偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

偽りとの決別―山上の説教における道徳的次元―

   登戸学寮日曜聖書講義 マタイ5:13-6, 2020年7月12日

1 はじめに

 先週まで3か月かけてマタイ5章冒頭により山上の説教の八福を学んできた。これは端的に言って、神はどのような人々を好んでいるか、どのようなひとに憐みをかけているかをめぐる、神にとって好ましいひとの心的態勢、行為そして他者との関わりの八つのリストである。イエスに従っていこうと思い、山上までついてきた人々へのイエスによる慰めと励ましという文脈において、この八つの「祝福」「さいわい」が語りかけられた。そしてイエスご自身こそ八福そのひとであり、八福のそれぞれに該当する彼の経験を主に福音書に即して確認した。神には好きな人がいるという言い方に、ひとは躓くかもしれない。神は「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(Rom.9:13)とあるように「欲する者を彼[神]は憐れみ、欲する者を頑なにする」(9:18)方であると一方で報告されており、他方、「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)と、公平に審判する方であることが報告されているが、その両立の問いは神ご自身においては「信の律法」が「業の律法」より根源的であることにより解決される。今は論じえない。ともあれ、聖書を学んでいくと、神は人間についてどのように考え、どう関わるかが分かってくる。

 イエスは八福の究極を生きた。ナザレのイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたあと、天が裂けて聖霊が鳩のようにくだり、響きわたる声がイエスを祝福している。「汝はわが愛する子、われは汝を嘉みした」(Mac.1:12)。イザヤ書の預言がマタイにより引用されている。「視よ、わたしが選んだわが子、わが魂が嘉みしたわが愛する子。わが霊をその子のうえに置こう、そして彼は異邦人に正しい裁きを伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、誰か大路で彼の声を聞くこともないであろう。正しい裁きを勝利にもたらすまで、彼は傷める葦を折ることなく、煙れる亜麻を消すことはないであろう。異邦人も彼の名に希望を抱くであろう」(Mat.12:18-21,Isaiah,42:1-4)。旧約以来の預言がナザレのイエスにおいて成就している。

 「弟子は師に優らず」(Mat.10:24)。ひとは彼の軛に共に繋がれることにより、彼の祝福にならうことができるだけである。しかし、いつの時代にあってもキリストの弟子として歩む者は、歴史上の展開、変遷という新たな文脈のなかで新たな課題を受け取り、キリストの苦しみの足らざるところを補う者となる。それぞれの時代の弟子たちは御跡に従いつつであう様々な苦しみをキリストの苦しみに与るものであると受けとめ、そこでの苦しみは光栄に変換される。パウロは「わたしは今汝らのために苦しみのうちにあることを喜ぶそして[キリスト]ご自身の身体、それは教会であるが、その身体のためにわが肉においてキリストの苦しみの足らざるところを満たす」と言う(Col.1:24)。

 ナザレのイエスはご自身の一挙手一投足、人生全体においてひとが経験しうる最底辺・bottomをそしてひとが経験しうる人格としての至高・the highestを明らかにした。時代状況のなかで、人間が経験しうるボトム、苦しみそのもののなかに祝福があるとするなら、ひとはどのような状況においてであれ希望のうちに忍耐することができることであろう。悲惨に対してそして人類の悪に対してひいてはその背後でひとに寄生し生物的死のみならず神の前の死を画策する罪に対して勝利があるとするなら、このような生を生きたひと以外に救いを見出すことはできないであろう。

 新約聖書は旧約聖書に基づきつつ、イエスが誰であり、何を遂行したかの記録である。そしてイエスご自身の生涯が一歩でも旧約聖書の延長線上からはずれたり、他の神々を拝したならば、宇宙を支配し導く「神はひとり」(Rom.3:28)ではなくなってしまう。イエスは信仰により狭く真っ直ぐな道を歩み抜いたのである。彼はユダヤ教の改革者として一人の預言者であり、そしてイスラエルの預言者であることに留まらず、異邦人をも含め全人類にとってもの救世主であったのである。誰か救世主がこの地上にいるとするなら、あらゆることを正確に知っておりそれに基づき正しく、公平に判断することができ、しかも同時に憐み深い存在者がいなければならない。全知でありしかも正義にして同時に憐み深い存在者がいるのでなければ、ひとはこの不公平な世において、希望をもって生きることはできないであろう。神の国の希望のうちに生き得ること、信じ得ることそれ自身大きな祝福である。山上の説教はそのような人類が経験しうる究極的なことがらのなかでの神の国の希望が展開されている。だから、二千年もひとびとはこれらの著しい言葉を記憶し、ここに立ち返りまた伝えてきたのであろう。  

2 祝福に基づく励まし―地の塩にして世の光―

 本日から山上の説教における八福の続きを学ぶ。7章終わりまでの残りの箇所を偽りという視点から学ぶとき、最も理解できるように思える。モーセ律法の伝統に立ちつつ、行い(業)を究極まで急進化させる。そこでは信仰についての語りも、不思議な業(奇跡)への訴えもなしに、さらには人格化されたサタンを持ち出すこともなしに、将来における神との関わり、神の国における祝福を前提とするだけで、相対的に自律したものとして道徳的次元における良心に訴えて教えが展開される。良心は共同の知識(con-science)として「内なる人間」(Rom.7:24)を構成する「叡知(ヌース)」という神の意志を認知する機能と関わるものであったが、それは司法的次元を突破するところで自らの偽りに対して発動する。実際、7章までにイエスが非難する「偽善者(hupokritēs)」や「悪人」という語句は十回以上見出される。道徳的次元とは、善き者と悪いものが判別される次元であり、悪人との対応の仕方を教え、偽善者とならぬよう警告を与えられる次元である。またイエスがイエスである限り、山上の説教のここかしこに慰めと励ましも見出される。それは神に祝福される者となることに他ならない。

 地の塩、世の光(5:13-16)。この二つはセットで受けとめられる必要がある。塩は、相撲において土俵を固めまた清めるものとして用いられてきた。食塩が食物の鮮度を保つように、地の塩は地上に住む人々を腐敗や惰弱から保護し、堅固にする役割を担う。今、「地の塩」と聞いてまっさきに思い出すのは医療従事者の方々である。自らの健康と生命を賭して、感染症のひとびとを助けている。また3.11のとき「福島fifty」と呼ばれた人々も原発をひいては日本を守るべく地の塩となった。そのような人々はこの世界を縁の下で支えている地の塩だと思う。ひとびとは地の塩の効き目ゆえに一歩一歩安全に保たれ大地を踏みしめて歩くことができる。多くの場合、地の塩として働く人々はあまり目立たず黙々と自らの勤めに忠実なことであろう。タラントの譬えで、自らの職務に忠実であった僕(しもべ)について主人は言う、「善かつ忠なる僕(しもべ、「僕女」しもめ)、・・汝の主人の喜びに入れ」(Mat.25:21)。後の日にただそのように呼ばれること、それがキリストの弟子の人生の目的である。

 他方、世(世界)の光は輝き、ひとびとに行く手を示しまた喜ばしい光栄ある生を明らかにする。そのひとの振舞いの背後に所謂オーラつまり後光がさすそのような特別な印象を与えることであろう。一点の翳りなき明るさは清いものに与えられる祝福であった。「汝の全身が明るく、少しも暗いところがなければ、・・全身は輝いている」(Luk.11:36)。大地に撒かれる地の塩は、その効き目が維持される限り、大地を堅固にする支え役であるのに対し、世界を照らす光は、灯し続けられる限り、それ自身明るく輝き、ひとびとの道しるべとなる。

 地の塩、世の光は、かくして、すべて神に栄光を帰すことに方向づけられている。それはナザレのイエスが双方であることによって父なる神に栄光を帰したからである。しっかり堅固な大地を踏みしめつつ、歩むべき真っ直ぐな道を照らすそのような生をイエスは歩み抜き、そして彼についてきたひとびとに命じている。「かくして汝らの光を人々の前に輝かせ。これ人々が汝らの良き働きを見て、天にいます汝らの父に栄光を帰すためなり」(Mat.5:16)。

 3 律法の一点一画

 「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄すべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画(イオタとケライア)たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。 われ汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう。汝らは古(いにし)への者たちにより「汝、殺すなかれ、殺す者は審判に服することになるであろう」と言われたのを聞いている。しかし、自分の兄弟に怒る者はすべて審判に服することになるであろう。自分の兄弟に「馬鹿」と言う者は最高法院に服することになるであろう、「愚か者」と言う者は火の地獄に服することになるであろう」(Mat.5:17-22)。

 業の律法を成就するために来たというイエスのこの発言の背後には、彼がモーセ律法を文字通りの仕方では護っていないと非難されていたことが想定される。イエスは安息日を遵守しない。「もし汝ら[パリサイ派]が「わたしが求めるものは憐みであって、生贄(いけにえ)ではない」(Hose.6:6)という言葉が何であるのかを知っていたなら、咎めなき者たちを審判しなかったであろう。というのも、人の子は安息日の主だからである」(Mat.12:1-14,cf.Luk.13:10ff,14:1ff)。このことはイエスが自らを業の律法より上位にある者であると看做していることを含意している。それは実質的には彼が「神の信」(Rom.3:3)の律法のもとに、正義を実現しつつあることを含意している。「人の子」という表現はナザレのイエスの人間性を強調するさいに用いられる。ナザレのイエス、この自分がキリストであり、業の律法を或る秩序のもとに置くと宣言している。さらに、彼は断食の戒め(Mac2:18)や清めの規定(Mac.7:1)に従わず、また神殿を破壊しようとする(Mac.14:58)。聖書学者ならびにパリサイ主義者たちはこのような発言に神を冒涜する涜神(とくしん)の罪を犯しているように思えた。さらにとりたてて文字通りに律法を遵守しているように見えないイエスの律法軽視を彼らは危険視している。イエスの実際の行動とここでのイエスの律法の一点一画も廃らないという主張は矛盾しないのであろうか。いかに調停されるのであろうか(これは次回に語られるであろう)。

4 二心―業の律法の遵守による神からの恩恵の奪取とひとからの名誉―

 これまでの講義のなかでの一つの強調点は山上の説教(5-7章)には「信」「信仰」ということが見られず、モーセの十戒、業の律法の枠のなかでイエスご自身が業の律法を急進化させていることである。それは多くのユダヤ人にとって彼らは神の意志としてモーセの十戒しか知らされていなかったため、イエスも彼らへの対人論法としてその次元に留まっているからである。また、信じる者に対する数々の不思議な業(所謂「奇跡」)は8章以降で報告されるが、山上の説教はただ言葉の力により遂行されている。

 モーセの律法即ち十戒は神の山(シナイ(ホレブ)山)において神からモーセに示された神の意志であるが、その始めに神による恩恵の注ぎが確認されている。「われは汝らをエジプトの地から、奴隷の家から導きだした汝の神、主である。汝らはわが前に他の神々を持ってはならない」(Exod.20:2-3)。恩恵の確認のもとに、各人の責任における戒めの遂行が求められる。他の神を拝むな、偶像を作るな、安息日を守れ、などこれらを遵守する者たちと遵守しない者に対する神の正反対の対応が語られる。「われを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、われを愛しわが戒めを守る者には、千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5-6)。たとえば、殺すか殺さないか、盗むか盗まないかという各人の行為、業に応じて神の恩恵と罰が与えられる。そこには「目には目を」などの法的な正義としての同害報復が見られ、それに対応するものとして恩恵は良き行為に対し付与されている。

 イエスはここにひとの肉の弱さからくる司法的な次元と道徳的な次元の癒着の可能性を見ている。さらに神権政治(theocracy)と司法的次元ならびに道徳次元これら三つの領域の癒着の可能性を見ている。その癒着を彼は「偽善」と名付ける。「見てもらおうとして、ひとの前で汝らの正義を行わないよう注意せよ。さもなければ、汝らは天の父のもとで報いを獲得するとはない。かくして、汝が施しをするとき、ちょうど偽善者たちが礼拝堂や街角で、人から褒められようとするように、自らの前でラッパを吹き鳴らしてはならない。われ汝らに言う、彼らは自分たちの報いを受け取っている。だが、汝らが施しをするとき、汝の右手が何をするかを汝の左手に知らしめてはならない、それは汝の施しが隠されているためである。隠れていることを見ている汝の父は汝に報いを与えるであろう」(Mat.6:1-4)。

 父からの報いをいただくべく右手でなす善行を左手に知らせない、そのような急進化がなされる。イエスは山上の説教においてはモーセ律法を信仰や不思議な業に訴えることなしに、道徳的次元において急進化させ捉え直す。彼の論敵は厳格に業の律法を守る、しかし形式主義的な律法主義者になりがちな聖書学者とパリサイ派であった。「パリサイ人(びと)たちのパン種に注意せよ。それは偽善である。覆われているもので知られずに済むものはない。だから、汝らが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」(Luk.12:1-3)。

 イエスは彼らに「偽善」を見出し、こう非難する。「ああ、なんということだ(ouai,woe,ウーアイ)、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、内側は強奪と情欲で満ちているが[現在分詞]、杯や皿の外側を清めている。盲目のパリサイ人たち、まず杯の内側を清めよ、それはその外側も清まるためである。ああ、なんということだ、汝ら学者、パリサイの偽善者たち、汝らは石灰で塗った墓に似ている。何であれ外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる穢れで満ちている。このように汝らもまた外側は人々に義人に見えるが、内側は偽善と不法で一杯である」(Mat.23.23-28)。この「ああ、なんということだ」で始まる難詰はえんえんと七回も語られる(cf.ルカの平野の説教Luk.6:17-26)。誰がこの難詰に耐えられるであろうか。イエスは弟子と群衆に「学者とパリサイ派の者たちはモーセの座についたのである。かくして、彼らが汝らに語るならそれらのことをすべて汝らは行いそして心に留めよ、しかし彼らの業に見習ってはならない」(Mat.23:2)、「ああ、なんということだ、汝ら律法制定者たち、人々に背負いきれない重荷を担わせながら、自分たちは汝らの指一本その重荷に触れようとしない」(Luk.11:46)と警告する。

 私は何故か「偽善」という言葉をこれまで使うことができなかった。それは子供のころからパリサイ主義へのイエスの批判に触れてきて、自らが偽りであり、何をしても偽りであり偽善ではないかという思いにかられ、そこから正しい者は誰もいない、どこまでも自己追求、自己の生存を賭したとしてもそれはたかだか名誉の追求という偽善にすぎない、善と悪のあいだに差異はないという一種のニヒリズムに陥っていた。自分が偽りなのであり、他者を偽りと責めることはできないと思われた。ただし、残念ながら、ひとの他の側面、例えば自分には正しい判断には思えないようなことがらについては裁くことのあることは反省点である。謙り、心柔和な者は幸いである。ひとには気になるところとそうでないところに凸凹がある。

 しかし、イエスは異なる。彼はその心によって清いからである。彼はひとの内心をよく見抜いている。おのれの保身や自己栄光化、他者への恐れ、自己卑下そのようなものからまったく自由であった。端的に言って、山上の説教は聞く者の自らと人類の偽りを抉り出す。どこかでひとは自己と他者そして神をごまかしていることが、道徳的次元だけで明らかにされてしまう。イエスはここで信仰にも奇跡にも訴えることなく、ただ言葉で聴衆の良心に訴えている。「「目には目を、歯には歯を」(Ex.21:23)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、「悪人に手向かうな」誰であれ、汝の右の頬を打つなら、左の頬を向けよ。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18)と語られたのを汝らは聞いている。しかし、われは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(Mat.5:38-39, 43-46)。

 隣人を愛し、敵を憎むことは一種の二心(ふたごころ)である。敵も隣人であることもあろうからである。ソクラテスも『国家』第一巻のなかで正義とは「友人を益し、敵を害することだ」という定義に疑義を提示している。ひとはそのような二心にどこか偽りを感じるのであろうと思う。ソクラテスのように良心が鋭敏であれば、このような正義の規定、聖書の言い伝えに疑問を感じることでもあろう。自分を特別視すること、それは生存と繁栄にプログラムされた生物にとっては抜きがたい傾向性であるが、そこに偽りを感じてしまう。しかし、聖書はその特別視を一概に否定しているわけではなく、「汝の隣人を、汝自身を[愛する]如くに、愛せよ」と言い、「われ」と「汝」のあいだの「等しさ」を主張する。ひとりひとりとのあいだに、支配からも支配されることからも自由となり相互の等しさが出来事になるとき、もはや自分を特別視していることにはならない。ひとは愛が出来事になるとき、自らの良心が宥められていることにであう。喜びがあるからである。

 しかし、悪人に手向かうなという命令はどうであろうか。所謂イエスの「無抵抗主義」である。自分に関しては、ちょうど殉教者たちが不思議な平安に満たされたときのように、可能かもしれないが、自分の愛する者がそのような状況にあるとき、看過することはできないように思われる。「われらが[神に対し]敵であったとき」(Rom.5:10)、神はわれらにモーセ律法の同害報復のように比較比量的な対応とは異なる、比較を絶する善をイエス・キリストの信を介して人類に示した。比較考量の世界では決して良心に平安を得ないのである。業に基づく正義とは別に信に基づく正義の領域が開けてくる。このことが想定されるとき、右の頬を打たれて逃げたり、愛する者のために正当防衛を試みることが完全には神の御心に適うものではないのではないかと思われてくる。神の想いはわれらの想いと異なる(Isaiah.55)。

 偽りは究極的には神の子として造られた自己に対し、あたかも自らの力で生きているかの如くに看做すことに他ならない。詩人は言う、「自らのなかで罪を犯させるべく不法が語りかける、「自分の目の前に神の畏れはない」と。というのも、それは自分に対し欺いたからである、自分の不法を見出しそしてそれを憎むに至るまで。彼の口から語られたことは不法と欺きである。彼は善を為すべくわきまえ知ることを欲しなかった」(Ps.36.1-4)。

 山上の説教においてイエスはひとが耐えうる限界状況そして為し得る限界状況を明白に提示した。それによって、ひとは何かどこまで落ちてもセーフティネットがあることを見出し、またどこまで登ってもひととしての最高の真実な在り方があることについて権威をもって語りかけられているのを知る。良心が宥められるほどに恩恵は圧倒的であり、その力によりひとはここまで高くなることができるのか、ひとは栄光を棄ててここまで低くなることができるのかをキリストの一挙手一投足において知らされる。

 ひとは人間のそして自らの不都合な真実に向き合うことを避け、また人生の苦しみに耐えられず、気晴らしや、願望をともなう思い込みに事実を歪めてしまう。イエスはひとがそのもとに創造された神との正しい関係性なしに、その生はどこまでも偽りであり空しいものであることを説き、神への立ち返りと自らが神の子であることを信じるよう促す。彼にはどこにも偽りを見出すことができない。父なる神への信にひたすら生きたからである。その心によって清い方そして憐み深い方だからである。彼についていこうと思う。「不法を赦され、罪を覆われし者は祝福されている。主にその咎を数えられざる者、その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32:1-2)。

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