聖書の死生観(1)
はじめに 2023年度春から夏までは毎週日曜対話形式にて山上の説教を学びました。対話形式でしたので、録音を控えました。できれば近日中にマタイ福音書5-7章の連続講義を書斎における録音としてお届けします。秋も対話形式を続けますが、基礎になる資料として、「聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉 惠」(『死生学年報』2022、東洋英和女学院大学死生学研究所編 pp.83-102)https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/1726を用いつつ、自由に対話を続けます。ここにこの論文全体とともに本日の録音をお届けします。
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聖書の死生観 ―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ― 千葉 惠
「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りた まう、主の御名は褒むべきかな」(Job. 1:20)
「見ると、石が墓のわきに転がしてあり、なかにはいっても、主イ エスの遺体が見当たらなかった。途方にくれていると、輝く衣を 着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せる と、二人は言った。「なぜ生きておられる方を死者のなかに捜すの か。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」」(Luk. 24: 2–6)。
1. 死生観と神観念
1.1. 生と死の動的な関わりの探求
2021 年夏、疫病の蔓延で医療崩壊のみならず、生が死に飲み込まれる人 生崩壊の兆しさえこの国に広がった。人類が生存する限り問われる死が新た に問われた。死後についてなにがしか語ることは宗教の大きな仕事である が、神など超越者をめぐっては、三つの態度が考えられる。そのなかで対立 する二つの立場を突き詰めると、一方で一切を正確に知り公平な審判を遂行 する一人の存在者がいるという唯一神論としての有神論となり、他方、個々 人の一切はこの生の活動期間ののちに無に帰するという無神論となる。双方 とも明確な信念のもとに生を構築する。第三の立場として神についてひとは 知りえないという不可知論がその間にあり、最も理性的な態度のように見え る。しかし、不可知論は神が存在する、それ故に死後、神の前に立ち何らか の審判を受けるという想定のもとで、日々迫られる個々の行為を選択すると 84 いう生を構築できないため、有神論を懐疑においてであれ真剣に受け止めな い限り、事実上、無神論に吸収される。
無神論に基づく死生観は、ここで展開する有神論の論述の否定として理解 される。永遠の生命など存在せず、死後、肉体は自然とその生態系に還元さ れていくという見解である。不可知論は判断保留のまま生を遂行する。孔子 は、弟子の子路が死について尋ねたとき、「わたしは生を知らない、どうし て死について知っているだろうか」と応答した(『論語』先進 11-11)。孔子 の立場は生が何であるかを知れば、死を理解できるかもしれないというもの であり、強い不可知論ではない。とはいえ、これらの立場は生を死によって 知り、死を生によって知るという動的な関係において捉えてはいない。 双方を分断したうえで、生の側から死を推し量ることがある。ひとは自ら の過酷な生のゆえに死を望むことがある。そこでの暗黙の前提には死は一切 の悪しきことの消滅であり、死後は、神ありなしに拘わらず、生のもつ過酷 さをもたないかのごとき希望的観測がある。そうかもしれない、そうでない かもしれない。これに対し、双方を包括的に捉えるとは、生と死は何らか連 続的であり、死が一刻一刻迫っているという事実こそ生に意味を与え、その 生の内実が死に飲み込まれない肯定的なものである限り、死はその生の延長 線上に肯定的なものとして開かれると捉える。その意味で死の何らかの理解 が生を構成しており、生の何らかの理解が死を取り込んでいる。
生と死を包括的な視点から捉えることにより、生死の分断的な思考を免れ ることができる。ひとはそのような総合的な、しかも前向きな理解を求め る。実際、ひとは生きていることの充実感を得るには未来に時間が開かれて いるという感覚を必要としている。死はその前向き、肯定的な生の構成要素 でありうる。生死を支配する神は人類の歴史においてそのような機能を担う ものとして看做されてきたのであり、信じること、あるいは懐疑においてで あれ有神論を真剣に考慮することが生死を真剣に受け止めることを可能にさ せる。突き詰めれば、宗教において生きて働く神を相手にするのでなけれ ば、生死を動的な連関のもとで総合的に受け止めることはできない。「総合 的」とは人類の歴史を考慮しつつそのなかに個人を位置づけ、各自が神への 信仰、眼差しのなかで個々の古き自己の死と新しい自己の生命の再生の経験 のフィードバック(送り返し)を介して、全体としての自己理解を形成深化 させることである。死を支配する者があるという信なしに、死は不可知の闇 聖書の死生観 85 に留まる。
1.2. 聖書の死生観―旧約から新約への飛躍
本稿において聖書が伝える死生観を紹介、吟味する。コンコルダンス(字 句索引)によれば、聖書には「生命」(「命」)と「死」とその類縁語はそれ ぞれ約数百回見出すことができる(木田/和田 1997)1) 。二千頁の一つの書 物において均せば、二頁に一度はいずれかとその類縁語が現れていること になる。それ故にこの書は生命と死をめぐる書であると言ってよい。一方 で、悪行や暴飲暴食が死を招くということや、他方で「ひとの生涯は草のよ う、野の花のように咲く。風がその上に吹けば消え失せ、生えていたことを 知る者もなくなる」という類の人生の儚さへの言及は、アダムの末の誰もが 語るであろう一般的な理解である(Prov. 11:19, Lev. 10:9, Ps. 103:15, Job. 14:1)。
同様に、民族のリーダーたちは自らの使命の成就として長寿を全うした が、そのこと自体に祝福された生を見ることも万国共通であろう。ユダヤ民 族の始祖「アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先 祖の列に加えられた」(Gen. 25:8, 15:15)。エジプトのファラオの娘の子と して育てられたモーセやその後継者ヨシュア、そして長老たちの死も生の成 就でありその長寿は祝福されたものであった(Deut. 34:1–8, Josh. 24:29– 31)。旧約において「ダビデは先祖と共に眠りについた」(1Ki. 2:10)という 表現に見られるように、他の固有名の挿入によるこれと同じ構文は 40 か所 以上で見られ、慣用表現であったことがわかる(木田/和田 1997, 745)。 この「眠りについた」という表現はエデンの園における「生命の木」に暗 示されるように、生物的死が一切の終わり「永眠」というものではなく、覚 醒の可能性を示唆していると言うことができる。この表現は新約における義 人、聖徒の死が一時的な眠りであるという特徴づけを基礎づけたと推測され る。もし神に背かなければ、アダムであれ誰であれ、たとえ生物として土に 返ったとしても、義人の死は新約聖書においては「眠り」であると捉えられ ることになる(Mat. 27:52, 1Cor. 15:6, 18, 20, 51)。
The Book と呼ばれる人類の歴史で最も読まれているこの書物は、一つの 出来事を契機に二つの異なる文書が連続的な歴史の展開として編集されてい る。イエス・キリストの復活、即ち死者たちのなかからの甦りを契機にし 86
て、旧約聖書と新約聖書の死生観は断絶と呼べるほどの飛躍を遂げている。 新約において「永遠の生命」と呼ばれるものの在り処が、歴史のなかで全 人類に向けて神により知らしめられたと報告されている(John. 3:18, Rom. 5:21)。新約との著しい対比として、旧約において来世についての思弁や 幻、永遠の生命の獲得とその希求の記録はほとんど見られない。その理由を 探りつつ、人間の永生の可能性を基礎づける(神学的には御子の贖いの十全 性故に)「ただ一度」(Rom. 6:10)限り生起したと報告される死者の復活、 甦りの事件が両文書の連続性と飛躍を道理あるものと理解させる、そのよう な異なる記述を許容する同一の神についての理解を深めたい。 新旧約を貫く神の特徴づけは明確であり、唯一の神ヤハウェは宇宙万物の 創造者として時空の外にあり、永遠の現在において過去も未来も現在のこと として了解している全知にして全能なる宇宙の栄光である(Gen. 1:1–2:4, Ps. 90:4, 91:1, 139:1–24, Rom. 1:19–20)。
双方の相違としては、神は自ら の愛の相手として人間を創造したが、楽園追放後の人間との関わりの仕方、 即ち媒介が御子の出来事を契機にして判別される。一方、旧約においては 天、主の使い、預言者そして洪水や疫病等自然事象を介してその都度の今・ ここにおいて、具体的な状況にある人々に働きかけていることが記録されて いる2) 。預言者たちは人格的な存在者として神の言葉を取り継ぐ。定型表現 「万軍の神(主)は言う」は預言者たちにより 150 回以上用いられ、神の認 識や判断が取り継がれている。神の審判の預言は至るところに見いだされる (eg. Hosea 7:13–8:14, Isa. 30:12–14, Jer. 5:14–17)。ユダの王ゼデキアは じめ高官たちは紀元前 6 世紀に 70 年間にわたりバビロンに拘束された(Jer. 25:11)。それはユダの堕落に対する神の怒りであった。「わたし[神]はエ ルサレムを瓦礫の山、山犬の住処とし、ユダの町々を荒廃させる。そこに住 む者はいなくなる」(Jer. 9:6–10)。 他方、新約において、神は根源的な仕方で神の子であり同時に受肉により 真の人の子である和解の執り成し手イエス・キリスト、ないし聖霊を介して 関わっていると報告されている。ナザレのイエスが自ら天父の子であるとい う「神の子の信」、信の「従順」を貫きその都度の今・ここの働きにおいて 完全に神の義と神の意志、計画を実現したことにより、神により御子とし て嘉みされ甦りを与えられたと報告されている(Gal. 2:20, Phil. 2:8, Rom. 4:25)。そのことにより、イエス・キリストは父なる神の信義の啓示および
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神の人間認識、判断の普遍的な仕方での啓示の媒介者とされる。そしてこれ は父と子の協働の知らしめであるが故に、これは最も明白な神の自己顕現で ある(John. 16:32, Rom. 3:21–26, 2Cor. 5:19)。
かくして、この自己顕現に基づき旧約における自然事象また族長、預言者 を介した神の諸顕現を理解することは道理あるものとなる。根源的かつ普遍 的に知られる父と子の協働作業のほうが具体的な状況、とりわけ窮状にある 個々人に受け止められた限りにおいて記述される神よりも純化された仕方で 神の特徴およびその働きが理解されうるからである。さらに、御子の派遣は 然るべき時に決定的な仕方でなされたとする限り、その充足の時に至る準備 期間として他の一切の顕現は理解されるからである。永遠の生命の知らしめ の準備として旧約が位置づけられる。
両文書の報告において、同一の神が自らの隠れと顕現において歴史を一 直線に展開させていると理解される。パウロは 433 節からなる「ローマ書」 において、旧約に先駆的形態のある信に基づく義・正義が、モーセを介した 旧約の中心的啓示である業に基づく義・正義よりも神自身にとってより根源 的であることを論証する。彼はそこでキリストにおいて成就された福音(信 義論、予定論)を旧約から 60 節(箇所)以上すべて肯定的に引用すること により裏付けている(千葉 2018, 456, 155.n.3)3) 。救世主の復活の知らしめ こそがそれまでの旧約人の知らされざるなかでの苦闘と待望を特徴づける。 彼らは一回限りの歴史の進行のなかで政治的メシヤの出現であれ他の何かで あれ救いを暗中模索していたが、自ら知らずにも、あるいはわずかに自覚的 に復活による永遠の生命を求めていたことが明らかになる。
2. アダム―その組成と堕罪
2:1 人類の始祖アダムとひとの心身の構成要素
人類の始祖の誕生神話によれば、神が土に生命の息を吹き込むことにより ひとが生きるものとなったとされている。「主なる神は土(アダマ)の塵で ひと(アダム)を形づくり、その鼻に生命の息(pnoē zōēs)を吹きこんだ。 そして人間は生きる魂となった」(Gen, 2:7)。G. フォン・ラートは言う。「用 いられる材料は土である、しかし人間は最初に神の口から神的な息のまった く無媒介的な吹きこみによって『生きもの(Lebewesen)』になった。この 88
七節はかくして、ヤハヴィストには珍しいことであるが!、一つの厳密な定 義を含んでいる」(v. Rad 1978, I,163)4) 。 人間が地水火風という自然の構成要素と異ならないものにより形成されて いることは、最も基礎的なこととして共約的に確認できることである。その ことは三十数億年の生命の進化の過程を経ての人類の誕生という理解にも道 を備えることになるが、進化の問題をここで論じることはできない(千葉 2018, 第二章一節四)。ここで確認すべきことは、なによりも、人間の構成 要素に関するこの最も基礎的な事態が含意することとして、現代科学が対象 とする人間と聖書の伝統のなかで新約の使徒パウロがナザレのイエスの生涯 に基づき解明しようとする人間は、少なくとも同一の質料的な基礎を持つと いうことである。パウロは旧約以来の伝統のなかで、「最初の人間アダムは 生きる魂となった、最後のアダムは生命を造る霊となった」(1Cor. 15:45) と語り、生物的な生命原理として「魂」を提示し、またその延長線上に最後 のアダムとしてのキリストをさらなる新たな永遠の生命の原理となる「霊」 として提示している。 人間の心身の構成原理について確認する。伝統的に「魂(phsuchē)」が 生命原理として最も基礎的なものであると位置づけられる。そのうえに 「心(kardia)」に内属する感情や思考、信念等の心的事象が生起し、さらに は「内なる人間」と呼ばれる心の底に内属する霊的事象が出現する(Rom. 7:24, 2Cor. 4:16)。パウロにおいては「人間」は、「最初の人間」とその生 物的な死を介して「第二の人間」双方から成り立つと想定されている。第一 の人間は「魂的身体」を持ち、第二の人間は「霊的身体」を持つ。第一の人 間アダムは「土に基づき土製の」組成を持ち「生きる魂」となった。第二の 人間は「天から」の者であり、「終局のアダム」と呼ばれるキリストが「生 命を造る霊」となったことに基礎づけられる(1Cor. 15:44–48)。 この事態は神話的には、鼻に吹き込まれた「生命の息」と呼ばれる人間の 魂体に関し、生物的な生命に関しては現代科学の知見は日進月歩であるが、 現代科学がまだ解明できていないことがらを、あるいは異なる仕方で表現し ていることがらを、パウロがすでに把握している可能性を否定しない。パウ ロは「霊(pneuma)」をその心身、魂体を統一する最も基礎的な要素とし て提示している。聖霊を受けたか否かについて、新約は帰結主義をとってお り、愛の実践や平安、喜びの果実を得ているとき、即ち人格的成長が確認さ 聖書の死生観 89 れるとき、その証があると主張される(Luk. 7:44, Gal. 5:22)。信が聖霊を 受動する心魂の根源的部位において生起する限り、つまり正しい信である限 り、真偽の知識に関わる理性の逸脱である狂信からも、心魂の人格的徳(善 悪)に関わる身体的なパトス(受動的情念)の過剰(例、恐怖)である迷信 からも自由とされ、賢者となり聖者となるからである(千葉 2018, 序文 32, 第二章三節, 四節)。 アダムの存在論的な身分はいかなるものか。土製の自然に還元できるの か。神が土製のものに息を吹き込んで「生きる魂」となった以上、人間は実 質的には神的・霊的なものにより形成されている。しかし、聖霊が改めて注 がれることは多くの箇所で語られている以上、この創造の息吹は聖霊を意味 してはいない。生命原理としての魂のことが語られていることは明らかであ り、その息吹は続いて与えられるでもあろう聖霊の注ぎを受けとる部位、「内 なる人間」として理解することができる。少なくとも、単に土だけによって 造られているわけではないので、何らかの神的行為に対応しうるもの、即ち 通常の生命活動のただなかで聖霊を受け取るこのとのできる部位が力能にお いて心魂の根底に内在していると理解すべきである。それが神的息吹の注ぎ により「生きる魂」となった人間の実質であると考えられる。 実際、次のようにも言われている。「魂的人間は神の霊のことがらを受け 取らない。というのも彼は愚かでありそして知ることができないからであ る、というのもそれは霊的に吟味されるからである。霊的な者はすべてを吟 味するが、彼自身は誰によっても吟味されない」(1Cor. 2:14)。「内なる人 間」が実働することにより霊的な人間は最も包括的に人間であることを把握 した者であり、人間は自らが、肉の魂的な生命に還元されないことを知って いる5) 。
2:2. 堕罪とその影響―「善悪を知る木」と「生命の木」
これらは誰もが持つ心魂の態勢、働きであると聖書は主張する。一方で、 生命の誕生であれ長寿であれ、祝福は土から造られた自然的な心魂のうえに 注がれる。創造は「はなはだ良かった」のである(Gen. 1:31)。自然的なも のは草木であれ動物であれ、自らの生命の力能の十全な発揮においてこそ自 然であり本来的である。人類の始祖アダムとエヴァは祝福のもとにあり、人 類の隆盛に向けて生殖も祝福されている。「産めよ、増えよ、地に満ちて地 90
を従わせよ」(Gen. 1:28)。もし罪がなければ、ひとの人生はすべて自然の ままに祝福されたものであったであろう。楽園神話においてはひとは神の目 前で生活しているがゆえに、霊の媒介の働きは必要とされていない。 神はエデンの園の中央には「生命の木」と「善悪の知識の木」を生えいで させた。最初のひとは園の木の実を自由に食することが許されていたが、「善 悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」と警告 されていた(Gen. 2:17)。彼らは「神の如くになる」(3:4)という蛇の誘惑 に負けて、この木の実を食した。すると目が開け裸であることを恥じた。ル ターは「罪とはおのれの内側に曲がってしまった心である」と言う。彼らは 神から自律した行為主体として善悪を判断して生きる道を選んだ。ひとは 「啓蒙」と呼ぶでもあろうが、神の視点から言えば、従順の中での善悪の識 別を介しての道徳的鍛錬は嘉みされたであろうが、神から離れての啓蒙は背 きであり罪であった。神は「塵にすぎないお前は塵に帰る」という仕方で、 自然的な生物的死を生命維持の労役とともに罰として与えた(3:19)。 楽園追放の理由は、彼らが「生命の木」からも取って食べ「永遠に生きる 者」となる恐れがあったからである(3:23)。ここでは時満ちて御子の派遣 を介して永遠の生命が与えられる、そのような歴史を踏まえることなしに、 永遠の生命を一気に獲得することが問題視されている。なぜ人類には初めか ら永生が明らかな仕方で与えられなかったかが説明されねばならない。 ひとは道徳的となる力能および永遠の生命に与る主体となる力能を、その 創造において所有していた。少なくともそれらが然るべきときに神から与え られた際には、それらの実を食し消化するする力能を備えていた。エデンの 園から追い出せば、盗まれ食されることがなくなるという想定のもとに彼ら は園を追放されたのであるから、それ以前も以後も彼らが食する力能を失っ たわけではない。とはいえ、時が満ちたなら善悪の木のみならず、生命の木 を食することが許されていたかもしれないが、最初の人間には許されなかっ た。 人類がその後もこの力能を所持していると看做すべきことは、一つの民族 の展開のなかで、預言の成就として永遠の生命を担った御子の復活が生起し たことから確認される。堕罪後人類の歴史は自然的制約というこの与件のも とで、神への背きと死の乗り越えを課題として引き受けることになる。生物 的死が単に自然事象であり神への背きの罰であるという認識の欠如こそ神へ 聖書の死生観 91 の背きを示しており、悔い改め立ち帰りがその都度求められている。それが 原罪の持つ波及範囲の最も確かな理解である6) 。
3. 神が生死を支配する―今・ここにおいて 働く旧約の神
生物的死はこのように聖書において罪の罰であるという基礎理解のもと に、旧約における来世、永遠の生命への希求の記録の欠如についていかなる ものとして理解しうるか考察したい。旧約人はアブラハムの信とモーセ律法 により鍛えられることとなる。彼らの歴史における神の意志の明確な知らし めは、信仰に基づき義とされたアブラハムへの子孫の繁栄の約束と信仰に基 づきエジプト脱出を導いたモーセへの十戒に見られる。この恩恵に絶えず立 ち返ることは彼らのあらゆる神との関わりの規準、礎石となった。旧約の義 人の系譜が信仰に基づくものであったことは「ヘブライ書」で旧約人 14 人 の言及のもとに記録されている(11:1–40)。
モーセは神の命に従い、ヘブライ人をエジプトから導きだし、神の山ホレ ブにおいて神から律法(十戒)を啓示された。「汝はわたしをおいて他に神 があってはならない。……わたしは主、汝の神。わたしは嫉む神である。わ たしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛 し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。……汝の 神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は 罰せずにはおかない」(Exod. 20:4–7)。
生命と死は、神の祝福と呪いの関連におかれる。「わたし[モーセ]は今 日生命と幸い、死と災いを汝の前に置く。……汝の神、主を愛し、その道に 従って歩み、その戒めと掟と法とを守るならば、汝は生命を得、かつ増え る。……もし汝が心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し 仕えるなら、……汝らは必ず滅びる」(Deut. 30:15–18)。モーセは偶像崇 拝に陥った民を一日で三千人処刑して、神の言葉を伝達した。「わたし[神] に罪を犯した者は誰でもわたしの書から消し去る。……わたしの裁きの日に、 わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」(32:28, 33–34)。
神が唯一であり他のいかなる神をも拝するなという唯一神の顕現とその神 の名をみだりに唱えるなという戒めは、イスラエル民族の思考と行動を支配 92
した。神になずむことへの禁止は、神への畏れのなかで死後への勝手な思弁 や要求をブロックする。さらに口寄せや霊媒を通じての死者との交流の禁止 は、神から知らされていない事柄に対する思弁や希求の禁欲を強いている (Deut. 18:11, Lev. 19:31, 20:6, 20:27, 2Ki. 21:6, 23:24, 2Chr. 33:6, Isa. 8:19, 19:4)。
彼らの思考の枠は、アブラハムの約束の成就への信とモーセ十戒の遵守に よる祝福と懲罰のもとに定められた。それはちょうど厳格な親の訓育のもと 真面目で規範意識の高い子供が育つことと類比的である。パウロによれば、 厳格な律法主義者には「誇り」が残り信に至らない可能性が指摘されている (Rom. 3:27)。それでも、どのような養育環境にあっても人間が人間である 限り共通する心魂の働きである感情や憧れ、思考そして信念を抱いている、 あるいは何らかの心魂の法則性のもとに心的事象は生起すると想定すること は道理がある。
ここで旧約における死生観をめぐって彼らの特徴的な理解を幾つか挙げ る。(a)生と死一切が神の支配のもとにある。預言者エゼキエルはバビロン 捕囚のただなかで神の言葉を取り継ぐ、「すべての生命はわたし[神]のも のである。父の生命も子の生命も、同様にわたしのものである。罪を犯した 者、その者は死ぬ」(Ezek. 18:3)。エレミヤはバビロン王ネブカドレツァル の侵攻を預言し神の言葉を取り継ぐ。「見よ、わたしは汝らの前に生命の道 と死の道を置く。この都に留まる者は戦いと飢饉と疫病によって死ぬ」(Jer. 21:8)。生死は神に属するものである。「何ごとにも時があり、天の下の出 来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時がある」(Eccl. 3:1–2)。
(b)神は生物的死や洪水、隕石の落下、そして疫病など自然的事象を介 して自らの意志、とりわけ懲罰を知らしめる。(c)アブラハムは彼の子孫の 繁栄に対する神の約束を信じ、それにより神と正しい関係に入った。旧約に おいても信仰義認の系譜がその民族に対する神の祝福、肯定的な交わりの源 泉である。(d)神を信じ畏れモーセ律法を遵守する者には祝福が与えられ る。永遠の生命希求の代替として、指導者たちに見られる長寿とその祝福は 定型句「眠りについた」により表現されている。(e)祝福と懲罰の前提とし て、ひとは誰もが自らの責任ある自由のもとに生きており、神に背くことも 立ち帰ることもできる。ただし、楽園追放の与件のもとで立ち帰りが常に必
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須事項となる。かくして、ひとは追放後さらに背くか、それとも主を畏れ立 ち帰り神と正しい関係を結ぶに至るかが問われている。
ここでは(b)自然事象が神の意志を媒介するその擬人化、自然化につい て考察する。例えば、人類の悪の蔓延りに対する神の怒りがノアの洪水を引 き起こしたと報告されている。「神はひとを創造したことを後悔し、心を痛 めた」(Gen. 6:6)。神はノアの家族が生き延びるように箱舟の建造を命じる が、そのとき「すべて肉なる者を終わらせる時がわたしの前に来ている。彼 らの故に不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」 (6:13)。
またソドムとゴモラの町が、その悪に対する神の怒りのもと硫黄の火によ り滅ぼされたと報告されている。この「硫黄の火」は近年の考古学的研究に より、紀元前 1650 年頃死海近辺のヨルダン川東岸における隕石の落下であ ることが判明しつつある。ソドムについて神は三人の使いを介してアブラハ ムに告げた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びがとても大 きい」(Gen. 18:20)。彼は神に願い、五十人の義人がいたとしても滅ぼす のかとソドムの都のために執り成す。彼は義人の存在を十人まで値切り、神 から「その十人のために滅ぼさない」との応答を得ることができた。しか し、ソドムにはそれだけの義人を見出しえなかった。 ダビデの時代にイスラエルにおいて、北の端であるダンから南の端であ るベエルシェバまで疫病がもたらされ七万人が死んだと報告されている (2Sam. 24:15)。「御使いはその手をエルサレムに伸ばして滅ぼそうとした が、主はこの災いを思い返され、民を滅ぼそうとする御使いに言った、『も う十分だ、その手を下ろせ』」(24:16)。
この物語や義人の値切りにみられるように、旧約において神は擬人化され ており、意見を変え得るものとして宇宙の栄光を捨てた人間的な神として描 かれている。しかし、新約の視点から言えば、これらは真の媒介者キリスト を知らない者たちへの神の憐みの表現として理解される。宇宙の栄光である 神は自らが理解されるべく、旧約人の認知的制約のもとで自然事象を介して 人間と関わる。このように旧約においては神についての普遍的な理論化は遂 行されることはなく、個々の神とひとの今・ここの人間的な交わりが記録さ れている。かくして、旧約の神は、神とひととのあいだを分けない仕方でそ の都度の今・ここにおいて関わる「エルゴン(働き)の神」と特徴づけられ 94
よう。
4. 何故永遠の生命への追求は旧約人には わずかにしか見られないのか
旧約と新約の死生観の論述内容の相違は興味深い。御子の受肉、受難と復 活を介して啓示された福音が相互の連続性と展開とともに、新約から見る限 り旧約における欠落そしてそれ故に待望が明らかになる。ここで、新約の視 点から明らかになる旧約における不在ないし僅少の例を挙げる。(1)永遠 の生命の獲得の記録はもとよりその希求。(2)神と敵とのあいだの執り成 しの働きとその祈り(とりわけ「詩篇」における)。(3)聖霊による肉の弱 さにある個々人への内在を介した呻きを伴う神の肯定的な意志の執り成し。 (4)指導者や預言者たちの有徳者であることの記録、そして立派な有徳な 人間になることへの奨励、ただし神による義人の認証を除く。(5)聖霊に よる一つの身体としての集会、教会の形成。(6)異邦人の救い。これらの 記述が皆無ないし僅かにしか見られない7) 。
ここでは(1)について考察したい。詩人は神への讃美の機会を失わな いためにこの世の生存を嘆願する。「あなたは、わたしの生命を死に渡すこ となく、あなたの聖者が朽ちることを許さず、生への道を教えてくださる」 (Ps. 16:10)。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐みを乞います。わ たしが死んで墓にくだることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝を ささげ、あなたの真実を告げ知らせるでしょうか」(Ps. 30:10)。「あなたは 死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたを讃え るでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国で、あなたの真実が語 られたりするでしょうか」(Ps. 88:11)。生きている限りにおいて、一切を 支配し導く神に讃美を捧げることができ、そのなかで祝福を頂くことができ る。
端的に言って、旧約人は直接的な仕方での永遠の生命を待望するというこ とが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されてはいな い。その待望は、民族の集団心理として、楽園追放以後、主の名前を「みだ りに唱えるな」、「貪るな」という戒めに包摂されるタブー・禁忌であり、避 けられたのであろうか。生命の木の実の実質は始めの人間の背きの故に言及
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することさえ許されなかったのであろうか。アダムが裸であることを恥じ、 また茂みに隠れたように、旧約人は神への怖れのなかで自らの心情を吐露し たり、最も重要な願望をさえ安易に要求できなかったのであろうか。復活は あまりに信じがたきことであったのであろうか(Mat. 22:23)。永遠の生命 への希求の記録の欠落は、これらの複合的事情によるものであろう。
フォン・ラートは幾つかの箇所を論拠に挙げつつ、旧約人は来世を望む ことがなく彼が「此岸性」と呼ぶ現実世界への集中を彼らの特徴としてあ げる(Ps. 90:4–11, 34:14ff, 88:6–11, Job. 9:2–5, 29–31, Deut. 3:15ff, Isa. 38:11ff)。「旧約聖書には、死後の生に対する要求はない。それは、人間が 簡単に要求できるものでもなく、まして、自分勝手にわがものにすることが できるものではないことを知っており、それよりも、人間は完全に神の恵み に依存しているということの方が重要だったのです。……この待期期間、つ まり、永生への希望の明白な欠如については、あたかも神が自分の共同体 に、まず、初めに、完全な此岸を与えられたのではないかというふうに説明 できるのではないでしょうか。実際、旧約の定めは、神の此岸に対する意志 を含んでいます。……すべての不安が解消されるであろうと人々を誘惑する 彼岸によって相対化されることはなく、むしろ、大地と人間は、神の側か ら、「出口なし」と示されて、それを真摯に受け止めたのです。……あらゆ る彼岸信仰は、神の此岸に対する意志を無視する明らかな不服従と言うべき です」8) 。
しかしながら、フォン・ラートによる旧約人のこの理解は正しいのだろう か。これまでの論述に基づくとき、少なくとも、「此岸性」と「彼岸性」、ひ との世界と神の世界の分断を含意するこの表現は、生と死を総合的に捉える ことを不可能にしており、貧弱な死生観しか持ちえず、旧約人を矮小化して はいないであろうか。神から「出口なし」を示された人間はどこに希望を見 出すことができるであろうか。より適切な表現を求めるべきである。
旧約においては神が人間と関わる媒体は洪水や疫病そして死等自然事象を 介してであり、そこではこの世界の事象を媒介にして具体的に関わる今・こ このエルゴン(働き)の神の報告で満ちているがゆえに、何か彼岸即ち神の 前の事柄が考慮されずに、此岸即ちこの自然的世界だけが考慮される、その ような印象を与えたのだと思われる。しかし、エルゴンの神はひとの現実世 界から分けられてはいないだけのことであり、その同じ神がどこまでも宇宙 96
の栄光の神である。この神は当然死を支配している以上、死後を考慮してい るが、そのことは新約において明確に知らしめられた。神は旧約人にはアブ ラハムの信仰義認とモーセの業の律法に基づく義認の枠のなかで、自らが人 間的に理解されることを許容しつつ、恩恵を思い起させることにより罪とそ の値である死の乗り越えを迫っていた。罪と死の乗り越えが彼らの課題でな かったはずはない。あたかも旧約人が此岸に閉じ込められたかに見えるの は、神が自ら譲歩して彼らの理解に応じて今・ここにおいて具体的に人間的 な様相において関わったからである。
5. 旧約のエルゴンの神と新約のロゴス及びエルゴンの神
新約において、媒介者が真の人間であり真の神の子である場合には、神の 前、即ち神自らの人間認識と判断から、ひとの前、即ち肉の弱さのもとにあ る人間の自由な責任主体を理論(ロゴス)上判別し、しかも両立的なものと して論じることができる(千葉 2018, 第三章)。ただし、イエス・キリスト を介しての、神のひとへの関わりは神の前とひとの前を分けない今・ここの 具体的な神的かつ人間的働き(エルゴン)であることは常に留意されねばな らない。新約の神を「御子故のロゴスとエルゴンの神」と呼ぶ。まさに「ロ ゴス(理・ことわり)は神であった」(John. 1:1)。
旧約における啓示の媒介は預言者や自然事象であり、それらの今・ここの 働きの蓄積であり、理論があるとしてもこれらの働きの経験の総合として帰 納に留まる。旧約では未だに、一回限りの決定的な啓示に基づき、他の一切 の顕現が理解される新約における総合的神学が構築されることはなく、それ 故に神が自らいかに認識し判断したかの知らしめをそれ自身として析出する ことができない。此岸と彼岸の支配者である神が関わっているという限りに おいて旧約人が出口なき此岸に自らを閉じ込めたということではない。そこ で報告されているのは、永遠の神が人間的となり旧約人と分断されない仕方 で彼岸のメッセージを此岸にその都度伝えたことである。
二つの文書における一方の欠落と他方の充満の対比は興味深く、この著し い論述の相違、そしてそれにも関わらずその連続性をここまで確認した。そ れは同一の神が一つの計画のなかで、決定的な啓示、知らしめを介してそれ 以前とそれ以後の人々の知識をめぐるコントラストを著しいものにしたとい
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う理解を道理あるものとする。ひとの心魂はいつの時代にあっても生死の根 源的な理解においては同じ働き、反応をするという見解は道理あるものだか らである。これは、例えば、人類が持つ同一の知性の展開のもとに科学が進 み、人類が不老不死を獲得した場合、その後の死生観は今とまったく異なる であろうことと類比的である。
旧約における神は自らの正義と憐みを人類に理解されるよう自然事象を介 して自らの人間認識と判断を伝達する、自然化され、擬人化された神として 描かれることを許容している。即ち、人間に近い神であり、人間の自然的生 存を左右する神として人間の、とりわけ窮境における神理解を投影されるこ とを許容している。旧約人と関わる限りの神は、宇宙の栄光としての超越的 な神というより、その都度怒りや後悔などと表現される仕方で人間に関わる 内在的な神と言うことができる、もちろん旧約における宇宙の栄光としての 神讃美は豊かなものでありつつ。新約では神の超越性は御子の媒介によりロ ゴス上確認される。神のエルゴンは御子においてその都度確認される。
預言者たちは今・ここの具体的な状況において民の罪を告発し、神への立 ち帰りを要求している。このやりとりの集積が旧約人の歴史であった。かく して、旧約人は自らの心魂の内面において神の臨在と不在を感じつつ、今・ ここの神との交わりにこそ自分たちの信仰の生命線を見ていたと言うことが できる。救いが自らの外にイエス・キリストのうちに明確に立てられた新約 とは異なり、エルゴンの神の隠れと顕現のもとに自らの心の up and down のなかで自らの心の状態が常に問われていた。「詩篇」はその記録であり、 敵への執り成しを祈る余裕はなかった。旧約人は神について「隠れています 神」と呼ぶことがあるように、十全な神の顕現が与えられない(Isa. 45:15, Deut. 29:28)。「いつまで主よ、隠れておられるのですか。御怒りは永遠に 火と燃え続けるのですか」(Ps. 89:47–49)。新約においては、この訴えはな されえない。なぜなら、旧約において待ち望んだ「贖い主」、「仲保者」が到 来したからである(Job. 9:33, 33:23, Isa. 43:13, 47:4, 49:7, 54:5)。
しかしながら、顕現も報告されている。ヨブが神の正義を疑い問いかけ 追及したはてに、神が旋風のなかから顕現して言った(神義論については、 千葉 2018, 456–462)。「これは何者か、知識もないのに、言葉を重ね、神 の経綸を暗くするとは。男らしく腰に帯をせよ」と応答したその時に、そ の事実だけで、ヨブの一切の懐疑は払拭され、喜びに満たされている(Job. 98
38:1–3)。イザヤは「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」の顕現に恐れ慄き つつ「滅び」を覚悟したが、火鉢による唇の清めにより「汝の咎は取り去ら れ、罪は赦された」という今・ここの罪の赦しの経験にいたっている(Isa. 6:3–7)。旧約人はこの今・ここの働きを求め、何らかの顕現により満たさ れつつ待望を続けた民族であった。
6. 結論
エルゴンの神、即ちひととその都度の今・ここにおいて関わる神が前史と して描かれなかったなら、父と御子の協働行為としての福音は正しく福音と して位置づけられなかったことであろう。あの準備期間においてこそ、同一 の神の御子の派遣の必然性と、さらには罪と死の克服としての受肉、宣教、 受難、復活の主は正しく理解されるにいたる。かくして、他の民族の歴史か らはナザレのイエスは誕生しなかったという理解は道理がある。同様に生と 死も旧約のあの禁欲的な準備なしに、総合的な理解はかなわなかったであろ う。
もしユダヤ人の歴史のなかでの受肉はもとより、何の歴史的交流なしに UFO のようにアブラハムの時代に神が全人類に突然現れ、神自身が人類の 創造者であることを知らしめたとして、それは人類の歴史になんら関わらな い神である。その神による救済は棚ぼた式であり、多くの人はたとえ宇宙船 を操る認知的卓越性を認めたとしても、人格的な正義(公平)と愛(憐み) の両立を知ることはなかったであろう。即ち、信に基づく正義を介して自ら の罪が贖われたこと、罪と死に対して勝利が与えられ、懲罰としての死が永 遠の生命に飲み込まれたその神の愛を信じるに至らなかったであろう。
「見よ、わたし[パウロ]は汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつ くということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間 に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者た ちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれら もまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが 朽ちないものを着させられそしてこの死ぬものが不死を着させられねばなら ないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを死ぬものが不 死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事にな 聖書の死生観 99 るであろう。『死は勝利に飲まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにあ る、死よ、汝の棘はいずこにある』[Isa. 25:8, Hos. 13:14]。罪が死の棘で あり、罪の力能が[罪の]律法である[Rom. 7:23]。われらの主イエス・ キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する 兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主 にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固た れ」(1Cor. 15:51–58)。
ユダヤ民族の歴史の展開においてモーセ律法(「業の律法」(Rom. 3:19– 20, 3:27))が先ず神の意志として啓示され、その正義の規準との関連で神 への背きが告発され、この民は祝福とともに罪の懲罰を受けてきた。そのな かで時が満ちてもう一つの神の意志(「信の律法」(3:27))が御子の受肉と 信の従順の生涯により福音として啓示されている。罪とその値である死が克 服された。
新約の視点から「へブライ書」記者は旧約の人々をこう特徴づけている。 「この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、 約束されたものを受けとならかった。神はわれらのために、さらにまさった ものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結されることがな いためである」(Heb. 11:39–40)。旧約人は新約人を待って初めて彼らの生 が何であったかが初めて明確にされ、完結されるものであった。
旧約人の宿命として、彼らは神と自らの交わりのエルゴンの積み重ねをア ブラハムの信とモーセ律法のもとに続けた。そこには祝福と懲罰の経験が あった。自らの心魂を離れて神の審判に耐えうる力はなかった。新約人は自 らの外に、イエス・キリストのうちに自らの救いの力を見出した。旧約人は 明確な知識をもたずにも神の義と愛という一本の道を忍耐のもとに歩み続け たそのただなかに、キリストを待望するエネルギーが蓄積されていったので あった。 100
注 1) 新約からの引用は私訳を用い、旧約からの引用は基本的に日本聖書協会『新共同 訳』(1987)を用いる。
2)「天」は旧新約全体で約 650 回使用のうち「天から」は旧新約それぞれ約 60 回現 出、「御使い」は旧約で約 50 回、「天使」は新約で約 200 回現出。前掲辞典。
3) 本稿は多くの箇所において千葉(2018)の論述を前提にしており、関連ないし詳 述箇所は本文内で示す。
4) この文章で旧約の記者の一人であり神を表現する際、固有名「ヤハウェ」を用いる 「ヤハヴィスト」においては具体的な記述が多く定義を企てることはないとされて いる。これはこの文書一般の傾向であり、理論的な展開よりも神とひとの具体的な 関わりが記録されている。
5) 生命と魂そして永遠の生命につらなる霊について、即ち、聖書が展開する心身論に ついてのより詳しい議論は、千葉 2018, 第四章「パウロの心身論」を参照された い。
6) カトリックとプロテスタントにおいて、最初の人間の腐敗はどれほど著しいかの論 争がある(千葉 2018, 第八章、九章第二節一)。カトリック教会は 4 世紀ヒエロニ ムスによりラテン語に翻訳されて以来聖典とされた Vulgata 版を 1970 年の Nova Vulgata において、アダムの原罪が血を介して遺伝的に伝わるという遺伝罪という 考えの典拠とされることもあった箇所(「ローマ書」5:12)の翻訳を修正している。 罪は神の前の概念であって自然的な概念ではなく、罪の遺伝子が子孫に伝達される という類の議論はなされえない(千葉 2018, 上巻 32, 705–710)。遺伝罪という理 解は既に克服されたとして、人類はすべて神の前に罪を犯したと理解されている。 アダム以来、ひとびとはずっとアダムを「模倣」(ペラギウス)してきたと理解さ れる(千葉 2018, 第六章 147)。あるいは、「模倣」という言い方が躓きを与える とすれば、神の前に一度は嘉みされなかった者として振る舞ってきたことになる。 「すべての者は罪を犯した」(Rom. 3:23, 5:12)。
7) 旧約人は新約において知らされているキリストの一つの身体を形成するそのような 共同体や教会の観念をもたなかった。C. H. マッキントッシュは言う、「個々の霊 の救と教会を一の特別の存在として聖霊によりて組成する事とは全く別事である。 ……旧約聖書にはどこにも教会の神秘について直接の啓示がない」(C.H.M. 1927, 16, 18)。「エペソ書」において使徒は言う。「キリストの奥義は、今彼の聖なる使 徒たちと預言者たちに霊のうちに知らされたようには、[彼以前の]他の時代の人 の子たちには知らされてはいなかった」(Eph. 3:4)。
8) フォン・ラートは J. ウェルハウゼンの問いを紹介する。「宗教的な動機をもった誠 聖書の死生観 101 実な人たちが、それほど長く、死後の永生への希望なしにありえたのはなぜか」。 ラートはこの問いが事実に即したものではないとし、「なぜなら、旧約聖書には、 死後の生に対する要求はないから」と理由を提示する。しかし、これは人間本性か らして、また生死の本性に鑑みて、旧約人に対する過度の要求、また過度の特殊民 族性への要求が含まれている(フォン・ラート 2021, 67–68)。
参考文献 木田献一/和田幹男監修 1997:『新共同訳聖書コンコルダンス:聖書語句辞典』キリ スト新聞社。 千葉 惠 2018:『信の哲学』上巻、北海道大学出版会。 フォン・ラート 2021:「旧約聖書における生と死についての信仰証言」『ナチ時代に 旧約聖書を読む:フォン・ラート講演集』荒井章三(編訳)、教文館。 C.H.M(Mackintosh, C. H.)1927:『創世記講義』黒崎幸吉(訳)、一粒社。 Von Rad, G. 1978: Theologie des Alten Testaments 7 Auflage, München: Kaiser Verlag. 102
Life and Death in the Bible: From Accumulations of Expectant Waiting in Preparation in the Old Testament to its Fulfillment in the New Testament CHIBA Kei
There is a salient difference in the treatment of life and death in the Old and New Testaments which are edited as a consecutive Book. While there are few appearances of passages in which people yearned for eternal life in the former, plenty such passages are found in the latter. Jesus Christ is truly a son of God and truly a man as the Mediator between God and man, whose resurrection is supposed to have taken place only once in human history. The event of his resurrection led to a leap in understanding life and death among people who received the Gospel which the Old Testament had prophesied. Gerhard von Rad explained the attitude of the Israelites in the Old Testament as ‘this worldliness.’ By opposing this characterization which inevitably severs life from death, and things before God from things before man, I explain why ‘there is no demand of life after death’(Rad) in the Old Testament. God associated with the people in the Old Testament through natural phenomena such as floods and meteorites, by allowing Himself to be described and personified with emotions such as regret and anger. This is an expression of God’s mercy to be understood by those who do not know the Mediator. God is at work here and now through natural phenomena in the Old Testament and through His only son in the New Testament. In the latter, we can understand God not only by His unsevered acts between Him and man through the Mediator here and now, but also by the lucid universal account that shows God’s will and cognition revealed in His son without appealing to Holy Spirit’s work of intercession. Therefore, we can call the God of the Old Testament as ‘God of ergon (being at work here and now)’ and Him of the New Testament as ‘God of both ergon and logos.’