罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音
日曜聖書講義6月19日
罪の誘惑(7)―業の律法からの解放をもたらす福音
「ローマ書」七章
律法の新たな位置づけ (1-6節)
それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」
一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法違反を介した死]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。
1.生きる指針の転換
人は生きる指針を求めている。それは毎日の生活に関わるものである限り単純なものであり、そこに立ち帰るとき、力を得るそのような基本的なものであり、困難なものであるはずはない。ひとは日々それを遂行せずには生活が困難となる生業(なりわい)として生活の基本を抱える。これは生活を続けるために、不可欠の与件である。年を取り、年金生活者となるとき、この生活の基本が失われると、ひとは生の安定を失い、様々な不安や懐疑に襲われてしまう。とはいえ、生活の指針は何か生業にうちこんでいても、老齢となり、そのようなものを持たず国家により支えられている者にも妥当する単純で力強いものであるに相違ない。もちろん年金生活者も現役時代に積み立てをしてきたのであり、当然の報酬を受け取っているという面もあるが、長く生きる時代、高齢者たちはその積立を超える支えを頂くことになり、若者や国家に肩身の狭い思いをすることにもなる。今後は、この国の人口比からしても老体を鞭打って仕事を続けることがこの国の成員に求められることであろう。長寿の時代、弱くなってしまってもその人生を支える生の指針を得ることはとても重要なこととなる。「若いときに汝の造り主を覚えよ」(Ecl.12:1)という伝道の書の言葉がやはり力をもってわれらに語り掛けてくる。ともあれ、当学寮の生活指針は「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」でいく。聖書を正しく理解することに集中したい。
2 業の律法の乗り越え―旧約を貫く信の律法―
パウロは旧約人においては業のモーセ律法がそのような指針であったと言う。「律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時である」(Rom.7:3)。旧約人を支配した一つの生活指針、業の律法はもともと良き生活を導く力として問題を抱えており、人を導く指針としては機能しないことが判明している。パウロはそれを明らかにしたのがナザレのイエスによる信の生涯とその力であったと主張する。
これは人生の基本的な理解にかかわることであり、魂の根幹を揺さぶる。パウロは、この律法は罪であるとか、誤っていたという類のものなのではなく、また死を生み出しているわけではない。しかし、罪の誘惑に対して文字としての律法は無力であり、魂に巣食う罪により文字の律法が利用され、われらを生物的死ひいては魂の死にもたらすと警告する。業のモーセ律法はひとに本来的な生を生かしめる力のないものであることを論証する。自らの責任ある自由を前提にして、貪るー貪らない等の二者択一の一方を遂行することにより、神の前に義とされるとされるが、誰もそこでは義とされない現実が明らかにされる。これは福音つまり「信じる者に救いをもたらす神の力能」(Rom.1:4)が知らされて、その対比において認識することができるものである。
3人間の魂の理性的な分析に基づく倫理学は律法主義である。
ルターは「理性は律法主義である」と語り、アリストテレスの倫理学はひとを救いに導かないと主張する。律法主義においては基本的に命令形でで提示され、その成就により直接法「汝救われた」がが語られる。先週、苦しみの数種類を分析した。ひとは様々な苦しみを経験する。必要以上の苦しみの背後に、魂の態勢として貪欲が潜んでいることが摘出された。アリストテレスは常に目先の快楽を追求しそのことに「後悔」をもたない人間を「放埓」と呼ぶ。放埓な人間を示す指標は欲望の大きさというよりも、欠乏充足モデルのなかで欲望を充足できないときに生じる苦痛の大きさが、その者の心魂の態勢、実力として欲望が理(ことわり・ロゴス・理性)に服していない放埓さを明らかにするとされる。
欲望はそれ自身パトス(身体の受動的な反応、情動)なので、非難の対象にはならない。欲望を野放しにしているとき、たとえ強い欲望がわかずにも、好色であり快を追求するばあいがある。それは精神が肉になっている状態であり、放埓さを一層示すと言われる。アリストテレスは言う、「なんら欲望を感じていないか、あるいはかすかにしか感じていない場合でさえ快楽を過剰に追及し、まあまあの苦痛を避ける人は、強烈な欲望を感じるがゆえに快楽に走る人よりも、いっそう放埓な人であるとわれらは言うことができる」(7.4.1148a17ff)。この人は人生が与える他の多くの喜びを諦め、肉となってしまった精神が欲望を感ぜずにも快楽を追及せざるをえない隷属状態であると言える。そしてそれは苦悩、苦痛をもたらすはずである。パウロのローマ書七章によれば、その隷属はそのとき今・ここで肉に巣食っている罪への隷属であり、律法は葛藤を引き起こす新しい役割を与えられる。われらは文字としての律法を利用する罪に誘われ、自ら望んでいないことがらを為すとき、例えば節制すべきときに快楽を追求するなど、死を作りだしていると捉えられる。人類は本来的には神の子として永遠に生きるべき者であるが、楽園追放の罰として生物的死を引き受けている。この生物的死を介して罪は神の前の滅びを画策している。律法の新たな機能はこの罪との格闘を引き起こすことにある。この葛藤については改めて論じる。
ここではアリストテレスの理性的な魂の放埓さの分析がわれらを救いに導くかを問う。アリストテレスは言う、「以上から快楽にかんする超過が放埓さであり、それが非難に値するものであることは明らかである。しかし、苦痛に関しては、病気の場合のようにはいかず、苦痛に耐えることで節制の人と呼ばれたり、耐えないことで放埓な人と呼ばれたりするわけではない。放埓な人はむしろ、快いものが手に入らないことに必要以上に苦しむがゆえに放埓だと言われ(そして、放埓な人のこの苦痛を生みだしているのも当人の快楽なのである)、節制の人は、快いものがなかったり控えたりしても苦しまないがゆえに、節制があると言われるのである。こうして、放埓な人はあらゆる快楽、あるいはもっとも快いものを欲しており、またその欲望ゆえに、ほかの様々な快いものをなげうってその快楽を選ばずにはいられないのである。それゆえ、こうした人は、欲しい快楽が手に入らないばあいでも、快楽を欲している場合でも苦しむ。なぜなら、欲望には苦痛が伴うからである」(『ニコマコス倫理学』第3巻11章1118b26ff)。
ここで明らかにされる苦悩や苦痛は自らが貪欲で強欲な人間であることからくる苦悩である。節制ある人間になろうとしない限り、欲望に伴う苦悩から解放されない。おのれの欲深さを知ることが求められている。アリストテレスの倫理学は魂の卓越性としての有徳をめぐり、人間の魂の類型、分類が有徳性という成功した視点から網羅的に展開される。確かに、そこでは感情と魂の実力としての態勢ならびに行為を包括的に理解することができる。正しい人になるには、正しい人が為すように、正しいことを正しいことそれ自身のゆえに為すことが求められる。これは、これこれを為せば神に正義と看做されると主張するモーセ律法に通じる。自らの責任ある自由のもとに、立派な人間になることがめざされている。
ルターは「理性は律法主義である」と語るが、アリストテレスが分析する快楽により、ひとは快楽から逃れることができるであろうか。それから救われうるであろうか。ルターはその力はないと言う。律法主義は命令を立てるが、パウロ的にはそこに罪が巣食い、その文字としての律法を介して誘惑し、生物的死をもたらし、さらに魂の死に誘うと分析される。「その心によって清い者は祝福されている」(Mat.5:8)のは、欲望が満たされないこと、また欲求さえ起きないのに快楽に向かわざるを得ないこのような魂の苦痛から癒されていることがその一つの理由である。なによりも、その人は神にまみえるであろう。人生の他の喜びを享受することができる。また「その霊によって貧しい者は祝福されている」(5;3)。神との正しい関係を求めることによってしか自ら満たす者をもたないひとは、眼差しを神に向けざるを得ない。イエスはなによりも「まず神の国と神の義とを求めよ」(5:33)と信仰に招く。その信があいの律法を満たす力を持つ。
4信の根源性
ありがたいことに、旧約人においても、その信の律法はきちんと機能しており、ひとびとを救いに導いていたことが確認されている。業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:6)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
「ヘブライ人への手紙」の著者は信仰によって「諸時代が統一される」神の計画について叡知が発動し、知ることができると主張している。信仰は見えない神の意志についての何らかの可視化の基礎であると主張されている。この手紙の著者は信の律法が旧約人を導いていたことを多くの事例を挙げて説明している。旧約の義人たちは生の指針がぶれていなかったことが確認される。「信仰は望んでいるものごとの基礎に立つものであり、見られていないものごとの[見られないままに留まることへの]反駁である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており、見られるものが現れないものども[神の言葉]に基づくことを知るに至る。
信仰によってアベルはカインに比し一層多くの捧げものをしたが、神ご自身がその贈りものを承認することによって、その信仰を介して正しい者であることが証された。アベルはその信仰を介して死んだが、彼は今なお語っている。(省略・・)
信仰によってノアはまだ見ていないものごとについて、神に警告されたとき、心に留めそして彼の家族を救うべく箱舟を建造したが、その信仰を介して彼は世界を審判した、そしてその信仰に即した義を介して受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは呼び出されると彼が受け継ぐことになる場所に出ていくべく従ったが、彼はどこに行くか知ることなしに出立した。信仰によって彼は、同じ契約の受け継ぎ手であるイサクとヤコブと共にあたかも他国に宿るように天幕(テント)で生活し、約束の地に滞在した。・・・この[旧約の代表的な]人たちは皆その信仰故に証人とはされていたが、約束[イエス・キリスト]を受けとならかった。神はわれらのために、さらに優ったものを見通しておられたので、彼らはわれらを離れては完結される(teleiōthōsin)ことがないためである」(Heb.11:1-40)。
旧約から新約を貫く一つの道とは信仰であった。神へのこの信の正しさがイスラエルに一本道を歩ませ、「統一される」歴史を刻むことを可能にした。千年近く書き溜められた文書の集まりである所謂「聖書」はこの一貫した歴史を基礎にして、選びの民を介した神とひととの交わりを報告し、そして神とひととの分け隔てを取り去り救いをもたらすイエス・キリストを救世主として告げ知らしめている。
5律法からの解放
神は認知的、人格的に十全、「完全」であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Mat.5:48,Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや律法が明らかにする過去の罪とそのトラウマからも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで「彼らの背きを彼ら自身において考慮することなく」信に基づき義とする(Rom.4:5, 2Cor.5:19)。
「ヘブライ人への手紙」の著者はエレミヤを引きつつこう語る。「この方[キリスト]は罪人たちの代りに永続的に一つの献げものを捧げたまうたことによって、神の右の座に座したまうた。・・主は言われる「かの日々の後に、わたしが彼らに対し結ぶ契約はこれである、わが律法を彼らの心に与えそして彼らの思考のうえにそれらを銘記するであろう。そして彼らの罪と彼らの不法とについてもはやわたしは記憶に留めることはないであろう」。これらの赦しがあるところ、そこにはもはや罪についての献げものはない」Heb.10:12-18,Jer.31:31)。ここで「新しい契約」における「わが律法」とは信の律法に相違ない。さらに罪は記憶に留められず水に流される。そのとき「罪」は少なくとも罰せられる罪ではない
神はこの福音即ち古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現された。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しうることにあるとされる。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。
6信仰義認
パウロは福音の啓示の報告に基づき、「われら」のことがらとしてその啓示からの帰結、所謂「信仰義認論」を理論的一般化において展開する。そこでは「われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する」(Rom.3:27)という仕方で自らの判断を展開する。
「神はひとり」である以上、福音は普遍的であり割礼のユダヤ人も無割礼者も信によって義と看做される。信仰による義は業の律法に基づく義を排除するが、業の律法が神の意志である限り、廃棄されることはなく、義認の否定という間接的な仕方で義認を実現させる福音を指し示す役割を持つ。「キリストは信じるすべての者にとって義に至る[業の]律法の目指すものである」(10:4)。パウロは信仰義認論を展開し業の律法の役割を「確認する」(3:31)。
「それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは、人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」。
ここで異邦人である業の律法を満たさない無割礼者は「その[イエス・キリストの]信を媒介にして」義と看做される。異邦人は神の義の啓示が「イエス・キリストの信」を媒介にして遂行されたことを信じその信仰が神に嘉みされることによって義と看做される。割礼者であるユダヤ人も、アブラハムやダビデの先駆的信仰に基づく義認に見られるように、各人の「信に基づき」義と看做される。すべての者が信に基づき義とされるのは「神はひとりであり」、神は「ユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人たちの神でもある」からである。
パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。
信仰義認をめぐる「ガラテア書」の並行箇所では「わたし」が霊感づけられた魂において直裁に語る、キリストの信が到来した故にキリストは自らの中で彼我を分離することのない仕方で実働している、と。それゆえに、並行箇所ではパウロの主張は「神の子の信」をパウロ自らの信仰との同化のなかで生きていると告白している今・ここの働き(エルゴン)言語として解釈しなければならない。
パウロは言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。
パウロの「ガラテア書」におけるこの今・ここのエルゴン言語の使用は、「ローマ書」における神学の体系的展開における信仰による義認の提示とは、文脈が異なる。「ガラテア書」では、パウロは、彼自身が建てた教会に対して教えていたことの確認を遂行している。それ故に、彼はその言葉と行為においてより一層直截である。他方、「ローマ書」においてキリストの信の媒介が強調され、「わたしにおいてキリストが生きている」という同化は見られない。しかし、聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もなく、「キリストがわたしを介してロゴス(言葉)によってそしてエルゴン(働き)によって成し遂げたこと」(Rom.15:18)を報告するというパウロの方法論のもとにおいて、彼は自覚として聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している。とはいえ肉の弱さに譲歩するなら、「ローマ書」3:27-31はパウロによるあらゆる人間の「神はひとりである」という普遍的な認識のもとに、誰もが信に基づき罪赦され「義を受け取る者たちである」という主張の展開であると捉えることができる。
「ガラテア書」における「わたし」におけるパウロ個人の今・ここの語りも義認は業の律法を介するものではなく、キリストを介するものであると普遍化されている。そこでは「ローマ書」における知恵の説得的議論と実質的には同じ一つの結論が導出されている、ただし、「わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」とキリストの死を無駄にしないというパウロの個人的な自覚のなかで業の律法からの解放を確認している。「五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:5-6)。
結論
信の律法は業の律法からの解放を告げており、解放された魂の場所には「キリストイエスにおける生命の霊」が宿る。永遠の生命の喜びがそこにある。心を理性主導の律法により占めるとき、この生命に与ることはできない。解放されよう。