罪の誘惑(2)―業の律法からの解放

2022年5月15日、日聖書講義 

罪の誘惑(2)―業の律法からの解放

 

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

 七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

はじめに

 イエス・キリストにおいて福音が打ち立てられた。これは新しい神の契約・約束であり、「信の律法」と呼ばれる。旧約聖書において神はアブラハム、モーセらと契約を結んだ。アブラハムは神の信の律法のもとに、彼は子孫の繁栄の約束を信じた。「神は彼の信仰を義と看做した」(Gen.15:6)。その後、出エジプトを導いたモーセに「十戒」を与えた。これが「業の律法」と呼ばれる。これはイスラエルの民の神聖政治のもとでの法律と言えるものであり、基本的には「十戒」のもとに600を超える戒めとして積み重ねられていく。信の律法は神がイエス・キリストにおいておいて人類に信実であり、それ故に正義であったとき、人類は神の信に対して信によって応答するかが問われている。そこでは心魂の根源的態勢として幼子の信、すなわち疑わずに人生を委ねるときに、神に義と認められる、即ち正しい関係が築かれるというものである。それに対して、業の律法は偶像を崇拝しない、嘘をつかない、貪らないなどの実践によって神に義と認められるものである。パウロはこの業の律法の遵守の道によっては誰も義とされないと主張する。

 彼は「ローマ書」三章で言う。「一九われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。二〇それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである」。かくして、イエス・キリストの福音の啓示の故に、モーセの業の律法とは別に神と正しい関係にはいる道が示された。それ故に業の律法は新しい役割を担うことになる。即ち、律法違反(神への背き)を知らしめ、葛藤を引き起こし、悔い改め信の律法のもとに信じる者となることである。

福音の啓示を介して、われらは業の律法から解放されたということ、これを正しく理解することが求められる。信仰、そして信仰による神との正しい関係の成立、さらに信に基づく「義の果実」(Phil.1:8)としての愛。愛は「律法を全うする」律法の「冠で」ある(Rom.13:10)。キリストを介した神の憐みへの信に端を発し、信→義→愛の展開こそ、ひとの本来性である。「愛を媒介にして実働する信が力強い」(Gal.5:6)。今後、文字としての律法に寄生する罪の誘惑の解明を通じて、この力動的な関係を解明していきたい。

 

1 業の律法からの解放

 パウロは婚姻の法律に関して、夫が死んで再婚しても律法違反、違法ではないことを確認する。彼はその比喩により、福音の到来の故に古い夫である業の律法からの解放され新たな神との肯定的な関係の構築の機会を得たとしている。「わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである」。ここに福音のダイナミズムがある。古い革袋を破って、新しい生命がもたらされた。「キリストの身体を介して」とは御子の受肉と死に至る信の従順の生涯を介してまたその故にということであり、それにより律法に死んでしまったと言われる。彼は神の義の啓示の媒介者となった。神が正しい方であり、キリストの信の従順による身体の捧げを「介し」て律法に捉われた古い自己に死に、神と新しい正しい関係に入ることができるとされる。

 彼は福音以前には罪に誘惑され死への果実を結んでいたと言う。「われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた」。「肉にあった」と過去形で言われる。「肉」とは身体をもった自然的な存在者の一つの生の原理のことであり、身体の限界が自己の限界であると看做しがちな弱さを抱えたものである。「肉に即した」生と「霊に即した」生が対比される。「今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである。というのも、ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判したからである、それは律法の義の要求が肉に即して歩まず、霊に即して歩んでいるわれらにおいて満たされるためである」(Rom.8:1-4)。

 霊に即して生きても、生きている限り「肉においてある」ことは続くが、この「肉にあった」という過去表現は神の意志としての業の律法を自らの力で満たそうとするそのような人生原理に即して生きていたという意味である。モーセ律法は各自の責任ある自由が問われる肉において受け止めることのできる神の意志である。他方、イエス・キリストを介して啓示された信の律法は、神が御子を介して人類に信実であったとき、ひとはその信に対して信により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。責任ある自由のもとでの業がではなく、心魂の根源にある信が問われている。ひとが信によってではなく、自らの力で生きようとするとる限り、律法は文字として受け止められる。そこでは神の霊にはとうてい勝てないが文字には寄生できる罪の誘惑を受けることになる。信のもとに生きるとき、神の霊に触れることができるとされる。「六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」。

 

2 律法と裁き

 律法からの解放は日々の課題である。学寮にも寮則があり、これが文字の律法としてわれらを隷属化する。罪がそこに寄生する。罪は律法を殊の外好む。それは人と人との間に審判、裁きを引き起こすからである。

偽りなきイエスはパリサイ人を非難して言う、「彼らの業に即して行うな、彼らは言うだけで行うことがないからである。彼らは人々の肩に負いきれない重荷を結び付けそして担わせる(epititheasin)が、彼らは自ら自分の指によってその重荷を動かそうとすることもない」(Mat.23:3-4)。イエスは自らを死においやるパリサイ人に課せられた重荷を担ったのである。彼は人々に律法の重荷を担わせ、そのたすけに指一本動かそうとしないパリサイ人の罪を担った。

 律法はひとを苦しめるものである。寮則も苦しい。これさえなければ、どんなに楽であろうかと思う。アパートやマンションの管理人であれば楽であろうなと思うことがある。しかし、彼らは別名住人たちからの「苦情受付係」と言われることがある。規則なしにはただカオスとなるということなのであろう。札幌農学校創設時に来日したクラーク先生はBe gentleman!とだけ言った。登戸学寮の寮則もBe gentleman and lady!だけでよいのではないかと思う。寮則のあるところ違反があり、そして違反のあるところ怒りがある。「律法は怒りを成し遂げる。しかし、律法のないところには違反も存在しない」(Rom.7:14-15)。なんでもありであったら、学寮はカオスになるであろうか。日曜聖書講義には誰も出席しないようになるのであろうか。それは当方の話に問題があるからではないか。それなら参加者ゼロのもと空気に向かって話すほうがよいであろう。

 どうして人々は裁きあうのであろうか。争いあうのであろうか。それは律法があるからであり、罪が寄生するからである。ここを何とか乗り越えたい。神に対して良き実を結びたい。

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