山上の説教(3)「敵をも愛せよ」―なぜ信なしに愛が生まれないのか?
山上の説教(3)「敵をも愛せよ」―なぜ信なしに愛が生まれないのか?―
日曜聖書講義2022年10月16日
聖書
「「隣人を愛し、敵を憎め」*と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46,*cf.Deut.7:2(文字通りの文章は見出せない), cf.Lev.19:17-18)。
1はじめに、
敵を愛するという発想を教えられずに人は持つことができるであろうか。愛するに値するひとを愛するということは自然なことであるが、自分を蔑み、貶(おとし)め、破壊しようとする者を愛するとはどういうことであろうか。敵を愛することは隣人愛の戒めに包摂される限りにおいて理解することができる。「汝の隣人を、汝自身のごとくに、愛せよ」(Mat.22:39)。これは「レビ記」19:18に見られる。隣人と自己の等しさを表現したものであり、旧約聖書の記者は既に愛が相互の等しさであることを知っていた。ひとは支配からも支配されることからも自由になるとき、相手を操ることからも、操られることからも自由になるとき、私はあなたによって私であり、あなたは私によってあなたであるとの相互の等しさが出来事になる。バランスの崩れから等しさに至る過程も「愛」と呼ばれる。そこでは右の頬を打たれて左の頬を向けることが「愛すること」と呼ばれることがある。
人は歴史のなかで偶然敵になってしまうのであり、誰であれすぐ横にいるならその敵は隣人である。イエスはその敵のために自ら磔られたことにより、敵はイエスに愛された者として、自らの横にいる。たとえ私を破壊しようとする者であっても、その人はイエスに生命をかけて愛されたひとである。「敵をも愛せよ」という戒めはイエスが自らの敵に隣人となったことにより基礎づけられる。イエスを主と信じ、愛するなら、イエスが愛する者をも自らの如くに愛することになるであろう、たとえそれがたまたま私を殺そうとする敵であったとしても。
愛の感情実質は喜びである。憎しみや後悔などは過去が現在を支配する仕方で今・ここにおいて生起する。不安や恐れそして焦りなどは未来が現在を支配する仕方で今・ここにおいて生起する。しかし、愛は後悔や焦燥から自由な最も現在的な感情として喜びを伴う。それはちょうど放物線が接線に触れるように、永遠が今・ここに宿るかの如くである。人類は愛を、情熱恋愛においてさえ、永遠との関連においてしか語ってこなかった。人類は本性上永遠を求める者であり、等しさが生起するところ、あらゆる対立から自由にされる。ボンヘッファーは言う、「「貧しさ」や「富」、「名誉」や「恥」、「故郷」や「異郷」、「生」や「死」は何であろうか。愛に生きる人は、これらについて何も知らない。それらの間に区別を設けない。愛に生きる人の知っていることは、むしろ、「しあわせ」は「ふしあわせ」と同じように、「貧しさ」は「富」と同じように、・・ただ「愛する」ということをますます強くし、ますます純粋にし、ますます完全にするために役立つということだけである」(『主のよき力に守られて』p.337)。
2信、義そして愛
聖書は信(信仰)と義(正義)と愛(憐み)を最も大切な魂の在り様として捉えている。イエスは旧約聖書に基づき父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。彼は言う、「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。神ご自身が信であり、正義であり愛でありたまうことに基づき、これらの三つが神の意志として最も重要であると語られている。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては直接まみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして義と愛の両立に向かった。「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。山上の説教の純化された道徳を遂行する手前で、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることが「まず」第一になすべきこととして語られている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。
パウロも愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その義と愛、正義と憐みの両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。
3 「愛を媒介にして働いている信が力ある」
パウロは「愛を媒介にして働いている信が力ある」(Gal.5:6)と言う。信の力なしにひとはひとを愛することができないとこの箇所を読むことができる。ここでは力ある正しい信仰・信は正しい信仰の対象に向けられている。それはパウロにとっては明らかにナザレのイエスが「天の父」と呼んだ、万物の創造主にして歴史を導く主なる神のことである。人は人を信頼することはあっても、神を信じるように信じることはない。神への正しい信はイエスご自身が模範を示されたように幼子の信仰である。イエスによる或る人々への不信はこう報告されている。「イエスは過ぎ越し祭のあいだエルサレムにおられたが、そのなさった徴(しるし)を見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証してもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(John.2:23-25)。彼らの心の中に信頼に値する偽りなきまっすぐな心の在り様をイエスは見出すことができなかった。ひとは他者の心の動きや行動を正確に識別することが求められる。そのとき、相手に実力以上のものを要求することもなければ、相手からの要求に対する距離ある応答も可能となる。パウロは「識別するそのことがらにおいて自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)と言う。ひとはあらゆるものごとを識別して生きていかざるをえない。ただそのとき、自らの識別が他者への差別になっているのではないかなどと自らを審判しないですむ者は祝福されていると言う。
イエスは彼を苦しめ、殺そうとする敵たちをも愛したが、それは彼らを信用したからではない。天の父の意志が「敵をも愛せよ」というものであることを彼は信じたがゆえに、右の頬を打たれたら左の頬を自ら向けたのである。
4信の律法に基づく信仰を介して業の律法の収斂である愛が「充足」される。
パウロはイエス同様「愛する者は他の律法を満たしている」とし、業の律法を「愛」に収斂させる。十戒とは別に、「何か他の戒めがあるにしても、それはこの言葉「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」により包摂されている。愛は隣人に悪を働かぬ。かくして、愛は律法の充足である」(Rom.13:8, 9-10)。ナザレのイエスは死に至るまで従順の信を貫き愛を全うした。パウロは「愛を媒介にして働いている信が力強い」と語り、その愛は信に基づく義が生み出す「義の果実」であり「霊の果実」であると位置づける(Gal.5:6, Phil.1:11,Gal.5:22,1)。信の根源性のもとに、自らの力能を誇示する奇跡のような業ではなく、愛することが遂行される限り、キリストの足跡に従うものとなる。「たとえわたしが山を移すほどの大いなる信仰を持てども、愛を持たねば、わたしは何者でもない」(1Cor.13:2)。信と愛は異なるものであるが、愛を信に基づき媒介したことがキリストの生涯において示されている。それも新しい酒が古い革袋を破るように生命の迸りのゆえに、それを飲む者の上に喜ばしい生命の横溢が愛の力能として方向づけられ、発揮される。かくして、神そして媒介者イエス・キリストへの信・信仰はひとの心的状態としてあらゆる肯定的な働きの根源として位置づけられるが、その完成は愛において恐らく天において確認される。その意味で「愛はこれら信と望より偉大である」(1Cor.13:13)。
このような事情であるとき、ひとであることの課題は人格の完成をめざすことだというという物言いは注意を要する。人格についての何らかの完成のイメージのもとに自らの足らなさや失敗そして気質を責めるときまたそのイメージのもとに隣人を審判するとき、それは業の律法の罠にはまっている可能性がある。ひとはそれを人生の直接のゴールとするとき、それを実現しないばかりか業の律法のもとに生きるものとして義とされるに至らないであろう。人格の完成は愛において成就されるが、それはただ「信の律法」のもとにイエスの軛に繋がれて生きる限りにおいて満たされることもあろうそのようなことがらである(Rom.3:27-31)。ひとは信のみなもと即ちみなもとの信に帰る以外に愛の道はないということが二つの律法において知らされている。信は愛に至るこの世界の途上の生の根源的態勢なのである。
信と愛は、一方、信は信の律法により啓示され、他方、愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat. 22:36-40)。イエスは「律法の一切」および「預言者」がこの掟により秩序づけられると主張する。パウロも同様である。
このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることが許容される。イエスは山上の説教においてその愛についてこう命じる。「「隣人を愛し、敵を憎め」*と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。ここに敵をも愛する究極の愛の姿が示されている。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場所で、我と汝の等しさが生起することである。敵がその敵意の差し向ける相手である自らがまずその敵の友となることによって友となることである。シーソーのバランスがとれている状況である。
イエスは家族や隣人や友人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益、世間体との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において支配や操作そして独善や欲望が遂行、解放されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。
5 結論
かくしてイエスはこう宣言することができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを護り、そうするように教える者は、天国で大いなる者と呼ばれる。わたしは汝らに言う、汝らの義が律法学者やパリサイ人の義に優るのでなければ、汝らは天国に入ることはないであろう」(Mat.5:17-20)。律法から一点一画たりとも「過ぎ去ることはない」のは、律法は神の生ける意志であり、その一切は愛の道具、徴、表現としてそして総じて愛を実現することに向けて収斂しているからである。なによりも「業の律法の目指すものはキリスト」(Rom.10:4)であり、キリストに収斂しており、彼においてその愛は完成される。