山上の説教(2)「憐む者は祝福されている」
山上の説教(2)「憐む者は祝福されている」
日曜聖書講義 10月9日
聖書箇所 八福
「祝福されている、その霊によって貧しい者たち。天の国は彼らのものだからである。祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである。祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである。祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである。祝福されている、その心によって清らかな者たち。彼らは神を見ることになるからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである。祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである。汝らは祝福されている、ひとびとがわがために汝らを非難しそして汝らについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における汝らの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で汝らに先立つ預言者たちを迫害したからである」(Mat.5:1-12)。
1誰かに憐みをかけるひとはその憐みを主イエスにもかけている。
「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。憐れむ者は祝福されている、なぜなら競争心や憎悪、嫉妬からも自由にされ、喜びのうちに友と友の関係を構築しているからである。善きサマリア人は憐みのうちに瀕死の旅人を援けている。そこに至る道は「われは道であり、真理であり、生命である」と言ったイエスの歩みに信じて追随する以外にないであろう。イエスの軛を共に担ぎ上げ、彼と共に歩むこと以外に、イエスの柔和を獲得することはないであろう。この世のものではない神の平安がわれらを守るであろう。他の道が魅力あるものともはや見えない。富や栄華やそして名声など、この世の価値はこの憐みと柔和を持つ、ひととしての本来性から比べて、いかにもこの世への隷属を示している。
「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。これは一種の理想主義に捉えられよう。山上の説教においては人間のありうる究極的な道徳が語られているため、理想主義的に捉えられようが、これはユートピア「生起する場所のない幻想的な場」ではない。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたからである。
言葉と行いを合致させたこの方を忘れて、困窮者一般を問題にするとき、律法主義に陥ってしまい、イエスの生命を失ってしまうことがある。トルストイの「光あるうちに光のなかを歩め」のなかで主人公は友人にこう語る。「キリスト教的結婚は、一人の女に対する絶対的な愛を否定しないどころか、そういう愛があってこそ、結婚は合理的になり、神聖になるのだ。しかし、一人の女に対する絶対的な愛は、その前から存在していた万人に対する愛が犯されない場合に限って、初めて発生することができるのだ。万人に対する愛を規準としていないにもかかわらず、それ自身美しいものとして詩人たちに謳歌されている恋愛は、愛と呼ばれる権利をもっていない」(p.46米川正夫訳岩波文庫)。キリストはその都度隣人となり隣人を愛することを命じたが、万人への愛を命じることはなかった。善きサマリア人の譬えが教えるように、この三人のうち「誰が隣人となったのか」がその都度問われているのであり、一般的に悩める人、苦しむ人、神の子に相応しくない人一般を相手にしようとするとき、いつの間にか生きた主を忘れ、自らの理念に捕らわれてしまうことに気を付けよう。トルストイのこの書物はことごとく福音の中心を捉え損ね、律法主義に陥っている。彼自身本書執筆により喜びと平安を得られなかったために、自らの真正な書物であることを認める署名を拒んだのだと思われる。「人生の幸福は・・神意を履行することに存する」(p.22)のではなく信の従順により神意を完全に履行したナザレのイエスを信じることにある。パウロは言う、「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、汝らを信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。神意が御子において知らされたことではなく、神意の履行を第一に問題にする時、それは信の促しではなく直ちに生の規範となる。律法主義の落とし穴に落ちないよう留意しよう。その都度十字架を仰ごう。「キリストのうちにある者は自らの肉を感情と欲望とともに十字架に磔てしまった」(Gal.5:24)者たちである。聖霊は心の奥底で十字架の出来事において信じる者の過去の罪を情と欲とともに処分してしまったと神が看做していたまうことを、「神に即して」その都度伝達し執成していたまう(Rom.8:27)。われらはただその都度十字架を仰ぎ、信のもとに古き自己を磔ることができるだけである。そのとき魂が刷新され愛の道を歩みだす。常に原点に立ち帰ることによってだけ、隣人となることができる。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰か第三者がシリアの難民に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしにくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。
キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。とはいえ、神の意志は既にナザレのイエスによって遂行された。それ故にわれらはイエスがキリストであることを信じることから始める。「まず神の国と神の義とを求めなさい」(Mat.6:33)。何か自らのうちに欠落、欠けているものがあることを認識することなしに、信仰は開けない。「求めなさい、そうすれば汝らに与えられるであろう。探しなさい、そうすれば汝らは見出すであろう。叩きなさい、そうすれば汝らには開けてもらえるであろう」(Mat.7:7)。この世のもので満たされ、求める思いをもたない者は神と関わることはない。「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つ欠けているかもしれない、即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないことを知っているその知識を欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、その祝福が語られている者たちであった。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。イエスはこのようなひとたちと共におり祝福していたことが分かる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。
2良きものどもの秩序づけ
良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じるのであった。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教においてモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。そこで乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛をさえ不可能にするように見える。
しかし、イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスが人類に対する神の意志を十全に実現したこと、そのことを信じることから始まる。信は肯定的、創造的生の根源である。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(Mat.7:11)。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国と神の義を求めなさい、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(Mat.6:33-34)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
結論
ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。この信なしに、人生は究極のところ秩序づけられないであろう。なぜならひとは神に向けて造られたからである。神を仰ぎ、求めるとき、イエス・キリストにおいて恩恵が与えられていることに眼差しが向けられるであろう。