良い木は良い実を結ぶ(その二)―信から愛へ―

良い木は良い実を結ぶ (その二)―信から愛へ― 日曜聖書講義2022.11.20

(録音:実際の講義は4節まで)

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサスから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

1 神の前で自らが良い木であると信じること。

 山上の説教の良い木は良い実を実らすという最後の教えの第二回目である。良い木は良い実を実らせ、悪い木は悪い実をうみだすと言われる。良い実はその木が良いものであることを知らせ、悪い実は悪い木であることを知らせる。悪い実をうみだすなら、それは良い木ではない。このようないずれかの一方が他方と交錯すること、良い木が悪い実をならせ、悪い木が良い実をならせることはないと語られている。「良い木は悪い果実を生み出すことはできず(ū dunatai)、また腐った木は良い果実を生み出すことができない」と自然事象について不可能という強い言葉が語られている。天候不順など個々の生育条件を括弧にいれるなら、理論上のことがらとして木と果実の関係は必要十分関係として展開される。

 心とその働き一般のことがこの比喩、たとえ話により語られている。もし木が良ければその果実は良いものであり、もしその果実が良いものであればその木は良いものである。悪についても同様である。かくして、善と悪はその根から果実に至るまでつまり根底からその帰結にいたるまで、始めから終わりまで、双方善と悪は交わることのないもの、混じる余地のないものとして峻別されている。

 ここでの問いはこの比喩は人間の実際の生活にどこまで適用されるのかというものである。ひとの努力の余地は残されていないのであろうか。生まれながらに良いものは最後まで良く、そうでない者はそうでないとはいかにも不条理に見える。一つの可能な応答は経験ある優れた果樹医師は木を見てその果実の良しあしを予見できるように、ここでの善悪、「良い」と「悪い」という語句の意味は神ご自身の認識を伝えているというものである。「良い」「悪い」の認識は良心の成長とともに、どこまでも深まっていき、最終的には神の理解を自らのものとするとき、この見解に同意できるようになるであろう。

 ひとには見えないが時空をはじめ宇宙を一切統べ治めておられる神はそのように認識しておられること、それをイエスは教えている。神の前で、神に良い木と看做されているものは良い実を生む。われらには自らがいずれの木であるかは御子の受肉と信の生涯を通じた神の意志の啓示ほどには、個々人の誰にも明白には知らされていない。それをわれらは信により突破する。われらは選ばれていること、良い地に蒔かれた種であることを信じて、そのつど自らの個々の行為の選択を通じてその導きを確認しつつ、証を立てることがその人生となる。

 福音は喜びである。神の意志はイエス・キリストにおいて最も明確に知らされていた。闇の中に光が輝いている。闇は光にうち勝たなかった。われらはこの闇と光の輝きのなかで責任ある自由のもとに自らの人生を構築している。自らが光の子であることを信じ証を立てるよう促されている。

2良い木になるか悪い木になるか

 良い木であるのか悪い木であるのかに関して、われらは親や環境のせいにはできず、自らの責任のもとにある。そう考えなければ、たとえば生まれながらに悪い果実しか生み出すことのできないものであるなら、当人に責任が問われることはないであろうからである。集められ焼き払い、地獄になげいれる審判者は不当なことをしていることになる。種蒔くひとのたとえ話にはこうあった。そのひとは種を握りしめさっと蒔くと、或るものは石地にあるものは茨のなかに、或るものは良い地に蒔かれ、種のなかで根付くものがあれば、干からびるもの、遮られ成育不良となるものもある。「ほかの種は良い土地に落ち、生え出で、百倍の実を結んだ。聞く耳ある者は聞きなさい」(Luk.8:4-8)。

 ひとは親を選べず、所謂「親ガチャ」のもとに相対的に良い環境や良くない環境に育つ。われらはこの与件を受入れ、良い地に蒔かれたと信じ良い果実を生み出そうとする以外に肯定的、創造的な生を遂行することはできない。全知全能の創造主はわれらを何らかの計画のもとにこのように、今あるように造られたに違いないと信じること、この与件を受入れることからしか、改善や展開は見込めない。どこに逃げても影のようについてくる自分自身から逃れることはできないからである。

 このような事情であるなら、自らがどんなに悲惨な与件であるように思われても、良い木であると信じて、良い実をうみだすように努力せざるをえない。人間的には双方の可能性のもとにおかれており、神の前では良い木と悪い木双方は果実において交差することがないという前提のもとでは、自らが良い木であると信じ、良い果実を生み出そうとする以外に為すすべは残されていない。

 ここで明らかなことは、ちょうど樹木医師が木の健康状態を正しく見分けることができるように、良い預言者と偽預言者を正しく見分けることは神がなさることである。従って、良い木の比喩で説明される良い魂が良い働きを生み出すように、悪い木の比喩で説明される悪い魂が悪い働きを生み出すことを正確に識別、審判するのは天の父である。自分では良い実を生み出したと思い、「汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げた」と語ったとしても、神はそのように看做していないこともあろう。そこでは「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」と語られることもあろう。

 かくして、「畏れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)とパウロは励ます。個々人には神の意志はイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。自らが選ばれ恩恵をいただいていることを信じることはどこまでも実質的なこととなる。信は常に世界の側で既に成立していることがらを信じることに他ならない。世界の側からの何らかの促しなしに、正しい信は成立せず、単に願望の投影となる。

3信仰を意味する「良い木」と愛を意味する「良い実」

 信から愛の道は一直線である。正しい信はその道からそれることはない。神の愛により信が方向づけられているがゆえに、信は神と隣人への愛に向かう。

 信じることにはこの人格的な側面と知らないから信じる認知的な側面がある。信じることは心魂(こころ)の根底に即ち「内なる人間」(Rom.7:22)と呼ばれる部位において生起するとき、それは何らかの知識を伴う。そこからあらゆる肯定的、創造的なものが生まれてくる。パウロは神の前の事柄として、「信に基づかないあるゆるものごとは罪である」(Rom.14:22)と言う。信に基づき神との正しい関係にはいる。そこから「正義の果実」(Phil.1:8)としての愛が生まれてくる。

 「内なる人間」において聖霊の注ぎに促されて信が生起することがある。内なる人間は促しに対し「霊」において反応しまた叡智対象に触れるという仕方で発動する「叡知」によりその都度反応する。そこでは半信半疑ということはない。神に喜ばれる信仰をいだいた場合、そのとき同時に神の意志、神の愛に触れているということが起こる。心魂の様々な機能である、見ようとして見る感覚や考えようとして考える思考、さらには動かそうとして動かす身体運動は能動的な働きかけであるが、正しい信は世界の不可視的な肯定的な事態がそのようにあることに触れるという仕方で生起する。この触知はコンピューターと同様に、真理であるか無知であるかのいずれかであり、偽るということはないそのような認知機能である。信じることは能動的行為であるが、正しい信においては知覚の届かない対象である何ものかが世界の側でそうあること、或いはその世界の事態を伝達する命題が真であることを信じる。

 これが信、信じるということの認知的側面である。人間的には知らないから信じるのであるけれども、神の意志は知られうるものとして、つまり信は知識に向かうものとして位置付けられている。心魂(こころ)の奥底正しい信が宿るとき、愛の肯定的、創造的な良い働きが生み出されていく。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Rom.14:22)。これは信、信仰というものの人格的側面である。ここでは信は愛に方向づけられている。正しい力強い信仰をいだいているか否かは愛のうちにあるか否かにより判別されると言う。神に愛されていることを信じることにより、信仰は愛に向かう。そのさい、信仰はこの神の愛に自らの生全体を委ねること、任せることとなる。その神の愛のなかに生きること、それが愛に方向づけられた信仰となる。良い信仰は良い愛の働きを生み出す。これを否定することは難しい。しかし、信仰と愛は少なくとも定義上異なり、また働き上もそのまま同じではなく、それぞれの認知的要素と人格的要素において異なる段階のものである。信仰のダイナミズムはたとえ愛を生み出さなくとも信じるだけで罪赦され神と正しい関係にはいるというものであったはずである。

 4心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―

 ここでのただちのチャレンジは救いとは悪い者が悪い者でありながら、罪深い者が罪深い者であるままに、恩恵のみにて罪赦されキリストの義を着て神に義人と看做されることなのではないかというものである。もし、この道徳的次元を離れた宗教的主張が偽りであり、溺れる者藁をもつかむたぐいのものであるとするなら、もはや道徳的破産者には絶望に沈むことだけが残されている。古来、信仰義認論であれ悪人正機説であれ、慈悲や恩恵に藁をもつかむ思いですがってきたのではなかったのか。「義人というのはおのれの罪があまりに深く、どれだけ深いか知りえないことを知っている人間である」(ルター)や「罪悪深重、煩悩熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし・・法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(親鸞)が語られ、人々を導いてきた。良い木が良い実をならすよう方向づけられているように、良い信仰が愛を生み出すよう方向づけられていることは道理あるが、信に基づいて神は罪赦し、義とすると伝えられているなかで、そこにいたらない信仰はどのようなものとして理解されるのかが問われる。

4.1 ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈

 或る注解者は、恩恵は山上の説教において展開される「彼の言葉を行う者」に注がれるのであり、イエスは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない」と明言する。U.ルツは言う。「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である。[「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」]。「わが言葉」というのは、このキリスト論的基礎をはっきりと堅持している。しかし、キリストは決して退却の可能性ではなく、「火の中を潜り抜けて来た者のように」(1Cor.3:15)ではあれ、必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである。キリストは彼の恵を彼の言葉を行う者に与える。自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。

 この強い主張に対しては、「義の道を歩む可能性を贈る方」としてのイエスご自身に対する理解が問われよう。「可能性」とは神の前の可能性なのか。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において伝えていたのではないのか。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。

 かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。

4.2 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈

 立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実もよいか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。

 すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。

4.3 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈

 ここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。

 ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

 ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのでないかが問われよう。

 E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。

5 カトリックとプロテスタントの和解

 その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体として相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、先述したルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。

 カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。

6山上の説教が語られたリアルタイムの状況

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

(聖書研究の一方法として「歴史的批判的研究」と呼ばれるものがある。これは「歴史学」の枠のなかで福音書相互の分析を介して歴史的実像に迫ろうとするものであるが、方法的前提からして当然聖霊の働きをその行論に要求することはできない。われらはイエスが道徳的次元を内側から破るその力能をそれ自身として捉えたい)。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。

 そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。

7結論

 以上のことは山上の説教の理解において強調しすぎることのない視点のように私には思われる。メシアがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩んだのである。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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