罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)
日曜聖書講義6月12日
罪の誘惑(6)苦悩から葛藤へ(1)
「ローマ書」七章
[この春は罪の誘惑について7章7章を取り上げ取り上げ、繰り返ししかし、視点を変えながらとりくとりくんでいるいる。翻訳はいずれの週もどういつせ同一である]。]
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
1.葛藤と苦悩の種類
ひとは苦しむとき、それは望ましいものとしては一般に受け取られることはない。「ローマ書」七章は、「惨めだ、われ、人間」という叫びをあげる苦しみの正体を分析し、今・ここで「わたし」の肉のうちに巣食っている罪をあぶりだしている。苦悩はひとつの心理状態であり、自ら明確に何により苦しめられているか明らかでないことがある。実際にはそれは何かと何か対立するもののあいだに生じる意識であり、対立項が二項であれ三項であれ明確なものである限り「葛藤」と呼ぶことができる。葛藤はやはり苦悩と同様の意識状態であるが、対立項がはっきりしているとき、語られる。
一般に数種類の苦悩そして葛藤を挙げることができる。(1)生存上の苦悩。今、ウクライナで行われている非道なロシアの侵攻は国民に生存するか死ぬかの苦悩を与えている。これは動物たちが捕食者に襲われているときの必死の逃亡と苦悶の表情に確認できる。人間も自らの生存を脅かす者にであうと、パニックに陥いる。生物にとって、「生きることは死ぬことよりより善いことである」(アリストテレス)が大前提となる。生命の維持成長をめざすことが生物にはプログラムとして組み込まれている。例えば、外的損傷にともない生じる痛みは身体が生存のため、外傷と戦っていることに伴う苦痛である。病気やけがなど、生存をかけた心身の苦悩は生物上のそれとして一つの種類を形成している。
アリストテレスは幸福な人間には死が苦痛となると言う。「勇気ある人がこの徳(苦痛に耐える力)をいっそう十全にそなえ、いっそう幸福であればあるほど、その人は死を心苦しく感じるであろう。なぜなら、そのような人にとって生きることはもっとも価値あることであり、しかもその人には、さまざまなもっとも善いものが奪われるとわかりながらそうした善いものが自分から奪われるがゆえに、自分の死は、苦しいことだからである。しかし、このことでその人がわずかでも勇気をくじかれるということはなく、おそらく、かえっていっそう勇気ある人となるのである。なぜならあのようなもろもろの善いものを代償代償として、戦争における美しさを選ぶからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻9章1117b10ff)。生存上の苦悩はこれらからの回復或いは死により、この種の苦悩は消失する。
(2)経済上の苦悩。生活に支障をきたし、生存を脅かす貧困は苦悩をもたらす。これは(1)の生存上の苦悩に繋がるものであり、この窮境からの脱出は労働により試みられる。経済的な余裕ができた時点で、この苦悩は消失する。さもなければ生存ギリギリの生物的な苦悩へと移行する。
(3)さらに、道徳上の苦悩が挙げられる。これは広いくくりであり、幾つかに分けられる。遠藤周作の『海と毒薬』のなかに、医師戸田は自らの良心の苦悩の発動のなさに、実存(心魂の根底)に何も確かなものがないのではないかという不安を覚える。自らの行為がいかに醜悪であるかは認識できるが、隠蔽し世間に明るみにでない限り、いつの間にか安堵を覚える。これは世間との共知(con-science)として良心(conscience, sun-eidesis)が捉えられている。これは世間から暴露され糾弾され、信用を喪失することへの恐れで葛藤である。ここでは対立項が明確であり、本来そうあるように演じたい自己やそう思われたい自己と世間にさらされる実力なき自己のあいだの葛藤として表現されよう。実際の糾弾や喪失に伴う苦悩が生じるとき、そこには葛藤はもはやなく、白日のもとにさらされる自己に対する羞恥とそれに伴う苦痛が生じる。
(4)アリストテレスは常に目先の快楽を追求する人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス)に服していない放埓さを明らかにするとされる。彼は言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。
ここで明らかにされる苦悩は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。
(5)アリストテレスは意志の弱さがもたらす苦悩を分析している。ひとは現在為すべき最善の判断をもちながら、快楽への欲望に負けて、他の行為を選択することがある。そこに葛藤が生じる。そしてそれを後悔するなら、その者は「意志の弱い者」と呼ばれる。放埓者との異なりは放埓者は快楽への追求こそ至上善であると確信しているため、そこに葛藤は生ぜず後悔が生じない。ただ、何故かを知らず、欲望を充足できないこと、欲望が生じることに苦痛を感じてはいる。何であれ欠乏は苦しいものだからである。
意志の弱い人間は欲望の強さにまた欲望が満たされない欠乏とのあいだに葛藤があり、後悔もある。それは何らかの仕方で為すべき最善の判断を知っていると思うからである。ソクラテスは主知主義を標榜し、「ひとは自ら進んで悪を為すことはない」と語るとき、悪とは誰もが避けたいものだという理解がある。最善のものは追及すべきものであり、善である。それ故に、或る行為を善と知りつつそれを行わないということは想定できず、意志の弱さは存在しない。ただことがら、状況への無知のみがあるとされる。かくして意志の弱さの克服の一つの道は節制ある人がそう振る舞うように振る舞い、節制ある人間になるか、ものごとをよく知り、無知から解放されるかの道が残される。いずれも必要とされるであろう。
(6)パウロが「ローマ書」7章で展開する葛藤は道徳上の苦悩のひとつと言える。この葛藤を解明するが、これまでの葛藤や苦悩とは異なり、パウロは、葛藤を肯定的なものと受け止めていることである。われと律法と罪の三つ巴の葛藤が福音に追いやる機能を担っていると主張している。
2.パウロにおける葛藤の普遍性
福音により業の律法から解放されたことを受けて、パウロは「ローマ書」7章で律法の新たな機能・役割を提示している。それは誰であれ(「汝貪るな」と律法により語り掛けられる)「われ」と「罪」と「律法」の三つ巴の葛藤を引き起こすものとしての新たな役割であった。「わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7;18-20)。律法は善であるが、それを為そうとしても為すことができない自己を見出す。罪が私をかどわかして悪を為さしめるという。もはや自分の力の及ばない超自然的な罪の力によるものであり、自らにもはや責任はないと言っているように見える。ちょうどある種の遺伝子が自らを支配しており、あたかも自分が犯罪に身を染めるのは自分ではなく、自分を支配している遺伝子だと言うかのごとくである。
パウロは罪の責任、帰責は当然各自にあると主張している。信の根源性を否定するユダヤ主義者たちはパウロの信仰義認論を非難して善を来たらすために不義を為そうと罪を礼賛する。「七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:7-8)。帰責は審判というかたちで正確に一切を知る神によりとらされる。罪の誘惑に同意している限り、帰責は免れない。
他方、律法の新しい機能は葛藤させることであった。罪の手下になることはわれらの責任である一方、葛藤の表現としては、望んでいない死を成就している自分は自分の力以外のものに支配され屈従していることになり、この事実を確認しなければならない。「もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる」(Rom.7:16-17)。この罪の支配への隷属の認識なしには救いを求める葛藤はおきない。一時的にそのような自らの力の及ばないものを引き寄せることはあっても、その罪から解放されうる者である限りにおいて、この葛藤が信仰をもっても常に続くということを含意しない。律法を差し向けられた場合に、罪は文字としての律法に寄生するため、このような葛藤が引き起こされるのである。
あくまでも人類の歴史に悪は偶然的に入ったものであり、偶然的である以上、悪から解放されうるものである。それが福音の勝利である。そしてパウロはキリストにあってつまりあの十字架と復活の出来事は神の人間認識を伝えるものであったのであり、キリストにある限り罪は処分されており、罪から解放されてしまっている。他方、肉において途上の生を生きているものである限りにおいて、業の律法のもとに生きることは起きるのであり、そのとき罪の誘惑にあう。信の律法のもとにあり、「キリスト・イエスにある生命の霊」(Rom.8:2)とともにあるとき、罪は決して寄生できない。キリストは罪とその値である死に勝利したからである。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
「汝貪るな」と律法をつきつけられ、「われ」は応答する。パウロは律法の新しい機能として罪は文字としての律法には寄生することができ、その文字としての律法を介して誘惑し生物的な死そして最終的に神の前での死を画策するとが、そこに罪と文字としての律法とわれのあいだに葛藤を引き起こさせることが挙げられる。神の意志である霊としての律法が葛藤を引き起こす。この律法の新しい機能を証明すべく登場するのが「われ」であり、それはパウロであれ、誰であれ律法のもとに生きる者が指示されている。
この「われ」の虚構説はキュンメルによっても主張されている。Werner Georg Kummelは自らの先駆としてAmbrosiasterやPelagiusを引用してこう主張する。「この章句全体の意図は、パウロの単なるひとつの純粋な個人的な体験としてより以上のものである場合に、なるほど律法の弁明に関わる、そしてただそのとき記述されているものを証明にもたらすことができる。この見解の主唱者たちはそれ故に常にはっきりと強調して表明したのは、パウロは彼の固有の体験のこの記述を型として(als typishe)採用しているということ、そして一つの体験を、すなわち律法のもとにあるすべてのユダヤ人にとって或いはすべての人間一般に等しい仕方で適用していることである」(Das Subjekt des 7.Kapitels des Romerbriefs, Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Doktorwurde der Theiologischen Fakultat der Universitat Heidelberg S.84, 1929)。この「われ」はパウロであっても、誰であっても、律法のもとに生きる者は罪の誘惑とこのように葛藤すべしということが教えられている。
3.アリストテレスの放埓者と罪の葛藤者そして神への反抗者
アリストテレスは放埓な人間の葛藤には律法の善性が参与することはないように見える。他方、放埓者は放埓をそれ自身として求め、欲求することはなく、快を求めていることが分析される。「放埓な者は快いものが手にはいらないことに必要以上に苦しむがゆえに「放埓」と言われる。そして放埓な者のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである。節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、「節制がある」と言われるのである」(Nic.Eth.3:11,1118b30)。アリストテレスは魂の有徳と悪徳は各人の力の及ぶものであり、責任ある自由のもとにあると主張する。過剰に快を求めるとき、その欠乏における苦も過剰となる。そこでの葛藤は欠乏充足モデルのなかでいかに欲望を満たすかをめぐる。そこでは悪徳のただなかでの、葛藤となる。善と悪のつまり律法の善と罪の誘惑とそのあいだにはさまれるわれの三つ巴ではない。
パウロによればこのアリストテレスにおける放埓者は確かに自らの責任が問われるものであるが、今・ここで暗躍している罪の誘惑への顧慮がなされていなことになる。アリストテレスは人間類型として放埓者や意志の弱い者を分類したが、パウロはフィクションのなかで、今・ここの三つ巴の葛藤を描き出している。罪は今・ここで「わがうちに巣食っている」。従って、罪が寄生しないことも想定されている。福音が明確にキリストのうちにわれらの救いを確立した以上、罪の誘惑にさらされているときは、ひとは誰であれこのように葛藤すべしと、律法の新たな機能を提示していると語ることができる。
そのとき、神との共知としての良心がめざめることもあろう。律法が突き付けられることにより、われらの「内なる人間」が発動し、こういう仕方で「ああ、惨めだ、われ、人間。誰がこの死の体から救い出すのか」と叫ぶにいたる。この章がパウロの個人的経験に帰すとき、様々な矛盾が生じる。そのためこの章はフィクションであるが、すべてのひとに今・ここに起こりうる現実として、しかも業の律法のもとにある者にはそこから解放されるべく、こう苦悩すべき肯定的な現実として描かれている。
なお、パウロはアリストテレスの放埓者に対応する、後悔もしなければ、7章の意味での葛藤もない人間をも描いている。「二八彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した。二九彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされ、妬み、殺人、喧嘩、裏切り、卑しさに満ちた者である。三〇悪口する者、神を憎む者、高ぶる者、自惚れる者、見せかけの偽り者、悪をたくらむ者、親に不従順な者、三一悟りなき者、不忠実な者、愛情なき者、無慈悲な者である。三二彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけでなく、行う者たちを是認さえしている」(Rom.1:28-32)。ここでは放埓な者は「彼らはあらゆる不義で邪悪な悪しき欲望に満たされている」と描かれている。その者たちにおける欲望がもたらす苦悩については記されてはいない。或る意味ではもっと罪と同化し心魂が破壊された者たちを描いている。放埓な者の欲望を満たしえないことへの苦悩は自らの基本的な心魂の在り方への反省につながるかもしれない。その意味で「ローマ書」7章との親近性はある。他方、ここで描かれている自覚的に神に反抗する者たちは神の義の要求を知りつつそれに挑みつつ人々を誑かし神への反抗を助長しようとしている。
とはいえ、当然神への反抗者たちも良心をポテンシャルとして備えており、終わりの日の審判に立たされ、何らか自己弁明を企てるとされる。「彼らは誰であれ自らの心のなかに律法の業が書かれてあることを証明するが、それは自らの良心が[律法と]共同の証人となり、そして算段に基づき自らのあいだで互いに告発しまた弁明することによってであるが、それは、或る日、神がキリスト・イエスを介したわが福音に即してひとびとの隠れたことがらを審判するときである」(2:15-16)。
アリストテレスの放埓者もパウロの神への反抗者もいつの日にか苦悩を経験する。そしてそれが救いへの糸口なのである。