聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?

聖書の死生観(5)―何故旧約聖書には永遠の生命への希求がほとんど見られないか?

 これまで、ヨブ記や詩編、イザヤ書、エゼキエル書への参照のもと幾つか箇所で永遠の生命への要求とまではいかないが希求のみられることを確認してきたが、確かにフォンラートが言うように、新約聖書と比する時、一目瞭然にその数の僅かさに驚かされる。楽園の追放から御子の派遣までの準備期間として、預言はされていてもキリストを知らない民においては、今・ここで自然や人を介して働きかける主との応答に忙殺されていたということは言えるであろう。とりわけ、詩篇14篇に見られるように、神との関わりにおいて罪を指摘し続けられるとき、確かに永遠の生命を神に要求することはおこがましいことと看做されたこともその一要因であろう。キリストの復活の生命が証する永遠の生命への求めは見られないにしても、今の充溢、時との和解としてのボエチウス的な永遠は旧約人にも知られていたと言うべきである。というのも、彼らは愛を知りまたその感情実質である喜びを知っていたからである。ボエチウスは「永遠」を必ずしも時間の持続として捉える必然性はなく、「全的な、限定なき生の同時かつ完全な把握(Aeternitas est interminabilis vitae totae simul et perfecta possessio)」と規定している。これは新天新地としての神の国の永遠の持続と矛盾するものではない。というのも神の国をボエチウス的な意味での今の充溢と理解することができるからである。放物線が接線に触れるように、来たりかつ去り行く運動の一種としての時間の流れの矢に、現在が後悔のような過去により支配されることも、また焦りや不安のように未来により支配されることもなく、時との和解としての今の充溢として捉えることができる。これは永続の一つの現世的な徴であると言える。最も現在的な感情は喜びであり、喜びがあるとき、そこには現在をそのまま肯定しており、そこに希望がわいている。いつも喜んでいる人には放物線が次々に降りてきている人であると言える。

 このような意味での永遠は旧約人の経験するところであった。「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名を褒め詠い、朝ごとに、あなたのまことを宣べ伝えることは 十弦の琴に合わせ 琴の調べにあわせて。主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます」(Ps.92:1-5)。キリストにより永遠の生命を受けることのない者にはこの主への賛美と感謝において、今の充溢に生きていたと言える。旧約は永遠の生命のロゴス・理論をもたなかったが、実質的には永遠の徴は十分に経験されていたと言える。

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聖書の死生観(4)永遠をめぐって