かつて憐みを受けたサマリア人の憐み

かつて憐みを受けたサマリア人の憐み

                     日曜聖書講義2021年5月23日

 

聖書箇所 「ルカ」10章21―37節

「そのときイエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました。その通りです、父よ、というのも汝の御前に[汝の]嘉みしたまうものごとがこうして生起したからです。あらゆるものごとはわが父によりわたしに委ねられました。また父でなければ子が誰であるかを誰も知ることなく、そして子と子が顕そうとするその者においてでなければ父がいかなる方であるかを誰も知りません」。そして彼は弟子たちに対し向きをかえ、自らのこととして、言った。「汝らが見ているものごとを見ているその数々の目は祝福されている。というのも、わたしは汝らに言う、多くの預言者たちそして王たちは汝らが見ているものごとを見ることを欲したが見ることはなかった、そして汝らが聞いているものごとを聞くことを欲したが聞くことはなかったからである」。

するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、わたしは何をしたら永遠の生命が受け継ぐでしょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか、汝はどう読むか」。彼は答えて言った、「「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。また、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」」。彼に言われた、「汝の答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、汝は生きるであろう」。すると彼は自らが正当化することを欲してë、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とは誰のことですか」。イエスは[その挑戦を]受け止めて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリア人(びと)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て憐みを抱いた(esplagchnisthē)、そして近寄ってその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」。彼が言った、「その人に憐みをかけた者です」。そこでイエスは言われた、「汝も行って同じように行え」」(Luk.10:21-37)。

 

1愛の文法―永遠と喜び―

 このところ、愛すること、憐れむことを学んでいる。「愛」は何らか永遠、永続するものとの関わりで語られるものであった。この善きサマリア人の譬えもやはり永遠の生命を得ることとの関わりのなかで与えられる。とはいえ自ら知者であることを誇る律法学者はイエスの権威を失墜させようとして、試みているのであるが、イエスにより自己矛盾に陥らせられ逆にやりこめられている。自分は知者だと思っている人間の盲点がつかれ、少なくとも実践的に常に憐みをかける態勢にないことがはしなくも明らかにされた。人類は永遠或いは永続的なものとの関係においてしか「愛」を理解してこなかったことは特筆に値する。それだけ、愛というものごとは軽々しく扱われないものである。先週、「愛」のなかで情熱恋愛は一つの強い感情であり、イメージへの集中により形成されるが、聖書が伝えるまたイエスが伝える愛は命じられうるものであることを学んだ。双方とも永遠にかかわる。情熱を持続するには常に障害を必要とし、二人の情熱を妨げる最大の障害は死であり、情熱恋愛は心中によって永遠を獲得しようとするものであった。[或る新婦とおばさんの話、ある女優さんの話]。

 感情の文法を学んだ。感情はそれがそこにおいて生起する文脈、そしてその実質、さらに表出・振る舞いを伴う。この感情の文法は階層的であり、感情が生起するその直接の文脈の背後に心魂の態勢、実力としてのさらなる文脈が想定される。例えば、「嫉妬」が生起する文脈は「正当だと看做す処遇を受けない」であり、ひとは正当な処遇を受けていないと思うときに嫉妬にかられる。その感情実質は憤りや羨望そして失望など感情実質は複雑であるが、振る舞いとして自らが正当だと看做す処遇を受けるあらゆる行為が想定される。

 この「正当だと看做す」という認識の背後に、さらなる心魂の態勢が関わっており、自らが相手に対し信実であるからこそ、嫉妬を感じるのか(その場合失望の濃度が強まる)、それとも自らの征服欲のような欲望が心魂の態勢として強いため、嫉妬を感じるのか(その場合羨望や憤りの濃度が強くなる)、感情実質に差異がある。つまり、哲学者が「パトス(身体の受動的な反応としての感情や欲求)はヘクシス(それまで培った心魂の態勢(かまえ、実力))のセーメイオン(徴)である」と言う状況をあらわしている。これは感情も実は最終的には信によって秩序づけられるものとなるという主張を含意している。心魂の一番根底にあるあらゆる秩序ある肯定的、創造的営みの態勢は信だからである。

 聖書においては今読んだように、父への愛と隣人への愛の二つの戒めが六百以上見いだされる律法の「冠」として提示される。愛が満たされるとき、人類に対する一切の神の意志が満たされる。愛というものについて、もちろん聖書においても愛は感情の次元においても捉えられる。イエスが教育を受けることのなかった弟子たちを伝道に派遣し、大きな成果が挙げられたとき、こう報告されている。「イエスは聖霊によって喜びに溢れて[天に向かって]言った。「天地の主である父よ、褒めたたえます。汝はこれらのことを知恵者や学識ある者には隠して、幼子たちに顕されました」。イエスは愛する神がこの世界で軽く見られ、顧慮されないような者を憐れんで用いてくださったことに喜び、賛美と栄光を帰している。そこには無学な弟子たちに対する慈しみの感情も見られる。この競争世界で勝ち残った者ではなく、とるにたらないと思われていた者たちが聖霊の人類への賦与という大事業に関わることができる、そのことにイエスは喜び賛美している。知者、学者たちはイエスを軽蔑し、遠ざけまた嫉妬したのであり、無学な者たちがイエスを愛したのである。そこには師と弟子のあいだに、われと汝の等しさとしての愛が生起していた。神が弟子たちを用いてくださったことに神への愛を見出し、イエスは喜びにあふれて叫んだのであった。

 「愛」の感情実質は情熱恋愛においてもそうであるように、端的な喜びである。それではその感情が生起する文脈は何であろうか。端的に言って、「永遠と思われるものになんらか関わるとき」である。何であれ喜んでいるとき、ひとは時と和解している。つまり今を生きている。喜びは最も現在的な感情である。永遠を放物線とするなら、喜びがあるところ、放物線が接線に触れるように今t1において永遠が降りてきている。「しまったあんなことをしなければよかった」という後悔や「あいつはこんなことをした」という憎しみなど否定的な感情は過去に捕らわれており、過去が現在t1を支配している。他方、明日感染するのではないか、無一物になるのではないかという不安や恐れのような否定的な感情は未来が現在を支配する。われらは過去からと未来からしか生きていくことはできないのか。過去と未来によってのみ支配されているのか。今はどこにいったのか。今を生きることはあるのか。愛のあるところ、そこには永遠が宿り、時との和解が生起し、後悔や怒り、また焦りや恐れそして不安から自由にされている。ひとはそのような感情を「愛」と呼んできた。

 それ故に、親の子供への愛においてであれ、情熱恋愛においてであれ、子供がどんな悪さをしても喜びであり、赦すことができ、恋人が常軌を逸することをしたとしても、許容して喜んでいる。今度読書会をすることになった宇佐美りんの『推し、燃ゆ』においても主人公のあかりはアイドルが誰かを殴ったとしても、そこに何か深いわけがあるのだと思い、受入れている。人類は愛との関連にしてしか、「永遠」を語ることはなかったのである。愛の感情の表出・振る舞いは何らかの仕方で共にいることを可能にするあらゆる振る舞いが考えられる。愛する者とずっと共にいること、そこには喜びがある。神は愛である。

 

3誰が隣人となったのか

 翻って、サマリア人の譬えである。彼には喜びがあったのである。その行為には何ら報いも見いだされない。エルサレムからヨルダン川の谷にあるエリコまで約27キロ降っていく途中のことである。盗賊に襲われ半死半生に陥っているそのひとは見ず知らずの他人である。この暴行はユダヤの独立を祈願する熱心党に属する者たちの仕業であると言われるが、この可哀そうなひとが殺されなかったのは同じユダヤ人であったからであると指摘されている。エリコは祭司の町であり、通りかかった祭司はつとめのあとの帰り道であったと想定される。祭司もレビ人もユダヤ社会にとって聖職者として学派の規律によって縛られていたと思われる。それ故に援けなかったかもしれないが、イエスはなぜ聖職者たちが援けなかったかという理由を挙げてはいない。ただ、読者は異邦人であるサマリア人との対比に注意は向けられている。福音はすべてのひとに向けられている。サマリア人は通常自分たちを軽蔑するユダヤ人と思われる襲われたひとの生傷の手当てをして、宿屋までつれていき、宿賃も支払った。

 ここでの問題は「隣人とは誰か」という一般的な問ではなく、三人のうち「誰が隣人となったか」という実践的な問である。理論・ロゴスではなく実践・エルゴンが問われている。イエスによって、その都度愛が出来事になるよう挑戦を受けている。律法学者のみならず、理論化は一般論を好む、というのもそこで世界が明らかになる明晰性を好むからである。同時に自分を安全地帯においておくことができるからである。理論ばかりで指一本動かさないパリサイ人がイエスにより叱咤されている。ひとはどこまでも理論的な武装で自らを守ることに関心が向き、困窮した隣人に向かわない。かつて、或る哲学者が「学問よりも、人の方が大切ですから」と困窮していたひとを援けたことを思い出す。ロゴスとエルゴン相互の支えあいは必要であるが、エルゴン回避へのアリバイ造りとしてのロゴスへの逃避はイエスの憎むことであることを自らの肝に銘じたい。

 サマリア人はあの状況において困窮に陥っているひとを援けることができることを内心喜んでいた。自分が神の意志のこの地上における実現の一つのサンプルを提供できることを喜び、光栄に感じていた。永遠と交換されるものはこの地上には何一つないからである。「ひとが全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命の源]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひとは自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。心が全世界を自分のものにすることより大切なのは自らがそこに属する自らの魂である、というのもその魂において心が神と関わるからである。そして心が神からそれるとき、自らの魂を失うであろう。サマリア人はこのことを腹の底から知っていたのである。だからこの実践・エルゴンは理論・ロゴスの裏付けのもとに遂行されていたのである、ただしそのサマリア人がその現場にあってただ憐みだけがあふれ出したのであったに相違ない。彼は「憐みを抱いた」と報告されている。彼自身もかつて盗賊に襲われ、誰かに援けてもらったのかもしれない。憐みとは、学んできたように、憐れまれる経験をしてのみ、抱くことのできる感情であった。競争心のあるところ、嫉妬心のあるところ、そこには決して憐みの感情は湧かないのであった。

 憐みを受けるとは、自ら困窮したものであることの認識が前提にされていた。善きサマリア人は何らか自らの困窮を経験したに相違ない。襲われた人を宿まで連れて行って介抱したが、彼自身そういう憐みを受けたひとであるに相違ない。人生はこんなものだと見切ってしまっているひと、或いは自分に救いがくるはずがないと絶望しているひとには憐みを受けることはできないであろう。何らか救いを求めているひとに憐みを憐みと受け止めることができる。その憐みをかけるひとは「お前の状況は「相応しくなく・不当に(anaxios)」そのような困窮に陥っているのだ、人間は神の子なのだと」と伝え認識の転換を迫っている。その人間の本来的な状況を伝えることがなければ、困窮と救いのコントラストを見出すことはない。

 自らの人生が置かれた与件、現状に疑いをもたず、どっぷり浸っているひと、そのようなものでしかないと冷笑に陥っているひと、また絶望しているひと、そのひとびとは憐みを受け取る余地が心に備えられてはいない。現状が何等か変革されていることに気づくことが最低限困窮の脱出に不可欠である。たとえば、生来の病気や疾患のため10メートルを一分かけて通過していたひとが、59秒になったとき、何らかの希望が湧いてくる。一秒でも変化があったことに気づくその力が必要であり、そこに希望が湧いてくる。夢は勝手に未来に自分の願望を投影することであるが、希望は現実に何らかの根拠が与えられ喜びを伴う現在的な感情なのである。

 イエスは彼の力ある業を見てついてくる群衆が、「飼い主のいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て深く憐れんだ」と報告されていた(Mat.9.35f )。彼に憐れみという感受態が発動したのは、それを感受するその力能が涵養されており、憐み深さとしての力能が彼の心魂に宿っていたからである。それは彼の態勢が神と隣人への愛という状態にあったからこそ生じた。その愛のもとにはひとは神の子となるべきものであるにもかかわらず、闇の中を彷徨っているという認識が憐みの発動を助けている。そこに常に聖霊の注ぎがあったとしても、少なくとも人間的にそのように語ること、分析することは許容されよう。イエスは敵をも愛する態勢にあったからこそ、迫害する者を祝福して呪わず、 「喜びそして喜べ、天における汝らの報いが大きいからである」と言うことができたのであろう(Mat.5:12)。右の頬をうたれ左の頬を向けるとき、そこでは敵がいつの日にか友と友となるわれと汝の等しさの希望が湧いてくる。

 

4結論

 迷える一匹の羊の譬えを思い返す。イエスは言われた。「汝らのうち百匹の羊を持っているひとがいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に遺して、見失った一匹を見つけだすまで探し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう」(Luk.15:4-5)。イエスの身代わりの死は信の従順を貫いた帰結であり、それが神に嘉みされ「イエス・キリストの信を介して」神の義の啓示の媒介に用いられた。この信義の分離のなさが信仰義認を基礎づけ、恩恵を無償の贈りものとする。この福音はモーセの業の律法の比量的な計算と異なる比較を絶する善である。99匹の健全な羊をおいて、迷える一匹の羊をさがし求める神である。それは9999匹であっても、9億9999万匹であっても同様であり、宇宙の創造者にして救済者である方のこれまでとの比較しようもない善が歴史のなかで生起したのである。この比較を絶する善によってしか、ひとは良心の宥めを得ることはできない。人類は御子の受肉においてそして伝道と十字架と復活において憐みを受けたのである。それ故にどんなに困窮していても、再び立ち上がるのである。

 

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