春の講義宗教改革(4)―「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

宗教改革「みなもとの信&信のみなもと」―極東発 Wittenberg & Rome経由、福音への帰還―

モットー「みなもとの信と信のみなもと:イエス・キリスト或いは神の知恵と信」

目次

序文

1. 福音への帰還―イエスの言葉と働きによる道徳的次元の内破と再生―

1.1山上の説教における道徳、自然そして天の父

1.2 古い革袋を破る新しい生命の福音 

2.山上の説教の神学的展開―信に基づく正義と憐みの成就―

2:1 イエスとパウロ―神による甦らし「へ」の道と「から」の宣教―

2:2 山上の説教を満たす「信の律法」の根源性

2:3人類をその罪と苦難から救済に導く福音 

3.21世紀の宗教改革の核心―「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学―

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

3:2.新しい宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合― 

77箇条

3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

 使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは汝らの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれたのである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。

 このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに信の哲学の研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。神の義が啓示されたことの理由が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に区別や差異がないということはいかにも不可思議である(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より分かるが5章まで愛の議論は封印されており、信ひとすじで突破が図られている。実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と否定的に認識されているのであり、神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信」を介してなされ、神の義とその信のあいだに分離がないからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のもののようになると思われる。

 「[21]しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 [27]それでは、どこに誇りはあるのか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31)。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。

 この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争についても終止符を打つことができる。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる。

 この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題を77箇条挙示する。

 これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。

 

3:2.21世紀の宗教改革に至る唯一の道―ロゴスとエルゴンの総合―

 この改革運動は単に認知的な混乱の除去に留まるものではない。神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」(A)(B)として理論(ロゴス)上析出することができたとしても、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。ロゴスとエルゴンが相互に証しあうことが求められる。パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。「わたしは、神に向かうことがらに関して、キリス ト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、神の霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:18)。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。

 ロゴスとエルゴンは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。

 ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象であり、例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という小学生の適切な応答に正しく見いだされる。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。

 「哲学は澄明さとその堅固さによって驚くべき喜びを持つ」(アリストテレスNic.Eth.X5)。思考の明晰性と確かさは存在と思考をめぐる最も確実な原理である矛盾律により支えられ、そのもとに壊れないセンテンスが積み重ねられていく。理性の真理の源は、経験にその確かさを依拠しない矛盾律であると言うことができる。他方、ひとは理性の真理を十全に保持する賢者(sage)に至る認知的な態勢だけではなく、身体に発するパトス(感情、欲求等)を持ち今・ここで隣人を愛するそのような聖者(saint)に至る人格的態勢のもとにある。認知的卓越性とともに人格的卓越性が問われ、「パトスに対し良い態勢」(Nic.Eth.II5)にある者が人格的有徳者である。それらの統一理論は認知的な次元により成功した視点から「いかに生きるべきか」という人生の基本的な問いのもとに個々の行為の選択において最善のものを認識しまたいかに犠牲を支払おうとも、その最善な行為を喜んで欲求し遂行するそのような高邁な人間を捉えるであろう。「ロゴスの真理はエルゴンにより信用される」(Nic.Eth.X1)。

 神は認知的、人格的に十全であり、「神の信」に基づき正義にして憐れみ深い(Rom.3:3)。神が正義にして憐れみ深いことが御子の受肉と信の従順の生を介して、歴史のなかでしかもわれらの心魂の外に、神の信義および愛として啓示された。それにより、人類に救いが到来した。このわれらの外に救いが固く立っている、それだけで、或るひとにはもう満足であり、おのれにかかずりあう肉の重さ、おのれの救いや有徳性へのこだわりましてや過去の罪からも解放され、ただ外にある救いを喜ぶことであろう。ダビデのような「不敬虔な者を義とする方」(Rom.4:5)はご自身の業の律法のもとでは「働きがなく」罪人と看做される者を福音のもとで信に基づき義とする、つまり古きひとの罪を赦すその出来事をわれらの外で十字架と復活のうえで実現したまうた。モーセの業の律法がイエス・キリストの信の律法により凌駕された。そのわれらの外にある(extra nos)救いの喜びはわれらのうちにおける(in nobis)パトスの発動である。聖霊受領のひとつの証はおのれを離れて隣人を愛しえることにあるとされる(第?条)。確かに肉の重さから解放され、右手で為す良き業を左手に知らせない仕方で遂行されるとき、ひとはそこに神の力能の働きに思いあたるであろう、心のふと軽くなるのを感じ喜びを見出すことであろう。

 パウロが「キリスト・イエスにおいて顕された神の愛からわれらを引き離すものはなにもないとわたしは確信する」(Rom.8:36)と福音の勝利を宣言したその直後に、彼は同胞に対し「わたしに大きな憂いそしてわが心に絶えざる痛みがある」と自らの止み難いパトスに言及する。それは彼がかつて共に迫害者であった同胞ユダヤ人に対し、今なおキリストを受け入れない同胞たちに抱くパトスの発動であった。救いなき同胞への憐れみが自然に溢れ、彼は「自らキリストから離され、呪われてあることを祈った」(Rom.9:3)。「わたしに生きることはキリスト、死ぬことも益なり」(Phil.1:21)。自らの外に確立された福音の高貴さ、高価さ代えがたさに彼は自己の救いの追求さえも塵芥と看做す。それほどおのれから解放されていたのであった。彼の良心と信仰は彼のこれらのパトスの底においてわれらの外(extra nos)にある救いの確かさに平安を見出していた。

 パウロにおいても「良心」とは神において明らかなことが自分たちにも明らかになるその心の座であった (2Cor.5:10-11、序文冒頭)。「コリント後書」のこの箇所は、良心は神による認識を何らかの仕方で理解することができることを含意する。それは「叡知(ヌース)」に課せられた認知機能である。共知としての良心は親や部族との肉に属する共知から始まって、「内なる人間」(Rom.7:22)に属する神との共知としての叡知の発動にまで至る、肉と内なる人間を媒介する機能を持っている。良心は身体を持つ自然的な存在者の生の原理である肉と内なる人間を媒介する力能のもとにあり、それはどこまでも山上の説教を語り生きたナザレのイエスに方向づけられる。彼こそ神と共にあり、神の意志を最もよく知っておられたからである。

 良心がこのようなものであるとき、自らの知的誠実さ、学的良心と信仰のあいだの不一致、ギャップに苦しむ哲学者にパウロから一つの問いが投げかけられ、乗り越えを求められるであろう。「君は神よりも人格なき矛盾律をより一層信じ愛するのか。神こそ一切の創造者として知識の源であり、人格の座である身体の主である」。ひとは知性から成り立つように、身体を備えたものとしてパトスからも成り立っている。認知的な次元での信は「死者の甦りを信じる」という類の目的語を伴うが、信実な神の圧倒的な現臨の前においては目的語や信念内容の表白ではなく、ただ「信じます、信なきわれを憐れみ給へ」(Mac9:24)という端的なひれ伏しが遂行されるであろう(cf.Rom.15:18)。身体を介したパトスが秩序づけられないとき、ひとは理性そのものを身体から切断し崇拝することになる。迫害のさなかにあって、「汝ら主にあって喜べ」(Phil.3:1)と命じるパウロは内なる人間の叡知の発動に基づきパトスも秩序を得るに至ると主張する。神の御心を知るに至るわれらの叡知は、「われらはキリストの叡知を持っている」ことによって、媒介される(1Cor.2:16)。われらの心魂の認知的そして人格的態勢を整えるのは受苦と復活のキリストである。

 なぜイエスご自身は文書(書かれたロゴス)を遺されなかったかと言えば、ご自身の今・ここの働き(エルゴン)において隣人との信に基づく義と愛の関係が生起し続けたからであり、言ってみればそこに永遠が宿っていたからである。イエスはご自身の一言一句(ロゴス)、一挙手一投足(エルゴン)に神の国を宿していたため、罪を赦す権威、権能ある方として振舞い、その恩恵に浴した同時代の幸いなひとびとが福音書に報告されている。彼の今・ここの言葉と働きのなかに堅固でいかなる吟味にも耐えうる、壊れないそして聖なるロゴス(理)が宿っていた。そして人類にはそのことが歴史において生起しただけで十分だとして、その憐れみと正義を讃美するそのような生を遂行するひとびとがいる。

 パウロはイエスの一挙手一投足にそのロゴス(理)を見出し、「ローマ書」において理論化し「ロゴスによってそしてエルゴンによって」福音を伝達した(Rom.15:18)。パウロは自らの理論を生きたひとである。即ち、「神の形姿」(2Cor.4:4)であるキリストが自らの一挙手一投足に内在し、キリストに似た者とされることに生を捧げた。彼は自ら神により「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者であると信じ、福音を宣教しながら自ら失格者とならないために「わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」(1Cor.9:27)ことによって自らの責任ある生においてキリストの御跡に従った。これが彼のロゴスとエルゴンである。

 イエスご自身と同時代人ではないわれらは当時の手紙や福音書によりまず言葉(ロゴス)としてその報告を受け取り理解する。「聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。・・かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである」(Rom.10:14-17)。パウロはギリシャ哲学者にとって宇宙の原理的なものごとについての知識を意味する「知恵(sophia)」に対する言及による「知恵の説得的議論」(ロゴス)と聖霊の働きに対する言及による「霊と[神の]力能の論証」(エルゴン)(1Cor.2:4)を判別していた。また彼は「われらは成熟した者たちのあいだでは知恵を語る、・・神の知恵を語る」(1Cor.2:6-7)と言う。「ローマ書」においても、パウロは読者の知性を信じる、「わたしは自ら汝らについて確信している、汝ら自ら善きもので満ち、あらゆる知識を十全に備えており、互いに忠告しあう力ある者たちであると」(Rom.15:14)。そのもとに「ギリシャ語圏の者にも異言語圏の者にも、知恵ある者たちにも愚かな者たちにもわたしは負うべき責めを持つ」(Rom.1:15)として、彼は哲学における知恵による析出を可能にする神学理論(ロゴス)とそれに相補的なものとして聖霊の媒介行為(エルゴン)への言及により福音の宣教を遂行した。

 今の時代にあって宗教改革に従事するとはパウロや先人達にならい福音に生命を賭けるということ以外ではない。「われらの宣教は迷いや不純に基づくものでも、また欺きにおけるものでもなく、むしろわれらはまさに神ご自身により認可され福音を信任されている(pisteuthēnai)ほどに、われらは、人々に喜ばれる者としてではなく、われらの心を認可したまう(dokimazonti)神に喜ばれる者として、このように語っている」(1Thes.2:4)。弟子は師に優らず。この運動に従事する者は、もはやわれ生くるにあらず、キリストわがうちにありて生くるなり、生くるはキリスト、死ぬるは益なりのパウロに追随し、われらもひとの顔を恐れず、今・ここに永遠の宿ることを求めてパウロに可能な限り伴走しつつロゴスとエルゴンによって主イエスご自身の御跡に従う。「わたしは道であり、そして真理であり、そして生命である」(John.14:6)。

 われらもイエスご自身との同時代人のように恩恵に浴することもあろう。「わたしが汝らに語る言葉(ta rhēmata)はわたしが自ら話すにあらず、父がわがうちに留まりご自身の働き(ta erga)を為したまう。汝らわれを信ぜよ、わたしは父のうちにあり、父はわがうちにあると。そう[言葉の故に]でなければ、働きそのものの故に(dia ta erga auta)信ぜよ。・・わたしは父に請うそして父は汝らにもうひとりの執り成し手を賜わるであろう、それは彼がこの時代に汝らとともにいたまうためである。それは真理の霊である。・・わたしは汝らを残して孤児(みなしご)とはせず、わたしは汝らのもとに来る」(John.14:10-18)。

 イエスご自身とは同時代にないこの世代にあっては、聖霊が派遣されわれらのうちに働きたまう。われらこの運動に従事する者は神の前(A)(B)と人の前(C)をその都度媒介しつつ(D)「われらの弱さにおいて共に支えてくださる」ところの「聖霊」(Rom.8:26)、「キリストの霊」(Rom.8:9)の働き(エルゴン)を請い求める((D)は(A)福音と(C)生身の人間を(L)ロゴス上そして(Er)エルゴン上媒介する(Log(D)=(A)+(C), Er(D)=(A)via(C))、ただし媒介記号+はロゴスを、viaはエルゴンを示す)。その聖霊の助けによる宣教のエルゴンとはパウロによれば「わたしは汝らのうちにキリストが形づくられるに至るまで再び産みの苦しみをなす」(Gal.4:19)ことに他ならない。しばしば「霊に燃える」(Rom.12;11)ことがあることであろうが、主の言葉と働きが山上の説教において明示されており相互に支えあうものである限り、それは「柔和の霊」(Gal.6:1,5:22)として働きいかなる種類の熱狂主義とも異なるものとなろう。「わたしは霊によって賛美する、そして叡知によっても賛美する。・・集まりにおいて他の人々をも教えるために、わたしは異言における一万の言葉よりもわが叡知によって五つの言葉を語ることを欲する」(1Cor.14:15,19)。

 この改革に従事する者、われらも隣人との今・ここの交わりにおいて神により宇宙の開闢以前に「ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められた」(Rom.8:29)者として、キリストと共なる生が人間にとって本来的であることを理論的に伝え、そしてそれを今・ここで生きる。神に嘉みされる心魂の根源に生起する「信にもとづかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:22)そして「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)からには、新しい宗教改革者の実践にとっては信に基づき具体的に愛の道を歩むことだけが残されている。愛が「霊の果実」(Gal.5:22)、「義の果実」(phil.1:11)であるからには、「愛は決して失敗しない」(1Cor.13:8)。「愛には恐れがない。まったき愛は恐れを取り除く」(1John.4:18)。信に基づき愛への道を歩む限りにおいて「イエス・キリストにある生命の霊」(Rom.8:2)が共にいたまうことであろう。

 その都度の隣人が敵であったとしてもキリストを介して我と汝の等しさが即ち友と友が希望のことがらとして生起するとき、共にあることの喜びがあるからである。敵とは「キリストがその者のために死んだそのかの者」のひとりである(Rom.14:15)。「新しい被造物」となった「われらは今やもはや誰をも肉に即して知るまい」(2Cor.5:16-17)。肉に即して自ら行為を選択するところ、そこに聖霊は支えたまわない。「霊は熱するが、肉は弱い」(Mat.26:41)と言われるように、たとえ肉の弱さの故に聖霊による心魂の刷新に程度があるにしても、その生が信に基づき神と隣人への愛に方向づけられている限り、そのトラック上にある限りこの運動は成功であると言える。柔和な者、憐み深い者そしてその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされず神の正義を渇き求めそして平和を造らずにはいられない心の清らかな者たちが生み出されるならこの運動は成功である。たとえ自らのそして隣人の罪の故に傷つき倒れても、再び十字架を仰いでキリストのもとに立ち返る。みなもとの信即ち信のみなもとは揺るがない。この実践を支えるものとして基本的な提題を77箇条提示する。

 (主題ごとに各条項の提題を記し、その基礎になる当該の主な聖書テクストを示す。「・・」はテクストからの引用である。旧約聖書の引用はパウロが非ユダヤ人への福音宣教に用いた七十人訳に基づく。煩瑣や誤解を避けるべく事実の主張は端的な表現とし尊敬語は最小限に留める。各条項の最後に引用箇所を引用順に提示する)。

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