罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章
第8回日曜聖書講義 2022年5月22日
罪の誘惑(3)アダムの原罪物語とローマ書七章
聖書箇所 創世記3章1-24節
ローマ書7章7-12節
第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」
七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。
1はじめに 悪の起源
ひとは悪がどこから来たのかそして今どこから来るのかを有史以来問うてきた。ひとには死や争い、犯罪や病気、憎しみなど否定的に思えることがらを「悪」と呼んできた。一般的には「ひとが避けるもの」それが「悪」であり、その対義語として、「ひとが求めるもの」それを「善」と呼んできた。そのひとなりの悪を避け、そのひとなりの善を求める心の在り方、それが人生の基本的な動力、導く力であるように思われる。善という価値が生を導くことを「目的論的」な人生観と呼ぶことができる。個々人により求めるものが異なる以上、善や悪について人類一般に妥当する理解は成立しないように思われる。ただ往々にそんなはずではなかったと後悔するという感情をひとは持つ。自らなりの善悪の経験の蓄積に応じて人類が蓄積した善悪の理論のいずれかに同意するということが起こる。聖書はそれについて明確な理解を「創世記」3章のアダムの原罪の神話そしてパウロによる「ローマ書」7章におけるアダム神話をもとにしての悪の起源の理解において展開している。
2悪は偶然歴史の中に入った
ひとは肯定的なものと否定的なもの、善と悪から宇宙に光と闇があるように、この二元的な対立からは逃れられないという考え方は道理あるように思える。しかしこの人間の生存以前からの宇宙の原理としての二元論は聖書の伝える理解ではない。神は宇宙を「光あれ」という言葉により創造し、この豊かな生態系を創造し「はなはだ良かった」と喜んだことが報告されている(Gen.1:1-30)。最初の人間アダムと妻エヴァは蛇の誘惑により神に背いた。神は祝福と戒めを与えた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」 (Gen.2:15)。蛇はこの神の言葉を契機にエヴァを誘惑する。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(Gen.3:5)。この決して死ぬことはないという蛇の応答は短期的には当たっているが、罰としての生物的死を与えられている以上、「食べると必ず死ぬ」という神の言葉は真実である。他方、目が開かれることを、ひとは「啓蒙」と呼ぶであろうが、道徳的な知識を持つ前の幼子のように親に信頼して生きるそのような生が失われることになる。神に立ち帰ることは信のもとに善悪の知識を秩序づけることであり、善悪を識別しないということではない。物語は進む。「女が見ると、その気はいかにもおいしそうで、目を惹きつけ、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(Gen.3:6-7)。そのことにより悪が人類に入った、それが悪の起源であるとされる。そこで生じたことは裸であることを恥じたことである。自分の身体に眼差しが向いたこと、すなわち自らに関心が向かったこと、それが神から背いた最初の反応である。神への眼差しを忘れ或いは恐れ、神から逃れ隠れるにいたった。
2 悪の非本来性
悪の起源が神に背くことにあるという理解は悪というものが神によって創造された人間にとって非本来的なもの、人間の本性に即さない逸脱した状態であるという理解につながる。エヴァは蛇の巧みな言葉に惑わされないこともできた。もしアダムが神に背かなければという問いに対しては、誰もが蛇あるいは「ローマ書」的には罪の誘惑を受けており、誰もが最初の罪人になる可能性のもとにあると応答できる。そのなかで、悪の責任は、確かに蛇や罪の誘惑がなければ神に背かなかったかもしれないが、あくまでも創造主に対して忠実であることができたアダムや個々人の側にあるということが導かれる。悪はどこまでもわれわれ個々人の責任である。生物的な死や労苦はこの神への背きに対する神からの罰であるとされる。人類はエデンの園という楽園を追放され、その後は死や病や争いなどの悪の制約のなかで、神に立ち帰ることが求められることとなった。
「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め彼はお前を支配する」。神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(Gen.3:16-19)。
この罰の制約のなかでひとは生きることとなった。このことは必ずしもアダムの背きのゆえにその後のすべての人間がアダムの罪が生殖を介して遺伝し、神の前に罪人であるということを含意しない。アダムの失敗に対し人類の連帯責任ということになり、個々人の責任が問われなくなる可能性があるからである。アダムの罪の遺伝子を引き継いだというよりも、パウロは「あらゆる者が罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らない」(Rom.3:23)とまた「ひとりのひとを介して罪が世界に入りそして罪を介して死が入ったように、そのようにまた、すべての者が罪を犯した故に、死はすべての者を貫き通したのである」(Rom.5:12)とこの事件とその後の人間の責任を明らかなものとしている。誰も罪を犯さなかったとしても、生物的死はあったであろう。しかし、それは次の目覚めへの「眠り」にすぎない。このように誰もが蛇と罪の誘惑を受けて、神に背いたということが神の認識として報告されている。そして、それをアダムの罪の遺伝子の遺伝としてではなくアダムを模倣したと言うべきであろう。その後人類は楽園追放による生存の労苦と産みの苦しみなど神の罰のもとにあるが、それは生物的には当然のことと認識されもしよう。それは堕落して楽園を追放されてしまった人間にとってそう認識されるだけのことであり、楽園を回復したなら、闇を知らず光のもとにいることが認識できないほど光の子として幼子のように神とともなる生活を続けていたことでもあろう。
5月1日の講義でシモーヌヴェイユによる悪の単調さについて紹介したら、君たちのなかに反応があった。悪の単調さ、悪には新しいものの何もないというその事態は、ひとが自ら経験的に理解できるものであり、また聖書的にはアダムに与えられた神の罰の与件(予め与えられた条件)のもとでのこととなる。楽園にいて神の戒めに忠実である限り、ひとはこの悪の空虚さに陥ることはなかったからである。ヴェイユは言う。「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。悪というのは単調なものである、そこには何ら新しいものがないからであると言われていた。罪の誘惑に負けてあく悪に支配されるとき、そこには何ら肯定的、創造的なものにはであわない。自らを破壊する仕掛けのみが見いだされる。
この考えは自らの胸に手を当て、反省するとき、頷(うなず)くのは私ひとりであろうか。人類の始祖アダムやエヴァも生物としての自然的な欲求を持っており、神は「園のすべての木から取って食べなさい」。と肯定している。ただし「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という制約のもとにおいて自然的な欲求は肯定されている(Gen.2:15)。最初の人間は「産めよ、増えよ、地に満ちて従わせよ」(Gen.2:28)と祝福されているように、ひとは自然の欲求である生存や生殖への欲求は神の戒めの制約のなかで肯定されていた。
3 ローマ書における罪の誘惑と克服― 律法は罪ではないことの証明―
ここまで、「創世記」のアダムの神話から聞き取ることができる。パウロはこの出来事と記事をもとに、罪の誘惑について「律法」と結び付けている。前回、福音即ち信の律法の確立のゆえに、業の律法から解放されてしまったことを学んだ。信により神と正しい関係を築くことにより、ひとは業の律法に寄生する罪の誘惑を退けることができる。
第一議論においては「律法は罪であるのか」(7:7)というユダヤ主義者である論敵からの予弁論的反論に「断じて然らず」と本書簡の一特徴であるディアトリベー(談論風発)様式により応答している。ここではパウロの信仰義認論が含意するでもあろう律法軽視さらには罪悪視への反論として、福音の啓示に基づき律法の聖性と善性の論証を提示する。この論証で特徴的なことは、律法と罪が擬人化されることである。律法は戒めを語りかけるが、「罪はその戒めを介して機会を捉えわれを欺いた」(7:11)。この擬人化は対応個所である「創世記」三章の蛇の擬人化により理解を容易にさせている。パウロは蛇について「ちょうど蛇がエヴァをその狡猾さによって欺いたように」(2Cor.11:3)と蛇を行為主体として擬人的に描いている。パウロはここでも慎重であり、旧約聖書の裏付けにより論敵ユダヤ主義者の土俵上で彼らの同意を取り付けようとする。クランフィールドは「パウロはここで「創世記」三章の物語を念頭においている。ひとの保護のために神の善き恵み深い贈りものであるところの神的戒めは蛇がひとを破壊すべく利用しうる好機でもあると見られている」と述べている[i]。
「欺く」をその類義語で理解するとすれば、それは偽りを語り騙し、実践することであり、魂の秩序を乱し、混乱させ破壊に至らしめることである。その欺きの方法は言葉を通じてである。人間社会においては、ひとがひとを欺くのは、言葉だけではなく、非言語的な行為においてもなされるが、見えない罪は魂の中で語りかけるという仕方で欺く、ちょうどヘビがエヴァに語りかけたように。律法が「汝貪るな」(7:7)と言えば、「汝貪れ、それは人間として生を燃焼させることであり、それは当然為されるべきことなのだ」と反対命題をささやき肉に即した生を唆し、心魂のうちに「罪の律法」(7:23)を立てる。
ここで確認しうることは、意味論的分析によれば、命令は従うことも従わないこともできる存在者を前提に遂行される。従って、ここで「われ」は責任ある自由のもとにいる自律的な存在者であると言うことができる。律法が「赦せ」と言えば、罪は「そんなひどいやつは罰を受けるべきだ、それが正義だ」とささやく。さらに罪は「使徒がキリストの過去の死はお前の古い過去の自我の死でもあったと、また自らの罪は自ら担いえないものであり既に荷われたと言ったのか、そんなことはないお前はあのこと、このこと自らの過去を償わねばならない」と律法を立てに、新しい前向きの生はおめでたき健忘症だとし、古き自我に固執させ責め立てる。
比喩的に言えば、罪は律法を殊の外好み、律法のあるところ寄生し住みつき罪の果実を増殖させる。なぜなら律法は肉の人間には裁きの言葉だからであり、自らを省みることなしに、自らを他から優越させるために振り回す尺度、規準となり、その定規こそ罪の最も好物とするところのものだからである。律法のあるところ、「すべての者は罪を犯した」(3:23)と語られている限りにおいて、そこに事実上一度は罪が寄生し、ひとをして罪に加担させまた同化させている。罪は律法を隠れ蓑にして姿を見せず、モーセの律法そして戒めそれ自身が自己と他者を破壊するように思われる。パウロはその状況を「生命に至らす戒め自らが死にいたらすものとわがうちに見出された」(7:10) と記す。実は、罪がひとを律法により欺き、殺したのである。ここで「殺した」とは生物的生命に死をもたらしたということである。
律法が罪ではないことの第一議論が過去形により展開されているのは具体的にアダムの事例が念頭におかれ、彼を罪が世に侵入したその過程のモデルにしたためであると考えられる。少なくとも一人神の戒めに背いた人間がいた。善悪を知る木の実を「食べるな」という戒めが与えられたところに罪は初めて登場する。罪は行為主体として戒めを利用して最初の人間を欺き自らに同意させ死に追いやっている。重要なことは罪の行為主体としての働きは文字としての律法を前提にしてのみ語りうることである。
また、一人称単数「われ」はモーセ律法の擬人化のもとでの「汝貪るな」という二人称単数の命令を戒めとして語りかけられたさいに、それに対する応答して出現する。神が罪に利用されることは想定不能であるため、文字化された律法が「汝」と語りかけるものとされている。二人称の呼びかけに対する一人称による応答、これが最も基礎的な誰にも同意される「われ」の文法的理解である。G.Theisenは言う、「私見であるが、ローマ七章七節以下の内容からも純粋に虚構の「われ」という仮定は支持できないと思う。最初の明示的ego(八節)は「貪るな!」という神の掟に挑発される。律法は二人称単数で人間に呼びかける。そこで一人称単数で答えたくなるのは当然である。しかし、パウロが人間に対する神の要求を云々する場合、自分自身を除外した虚構「われ」を使うなど思いもつかないことだ。これでは神の要求の厳しさはどこかに飛んでしまう」[ii]。この文法的解釈には同意するが、虚構解釈は真剣さを失わせるという見解には同意できない。この「われ」に戒めと罪によるその利用を介した誘惑に対する今・ここのエルゴンによる臨場感と誰であれ「われ」と語る者に妥当する普遍性を託したのである。一章では神の前で神の怒りにあてられた者がいかに振舞うかを明らかにした。神が理解する言語網のなかで罪人たちは登場し、神の理解としての彼らの振る舞いが提示されていた(1:18-32)。そこでは「律法は怒りを成し遂げる」(4:15)として、欲望への引渡しが描かれていた。しかし、ここでは、律法の新たな機能の解明に向かう。第一議論においてパウロは罪と律法の擬人化と生物的死をアダムの記事により裏付ける。罪は文字としての律法を利用し「われ」を欺き死に追いやったことを説得している。この第一義論を介した第二議論においては、「われ」は誰であれ、掟をつきつけられた者は律法が霊的なものであることの認識を持ち葛藤を為すべき者であることが描かれる。文字と霊の律法が二つの議論を異なるものとさせ、「われ」は死から再生に向かう。
「最初の人間アダム」(1Cor.15:45)はモーセ律法以前に位置するが、蛇の誘惑は「善悪を知る」(Gen.2:17)木の実を食べ、目が開かれ「神の如くになる」(Gen.3:5)という貪りへの誘惑であった。この論証の主語が「われ」ではなく複数形(例えば「われら」「彼ら」)であるとするなら、その指示範囲は限定されるが、「われ」は誰であれ戒めが「汝」と語りかけられ、応答する限りのひとに妥当することを示すことができ、アダムの事態がすべてのひとに普遍化可能となる。実際、「ローマ書」五章の対応個所で罪が入ったことが、死が入ったことの原因であるとされている。「それ故、ひとりのひとを介して罪が世に入りそして罪を介して死が入ったように(hōsper)、そのように(hūtōs)すべての者が罪を犯したが故に、死はすべての者を貫いたのである」 (5:12)。「われ」は誰であれ戒めを差し向けられた者として応答する死すべきアダム的な人間のことである。少なくとも、「終局的アダム」(1Cor.15:45)ないし「第二の人間」(1Cor.15:47)とされるキリスト的な「われ」との対照においてある者のことである。
この文章に見られる同等比較「~ように、そのように~」は注意を要する。これは死の原因が各人の罪の故にであることを同等比較により明確に述べており、アダムの罪の遺伝による伝播を含意してはいない。「すべての者が罪を犯した」とはまず業の律法による神の前の一般的な人間現実としての罪人が理解されねばならない。ただしその罰はエルゴン上生物的な死に留まる。しかし、これも五章で語られているように、パウロによる全人類の罪人の確認も福音の啓示の故になされたことである(5:12)。福音が啓示されていなければ、ひとは業の律法のもとの義を目指していたでもあろう、アブラハムの系統の者たちを除いて。その福音のもとにある救いの可能性のなかにおいて、或いは叡知の機能不全のなかで、神による罪の認識を人間の叡知がヒットすることもあろう。詩人は報告している、「主は天からひとの子らを見下ろして、賢いもの、神をたずね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない」(Ps.14:2,cf.3:10-18)。アダムが背きの最初の者であるが、ひとは事実上或いはより正確には業の律法のもとにある者は皆アダム的な者であったと神は認識している、その神の認識が報告されている(1:18-32,3:20)。換言すれば、第一議論において、神の意志である業の律法は人間により文字として受け止められる限り、それは罪に利用され欺かれることをパウロは報告し知らしめている。この議論なしには、ひとは業の律法に対しどのように受け止めたらよいか知ることはできなかったであろう。空しく同じ欺きに陥り、罪と律法と死のループから逃れる道を見出すことがなかったでもあろう。
[i] Cranfield, Romans I,p341.
[ii] G.Theissen, Psychologische Aspekte paulinischer Theologie (Göttingen 1983)『パウロ神学の心理学的側面』渡辺康麿訳、二八六頁。