「残りの者」の証―目を覚ましている僕―

「残りの者」の証―目を覚ましている僕―

                  日曜聖書講義前講 2022年11月27日

(第二回黒崎賞授賞式・講演会にて講演された岡崎新太郎氏と二人で本日の聖書講義を行った。千葉は前講を担当した。録音は岡崎氏のものも含まれている)。

聖書

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。

そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(Luk.12:35-48)。

 

「家を建てる者が退けた石が隅の親石となった」(Ps.118:22,Luk.20:17)

 

 キリスト者の生涯は人生のある状況のなかで父なる神の憐みを受けたと信じて、応答としてその証をたてていくものとなる。神にとらえられた者と呼ぶことができ、人類の歴史のなかでは少数派であり続けよう。聖書はそれを「残りの者」と呼ぶ。

少なくとも、人類のなかでひとり、この世のいかなるものによっても満たされないひとがいた。その霊によって貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えそして渇いている、憐れむ者、その心によって清らかな者、平和を造る者、義のために迫害されている者が人類のなかで少なくとも一人はいた (Mat.5:1-10)。

その言葉において「汝らの天の父が完全であるように、汝らも完全な者になりなさい」(5:48)と人類にとっての究極の道徳を語り、そしてそれを「天の父」への幼子の信仰のもとに生き抜いてしまったひと、言葉と行いのあいだに何ら乖離のなかった恐らく唯一の人間が歴史のなかに出来事になった。ナザレのイエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂く以外に、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者にはなりえない(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

2残りの者の歴史

ナザレのイエスは人類にとって善きものの認識を最も明確な仕方で逆転させたと言ってよいであろう。或いはそれまでの歴史において自らの良心に照らしてうすうす気づいていたが、隠蔽していたひととしての本来的な在り方がナザレのイエスにおいて言葉と行いにおいて明白にされたと言うことができよう。この神の歴史につらなる者たちは旧約以来「残りの者」と呼ばれる。これは或る出来事の帰結であり神の肯定の対象、否定の対象双方に用いられる表現であるが、肯定的な歴史を刻む者たちは常に残りの者であると言える。イザヤは言う、「汝の民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが返ってくる。滅びは定められ、正義がみなぎる」(Is.10:22)。「その日には、万軍の主が民の残りの者にとって麗しい冠、輝く花輪となる」(Is.28:5)。「主はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え・・そして言え。「主よ、汝の民をお救いください、イスラエルの残りの者を」」」(Jer.31:7)。

新約聖書において、イエスは終わりの日に耐え忍んで神を求める者たちに正しい審判を約束しつつ、選ばれた残りの者たちの状況について楽観的ではない。「それから主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神はすみやかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」(Luk.18:8)。

主人が帰ってきたとき、忠実に自らの義務、仕事を行っている者は幸いだ。「主人は彼に全財産を管理させるにちがいない」。この善かつ忠なる僕、僕女(しもめ)たちは残りの者として主のまっすぐな道をついていく。彼らは狭く真っすぐな道を正しい者たちは歩むことになる。残りの者たちはもはや徴や証拠を求める者ではなく、証を立てる者となる。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として(eis marturion)全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」(Mat.24:12-14)。

パウロはイザヤを引用して言う、「「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも、すみやかに、言われたことを行われる」。それはイザヤがあらかじめこう告げていたとおりである。「万軍の主がわれらに子孫を残されなかったなら、われらはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」」(Rom.9:27-29)。

 

結論

 2022年現在キリストがそのひとのために死に甦り、それより罪との決別を促し、新たな生命に生きるよう促した人々は現在約80億人生きています。人類すべてに福音は差し向けられました。「神はひとり子をたまうほどにこの世界を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」(John.3:18)。そのなかで、神の前では、即ち永遠の現在にいます神における永遠の相のもとでは誰が残りの者であるかは明らかである。ただし、神の愛がキリストにおいて知らされた以上の明晰性をもってしては、例えば個々人の運命に関しては個々人には知らされてはいない。キリストにあって選ばれている、残された者であるということを信じるほかはない。パウロは言う、「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と(1Cor.9:27)。キリストにある神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る。そこに「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」(Rom.15:13)聖霊の執り成しが生起することを願いつつ。パウロは言う、「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13,cf.Gal.5:22-23)。

われらは知らされているものと知らされていないもののはざまで、この歴史を生きる。この歴史の最前線を生きている。光のなかを歩もう。まっすぐ歩もう。

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