心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法―
心の清い者は祝福されている―業の律法と信の律法
日曜聖書講義 2022年7月31日
[録音は3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性」は割愛割愛]
聖書
「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。
27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。
序
今学期は、業の律法からの解放について主に学んできた。ひとは誰もが自らに善きものを求めて生きている。これは誰もがなにがしか善悪を判断しつつ生きている道徳的存在者であることを告げている。人間はどんな極悪人でも本性上道徳的存在なのである。今学期も戦争や犯罪等多くの悪に直面し多くの地球人は苦悩に沈んだ。聖書によれば、それは福音によってではなく業のモーセ律法のもとに生きているからだとされる。この消息をめぐって学んできたが、今学期最後の日曜聖書講義にあたって、復習をかねて業の律法と対比される信の律法の福音に学びたい。
1.イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生
今日までの人類の歴史に鑑みてまた自らの良心に照らして、ひとの心魂(こころ)の根底からの偽りなき生の在り方をめぐって、あらゆる懐疑の末に残される確かなものは聖書に記されているナザレのイエスの言葉(ロゴス)と働き(エルゴン)である。彼の言葉と働き、その一言一句および一挙手一投足に侵しがたい権威があり、その人格と認識、教えに抗しがたい魅力、引力がある。その「権威」(Mat.7:29)は言葉に偽りがなく言葉と働きに乖離がないところからおのずと生じるものである。彼の言葉と働きは常に彼の「神の子の信」(Gal.2:20)、「天の父の子」(Mat.5:45)の信の根源性のもと父と子の分かちがたき人格全体から溢れ出ている。彼に信従する限り肯定的、創造的なるもの、聖なるものが歴史に生起する、そして人類の悪に終わりがくる、そのような希望が心魂の内奥に湧きあがる。イエスの言葉と働きには人間であることの真理のそして宇宙万物の真理の根源の理(ことわり・ロゴス)が内在していた。パウロはそれを「福音の真理」(Gal.2:5)と呼んだ。
イエスは山上の説教(Mat.ch.5-7)において彼が「天の父」と呼ぶ神に祝福される八つの心的態勢を天国における慰め、満ち足り、喜びとの関係において語った(Mat.5:1-12)。柔和な者、憐み深い者、そしてこの世の何ものによっても満たされないその霊によって貧しい者(ptōkoi tōi pneumati :行為主体agentの与格)、かくして神の正義を渇き求めそして義のために迫害されながらも平和を造らずにはいられないその心によって清らかな者たちが神のお好のみなのである、愛しい者や大切なものを失い悲しむ者とともに。ナザレのイエスは少数の弟子と高い山に登ったとき、輝きに満たされ変貌を経験したが、そのとき父なる神は「わが愛する子、その彼をわたしは嘉みした」(17:5)と祝福した。その八福を語る方は実はリアルタイムにその八つの祝福を生きる方であった。イエスは山上の説教のもとに生きそしてそれの故に死んだ。
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。イエスはご自身の言行一致がもたらす権威のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて道徳的次元をその内側から破り出て、「まず神の国とご自身の義を求めよ」(6:33)と信仰に招いている。信仰への招きは素朴であり、天の父への信頼のなかで、彼は「悔い改めよ」や「信ぜよ」という類の宗教的な命令を語らず、「信・信仰(pistis)」も「罪(hamartia)」も類似語を除いて直接に語られることもない。さらに、そこでは聖霊の賦与も、奇跡の執行や悪霊の跋扈も報告されてはいない。
山上の説教において、彼は野の百合空の鳥に囲まれながらユダヤ人として伝統的な道徳を自ら引き受け、ひとはそれ自身として十全な道徳的存在者たりえず、信仰の次元なしには道徳的に十全足りえないことを、言葉のみの力により論証している。道徳次元の内破による新たな関係づけは自然的な父子との類比により遂行されており、イエスはガリラヤの自然のもとで道徳的伝統を思い出させながら聴衆を新たな教えに導き道徳の再生を試みいている。教えは驚嘆すべきものであるが、そこにいかなる熱狂主義的な要素が見られないのはひとが道徳的存在者であることを彼が一歩も譲らないことに確認される。
ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時の彼らの伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、ユダヤ人の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心(ふたごころ)に潜む偽りを指摘する。イエスはそこで彼らが依拠するモーセ律法を急進化、内面化そして純化する。その論法はまず定型句で「汝らは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは汝らに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。それは殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される。
イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:43-46)。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。
とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。
その説教において乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人前での善行により人々からの称賛と有徳を誇り、律法の形式的遵守の故に正義を主張し、その結果天国を正当な権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:5,6:17)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。背後に過剰を欲する貪欲が支配している。
イエスは律法の遂行においてパリサイ人の義に優るのでなければ、天国に入れないとして言う、「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ここでパリサイ人との関連で語られる「汝らの義」はまず業のモーセ律法の遵守による正義のことを意味していよう。イエスはモーセ律法を純化し極性化して言う、「敵をも愛せよ」。人類はこのイエスの戒めに、一方で人類への絶望から解放される教えを受け取り、他方、山上の説教の前に身がすくみ、懐疑と反論を提示してきた。山上の説教は一方では人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、人類の誰かによって語られたことただその事実によって人類に絶望せずにすむと思われよう。他方では、「律法は怒りをもたらす」(Rom.4:15)とあるように、これが告発者となり、これを語ったイエスは人間にはとうてい満たしえない心的規範また行動規範を与えており、誰にも負えない重荷を負わせ、道徳的苦悩をもたらすだけなのではないか、彼はそれによって彼の追随者たちをただ神の怒りのもとに怯えさせ苦しめる者なのではないか、説教それ自身は神の審判に他ならないのではないかとの問いと懐疑が提示されてきた。
それらの懐疑への一つの応答は、聴衆は誰もその教えを守り切ることのできないことを知らしめその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすことを信じるよう促しているというルター主義的な理解である。この理解のもとではイエスは純化させたモーセ律法の枠のなかに留まっており、この説教は聴衆を福音に追いやる機能を担っていると主張される。この解決案は律法と福音を審判と救いという仕方で二元的に峻別しているように受け止められるが、生身のイエスご自身が律法の伝統のただなかで福音を確立しつつあるその動的な生きた関係をこそ把握しなければ、この説教は正しく理解されない。
イエスは山上の説教における天国と地獄という共通理解に基づく対人論法の背後に自らが神の子であるという自覚を明確に保持していた。神に対する「天の父」、「父」という呼称は旧約聖書にあまり多くみられないが、聴衆にその理解を促すように十三回用いている(e.g.Deut.32:6,Ps.89:27)。その説教においては、「神の子」や「天の父」が二人称や三人称複数で語りかけられる根拠、裏付けとして、「わたしが来たのは・・」、「わたしは言う・・」という一人称単数による「わたしの天の父」すなわち自らが神の子であることの自覚がある(5:9,5:17,5:22,7:21)。パウロによれば、イエスご自身は父なる神の意志、律法を実現するべく世に遣わされたという「神の子の信」の自覚のもとにあり、「御子の福音」をご自身の言葉と働きにより実現した、と報告されている(Gal.2:20,Rom.1:2)。
イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においてはまみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)が展開されている。「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)。「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上より根源的なものとして判別されうる正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、「司法的正義」も一人である神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものである。ユダヤ人が信奉しその遵守を誇るモーセ律法は比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として功績をもたらすものである限り、道徳的行為主体の責任に帰せられるものである。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」への尊敬を減じることなしに乗り越え、彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。
イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスが人類のなかから出現し、その方は良心を宥める究極的な律法を語り生きまたそれ故に死んだまさにその方である。
2. 古い革袋を破る新しい生命の福音
山上のこの厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからである。イエスご自身は旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。「この杯は汝らのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序づけるべく人類に与えられている。
洗礼者ヨハネは「荒野に呼ばわる声」として、預言者イザヤの言葉「主の道をととのえ、その道筋をまっすぐにせよ」(Mak.1:3)に即し生命をかけて主の到来の道をまっすぐにした。ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けつつ、主の到来を備える最後の預言者として位置づけられる。「すべての預言者たちと律法が預言したが、それは[洗礼者]ヨハネまでである」(Mat.11:12)。ヨハネは言う。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、汝らに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも力強い方である。わたしはその方の履物を脱がせるべくふさわしくない。その方は、聖霊と火で汝らに洗礼をお授けになるであろう」(Mat.3:10-12)。
預言のときは過ぎ、今や試練を表す火と平安をもたらす聖霊による洗礼が授けられる福音のときが到来したと宣言されている。イエスは言いたまう、「時は満ちた、神の国は近づいた。汝らは悔い改めよそして福音を信ぜよ」(Mak.1:15)。預言者たちと律法、それら「聖書全体」は新しく福音のもとに位置づけられる。イエスはご自身の復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から初めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明された」(Luk.24:25-27)。
預言者と律法、「聖書全体」はイエス・キリストを即ち彼の福音をめがけ、証言し指差していた。旧約から新約へのバトンをイエスに渡すことが洗礼者ヨハネの務めであった。モーセ律法を純化させた山上の説教は実はナザレのイエスにより満たされることにより、預言と律法は新たに福音に秩序づけられることとなった。生命の迸りは古い革袋を破ってしまう。預言者と律法の古い革袋は生命の輝きと生命の泉の迸りの福音の新しい革袋に受け継がれる。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。彼は、今・ここにおいて福音を持ち運んだが、その実現の極において、彼を十字架に磔た敵である罪人の罪を贖うべく、罪なき者として罪ある者の身代わりの死を遂げた。神はそれにより愛を人類に示した。「神はご自身の独子を賜るほどにこの世界を愛したまうた」(John.3:16)。
レビ記の記者によれば、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り次ぎ命じる時、「汝自身の如くに」により表現している汝が自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「われは汝らの神となり、汝らはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。
迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜び祝え、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において、友と友、となる希望が生じるからである。その希望に伴う喜びは、愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。
争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された (Mat.7:1,5:33-37,5:31,5:39)。しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。
その秩序づけをイエスは山上の説教において呼びかけそしてその説教を生き抜いた。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその方との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。われらがイエスの言葉と働きによるご自身の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの共同の知識・良心である。たとえ数式により宇宙の法則を解明したとしても、そこでは創造者なる神は超数学者、物理学者ではあっても、天の父と理解されることはない。
或る認知的発動が神との共知であるためには、聖書で報告されている神ご自身の認識、とりわけナザレのイエスの「父」や「天の国」の知見に習熟することが求められる。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわたしに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。何らかの共知を介して自らが自らを告発する良心の咎めに沈むわれらとは異なるところで、異なる想いと異なるはるかに高い道を歩みたまう神の知恵に合わせられるとき、良心の宥めが共知として生起する。その癒された心から業の律法や制度に至るまで秩序づけられるとき、平和への希望と力を得ることであろう。
或るとき、カナン地方の女性が自分の娘を癒していただきたく「主よ、わたしを憐みたまえ」と懇願すると、イエスは「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされなかった」と応答した。そのときイエスはユダヤ人として旧約の伝統のなかに自ら自己規制していたことを明らかにしている(Mat.15:21-28)。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのである。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、その女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女に応えた、「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのであった。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでる。信に基づく正義と正義の果実の一例がここで生まれた。彼の一言一句、一挙手一投足は旧約の制約のなかで信に基づく正義と信義の果実としての憐み、愛の双方の実現に向けられていたのである。
3. 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性
モーセ律法とは十戒に基づくものであり、パウロにより「業(わざ)の律法」(Rom.3:20,27)ないし「モーセ律法」(1Cor.9:9)と呼ばれる。業の律法のもとでは偶像を拝むか・拝まないか、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二つの対立選択肢のうち一方により義か罪が定められる。福音が啓示された今、業の律法の役割は「罪が明らかになるためである」(Rom.7:13)とパウロは位置づけることができた。信を業の律法のもとで遂行するとは自らを行為の選択の規準として立て、信じるかそれとも「信じないか」によって神に義とされるか否かが定まるという考えである。
これは信じるかそれとも「裏切るか」とは同じことではない。「信じない」ことと「裏切る」ことは同じではない。それだけではなくそのように信を業の律法のもとに捉えることは自らの罪が明らかになるだけである。パウロによればモーセ律法は誰もがそのもとでは神により罪と認識され、自ら神に対して申し開きのできない者であり、世界をして神に服従させるべく啓示されている。「われら知る、律法が律法のうちにある者たちに語る限りのものごとは、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服するものとなるためである。かくして、業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:19-20)。救いを求める信仰は貪りではないか等の懐疑は「信ぜよ」のもとにではなく、立派な業を為せという命令のもとで信仰を理解しているから起きる問である。「裏切る」は信仰が一つの業の律法のもとで理解されるさいの対義語「信じない」の二者択一とは異なる(Mat.26:21)。新約における「信の律法」(Rom.3:27)と呼ばれるものは、神がイエス・キリストにおいて約束に信実であり、「神の信」(3:3)を明らかにしたとき、信じるか裏切るかの二者択一を提示している。ひとに対する神の信義がそこでは既に提示され前提にされている。
神の意志としての信の律法と業の律法が判別され、自らがいずれの律法のもとに生きるか明確に自覚しないとき、自らの救いを求め信じることは自己追求、エゴイズムではないか等の懐疑が生起する。信に対するこの種の懐疑や反論は「貪るな」という業の律法のもとに信を従属させることから生じる。信がそのような自己吟味、自己批判のもとにさらされるとき、ひとは知的、人格的誠実の装いのもとに神の前にでないでよいというアリバイを作り、神を避ける自己防衛に走る。「汝ら惑わされるな。神は侮られるような方ではない。ひとは[種を]蒔く場合に、その蒔くところのものを刈り取ることになろう」(Gal.6:7)。「生きています神の御手に落ちることは恐ろしいことである」(Heb.10:31)。信の律法においては神が御子において自らの愛を差し出している。神が提示する戒めに自らの業により応答するかそれとも応答しないか、それとも神が自らの約束に信実であったときその神の信に対し信により応答するかそれとも裏切るのかのいずれかが問われ、旧約と新約いずれの律法を根源として生きるかが問われている。
もちろん旧約聖書においてもアブラハムやダビデにおける信義の先駆的事例は見られる。さらにそれと共に、アブラハムの子孫たちは神によるアブラハムへの約束の信のもとに業の律法の啓示を受け止めることはできたであろう(Gen.17:1-8)。だがモーセの民はその信の根源性のもとに業の律法を捉えることなしに、形式主義に陥り制度化に向かった。アブラハムは信義の証として割礼を施したが、ナザレのイエスだけが、信義の証として愛に向かうことができたのであろう(Rom.4:11)。
新しい契約の歩みの中で、ひとはイエスにより業の執行においてパリサイ人に優ることが求められていた。「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)。山上の律法はイエスの福音に秩序づけられるが、それは正義と愛・憐みが彼の一挙手一投足において実現されている限りにおいてのことである。信に基づく正義と信に基づく愛を実働している死に至るまでのその信の従順こそが福音の成就であった。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。ナザレのイエスの信に基づく言葉と働きが成し遂げた復活において証される正義と愛に基づき、神とひとの和解を理論的に解明することがパウロの課題であった。
「汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:18)。天地が過ぎ去るまで律法の一点一画とも過ぎ去らない、廃らないとは、イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、理解可能となる(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる。人類のなかで少なくともイエスは信に基づき愛と正義を貫いた。この意味において山上の説教は希釈されることはない。イエスは誰にも担いえない心の規範を与え、道徳的苦悩を課す方ではない。そして彼は復活の主として共に重荷を担い歩みたまう。
4.結論
ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験し自覚することなしには、また相手方の状況についての知識なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。