春の講義宗教改革(5)―提題第1条「神の栄光」~第8条「神に偏りがない」

新しい宗教改革

第I部                 神の前と人の前の総合的開示―イエス・キリストの言葉と働きによる神の意志(福音と律法)と心魂(「肉」と「内なる人間」)の媒介と秩序づけ

 パウロの神学の中心的主張「ローマ書」3章21節から31節がこれまでの誤訳を乗り越え、正しく理解されるとき、二つの神の意志である福音と律法そしてそれを受け止める心魂の関係は神の前の無矛盾性とひとの前の相対的自律性が整合的な仕方で展開されていることが理解できる。そこでは、ナザレのイエスの十字架にいたる信の従順と復活に基づく聖霊の派遣により神の前とひとの前は総合的に媒介され秩序づけられる。

提題1 神の栄光、創造と救済を介して

 永遠の現在にいます神は、一方、この時空における運動を伴う「宇宙」、「万物」を「神の知恵」、「主の叡知」に即して創造された。神ご自身は神の前にいる者たちによりそれは知られていると看做していたまう。「永遠の力能そして神性は宇宙の創造から、被造物において叡知において知られ、見て取られている」。他方、ご自身の被造物への愛ならびに正しさはご自身の選びの民に対する約束への(f1)「神の信」に基づき、御子の受肉と受難および復活の歴史において最も明らかな仕方で人類に啓示された。「福音の真理」と呼ばれるこの御子の歴史への到来としての栄光ある神の啓示行為はどこまでもその理解が深まりうるそのようなものである。

 この神の信は、ご自身が万物の主である限り、当然異邦人に対しても貫かれる。「第一に福音はすべての国々に宣ベ伝えられねばならない」。神の信に基づく福音は「真理の言葉」だからである。パウロは預言者たちを引いて確認する。「いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、わたしは語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「わたしは[わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。他方、イザヤは大胆でありそして語る、「わたしはわたしを探し求めない者たちに見いだされた、わたしを尋ね求めない者たちに顕れる者となった」」。

 神ご自身の深遠なるご計画は人類の具体的な歴史のなかでひとの目には一見理解しがたい仕方でしかも揺ぎ無い仕方で遂行される。「ああ、神の知恵と認識の富の深さよ。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。すなわち、「誰か主の叡知を知っていたのか、それとも誰かご自身の顧問官になったのか、それとも誰かご自身に予め与えてそしてご自身から報いを受けるのであろうか」。なぜなら、あらゆるものはご自身からそしてご自身を介してそしてご自身に至るからである。栄光は永遠に[神]ご自身にあれ、アーメン」。

 人類は全知にして全能な神の叡知を十全に知ることはできない。人類は終わりの日には、もし神に嘉みされるならば、罪とその支配である死の毀損からも解放され、神ご自身の生命のなかにあって神に賛美と栄光を帰するであろう。この地上のあらゆる血縁に基づく民族、血統、性、皮膚の色などの個々人の責任においてない与件は神の国に引き継がれることはない。「肉と血は神の国を継ぐことができない」。身体的な情としての自然な愛国心さえ山上の説教に即して乗り越えなければならない局面がでてこよう。「すべてのものがご自身に従ったときには、御子自身もまた、すべてのものを彼に従わせた方に従うであろう。それは、神ご自身がすべてにおいてすべてとなりたまうためである」。(Rom.1:20,Gal.2:5,Col.1:5,Rom. 11:36,11:33,11:34, 1:19,3:3,Mak.13:10, Rom.10:18-20,Ps.19:4[LXX 18:5],Dt.32:21,Is.65:1,Rom.11:33-36,Is.40:13,1Cor.15:50,28).

 2 福音

 この啓示は「福音(良き報せ/good news)」と呼ばれる。この良き報せは「真理の言葉」であり「福音の真理」を指示する。福音とは神がその信・信仰を嘉みするすべての者に「救いをもたらす神の力能」である(第24条)。「その福音は聖なる書にご自身の預言者たちを介してはるか以前に約束されたものであり、肉に即してダビデの種子に基づき生まれた、聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の御子と判別された御子ご自身、われらの主イエス・キリストについてのものである」。

 イエス・キリストの福音において神が義でありご自身がその信・信仰を嘉みする者を義とすることが啓示されている。「神の義は彼[イエス・キリスト]において[神の]信に基づき信に対して啓示されている」。この神の義の啓示、隠されていたものの覆いを取る知らしめにおける神の信とひとの信の対応は、一般的にも、誰かを疑っている者はその疑われている当人が信実であることを知りえないことと類比的であり、信に対しては信による応答がふさわしい。(2Cor.6:7,Col.1:5,Gal.2:5,Rom.1:2, 1:16, 1:2-4,1:17).

 3 神の信

 福音において啓示された神ご自身の知性の認知的十全性ならびに憐みや正義という人格的な十全性は選びの民を介して人類への「神の信」に基づいており、この神の信に対応するひとの信が神の信義そして神の愛に対する認識に至らせる。神の信はひとの信・信仰のみなもとにあるみなもとの信であり、この信に基づき他の正しい信・信仰は位置づけられ特徴づけられる。神の信が「イエス・キリストの信」を構成しまたひとの正しい信・信仰を特徴づけそして支える。福音への帰還とはこの神の信に立ち返ることである。福音とは神の信義がイエス・キリストにおいて分離なき仕方で明確に啓示されたものごとのことである。たとえひとが不信により背き偽りであったとしても、神の信は揺るがず、神の言葉は真実である。「それではユダヤ人の優っているところは何かあるのか、あるいは割礼者の利益は何かあるのか。あらゆる点で大いにある。第一に、神の言葉が彼らに信任されたことである。ではどうか、もし誰かが不信仰であったなら、その者たちの不信仰が神の信を無効にするのではないだろうか。断じて然らず。神は真実であるとせよ、すべての人間は偽りであるとせよ。まさにこう書いてある、「汝が汝の言葉において義とされるように、そして汝が審判されることにおいて勝利するように」」。 (Rom.3:3,3:22,3:1-4).

 

4 神の二種類の意志のもとに啓示されている神の義即ち「信の律法」と「業の律法」

神ご自身による人間認識に基づく二種類の意志はユダヤ人の歴史の展開のなかで神の義として(B)「業の律法」(「モ-セ律法」)および(A)「信の律法」(「キリストの律法」)の名のもとにそれぞれモーセの「石板」を介しておよび「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。そして業の律法は福音の啓示に方向づけられている。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すもの[ゴール]である」。福音が啓示された限りにおいて神の意志として、業の律法はより少なく根源的であることが知られる。神の信義に分離なき恩恵の啓示のほうが「~するべからず」「~するべし」というひとの為すべき業の律法の啓示より、より根源的だからである。そこでのみ、各人の信仰は律法主義に絡め取られることはない。そこでは誇りが排除されているからである。「どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である」。この信の律法に基づく正義を「人格的正義」と呼び、業の律法に基づく正義を「司法的正義」と呼ぶ。(Rom.3:27,3:20,1Cor.9:9,Gal.6:2,2Cor.3:7, Rom.10:4,3:27).

 

5 「神の怒り」の啓示とそのモデル

 「[業の]律法は怒りを成し遂げる」とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」1章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され(第2条)、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに、「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。

 現在啓示されている神の怒りの理由をパウロは神ご自身が「なぜなら、神が彼らのただなかで明らかにしたからである」と過去時制により報告している。この時制は暗くされた悟りなき心が偶像崇拝に陥ったことそして三度現れる「引き渡した」の過去用法とともに一つの出来事を念頭においている。神の怒りの歴史のなかでの一つの啓示行為が現在の怒りの啓示の保証ないしモデルになっていると考えられる。パウロはこの過去形表現により、神がモーセに十戒を提示された時、出エジプトの民がそのモーセの不在のあいだに偶像崇拝等に陥った具体的な事実を表し、ひとが神の意志を知りまた知りうることの一つの証拠として提示している。実際、この引用箇所における過去時制表現、例えば「神は引き渡した」、「彼らは損得勘定において空しきものとなった」、「彼らは……愚かな者となった」は「神の怒り」とともに、聖書中、出エジプトの民の偶像崇拝事件の論述にそのまま見出される。パウロが用いた七十人訳には「(神の)怒り」というギリシャ語語句と共に出エジプトの一連の当該個所において見出すことができる。これらはすべてアロンのもとで金の子牛を鋳て偶像を拝んだ出エジプトの民の記事に符合し、神は偶像崇拝についての律法に即し怒りを示して、レビ人を介し一日に三千人を倒したことが報告されている。なお、業の律法の啓示以前においてまた異邦人においては良心が業の律法のもとにあることを示す(第11条)。(Rom. 4:15,1:18,1:26, 1:19, (「引き渡した」:Rom.1:24, 26,28=Ex. 1:13: 「怒り」:Rom.1:18=Ex. 32:10-13, 「空しき者となった」Rom. 1:21=Jer.2:5, 「愚かな者となった」Rom. 1:22=Jer.10:14).

 

6 神の義の二つの啓示((A)神の信義と(B)神の怒り)の非対称性

 (B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。そこでは義とされないことが知らされている神の意志に背くことからそこでは義とされる神の意志に服することである。

 神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義である」。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」。「アブラハムの信に基づく者」に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」。

 かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されているからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。(Rom. 3:20,3:22-26,3:27, 4:3,4:16,Mac.10:15).

 

7 悔い改めによる業の律法から信の律法のもとへの移行

 この二種類の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前条)。

 かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」。

 パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」。(Rom.15:23,2:3-6,Gal.2:19-20,Rom.8:2).

 

8 神には二つの律法の適用において偏りがない

 「神には偏り見ることはない」。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」。(Rom.2:11,Gal.5:3,Rom.2:13,2:6, 11:22,3:26,9:13,11;22, 1:28,1:32,11:22,2:4, Ps.18:26).

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