春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八
春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八
録音では、「木は実によって知られる」をめぐるこれまでの神学者たちの困惑に応答を試みました。イエスは道徳的次元に屹立しています。この善悪因果応報の譬えは倫理的次元のみにおいて理解されるものです。それ故にこそ、聖霊の媒介を語らない山上の説教において、福音と倫理はイエスの語りを介して適切に秩序づけられています。2024年3月12日
第四の倫理学的解釈
これらの聖書学的、神学的理解に対して、道徳的理解とは、光の透明性のなかでは、普遍的であり、この事例は根源的な道徳法則の例証として挙げられており、文字通り、「善い木は善い果実を実らし、悪い木は悪い果実を実らす」のであり、各人の心魂の態勢に応じて、行為は善くも悪くもなるということを聴衆に教えている。イチジクはイチジクを生むこの自然の秩序正しい複製機構は生命を預かる神からの善人にも悪人にも注がれる憐みである。これは(2)の自然事象を介した恩恵の注ぎである。同時に、これは(3)不十全で悪しき者には善悪因果応報のはねかえりの法則を教えて、警告している。黄金律のもとに生きるように促される。このいずれでも生きうる者に、種蒔きの譬えにあるように、自らが善き地であると憐みを信じる者は数十倍の実りをもたらすであろうと励まされている。(1)イエスの自己言及を信じるかという切迫性のもとに立たされている。
神学的には神はモーセ律法、業の律法の啓示において、自らの審判規準を知らしめており、イエスはそれを純化したうえで神のみ旨として教えている。「「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入れていただくのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入れていただくことになるであろう」(7:21)。従って、イエスはこの譬えを割り引いて或いは第三者をもちだして、つまり原因だけや結果だけそして聖霊の介入による双方の媒介という解釈の手前で、この心魂の態勢と行為の関係の道徳法則を教え、聴衆の良心に委ねている。聴衆はここで神のみ旨がいかなるものであるか聞かされたこととなり、「まず、御国とご自身の義を求めよ」が人間にとって根源的な行為であることの共知の種が蒔かれたと言える。
プロテスタント的理解とその反論
E.シュヴァイツァーは常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対して反語的に自動機械ではないかと問う。「善い人間が必然的に、自動的に善い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも善い人間になることができないということを意味していないのだろうか」[i]。第四の立場からすれば、責任ある自由のもとにある中立的道徳的存在者であるひとは自動的にいずれかにみちびかれているのではないというものとなる。ただし、態勢と実践の並行性は否定されてはいない。むしろそれは創造の持つ秩序正しさの祝福である。
シュヴァイツァーは「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しか残っていない、ということなのであろうか」と問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係が強調されるが、山上の説教を語るイエス自身はリアルタイムにおいて福音を実現しつつあり、野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となるべく生きることに関して律法と福音の間に律法の業と福音への信仰のあいだに分断を見出してはいない。「まず、御国とご自身の義を求めよ」と神との正しい関係の構築のもとにリアルタイムの媒介行為を遂行している。
また聖霊論的解釈、ルター主義的解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じるとして、ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(善い意志)を持っている限り、善い木なのである、というものであった。ルターは善い木を信仰であるとした」(前掲書p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その善い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として善い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに善い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに第一の立場は第三の立場に吸収され「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになる。木とその果実の譬えは、上で指摘した対人論法のもとで語られており即ちモーセ律法の枠のなか或いはより根源的には自然法則の枠の中で語られており、その前提のもとにイエスはリアルタイムに福音の説教と権威ある言語行為という媒介行為を今・ここで遂行している。それ故に原因と結果の分断にも聖霊による媒介にも与せず割引なしに語られている。この自己限定のもとにある説教においては聖霊の媒介を要求すること、第三のものをもちこんで丸く収めることはできない。イエス自身が目の前にいるのであるから、その必要はない。「祝福されている、君たちの目と耳は」(Mat.13:17)。
山上の説教が語られた文脈―生命の迸り―
ひとが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成していることをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う[ii]。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成しているという信はその内容として正しいものである。
しかしながら、イエス自身は「イスラエルの失われた羊にのみ遣わされている」として旧約の伝統のなかに自覚的に留まったが、彼自身が生命に溢れる言わば新しい葡萄酒であったために、古い革袋を破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。われらはここで生身のイエスは、一挙手一投足において神の国を持ち運びつつも、十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。
福音書記者マタイは、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方でイエスの死後執筆したものであるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシヤとして内側から破っているその現場をその都度報告している。イエスは「人々がアザミから葡萄を茨からイチジクをまさか収穫することはない」と自然が持つ複製機構の秩序正しさに見られる神の憐みを語るが、自らがその心と身体において神の憐みを実現するその一挙手一投足を生きている。イエスはこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語った。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない、そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。その現場の切迫性のなかで聞かねばならない。これを正面から引き受けるとき、聴衆はイエスについていく者となる。その心の内側でイエスに現れた神の憐みを承認し、受領している。それを「信仰」と呼ぶ。
かくして、イエスは一方では道徳的次元ではそのまま「跳ね返りの法則」とでも言うべき、態勢と行為の相即性が神のみ旨であることを告げ、神の前のことがらとしてその道徳的次元の手前で神との正しい関係を構築するよう招く。ここに、パウロの言う、「業の律法」と「信の律法」の神の二種類の律法が秩序づけられる現場にわれらは自ら証人として立っていることを見出す。なお、跳ね返りの規準は一層シャープになっており、善悪因果応報の「善」の実質的概念はイエスによる律法の純化と遂行により、究極的には「愛敵」に変質している。
イエスは山上の説教の純化された道徳を割り引くことなく提示しつつ、その遂行する手前で或いはその遂行のために、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることこそ第一になすべきこととして語っている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。なぜなら神は憐み深い方だからである。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。
イエスの言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であった。ただしイエス自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。
自ら内省するとき、山上の説教における律法は単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ掛け値なしに展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。少なくとも人類には山上の説教を生き抜いた一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実を心にとめる。これを「十字架への信の道と道徳の今・ここの共存」と呼ぶが、これは何らか他の三つ、心情倫理的自己満足、律法主義的解釈、聖霊論的解釈即ちルター主義的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。彼は人間とは何者であるかを端的に明らかにしている。
[i] E.シュヴァイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』 p.257佐竹明訳 (NTD刊行会 1978)。
[ii] 『信の哲学』上巻p.534参照。カルヴァンRom.8:9注解。