に蒔かれることもあるが、これに比せられる「美しくかつ良い心」は、「言葉を聞いてしっかり受け止め忍耐をもって実りをもたらす」能動的な行為において確認される。良い果実をもたらす者は自らが後に神の言葉が蒔かれた良い土地であったと認識する。反射性の法則がここで神の言葉の能動的な受容とその果実から語られているが、時系列においては自らが神の言葉が蒔かれた良い土地であると受け止め信じて励む者は良い果実を生み出す。ここで自ら量る量りは良い土地であることの信であり、その信のもとにある能動が「他の種は良い土地に落ち、成育して百倍の実を結んだ」(8:7)その結果をもたらし、結果にその信が反映されている。これは判断規準として肯定的な信を置いた場合のそれにより量られる果実である。
ひとが「泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ」(Rom.12:15)とき、そこで分かち合われる共感の応酬も反射性の肯定的な好事例である。当方の態度に応じて、何らかの反射的な受け取りがあるということは道徳的判断から始まり、一般的な認識にいたるまで適用される普遍的な法則であると言えよう。マルコはイエスの言葉をこう報告している。「汝らが量るその量りにおいて汝らに量り与えられるであろう。というのも、持っている者は自分に加えて与えられるであろうし、また持たない者は持っているものをも自分から取り上げられるであろうからである」(Mac.4:24-25)。前向きな規準により取り組む者はさらに成功し、後ろ向きな規準により消極的に取り組む者は失敗することになる。ただし、人間関係においては他者からの「受け取り」は一様ではないことは言うまでもないが、悪意に対し忍耐をもって善意により応答するとき、負のスパイラルの反射から解放される。反射性の法則は或る理解のもとにある自己とその理解により帰結において量られる自己とのあいだまたは自己と自然的な応答さらに神による応答とのあいだに限定するときより確かなものとして普遍性を主張できるであろう。
このように「裁くな」という戒めにはより広い適用を持つ審判や計量の反射性とでも言うべき能動と受動の相即が前提になっている。自らあてがう認識や判断規準が自らを量る尺度になると言われる。キリストを尺度にする者から神に意図的に背くことを尺度にする確信犯のあいだで尺度・量りが推移する。イエスの認識、判断規準は山上の説教においてとりわけ先鋭化されて報告されている。