迷信でも狂信でもない正しい信
日曜聖書講義 2022年9月25日
聖書 詩篇139篇1-18
1主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。
2座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
3歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。
4わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。
5前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。
6その驚くべき知識はわたしを超え、あまりにも高くて到達できない。
7どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
8天に登ろうとも、あなたはそこにいまし陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。
9曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
10あなたはそこにもいまし御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
11わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
12闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
13あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
14わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている。
15秘められたところでわたしは造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
16胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている、まだその一日も造られないうちから。
17あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
18 数えようとしても、砂の粒より多くその果てを極めたと思っても、わたしはない、あなたの中にいる。
迷信でも狂信でもない、正しい信
1 迷信と狂信とは
カルトの非道を背景にした衝撃的事件が起き、今、宗教における信の正しさが問われている。カントは信における理性の逸脱を「狂信」、感情の逸脱を「迷信」と呼んだ。正しい信は理性と共存でき、感情や欲求等に対し善き態勢(例、恐怖に勝つ勇気)を涵養する。「不条理(3+5=10)故に信じる」(一教父)等の偽りや、恐怖に陥れ誘う卑劣さは許容できない。信の正しさが保証されるのは、信仰対象の教えに即す時、聖書的には啓示された神の意志に即す時である。神による人間認識、意志は歴史上御子の受肉と信の従順において最も明白に知らされ記録されている。
しかし、そこに循環が疑われよう。神の啓示に基づく信の秩序づけは人の願望の反映であって、願望に基づく信仰により信仰の正しさを主張する無限ループの自閉が待っている、と。信仰はどこまでも意識のなかに留まる、と。しかし、信仰の自家中毒の主張はブロックできる。聖書の報告が人間本性を開示する限りまた無矛盾である限り、信仰心即願望の投映から逃れうる。
2道徳の基礎となる魂における信の根源性
イエスは人類が本性上道徳的存在であることを人間の真実として一歩も譲らなかった。愛は喜びだからである。山上の説教はモーセ律法を純化し道徳の極限を示したが、イエスは「まず神の国とその義を求めよ」と信仰に招き、自ら「神の子の信」(Gal.2:20)により山上の教えを生き死により律法を成就した。この教えある故に人類に絶望しないその確かさが示され、人々は連綿と信の喜びのもと道徳者を自らの本性と認め、信から愛の道を歩んだ。信の正しさは徴を求めず証を立てる。外に立つ福音故に蛇の自己食尽の無限回転を止めうる。
3知性の基礎となる魂における信の根源性
知性の確かさも循環を止める。パウロの「ローマ書」は明確な方法論「ロゴス(理論)とエルゴン(聖霊等の働き)により」展開されており、「聖霊は体験あるのみ」にならず、その明確な理がある(15:18)。「ローマ書」は言語層が五つに分節されうる無矛盾の議論が展開されており、神の前(神の義を示す「信の律法」と「業の律法」の啓示)と人の前(人間中心の議論)そして双方を媒介する聖霊の働きをめぐり整合的な言語網が形成されている。「信の律法」下にある「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、その信仰が義と認められる」が「業の律法」下にある者に神は「その業に応じて報い」「律法を介しての[神による]罪の認識がある」故に「義とされない」(3:27,4:4,2:6,3:20)。二種の神の義に矛盾はない。
彼は「知恵者にも責任がある」とし信仰義認(1:17,3:21-4:25)と予定(9:6-11:32)を聖霊への一切の言及なしに「神の知恵」として説得する(1:14,11:32)。転じて、彼は5―8章で「われらの弱さ」(8:26)に宿り呻きつつ神の意志を執成す聖霊の働きを自らの今・こことして報告する。「真理とは何か?」(ピラト)への一応答は真理の対応説であり、彼の5-8章の議論が実際今・ここで働いている聖霊を捉えた場合に真となる。その言明と世界の対応を一旦括弧に入れた真理論「整合説」によれば、言語網それ自身が無矛盾に構築されている限り真である。
4心底でキリストの出来事は自らのことであるという神の理解を伝達する聖霊
「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている(現在完了)」(5:5)は発話の時点で聖霊の注ぎなしには偽となるが、「神の愛は心に宿る聖霊を介して注がれる」によりその働きを一般的に理解できる。過去形表現「キリストにある者たちは諸々の情と欲とともに肉を磔た」(Gal.5:24)により、「風」の如く時空を自由に往来する聖霊がゴルゴタ上でわれらの過去の罪が処分されたという神の認識を心奥で伝達執成している。聖霊はあの出来事に眼差しを向けさせ、人は十字架を仰ぎ見、その都度情と欲と共に古き自己を磔ける
5言葉と働きに分裂なき信の根源性に生きたイエス
イエスは譬える、「天国のことを学んだ者は新旧のものをその蔵から取り出す一家の主人に似ている」(Mat.13:51)。人生の最重要事の学習者は生全体を見渡し大事小事、新旧を判別し秩序づけ導く。イエスは天父と子の絆の信の満ち溢れにより言葉と働きの分裂なき幼子をその全人格において生き抜いた。魂の根底の信の喜びが良き働きを生み栄光を証しつつ賢者と聖者への道を歩むとき、誰も狂信や迷信の誹りを浴びせることはできない。