祝福されるひと(その三)その心によって清いナザレのイエス
追記:録音を公開すると同時に、参照箇所を明瞭にするために日曜聖書講義の原稿も添付する。
祝福される人(その三)―その心によって清いナザレのイエス―
2020.7.5登戸学寮日曜聖書講義
1はじめに
「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
清い者は心の分裂がないため、良心も宥められ喜んでいる者たちのことであった。詩人は祈る、「主よ、わがうちに清い心を創り(kardian katharan ktison en emoi)、わがうちに確かな新しい霊を起こしてください」(Ps.51.12)。新しい霊が注がれることによって清い心が創られ、心魂の根源から分裂が癒され秩序ある者として生きる。新約においてはキリストの軛に繋がれて一緒に歩む覚悟を決めることによって、根底から清められる。
他者そして自己に嘘をつくとき、自覚していれば良心の咎めを感じる。分裂があるからである。良心とは共に知る、共通の知識(con-science)により形成されるものであった。問題は何と共に知るかである。自覚的な嘘とは別に真実であると思いこんでいる心からの嘘がある。集団で思いこむことにより、良心を鈍くさせ麻痺させることはまま起こる。他方、パウロは「われキリストにおいて真実を語る、偽らない、わが良心が聖霊において共にわれに証ししている」と語っていた (Rom.9:1-5)。パウロは自らの思いや認識が真実であると主張するさいに、神や聖霊の証に訴えて、神と共に知っていることを偽りではないことの理由とする。信じることができることそれだけで嬉しいという感情は良心の咎めがなく、清められたひとに与えられる心からの平安であり喜びである。心の平安これが聖霊を注がれたことの証である。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)とパウロは言う。
心の清い者、或いはより正確には清くされた者は神を見る。ヨブは苦悩の中で言う、「どうかわたしの言葉が書き留められるように・・。わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27,Handel, Messiah, ‘I know that my Redeemer lives’). 腹の底から焦がれているならば、そのひとは心の清い者に相違ない。
2 清さvs清濁併せ呑む
その心によって清い者とはなによりもまずイエスご自身のことである。彼がその範例であり、彼の一挙手一投足がその清さを示しているが、ここではイエスの心の清さについての福音書における報告をいくつか見る。心の清さは清濁併せ呑むということとあいいれない。政治など統治をする者にとって、人間とはそもそも欲望や競争心を持つ者であって、それらをそのまま認め、そのバランスを取ること、調整する能力こそ心の広さや太っ腹を示すものとして政治的有徳性であると数えられるかもしれない。その行きつく先はルイ14世が言ったように、「朕は国家なり」として三権(立法府、行政府、司法府)を自らの恣にすることであろう。イエスは一方では「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」(Mat.22:21)という仕方で政治権力の相対的自律性を認めつつも、ご自身の使命の遂行に関して、そのような政治権力と手を握り協力したり、妥協することはなかった。パリサイ派の人々がイエスについて言う、「先生、われらは知っています、あなたは真実な方ですそして神の道を真実に教えていますそして誰にも気を遣うことがありません。というのもあなたはひとびとの顔つきを伺うことがないからです」(Mat.22:16)。
ローマ初代皇帝アウグストスとその養子ティベリウスの治世においてガリラヤなど「四地方領主」とされたヘロデ大王の子ヘロデ・アンティパスとのイエスのやりとりが報告されている。イエスは伝道に弟子たちを派遣しその成果がヘロデに伝わった。「十二人は出かけていき、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒した。領主ヘロデはこれらの出来事をすべて聞いて戸惑った。というのは、イエスについて、「[洗礼者]ヨハネが死者のなかから生き返ったのだ」と言うひともいれば、「エリヤが現れたのだ」というひともいて、さらに、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言うひともいたからである。しかし、ヘロデは言った、「ヨハネならわたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこの噂の主(ぬし)は」。そして彼はイエスに会ってみたいと思った」(Luk.9:6-9)。
そのような状況のなかで、こう報告されている。「パリサイ派の人々が何人か近寄ってきてイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。イエスは彼らに言った。「行って、あの狐に、「わたしは今日も明日も悪霊を追い出し、癒しを遂行しそして第三の日にわたしは[死において]全うされる。さもなければ、わたしは今日も明日も、その続く日も歩み続けねばならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは許容されていないからだ」とわたしが言っていたと伝えよ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鶏(めんどり)が雛を羽根の下に集めるように、わたしは汝の子らを何度集めようとしたことか。だが、汝らは応じようとはしなかった。視よ、汝らの家は見捨てられる。言っておくが、汝らは「主の名によって来られる方が褒めたたえられるように」と言うときがくるまで、決してわたしを見ることはない」」(Luk.13:31-35)。
イエスは狭い真っ直ぐな道を歩きとおした。自らの使命は信じる者に救いをもたらす福音を宣教することであり、それが父の御心であると信じぬいた。彼はこの信の従順の帰結として罪人たちの身代わりの死の道を歩み続けた。彼は「信じる者には何でもできる」(Mac.9:23)という信のもとに、二心なく秩序のもとにあり、ものがよく見えており右顧左眄することなく一途に進んだ。ヘロデはそのために用いられたことであろう。一般的に清濁併せ呑む者は、しまいには、真理と偽り、善と悪、過度と不足、そして清いものと濁ったもの、これら両極のあいだに差異を見出すことができなくなり、人生には確かなものがないというニヒリズム(虚無主義)或いは少なくともシニシズム(冷笑主義)に陥っていくことであろう。10人殺せば大悪党であり、100万人殺せば英雄となる、このような世界はものがよく見えない人間がおのれの欲望や愚かさを世界に投映している、或いは自らの混乱したパトスを吐しゃ物として世界に吐き掛け、一緒くたにしているそのような状況である。ものごとを正しく識別する心の清い者はさいわいだ。
イエスは引き続き七十二人の弟子たちを伝道に派遣し、彼らが福音を宣教しそして癒しなどに大きな成果をあげてもどってきたのを見て、こう言う。「わたしは悪魔が稲妻のように天から落ちるのを観想した。視よ、わたしは汝らに蛇や蠍をそして敵のあらゆる力を踏みしだく権威を授けた、しかもいかなるものも汝らに不正を働くことはない。ただし、霊どもが汝らに服従するからといって喜んではならない。むしろ汝らの名が天に書き記されていることを喜べ」(Luke.10:18-20)。ここでは自分たちの伝道の成功をそれ自身として誇るなと警告されている。イエスは「邪悪で神に背いた時代の者たちは徴を欲しがる」(Mat.16:4)と警告しているが、その邪悪さが求める不思議な業(奇跡)や徴は端的に言って、他人にはできない力を見せつけ、この世で何者かでありたいという二心である。ここでは癒しなどの奇跡をなしうるおのれにうぬぼれることのないように、むしろ、天国に入れていただくことを喜ぶように、二心なき一途な神への信に喜びを見出すよう弟子たちは促され、励まされている。
ルカはそこで報告している。「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」」(Luke.10:21-24)。ここでイエスはこの伝道の成功が父と子の揺るぎない関係の証であることを喜んでいる。イエスの一挙手一投足、例えば伝道の成功をもたらしたところの学なき弟子たちの選び、選定は、父の御心に適い、そのことを喜び、神に賛美を帰している。イエスの生が父なる神に嘉みされていることを確認できるものとして、不思議なる業や栄光ある業が歴史のなかで遂行されていると位置づけられている。父なる神のみがイエスをご自身の子であるとご存知であるそのような状況のなかで、子が父を顕わにする権能を持っていることが父と子のゆるぎない関係を介して顕されていく。イエスはこの出来事がこの世界で重く見られない幼子のような者たちを介して実現されていること、すなわちこの世の権力を介せずに実現されていることを賛美した。それ故に、これらの栄光が権力者たちに憎まれ妬まれ彼に苦難の道を強いている。権力者たちに媚び諂い、彼らに奇跡をなす権能を与えることはなかったからである。
福音とは、博識な者や立派な者たちのものではなく、モーセの業の律法を突破するものとして、他に縋ることのできない罪人を招く信の律法のことである。心魂の根源に信が生起するとき、救いの確かさのなかで平安と喜びが出来事となるまさにそのものであった。心魂の根底が偽りから、裏切りから解放されるのは、「目には目を、歯には歯を」のように常に比較考量のもとにある業のモーセ律法の遂行によってではなく、比較を絶した善が、恩恵としての罪の赦しがこの世界に実現しそしてその確かさへの信に基づき、人生の一切を秩序づけるときである。この世のものに頼るものがあればあるほど、ひとはこの根源的な信に立ち返ることが難しい。
健全な99匹の羊を置いて或いは9999匹をおいて一匹の迷える羊を探すことは経済原則即ち肉の法則にあわないであろう。さらには司法的な等しさの分配にも適合しないであろう。宇宙の栄光である神の独り子が受肉しひととなり、旧約聖書に基づきつつも、業の律法よりも一層根源的な信の従順を貫くことにより業の律法の冠である愛を成就したその御子は他の何ものにも代えることのできない比較不能な善である。「主は言われる、「わが想いは汝らの想いとは異なり、わが道は汝らの道とは異なる、天が地を高く超えているようにわが道は汝らの道を、わが想いは汝らの想いを高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降れば空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽をださせ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食するひとには糧を与える。そのようにわが口からでる言葉も空しくわれに戻らない」(Isaiah,55:8-11)。
3清き者の眼差し
もう一か所イエスの清さを示す報告を見てみよう。イエスの眼差しは憐みをたたえつつすべてを射抜くそのようなものである。彼が裏切られたときのその眼差しについてルカは見落とさず報告している。最後の晩餐において、イエスは弟子たちに「わが国」において彼らが「王座に座る」ことを予言する。異邦の王たちは民のうえで権力を奮って「恩人(euergetai, benefactors)」と呼ばれるが、弟子たちには給仕する者のほうが給仕される者「より偉大」であると言う。「上に立つ者は仕える者のようになりなさい。・・汝らはわが数々の試練のうちにおいて共に踏みとどまってくれた。まさに父がわたしに支配権を備えてくださったように、わたしもまた汝らに備える、それは汝らがわが国におけるわが食卓で食べそして飲むためであり、そして汝らは王座に座りイスラエルの十二部族を裁くことになるであろう。
シモン、シモン、視よ、サタンは汝らを小麦のように篩にかけることを[神に]請い求めた。わたしは汝の信仰がなくならないように汝のことで祈った。汝が[ひとびとに]眼差しを向ける番になったとき汝の兄弟たちを支えよ。しかし、ペテロは言った、「主よ、わたしはあなたとともにおりますそして牢獄と死に至るまで歩みぬく覚悟はできています」。だが彼は言った、「ペテロよ、今日、鶏が鳴くまで、三度わたしを知らないと汝は否定するであろう」」。
捕縛された夜、イエスが大祭司カヤパのもとで尋問を受けているとき、ペテロは焚き火をしているひとびとのあいだに交じりながら外からその様子を見ていた。深夜から明け方になる時刻、「一時間ほどたつと、また別のひとが、「確かにこのひとも一緒だった。ガリラヤ[方言]の者だから」と言い張った。だが、ペテロは「ひとよ、あなたが言うそのことをわたしは知らない」と言った。まだこう語っているうちに、突然、鶏が鳴いた。主は振り返りペテロをじっと見た。そしてペテロは主の言葉、「今日、鶏が鳴く前に私を三度否定するであろう」を思い出した。彼は外に飛び出し、さめざめと泣いた」(Luke 22:29-34,59-62)。ペテロはこのときの主の眼差しを生涯忘れることができなかったのであろう。時がきて彼が殉教する番になった際に、主が通常の十字架刑であったため、彼は主に申し訳なくどうか自らを逆さ磔にしてくれと言って、死んでいった。カラヴァッジョはその状況を描いている。
そのときのイエスの眼差しを想像してみよう。鶏が鳴いたため、反射的にイエスは大祭司の館の外を見やったのであろう。そしてペテロと目があった。画家であったならそのときの情景として、かがり火に浮き彫りになる振り向きざまの悲しげなイエスの表情を描くことであろう。それと同時に憐れみの眼差しが向けられていたことであろう。そもそも最後の晩餐とはイエスにとって弟子たちとの今生の別れの宴であった。惜別の思いのなかで、二人の弟子の裏切りを予見し、二人の立ち返りを求めつつそして今後の弟子たちの苦難を予見しつつ、天上における栄光のなかでの再会と会食を予言し励ましていた。後の日に裏切りから立ち返ってから、ペテロたちが救いを求める者たちに「眼差しを向けて」支えるようイエスは励ました。このように惜別と裏切りのただなかで、イエスはペテロを「じっと(en<eneblephsen)」すなわち射抜くように見入った。今日的な言い方では「やっぱり、やらかしたな」とでも言うのであろうか。これはあまりに軽い口語的な言い方であり、深い悲しみのうちに「やってしまったな」という思いで見つめたのであろう。勿論、無言である。二人のあいだに距離がなかったとしても、無言に相違ない。ペテロはいたたまれず走ってその場を去り、激しく泣いた(wept bitterly)。
これは裏切り、言葉による裏切りである。それでも、獄舎でも死でもどこまでもついていくと言ったそのペテロが舌も乾かぬうちに裏切ったのである。イエスは裏切りを回避すべく天国におけるより偉大なものとなる励ましを与えそして鶏鳴の警告をも与えていた。恐れや戸惑いそして生存への欲求これらがペテロをして良心を麻痺させ、裏切りに向かわせた。
イエスは、ひとは神に良きものとして造られたにもかかわらず、羊飼いのいない羊のように彷徨っているのを見て、神の子としてのひとの本来性についての彼の認識と現状のあまりの落差にはらわたから「深い憐みを抱いた」と報告されている(Mat.9:36)。この憐れみ深さは心の純一さのひとつの顕れである。
4肉の弱さへの譲歩
他方、イエスは人間の肉の弱さを熟知しており、まっすぐ歩けない弱い者たちに忍耐と寛容のもとに譲歩を示しつつ、励ましている。ゲッセマネにおける信の従順を貫く苦闘の祈りのただなかにおいて、弟子たちは待ちきれず眠ってしまった。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていよ。霊は燃えるが、肉は弱いからである」(Mat.26:41)。「肉」とは土から造られた身体を持った自然的存在者の生命原理のことである。パウロは、信徒は「肉において」生きているが、「肉に即して」ではなく、「霊に即して」生きていると言う(Rom.8:1-14)。言ってみれば、「わが国籍は天である」(Phil.3:20)ため、たとえば信じる者は天国に即して日本において生きている、というそのような関係に霊と肉はある。この肉の制約はこの地上にある限り引力から逃れられないように担うべき重荷であり続ける。
イエスはまたモーセ律法における離婚の規定についてこう言う。「汝らは読まなかったか、「創造主ははじめからかれらを男と女とにお造りになった」(Gen.2:24)。そして、彼は言った。「それ故、ひとは父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一つの肉となるであろう。だから、二人はもはや別々ではなく、一つの肉である。かくして、神が軛を繋いだものをひとは離してはならない」。すると彼らはイエスに言った、「ではなぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか」。イエスは言った、「汝らの心の頑なさに対して、モーセは妻を離縁することを譲歩した(epitrepo, give way)のであって、初めからそうだったわけではない」(Mat.19:4-8)。パウロも言う、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)そこでは肉とは「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる可能存在者として人間中心的に描かれる。
5肉の弱さの克服
イエスは肉の弱さを知り、寛容であったが、それは清濁併せ飲んでいることであろうか。彼はこれらを乗り越える術を知っていた。勝利の故の寛容さである、大丈夫だ、信によってこの問題も解決できると励ましていたのである。さもなければ、肉の弱さへの譲歩は滅びへの罠を仕掛けたものとなる。その勝利とは福音であり、彼はその福音を宣教しつつ、福音をその一挙手一投足において実現している。比較を絶する信に基づく義の知らしめである。新約聖書はその福音の報告である。彼は自らの働きは神の子のそれであり、そう信じるように生命をかけて宣教した。
ひとはどこまでイエスやパウロの譲歩に基づき、神の働きを括弧にいれて、人間中心的なまた自然中心主義的な思考を展開するのであろうか。「肉」は自然的な生の一原理であるにせよ、また神学者たちが主張するように罪性を帯びたものであるにせよ、生物的生死に関わるだけのものであり、死とともに消えゆくものである。他方、霊は生物的な死を乗り越えるものとして導入されている。これらの領域は最も共約的にはつまり肉の罪性の議論を括弧に入れた場合に可滅的なことがらと永遠の事柄に分類されよう。
「ローマ書」八章における「キリスト・イエスにおける生命の霊の律法」による「罪と死の律法」からの解放は、七章の肉とヌース(「内なる人間」の神にかかわる認知的部位)の葛藤を前提にしている。「ローマ書」三章から六章まで福音が打ち立てられ、業の律法を新たに福音との関係において位置づけている。もちろん律法は神の意志である限り、「善」であり「霊的なもの」である。「それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然からず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:13)。この罪の醜悪さは良心が宿る「内なる人間」との葛藤をもたらす。生物的な死は人間の与件であり当たり前の事実であると看做してしまうことが罪に欺かれていることに他ならないとヌース(叡知)が暴きだす(7:15)。律法をつきつけられた者は叫ぶ、「惨めだ、われ、人間」(7:24)。生物的な死は「罪の賃金」(6:23)であり、「われをこの死の身体から救う者は誰か」(7:24)とは原理的に「死の身体」を抱えている人類誰もが叫ぶべきことがらであると言える。イエスは「身体を殺すが、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな」と生物的死の乗り越えを励ます(Mat.10:28)。
かくして肉と霊は人間の生の根源的形姿に関わる。いずれかを根源的要素(stoicheia)とするかに応じて、生物的死か永遠の生命という果実を得ると想定されている。霊の思慮はこの生物的死を乗り越えるが故にこの生のただなかで生命と平和に至る。パウロは言う、「われらもまた未熟であったとき、宇宙の根源的諸要素のもとに(hupo ta stoicheia kosmū)隷属されたままであった。・・しかし、神を知らなかった時、汝らは神々ではない自然本性上のもの(tois phusei)に隷属していた。しかし今や神を知っており、いやむしろ神に知られているのに、いかに汝らは再び弱くかつ貧弱な根源的諸要素に(epi ta asthenē kai ptōcha stoicheia)逆戻りし、それらに再び新たに隷属することを欲するのか」(Gal.4:3-9,cf.Col.2:8(「宇宙(世)の根源的諸要素に即してであり、キリストに即してではない」))。
ここで重要なことは「宇宙の根源的諸要素」が「自然本性上のもの」として提示されていることである。当然宇宙は創造の秩序のもとにあるが、彼はそれを相対的に独立した「自然本性上のもの」と理解している。さらにそれは「キリストに即した」生と対比されている。パウロはひとが「自然本性」に即して「宇宙の根源的要素」を最も心魂の基礎的なものであるとすることは、弱くかつ貧弱なものに隷属することであり、未熟者のすることであるとする。心魂の内奥はそのような時間と空間の限界のなかに成立する自然上のものではなく、彼は霊を根源的要素とするよう励ましている。これは時空のなかで観察可能なもののみに実在性を認める自然主義(naturalism)に対する挑戦的な企てである。
パウロは「ガラテア書」において「今や神を知っており」もはや貧弱な宇宙ないし世界の根源要素に立ち帰る愚かなことはせず、霊が究極的な生命活動の構成原理であるべきとして言う、「霊の果実は愛、喜び、平和・・である。これらに対立する律法は存在しない。だが、キリスト・イエスに属する者たちは情念と欲望とともにその肉を十字架に磔(はりつけ)てしまった。もしわれらが霊によって生きようとするなら、われらは霊に適合し続けもしよう (pneumati kai stoichōmen)。互いに挑みあい、互いに妬みあって、われらは空しきものに栄光を帰すことのないものとなろう」(Gal.5:25)。ここでひとは自らの生の原理として「霊によって生きる」可能性が提示されている。それは心魂の内奥からの何らかの促しに対応する部位であり、その促しに適合し続けることが勧められている。
さらに「ガラテア書」においてキリストの磔の死を自らのことがらとし、復活のキリストと共に新しい創造を根源的要素とする者たちとその果実に言及して言う、「われらの主イエス・キリストの十字架において以外に、われに誇ることがあってはならない、彼によって宇宙はわれにそしてわれも宇宙にたいし十字架に磔られたのである。というのも、割礼でも無割礼でもなく、新しい創造こそ何ものかだからである。そしてこの規範に適合し続けるであろう(stoichēsūsin)限りの者たち、彼らのうえにそして神のイスラエルのうえにも平和と憐れみがあるであろう」 (6:14-16)。宇宙とわれのあいだで相互に磔られた関係にあるとは宇宙の自然的原理を生の原理として適合することを「やめた」ということに他ならない。古い宇宙の法則のもとにではなく、新しい創造のもとにその法則に適合することが勧められる。
なおわたしども生物は当然自然的な存在者であり続けることにかわりはないため、宇宙の自然的な法則は根源的な原理として位置づけられることをやめるが、新しい創造の秩序のもとに位置づけられて機能すると理解される。生の一原理としての「肉」は磔られたが、霊に従属するものとして肉は新たな位置づけを得る。キリストの軛に繋がれて生きるとき、ひとは憐み深い者となり、心の清い者となり、そして平和を造る者となる。キリストと共なる生の喜ばしさゆえに、それ以外の生をもはや望ことはないであろう。
パウロは命じる、「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ。なぜなら、「嘉(よみ)」の名において汝らにおける欲することそして実働することを働きたまう方は神だからである。あらゆることを呟くことまた言い争うことなしに遂行せよ。それは、曲がったそして歪んだ世代の者たちのあいだで、汝らは生命の言葉を保持しつつ、わが誇りであるキリストの日に向けて、この世界の光として輝いているが、汝らが完全でそして純一な(akeraioi)者となり、咎めなき神の子となるためである」(Phil.2:12-16)。