憐みと愛

憐みと愛         

日曜聖書集会5月16日 

 

聖書箇所

「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心から]そして汝の魂を尽し[生命の限りに]そして汝の思考を尽して愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身をの如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36-40)。

 

1憐みと感情

 憐みという感情を先週学んだ。身体の受動的な反応である感情(パトス)に対して良い態勢にあることが伝統的に「徳」と呼ばれる。恐れに対する勇気、欲望に対する節制、怒りに対する正義などが人格的態勢としてパトスに対して良い態勢にある。正義な者、義人は怒らないのではなく怒るべき時に怒るべき仕方で怒るべき程度の怒りが自然に湧いてくる者であり、そのうえで当事者に等しさを分配する人格的卓越性のことである。柔和は矜持、優劣感や競争心に対し良い態勢にあり、侮辱や誹謗中傷をスルーし赦すことができる態勢である。

 嫉妬と競争心は裏表であった。勝者はますます競争的となり、敗者は卑屈となり強者への嫉妬や恨みに駆られる。この世界にはどこかに支配することからも支配されることからも自由な心魂の場所はないのか。勝者と敗者しかこの世にはないのか。地政学では「永遠の敵や永遠の味方は存在しない。ただ永遠の利益のみが存在する」と言われる。利益や不利益でしか世界は見ることができないのか。このような国家間および人間間の力関係以外の何ものかはこの地球上には存在しないのか。今回は前回学んだ憐みに基づき、憐みと愛の関係について学びたい。One Team或いはWin-Winの関係これこそ愛が生起しているところで造られるものである。

 

2 聖書の愛と情熱恋愛

 パウロは言う、「汝らのなかで嫉妬と競争心があるところでは、汝らは肉的でありまた人間に即して歩んでいるのではないか」(1Cor.3:3)。心魂の一番底である自然的な肉に即してではなく、霊に即して或いは「内なる人間」という聖霊の注ぎに反応する部位、二番底に即して生きるときのみ、神から聖霊を介して憐れみを受けたことの喜びに基づき、競争相手や敵とのあいだに敵が友となるOne Teamをめざす。先週学んだ憐みの文法は悲しみに似ており、憐みが生起する文脈はそのひとに「相応しくない仕方で(anaxios, unworthy)」或いは不当な仕方で不運や不幸、悲惨な目にあった場合にそのひとに対して抱く可哀そうだという感情であった。また相応しくない仕方で幸運を手にする者に対しては「妬み(phthnos,jealousy)」が生起する。競争や嫉妬のあるところ、そこには比較級の世界しか存在しない。憐みは心魂のそのような態勢においては生起しないことは確実である。他者よりも一層優った状態にあることを望んでいることが、競争心や嫉妬心に、はしなくも開示される。そこでは支配からも被支配からも唯一自由な心魂の部位において生起するわれと汝の等しさとしての愛が出来事になることはないからである。

 愛と憐みの関係は、愛は命じられうるものであるのに対し、憐みは本来的でない状況にあるひとに対する可哀そうだという身体的な反応を伴う感情である。レビ記の記者が「汝の隣人を、汝自身を[愛する]の如くに、愛せよ」と命じる時、愛は等しさ、例えば父と子、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するものであることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。神はイスラエルの民に言う、「われは汝の神となり、汝はわが民となる」(Lev.26:12)。ここでは神は民によって神であり、民は神によって民である。夫は妻によって夫であり、妻は夫によって妻である。そしてこの種の人格的な等しさの実現は司法的な正義と異なり、決して強制によっては実現されない。

 聖書が伝える愛が命じられうるものであることは、所謂自らの濃密な感情を味わっていたいという情熱恋愛と異なる。情熱恋愛は、アウグスティヌスが「わたしは愛することを愛していた(amare amabam)」と言ったように、自らにわきあがる陶酔感、濃密な感情に没入する。或る女優さんが「恋をしているときの胸のときめきが好き」と言ったように、相手を等しいものとして愛しているのではなく、自らの相手に対するイメージや願望をさらには心拍数を愛しており、それらを相手に投影しているからこそ、恋愛曲線の急上昇と急降下、陶酔と幻滅を繰り返すことになる。情熱恋愛は一種の自己陶酔であることを知る必要がある。情熱恋愛も聖書で語られる命じられうる愛双方ともに感情実質として喜びを伴うが、一方は夢想的かつ陶酔的に湧き上がる喜びへの没入であるが、他方は歴史のなかでのわれと汝の人格同士の等しさの生起に伴う喜びである。

 人類は永遠との関連においてしか、「愛」を語ることはなかった。情熱曲線を高止まりに維持させるには障壁、障害を必要とする。ロミオとジュリエットのように家の反対などの障壁、障害が高ければ高いほど、情熱は持続する。ひとは嫉妬などの苦悩の薪をくべることにより情熱を維持している。しかし、それは「トリスタントとイゾルデ」などの他の文学作品にも見られるように、情熱恋愛の完成は障壁の最大のものとしての「死」を分かちあうことによって完成する。つまり心中によって永遠を共に分かち合おうとする。しかし、実際にはなかなかそこまで陶酔は維持できずに、何かの瞬間に愛情が覚めてしまい幻滅へと急降下する。そこにはわれと汝ではなく、わたしとわたしが描いたあなたがいただけであることが分かる。パスカルは言う、「何ものも欲望(cupidité)ほど愛に似たものはないが、また欲望ほど愛に反するものはない」(「パンセ」668)。(参考文献:ドニドルージュモン『愛について』(平凡社ライブラリー)で古今東西の文学作品などを介して明らかにされている。千葉惠「エロースとアガペー―ヘレニズムとヘブライズムの絆―」(北海道大学文学部紀要44号、1995 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/33658 )。

 

3人格的実力と憐みを掛けられること

 心が清くなく、様々な怒りや憎しみなど負の感情に襲われていたり、欲望に捕らわれているとき、ひとは憐みを持つことはない。感情は身体的反応であり人格的に認知的に習慣づけられるものであった。心の実力である培われた「態勢」はラテン語でhabitus (英語のhabit(習慣づけ)に関連)と訳される。人格的にとは、たとえどんなコストがかかろうとも、正しいひとが正しい仕方で正しいものごとを選択するそのような仕方で、自分もそうする習慣づけることにより、怒りや相応しくない対応への怒りや憐みを身に着けていくことであろう。そこではどうしても正しいことや正しい仕方への認識も必要とされる。自分で自分をコントロールできずに、常に感情的になっているひとがいるとすれば、それは人間的な分析によればそのひとの心魂の実力がパトスに対して良い態勢にまで育っていないことを含意している。

 しかし、人類には助け主が送られており、実力以上の力を発揮することがある。ひとは憐みをかけられてのみ、憐れむ者となる。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。或いは軽く罰せられ、あれさえなければというオセロの黒石と思えたものが、憐みのゆえにあれがあったからと一気に白石に変えられる。この窮境にあって助けられたとか軽く罰せられたという感覚は自分に相応しいものが何であるかを何らかの仕方で自覚しているのでなければならない。自らの行状にはもっと激しい罰が与えられて当然であったのに、「相応しくない仕方」で憐みを受けたと思う。ここには聖霊による内的な促しが働いている。「神に即した苦しみは変えられることのない救いにいたる悔い改めを働き、世の苦しみは死を成し遂げる」(2Cor.7:10)。

 聖霊は認知的、人格的実力を超えたところで働く。おのれのことしか関心がなくひとを憐れむそのような感情のわくことのない者が何等か憐みを持つとしたなら、心魂の有徳性としての実力とは関係なく天来の援けが送られている。イエスはご自身の死に直面しこの世から去っていく覚悟のなかで、聖霊の派遣を約束して語る。「わたしは汝らを遺して孤児(みなしご)とはせず」(John.14:18)。イエスは「わたしは父に願う。父は別の助け主を遣わして、汝らと共にいるようにしてくださる」、「わたしが行けば、助け主を汝らのもとに送るであろう」、そう言われる方である(John.14:15,16:7)。聖霊とは神の前とひとの前を媒介し、ひとを助けるものである。

 

4キリストの憐みと柔和

 支配からも被支配からも唯一自由な場所で我と汝の等しさが生起すること、その今・ここでの出来事が愛であり、そこに向かう過程も「愛」と呼ばれる。迫害する者、支配する者を祝福して呪わないこと、右の頬を打つ者に左を向けることが生起するとき、「喜べ、天における報いが大きい」(Mat.5:12)。それによってのみ敵が天において友と友となる希望がWin-Winの関係が生じるからである。その希望に伴う喜びは愛に基づく等しさの正義のもとに、他者を操作することから解放されている自らを安堵させ、清めるものだからである。情熱恋愛も聖書の愛も永遠を語りその感情実質として喜びを語るが、ひとは永遠により「心中」を理解するのか、「天国」を理解するのか、二者択一を迫られている。

 権威ある者として山上の説教を語ったその方に偽りがなく、イエスは山上の説教そのものに即して生き抜き、また山上の説教の故に死んだその方であった。個人的には、山上の説教はイエスにより生命をかけて遂行されたということに立ち返るとき、厳しすぎてあたかも拒絶し告発するように見えるその人に、「わたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」という言葉を信じてそのふところに入っていくしかないと感じる。「わたしの後についてこい」(Mat.4:19)というイエスをどれだけ信じるか、そして彼とどれだけ信頼関係にあふれる関係を築けるかが問われている。「わたしは汝らを遺して孤児とはせず」(John.14:18)。この方は嘘を付く方ではない、そしてわれらを欺く方でもわれらを見捨てる方でもない、という信がその信頼関係を醸成しまた築く。イエスの懐に入っていくには彼をよりよく知るしかなく、とりわけ彼が生ける神の子であることを内側から納得するそのような相互の親しい関係を築くしかないのである。日曜の聖書講義をするこの身が彼と共に生き喜んでいるのでなければ、この永遠の生命は伝わらないであろう。少なくとも講義する者の必要要件であろう。聖書に描かれるイエスをできる限りテクストに即して理解すること、それがこの聖書講義の務めであり喜びである。

 「神は愛である」(1John.4:16)。神は二千年前に既にキリストにあって人類の罪を赦しており、水に流していたまう。パウロは既にキリストにおいて神の意志は明確に知らされており罪は十字架上で贖われており、「汝ら和解せよ」(2Cor.6:20)と神からのキリストにある申し出を受け止めるように命じている。聖霊は神とキリストから今・ここで派遣される「援け主」であり、われらをその人格的、認知的実力のいかんにかかわらず支えていたます。「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている」(Rom.5:5)。

 憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。憐みをかけられていることを知るには、自分が「ふさわしくない仕方」で困難な状況にある者であることを知ることが求められる。キリストは群衆が羊飼いのいない羊のようにうちひしがれ、彷徨っている姿を見て「深く憐れんだ」のであった。イエスのそのはらわたからの憐みが生起したそのもとにある認識は同胞は神に似せて造られた神の子たちであるというものであった。神の子に相応しくなく、自らを知らず右往左往している群衆に憐みを感じた。自分はどうしようもない罪人であり、「罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかし」(親鸞)という叫びと苦悩を挙げざるを得ない人間であるとき、「それは君に相応しい状態ではない」と語られているのである。

 ひとは何らか救い出されたときには、自らに相応しくない仕方で憐みを受けたと感じるが、実はその困窮こそがわれらの本来性にとってふさわしくないのである。しかし、そこでは何らかの聖霊の援けのなかで、低くされているのであろう。先に引用した「神に即した苦悩」なのであろう(2Cor.7:10)。当のキリストはその罪に沈むその状況こそ人間に相応しくないと認識しており、悔い改めに導く。憐みをかける側と憐みを受ける側双方の現状認識が異なることもあろうが、次第に憐みをかけられて、キリストとの交わりを重ねるうちに神の子であることこそ本来性なのだと認識するに至る。ただし、そのギャップが大きければ大きいほど憐みが大きいものと受け止められる。人間は本来エヴェレストのような高い山であるにもかかわらず、自ら谷底に沈んでいるとき、それが自分の住処であると思う。或いは人生がこんなに苦しいものであるはずがないという認識を持つ。絶望してしまっているなら、救いを求めることもない。救いを求めるとは、こんなに惨めであるはずがないという思いからくるが、しかし、自己の本来性を知っているわけではない。また知らされているわけではない。ひとは天国が相応しい神の子なのか、地獄が相応しい地獄の子なのか、知らない限り、何が憐みであったのかも知ることができない。しかし、自らで自らをコントロールできないそのような状況から救い出されたとき、ひとは憐みを受けたと感じる。憐れまれたことの経験あるひとはは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。

 これは祝福されたことである。詩人は言う、「涸れた谷に鹿が水をもとめるように神よ、わが魂は汝を求める。神に、生命の神に、わが魂は渇く。いつ、み前に出て神のみ顔を仰ぐことができるのか。昼も夜も、わが糧は涙ばかり。ひとは絶え間なく言う、「汝の神はどこにいるのか」と」(Ps.43:2-4)。このような者がその霊によって貧しい者であり、神から憐みを受け、祝福される者である。

 イエスご自身は憐み深い柔和な方であった。彼は山上の説教の第三福をこう語っていた。「祝福されている、柔和な者たち(hoi praeis)。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。この第三福は人格的な徳に関わる。柔和の対義語には激情や直情径行、自己主張などが挙げられる。黒崎幸吉先生はこう対立を説明する。「現世のいわゆる成功者たらんとする者は柔和であってはならない。彼は他人を排除、抑圧、誹謗するの勇気と大胆さを持っていなければならない。・・されど真の幸福者は柔和な者である。人に排斥され、圧迫され、誹謗され、「侮られて人に捨てられ悲哀の人にして病を知れる」[Isaiah.53:3]人である」。(Web版新約聖書註解マタイ当該箇所)。聖書的には柔和な者は天国への希望の故にこの世の権力欲求や悪意からの攻撃、蔑みなどに耐えることのできる態勢であり、振舞いとしては寛容に接しまた赦し敵をも愛する態勢である。柔和な者は他者との比較や競争心から自由にされている者である。

 この春の入寮式から、人生には所謂勝ち組と負け組の二分しかないのではなく、双方にWin-Winの関係を造る道を模索してきた。言ってみれば、双方が勝ち組に属するそのような関係が生起するかを模索してきた。コロナ禍ではOne Healthがそれであり、スポーツではOne Teamがそれである。地球の裏側のコロナが収束しなければ、新たな変異株が生じる確率があがり、世界はまた新たな苦しみに苛まれる。国家間のそして家庭内の争いでも同様である。One Peace、One familyとしての和解を模索するのでなければ国も家庭もたちゆかない。競争相手と憎しみ相手と争い相手と和解し、One Teamとなることがあるとすれば、それは平和が実現されたことになる。

 柔和な者は争いから自由であり、困難な状況にあるひとに深い憐みを持つ。イエスは言う、「疲れている者たち、重荷を負っている者たちは皆、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛を汝らのうえにかつぎあげなさい。そしてわたし[の足どり]から、わたしがその心柔和であり(praus)また謙った者であることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に休息を見出すことであろう。というのも、わたしの軛は良いものでありそしてわたしの荷物は軽いものだからである」(Mat.11:28-30)。イエスの軛、荷とは何か?天の父が憐み深く、信じる者を救い出す方であることへの幼子の信仰である。有徳な者も悪人も魂の根底に生起する悔いた砕けた魂における「信じます」と幼子のように縋ること、それがイエスと共に軛を背負って歩くことである。何の立派さも要求されず、ただ自らに偽りのない信が生起する場所・二番底即ちパウロの言う聖霊に反応する部位である「内なる人間」(Rom.7:22)から主に身をゆだねることである。荷物を運ぶとはイエスの御跡に従って歩むこと、イエスの使命を自らのものとすることである。イエスに似た者になること以上に喜ばしいことはない。イエスを長子とした神の国の相続人となるからである。

  

5結論

 心の清い者は自らの利益を求めることはないので、争う者たちのあいだを執り成すことができる。柔和で謙ったイエスは神とひととのあいだを執り成すひとであった。彼は自ら争う者になることはなく、剣のもとに倒れ自ら死を選んだ。平和を造る者は執り成す者である。

 柔和な方であるイエスご自身の御跡に従う者、その者は祝福されている。既にその祝福は旧約聖書において先駆的に知らされている。「その咎を赦され、その罪覆われし者は祝福されている。主がその罪を数えざる者は祝福されている。その心に偽りなき者は祝福されている」(Ps.32.1-2,Rom.4:7-8)。十字架に至るまで従順の信を貫いたイエスは言いたまう。「わたしに躓かない者は祝福されている」(Mat.11:6)。柔和な者は幼子のように恵み深いイエスと共に軛に繋がれ歩む者である。

 

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