春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十七
春の連続聖書講義:山上の説教における福音とりんりその十七
録音においては、福音と倫理の関係をAIの現在地点の紹介とともに秩序づけています。13年前の郷里宮城における3.11の日を回想しつつ。2024年3月11日
三・三・五 道徳的次元の内破そして信仰への招き
山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。これは神のみ旨の表明であるが、それを一旦括弧にいれて一切が明らかであるところでは、このような完全な道徳を提示することは十分にありうることだと想定することができる。イエスは自らの言行一致がもたらす「権威」のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて「偽善」や「貪欲」を指摘し道徳的次元をその内側から破り出て、「まず御国とご自身の義を求めよ」と信仰に招いている(5:23,6:33,16,7:5,16)。福音の確立のただなかで、「一点一画」とも廃棄されない愛に収斂する業の律法を正面からそれ自身として引き受けている。
この土俵の共有という対人論法において一般的な人生の理解として前提にされているのは、まずひとは生命に至る狭い門から入るか滅びに至る広い門にはいるか二者択一を迫られている中立的な道徳的存在者である。「狭い門から入れ」という促しの背後に、個々人は生命と滅び双方の可能性のもとにある責任ある行為主体である。「滅びに至る」門は広く、「生命に至る門は狭く」その道も細い。各人究極の二者択一のもとに自らの道を選択する(7:13-14)。
そのことが含意していることとして、ひとは常に善悪を判断する道徳的存在者だということである。そしてそれぞれの善きまたは悪しき心の態勢からそれに応じた行為が生み出されて、悪しき心から善き行為が生まれることはない。双方は交差しない。これはアリストテレスの行為やパトスが態勢の現れであるという態勢論の議論のなかで、イエスも同意することを引用により確認した。ここではこう語られる、「偽預言者に警戒せよ。彼らは羊の皮を身に着けて君たちのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。君たちは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアザミから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての善い木が善い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。善い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は善い果実を生み出すことができない。善い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から君たちは彼ら自身を知ることになるであろう」(7:15-20)。
シャロンの平野にはとき色の杏子や桃の花が咲き、種を落としまた同じ種の個体が芽生える。この「最も秩序正しい」自然の複製機構の安定性の類比により、イエスは、葡萄は葡萄を生む、ように、善い木は善い実を結ぶと言う。否定的なものはその反対語により理解される。これら善い木がもたらす善い果実と悪い木がもたらす悪い果実は交わることがない。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7:26)。岩盤の上に家を建てる者と砂上に家を建てる者の賢さと愚かさの二分のように、道徳的責任のもとに二者択一のもとにある人はいずれかを選択するとき、交差の可能性、地獄への道から天国への道の転換の可能性は考慮されていない。
三・三・六 木とその果実の三種類の解釈
聖書学的、神学的にはこの事例は大別して三つの解釈を引き起こしてきた。一つは従来「心情倫理」と言われたもので、原因となる心の在り方がよければ、ちょうど善い木であっても嵐や土壌汚染で善い果実を結ばないことがあるように、善い働きがなかったとしてもやむを得ず、善意志だけが神に嘉みされるという立場である。
もう一つは「責任倫理」と言えるもので、結果だけがすべてであり、善い果実を実らすもののみが善い木であると神は看做しているので、心の在り方がどのようなものであろうと、果実により審判されるという立場である。第一の立場は自ら自己満足のうちに所謂心情倫理の次元に留まるか、誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性を通じて信仰に招くかのいずれかとなる。後者はルター主義的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と言える。第二の結果責任が問われているという立場は一つには道徳的な次元で自らの力で善い実を結ばないものは火で焼かれてしまう、立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解が展開されている。U.Luzは神についてこう語っている、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」[i]。これを律法主義的解釈と呼ぶ。
もう一つは原因と結果の「全体」が神に問われており、双方を媒介するものがある限り、善い果実をもたらすと神が看做しており、この譬えはそれを結果である果実の側から述べているという立場である。第三の立場について、J.Schniewindは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言う[ii]。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。
[i] U.ルツ『EKK新約聖書註解I/1』 p.594小川陽訳(教文館 2009)。
[ii][ii]J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』 p.211量義治訳(NTD刊行会 1980)。シュニーヴィントの「全体的人間」の提案はルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。『信の哲学』上巻第三章、第五、六節pp.542-565参照。