山上の説教―山のうえにおかれた街は隠されることができない—

山上の説教

 「山のうえにおかれた街は隠されることができない」

(録音は基本的に以下の文章の朗読ですが、全体が以下の文章において改善されています。文章において補っていただければ幸甚です)。

はじめに—自然と信仰の循環を可能にする確かさ—

 この夏の異常な暑さ、そしてアドヴェントの冬のひきしまった寒さの日々。歳月の移ろいのなかで四季は巡りゆく。この確かな自然法則のもとにあることの恩恵、自然の循環の恩恵を思う。それと同様に、神のキリストを介した憐み、神にはわれら一人一人が独子をたまうほどに値高き者と認識されていることの憐み、これがひとを動かし、そこに信仰生活の循環を引き起こす。神の憐みへの信仰そして信仰に基づく正義・義、さらに義の果実としての愛へさらにはその愛の不十全性の自覚のもとに悔い改め、神の憐みに立ち戻る。この信仰生活の循環も確かなものが明確に中心にあるからこそ、望むらくは中心をめぐり螺旋的に深化しつつ、繰り返すことができる。神の憐みの先行性こそ、恩恵に他ならない。

一、山上の説教の主題—天の父のみ旨—

 ナザレのイエスによる山上の説教は広くは「いかに生きるべきか(pōs biōteon)」(アリストテレス)という倫理学の問への限界的な生の描写として人類がもちえた最も理想的な道徳的生として今日に伝えられてきた。この説教の故に、ひとは或いは遵守の困難さにまた現実生活との折り合いのつかなさに絶望や無視のうちにうちすごしてきた。或いは、ひとはこの印象の強い一群の言葉を記憶に留め廃棄せず受け止めて来たという事実、誰かにより語られねばならなかったものの喜ばしき伝承において、人類に絶望しない証と捉えられた。この究極の道徳を説き、信の従順の故に自らその教えを生き抜いた人がひとりおり、そこに偽りがなかったからこそ「権威」(Mat.7:29)があったと報告されている。この人は人間本性、人間とは何かの理解をめぐり、父のみ旨の行使を介してその報いとして「天の父の子となる」(5:45)ことを教えた。

  このあまりの尋常ならざる教えに、或る人は純化された律法の遵守が目的ではなく、遵守困難さを知らしめ福音に追いやる機能を持つ、或いは心情において善い意志を持つ限り、果実がなくとも善い木であり、その善意志だけが問われていると解し、また或る人は終末が切迫したなかで、倫理的にこの世に別れを告げ完全な妥協のない新時代への備えと解されてきた(H ヴェーダー『山上の説教』序章参照(日本キリスト教団出版局 2007)。

 ナザレのイエスは、しかしながら、揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いた思われる。さもなければ、彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教説を説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。

 彼はこの説教において聴衆の置かれた圧制、貧困、病、無学等の現状を正面から引き受け、宗教的、神学的な用語をほとんど用いず、奇蹟の執行も聖霊への言及もなく、道徳的次元を共有しつつ、福音を指し示す。彼は、対人論法により、天と地の媒介者として日常経験することによりイメージ喚起力の強い光や雨、野の百合空の鳥のような自然事象、そして自らの言葉を媒介として天と地の連続性を神の憐れみのもとに明らかにしていく。

 イエスは、光の透明性のなかで、天と地は薄い皮膜一枚に隔てられているように捉えており、その隔ての被膜そのものが光のゆえに透明にされ、連続的な天と地を隠れなき光のもとに捉え直す。「君たちは世の光である。山の上におかれた街は隠されることができない。・・このように君たちの光を人々の前に輝かせなさい、それは人々が君たちの良い働きを見て、君たちの天の父を崇めるようになるためである」(5:14-16)。彼はその透明な光のなかで、王であれ無一物であれこの世のいかなるものにも満たされないその霊によって貧し者、その心によって清らかな者、義に飢え渇く預言者的な生を純化し、彼らを祝福する。また「君たちは昔の人々にこう語られたのを聞いた。・・しかし、私は言う」(5:33)とモーセに授けられた神と人への正しい交わりの律法を先鋭化する。これらの純化、先鋭化はイエスの生涯を確認するとき、彼がはからずも自らに課した生であり、彼はその預言者的また律法的な生を十字架まで生き抜き、最も低い所に祝福の安全網を敷いた。

二、山上の説教における信の根源性

 イエスは「イスラエルの失われた羊」(15:24)に遣わされたという自覚のもとに、「群衆が飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ」(9:36)。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、かしこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や良きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。主の祈りにある、「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。

 天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は「まず、ご自身の御国とご自身の義を求めよ」(6:33)と父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は良いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(7:7-8)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。

 旧約の信に基づく義の先駆と共に、この教えはイエス自身により実践され、その後義認の系譜として連綿と受け継がれる。父なる神は御子の信の従順の生涯を嘉みした。「神の信」に対応する御子の信の従順の生涯がひとの神への信を基礎づけ、信の本性である双方向性、互恵性を基礎づける(Rom.3:3)。「まず、ご自身の義」に示される根源的な信には信の応答のみがふさわしい。それ以外、何によって神に対面するのか。十字架上の御子の父への望である人間の罪を赦すことをかなえるべく、神は御子を血による贖いとして「差し出した」(Rom.3:24)。神は「イエス・キリストの信」(Rom.3:22)、十字架に至る御子に帰属した信を介して「君たちに御子の義をあげよう」と差し出された。われらはただ「ください、ありがとう」と言って受け取る。これが父と子の信に基礎づけられる、ひとの信の根源性である。この根源性は「信仰のみ」、「信仰+αではない」という仕方で語られることがある。ルターは「われらは乞食だ、それが本当だ」と言い憐みを求めつつ死んだと伝えられる。その彼は「信仰とはくださいと言って差し出された手である」と言う。何を疑う、求めよ、さらば与えられん。

 イエスは自らの信の歩みの途上において、信の根源性による他の一切の秩序づけをこう語る。「君たちの天の父は、これらのもの[衣食住]がみな君たちに必要なことをご存知である。まず、ご自身の御国とご自身の義とを求めなさい、そうすればこれらすべてのものは君たちに加えて与えられるだろう。だから、明日のことまで思い煩うな」(6:32-34)。

 神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせていたまう。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日を野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐れみへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。

 かくしてイエスはその一挙手一投足において信の従順の成就に向かいつつ、山上の説教において旧約の道徳的次元を内側から破ってアブラハムらに先駆のある福音を打ち立て、そのもとに新たに律法を秩序づけている。旧約の古い革袋を破って新しい天の国の生命と祝福があふれ出す。モーセの「業の律法」に基づく義は旧約律法の革袋に注がれ、福音の「信の律法」の革袋に天来の新しい生命が注がれる(Rom.3:27)。イエスは言う。「人々は新しい葡萄酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けて葡萄酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい葡萄酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。

三、先行する神の憐れみへの信仰

 天と地の連続性において神の憐みが先行する。イエスは人間が髪の毛を白くも黒くもできず、「思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすこと」(6:27)もできないのと比し、天の父は認知的、人格的に完全な方であると伝え、憐み深い父のみ旨を行うことにより、ひとも完全な者になると励ます。「わたしは君たちに言う、敵たちを愛しなさい、自分を迫害する者たちのために祈りなさい。君たちが天にいます君たちの父の子となるためである。父は悪人たちにも善人たちにも太陽を昇らせ、正しい者たちにも不正な者たちにも雨を降らせてくださる。・・そのとき、天の父が完全であるように、君たちも完全であることになろう」(5:44-48)。天の父は人間の善悪、正邪の道徳的次元以前に人類に対し分け隔てなく憐み深い。

 この説教においてはその憐み深さは言葉で伝えられているが、イエスは信の従順を貫きつつあり父のみ旨を十字架上で遂行した時点において、言葉と行い双方によりイエス・キリストを介して神の憐れみ深さ、福音が最も明確に知らされるに至る。その意味において律法から福音への橋渡しの現場が山上の説教である。イエスは生の現場で自らが共にいるとして招く、「疲れた者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙っていることを。君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。わが軛は負いやすくわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信であり、イエスは単に言葉のみではなく自らと共に生を歩むよう励ます。それ故に彼の実人生のただなかで信の対象は天の父のみならず、彼において顕されつつある神の憐れみへの信となる(Rom.10:9,8:39)。

 

四、二種類の神の義と神との共知としての良心

 山上の説教では二種類の神の義が語られる。それは、信に基づく義と「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」(5:20)と語られる文脈における業に基づく義であり、旧約のただなかで福音が切り開かれていく。業に基づく義は旧約律法において語られ、「業の律法」即ち「モーセ律法」(Rom.3:20,27,1Cor.9:9)は神の山におけるモーセに対する神の顕現により知らされている。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。しかし、信に基づく義は端的に神の前のことがらであり、神の判断に属する。そして神の判断は御子の信の生涯に明らかにされており、そこでの信の対義語は信じないというよりむしろ裏切りであり、人は信による証を立てていく。

 光が媒体を透明なものにするように、神は「隠れたことを見ている・・願う前から君たちに必要なものを知って」おり一切が明瞭なものとして眼前にある(5:6-8)。これほどの透明性のもとでは心は隠すことができず良心が神の言葉を相手にすることにより研ぎ澄まされていく。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなく、これらは神ご自身の認識であり、「神に明らかなことがらが君たちの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 自らにはとりわけ厳しく、隣人にはひたすら善意のもと赦すそのような教えは良心の咎めを容易にもたらす。良心の痛みの除去は神がキリストにおいてわれらを理解しておられることを共に知るときである。この共知についてパウロは言う、「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えないためである」(Rom.6:6)。この「われら」の知識主張は聖霊の今・ここの媒介なしに理解できない。聖霊は二千年前と現在を自由に往来し、聖霊があの二千年前の過去の出来事が「われらの古き人」の死であると神が看做してい給うことを呻きを以て今・ここで執成している。「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものは何もない」その信において良心の咎めは拭われる(Rom.8:39)。イエスが「この女性の多くの罪は赦された、というのも多く愛したからである」(Luk.7:47)と語るとき、罪赦されたことの徴は愛し得ることにあることを知らされており、イエスの軛に繋がれ愛敵の道に歯を食いしばって共に歩む、そこに罪赦されたことの証を得るからである。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。その方は永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として「神に即して」(Rom.8:27)執成していたまう。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,22:40)。「敵をも愛する」隣人愛に他のすべての律法を秩序づける。彼は野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道の究極に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において山上の説教を語り生き抜いていた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。

五、旧約の善悪因果応報から新約における「贈り物」へ

 天地の連続性は以上の二種類の正義の法則によって秩序づけられている。天と地を包括する法則が働いている。旧約的な文脈にある山上の説教においては、それは勧善懲悪の善悪因果応報或いは「跳ね返りの法則」と呼ばれよう。行為主体の態度如何が問われ、行為選択の法則はこうまとめられる。「もし君たちが、人々が君たちに為してくれるよう欲するものごとがあるならば、そのかぎりのすべてのものごとを君たちもまた彼らにそのように為さねばならない。というのもこれが律法であり預言者たちであるからである」(7:12)。イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、良き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。

 他方、跳ね返りは悪意や偽りにも生起する。「目には目を、歯には歯を」(5:38)のような同害報復をも含め、相対的な分配としての正義は因果応報として一種の跳ね返りを持つ。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)。或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)。悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。この道を歩む者は「すべての律法を満たす義務がある」(Gal.5:6)、「律法を行う者が義とされる」(Rom.2:6)が、誰もそれを充たし得ず、すべての口が塞がれる。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。律法を介した神による罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。

 山上の説教において敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。パリサイ人の誇りと自己義認には背後に過剰を欲する「貪欲な狼」が支配している(7:15)。外見上の善行のご褒美には貪欲に基づく誇りが伴う余地がある。。業の律法は端的ではなく、相対的、外見的、比量的な正不正を問題とする。

 同様に、自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨ではない。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。・・神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように」(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。人は神の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を判別する。豚には真珠ではなく飼料を与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。

 親切と高ぶりのもとに裁きを遂行することには天と地の包括的、長期的な善悪因果応報のもとに跳ね返りがあるであろう。そこで「報い」は一つの対人論法において用いられ、功績や罰を問う因果応報と呼びうる次元で語られる。旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐れみの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:22)であり、その応答が受領、承認としての信である。

 神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。というのも、神の前ではこの「報い」は十字架上で「赦してやってください」というイエスの願いを父なる神が聴き届け、かなえる「贈り物」と理解すべきことがらだからである(Luk.23:34)。「報い」は第一に御子の信の従順への報いである。イエスへの信頼が神に嘉みされ、功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実がこの言葉「報い」において理解される。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。無比較的、端的な善がそこにある。パウロは言う、「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである」(Rom.3:27)。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。

六、結論

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

Previous
Previous

山上の説教は福音である

Next
Next

聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?