旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―

旧約の革袋から破りでる福音の生命 ―一年を振り返って―

2021年2月7日

 

1一年を振り返って

 今日が本年度最後の聖書講義です。第36回目です。職務として日曜の話をするのは初めてでした。札幌では23年間学生さんを中心にした集まりを主催していましたが、いろいろな意味で、今より一層不十分でした。私の拙い話を聞いてもらっているという感覚をもったこともありましたが、当時は暗中模索であったと思います。今から思えば、あの日々が理論的解明の基礎を与え、ようやく自らの懐疑、疑問に対し『信の哲学―使徒パウロはどこまで共約的か―』において自分なりの解決を見出しました。また札幌の日々がこの共同生活の備えをしたと思います。たとえ理論的には様々な問が解けたとしても、それを生きることなしには聖書の真に伝えたいことは理解したことにはならないのです。

「理解」について、認知的理解は人格的な愛を建てることにより確認されるというひとつの伝統があります。アウグスティヌスは言います。「誰であれ自分が神的な聖書をその或る部分でさえ理解したと想定する者は、その者が持つ理解によって、神と隣人への愛を建てることなしには、それらを理解してしまってはいない(nondum intellexit)」(Augustin, De Doctrina Christiana, Oeuvres de Saint Augustin, 11/2, tr. M.Moreau,Liber I,XXXVI,40,p.128 (Institut d’ Études Augustiniennes, Paris 1997)。この伝統の基礎は、死に至るまでの従順の信に基づき愛を実践した贖い主が既に信から愛への道を備えたことに求められます。これはロゴスの一種の証、可視化であると言えます。キリスト教の歴史においては神が受肉してその意志を歴史のなかに表したのは信と愛を心魂の根源とその完成としてでした。理解の複層的な判別のもとに、心魂の認知的かつ人格的態勢の統一理論の構築がめざされてきたのです。

 この一年間日曜の聖書講義に関して何が一番たいへんであったかというと、心を刷新させないと聖書の話はできないということです。肉に留まっていては理解できない、そのような仕方で聖書は書かれています。ひとはそれを聖書記者たちが聖霊に促されて神の言葉を伝えているからだと言います。心の刷新は何等か聖霊に触れるという仕方でおきますが、わたしとしましては、夜泣きする幼児のように聖霊をいただくべく十字架の憐みに縋るしかないのです。わたしの先生の旧約学者関根正雄先生は「自分に死なずに日曜の話をしたことはない」と言われました。先生は50年以上聖書集会を主催されました。土曜の夜はその意味で徹夜しつつおのれに死ぬべくテクストと格闘してこられたのだと思います。私の場合はそれをとても不十分に毎週繰り返してきたことになります。

 この一年多くの躓きの石を皆さんの前に置いたことであろうと思います。命じられたことをさえ為しえないわたしは、福音書にある給仕の話のなかで「われらは無益な僕です。為すべきことを為しただけです」と言うことはできず、「この無益な僕を憐み給え」と祈るしかないのです(Luk.17:10)。

 昨日の卒寮式は皆さんの協力のもとに遂行され感謝でした。前途への希望のうちに5人の皆さんを送り出せて、よかったです。他方、当方のいたらなさのゆえに共同生活における義務そして優先順位をめぐって、さらには無理な注文をすることによって、複数のひとを躓かせてしまったと思います。自分の都合にあわせて、相手を操作していないかどうかをそのつど人間関係を修正、リセットしないとひずみがたまっていきます。胸に手をあてて、寮生各人の善を、幸いを心から願っているかを吟味します。そしてそのひとのために何ができるかを吟味します。躓かせてしまったひとびとには等しさが生起すべく、何ができるかをそのつどの文脈で関係回復をめざします。

 自らが常におのれから自由で愛のモードにいないとき、すなわち支配からも支配されることからも唯一自由な場所で生起するわれと汝の等しさのうちにいないとき、失敗がおきてしまう。まさに「愛は失敗しない(=倒れない)」(1Cor.13:8)、「愛には恐れがない。十全な愛は恐れを外に締め出す」(1John.4:18)です。自分はそのひとのことを恐れてはいないかを自らに問い、何らかの恐れがあるときは愛のうちにないことが分かります。哲学者はそれを「パトスはヘクシスのセーメイオンだ」と即ち自ら選ぶことのできない身体的反応である恐れなど感情や欲求は、そのひとの心の態勢・在り方の徴であるということです。聖霊により清められるとき、わたしどもは垣根がなくなり、相互に相互の幸いを願うことができるものとされます。イエスは常にこの態勢にあり、自らを敵対視するパリサイ人とも素手で自らを生命の危険に晒すことになることを厭わず、避けず、彼らの克服すべき点を指摘し、目にあるおが屑を取るよう努めました。自らの胸に手をあてて、自分を避け嫌うひとの幸いを願うかを問うことから始め、何か肯定的な喜びと力に満ちたものを歴史に遺したいと思います。もう二度と罪の奴隷になりたくありません。罪はいつでも人間関係を破壊すべき工作してきます。目覚めていればそれを克服できます。「われらはあいつの企みに無知ではない」とパウロは言います(2Cor.2:11)。以上が生活の中での聖書講義をめぐる反省です。

 

2ナザレのイエスの言葉と働きが媒介する

 やはり福音(喜びの音信)を語っていたいと思います。奇跡物語序論と題して四回ほど所謂奇跡をどのように理解できるかを考察してきました。力溢れるイエスの山上の説教の言葉とそれに相即する彼の働きはやはり神の憐みの力ある発揮であり、癒しや永遠の生命を保証する復活という本来的な秩序の回復をもたらします。「光あれ」と言葉一つでこの満天に輝く星々を創造された神は一切を知りそして統括しておられます。そのような神なら、言葉一つで罪に沈み、苦しみに沈む人類を救うことができたろうに、わざわざ御子の受肉と十字架の生涯を必要としていたとすれば、神は全知でも全能でもないのではないかと疑われてきました。御子の受肉と死に至るまでの信の従順以外に、わたしどもは信に基づく罪の赦し、信に基づく義を得ることはできなかったであろうことは明らかです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。神とひととの媒介者なしにわれらの全知全能の神への信仰は抽象的、観念的に留まり、どこまでも体得的な知識とはならず、懐疑に翻弄されたことでありましょう。イエスはわれらと同じ肉の弱さを担われたのです。だからわれらもこの肉に導かれる身体を脱ぎ捨てるのではなく、キリストの義をこの肉のうえに着るのです。一方でキリストは「罪を知らざる方」であり続け、罪びとの罪を自ら十字架で引き受けました(2Cor.5:21)。神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。キリストは罪なき者として復活を成し遂げ、永遠の生命の在り処(ありか)をわれらに示しました。心魂の二心なき信によって罪赦され、永遠の救いをいただくのです。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。信に基づき復活の希望に生きるのです。万物の栄光がこの弱き肉を担ってくださった以上は、われらは神の栄光なのです。この身体をいただいたことを感謝しつつ「身体の贖われること」(Rom.8:23)を忍耐をもって待ち望むのです。キリストの復活はこの地球の歴史において一度限りであり、われらは再現性のないこの特異な事象を信仰によって乗り越えるのです。そこにわれらの思いにすぐる神の平安がわれらの心と認識を守ってくださることでしょう。信じることができるというだけで、喜びなのです。信は人の肯定的な生を築きあげる基礎だからです。生命と力に溢れた肯定的なものへの信なしには、ひとの心と身体は萎縮し、分裂し滅びに至るそのようにできているのだと思います。ひとは知らないものごとを、また為しえないものごとを信によってそのつど乗り越えていくのです。

 山上の説教はその信仰への招きであったのです。イエスはご自身を旧約の伝統の中に置きました。彼に与えられていたのは旧約聖書だったからです。ご自身について書かれた新約聖書を当然彼は持ち合わせてはおらず、一言一句、一挙手一投足において実現しつつあったのです。彼が一歩でも間違えたら、この書物は永遠に書かれることがなかったのです。イエスは旧約の選びの民の伝統のなかで「わたしはイスラエルの失われた羊にしか遣わされていない」と自己規制しながらも、その生命は古い革袋を内側から破り迸り、生命の喜びが異邦人へと溢れていきました。しかし新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。旧約の古い革袋のなかで彼は活動したが、あまりの福音、あまりの生命の故に、旧約は内側から破られてしまったのです。当時ユダヤ人はカナン人等異邦人と交流をもちませんでした。イエスが「子供たちのパンを取り上げそして犬に投げ与えることは良くない」と言うと、そのカナンの女性は「主よ、そのとおりです、というのも子犬たちは主人たちのテーブルから落ちるパン屑を食べるからです」と言った。そのとき、イエスは彼女お応えになった、「「ああ女の方よ、汝の信仰は大いなるものである。汝が望むようにことが成るように」。そしてそのとき彼女の娘は癒されたのでした。旧約のただなかにそれを極性化、純化するそのただなかで、彼の憐みが迸りでるのです。奇跡とは主の憐みからくる神の力能の溢れ出しなのです。それが病から健康へという秩序の回復であり限り、秩序の座である自然に反するものではないでありましょう、たとえいかなる上位の自然法則により遂行されたかをわれらが未だ知ることができないとしましても。カナンの女性において、信に基づく正義の一例がここで生まれたのです。彼の一言一句、一挙手一投足は信に基づく正義と信に基づく憐みの双方の実現に向けられていたのです。

 

 ひとは知らないこと、そして為しえないことを信によって突破するのです。それを一つ一つ乗り越えていくというしかたで人生を築いていくのです。本年の最後ですので、「探求と発見」(11月1日、8日、15日)の箇所で自らの小さな経験を報告しましたが、自らの小さな生が憐みを受けつつ、変えられてきたことを証することをお許しください。読み残したままで終わるのも落ち着きがわるいので、それにより、本年の締めくくりにすることをお許しください。なお、これは一つの証にすぎません。各人はそれぞれ恩恵や体得的知識を持ちますが、それは決して普遍化してはならないものです。神様がそのひとに必要な恩恵を与えられたものであり、他の或るひとには別の仕方で与えられることでしょう。

 

3探し求めドアを叩き、見出し開かれた記録―留学記補遺―

 二度にわたって過去に書いた留学記をお読みしましたが、残りの部分を読みます。今年度山上の説教の学びでえた、なんとも簡潔でけれんみのない戒め、ただ地の塩、世の光でありたいという思いだけがこの回顧を導きますように。初めてのひとのために、補いながら「オックスフォード便り」を後に編集した文章の続きを読みます。

 1985年春から90年早春まで5年間イギリスに留学した。当時、私はギリシャ哲学を研究し、非常勤講師として哲学やギリシャ語を教えていたが、哲学研究に関し閉息感と無力感に悩まされていた。本場に行き、よいものに触れれば何か道が開けるのではないかという淡い期待をもって、アリストテレス研究の伝統あるオックスフォードに、そこには誰一人知る人もいず、ただJ.Barnes先生からの一枚のsemi officialな手紙を手に鞄一つで、武者修業に飛び立った。ドラマはヒースロー空港到着直後にはじまった。入国審査でお前なんかこの国にいれないという類のことを言われ、ロンドンの場末のユースホステルに潜伏した。正確には二か月のみの旅行者滞在許可であったため途方に暮れた。そのときもらった紙に移民局の住所があり、イースター開けを待ってクロイドンにある移民局にカラフルな人々と列をつくり、ようやく或る条件のもと更新の可能性を得た。そのようなゼロからの英国生活の始まりであった。David Charles先生との出会いがその後の五年間を作りかえた。以下、「オックスフォード便り」という日本の家族や友人に送っていた公開書簡等から探求に関わる所を当時の未熟なままの文章の引用により探求の歩みを振り返りたい(当時のものをそのまま引用し、便宜上繋ぎ合わせるが、今回の説明は[・・]により補足)。

 

4 The Last Wordを求めて

  ・・私は再びエルスフィールドにおります。今朝、1989年11月27日相当の歳月をかけて自分のエネルギーの大半を捧げてきた博士論文『アリストテレスの説明の理論ー論証科学と科学的探究ー』がようやく完成し、製本すべく外にでると空は初冬の身のひきしまる朝のすがすがしい大気の輝きに満ちていました。コスモスの咲くころには提出したいと春に話しておりましたが、先日まで庭の二隅で群生し秋の風に揺れていたこの花は、かろうじて2、3生き残り弱々しく朝露に濡れているだけでした。ふだんは荘重な尖塔の連なりを眺望できる丘の端に来ると、下界は一面の霧につつまれていましたが、次第に樹木が上の部分から次第に姿を現わしてきました。街に着くころには一切が朝のみずみずしい生命の輝きに息づいていました。この4年半を振り返ると、これだけのものを書くのにどうしてこんなに時間がかかったのかと愚かさに呆れると同時に、よくここまでこれたというのも実感です。最後の2、3日色々理由をつけてあれほど望んでいた完成を遅らせていたのは、何か愛する子と別れる母親の心境に似ていたのだと思います。

 日記からこの仕事とこの一年半の格闘の一端を少しだけ振り返ってみましょう。

「88年4月30日(土) David、ヒューレカ、ヒューレカ(見つけた)!ようやくアリストテレス論証科学の原理について2千年のエニグマ(謎)を解いた」。

「5月29日(日) どうも『分析論後書』がコンシシステントに読めてきた。ワクワク、ゾクゾクする。これはきっと画期的な仕事になるぞ。『形而上学』解明の基礎を与えるであろう」。

「6月20日(日) 朝、晴れ、昨日は好天気だった。何年アメソス(無中項)に悩まされねばならないのか」。

「9月22日(木)ドゥブロブニックから帰ったら、すっかり秋になっていた。空はライトブルー、リンゴの木は実をたわわにならせている。空気は乾いてすんでいる。樹木は薄い色合いを醸し出している。ようやく論文に心が戻ってきた。一気に固有原理に関して明確な線がとれた。やはり休むことはよいことらしい」。

「10月5日(水) 論文調子良い。能力そして質の問題は乗り越えた。後は時間の問題だけになってきた」。

「10月17日(月) アメソス(無中項)を呪って自分は死ぬだろうと思ってきた。この語故にどれだけ無駄に時が流れていったことか。しかしようやく最も基本的なことに気付いた。・・僕は愚かだから人が短い時間で身につけることを長い時間かけてようやく修得している」。

「10月20日(木) アメソスに絶望している。こんなに苦しいことがあるか。10年解らずにいる。神の存在の次に解らず悩んでいるのがこのアメソスとは。とはいえ、人生が何のためにあるかも解っていないではないか」。

「10月21日(金) ようやく一つの仮説に到達した。エイス・アメサ[無中項へ]とディア・アメソン[無中項を通じて]が持つ前置詞の違いがふたつの不可論証性につながる。いけいけ」。

「12月22日(木) 昨晩ディヴィッドが[私のペーパーを読んで]興奮して電話をかけてきた。今日ディヴィッドとチュートリアル。彼は100%同意してくれた。これでアメソスにけりがついた」。

「89年1月21日(土) 朝、快晴。確実に僕は論理的思考、哲学的思索において成長している。今振り返ると去年は哲学的に飛躍の年だった。これで哲学を教えることができるであろう。僕の歴史は確かに神様に導かれている。神は僕の願いをかなえてくださるであろう。それよりも一番良い方向に導いてくださるであろう。独身可、失業可なりだ。今にして思えば自分の20代は何だったのだろう。惨憺たるものだった。哲学的には無に等しかった。しかし、信仰がわかったのだから良しとすべきか。30代は哲学の時代で、そして40代で信仰と哲学をつきあわせてみよう。関根正雄先生が留学当初「罪の許しと戒めの下に立つことだけで力一杯哲学をやってきてください」と励ましてくださったことを思い出す。論文が秋には終わる見通しがついて何かうきうきうれしい。昨日セクションEの骨格ができた。公理論はなかなかおもしろい」。

「2月1日(水) エルスフィールドでディヴィッドとチュートリアル。哲学することの中心に触れた感じだ。必然性と説明。世界が開けていく興奮を味わった」。

「2月18日(土) ディヴィッドとまた素晴しいチュートリアル。矮小な人間には哲学はできない。人間を相手にしていては哲学はできない。ディヴィッドの片寄りのなさ。ちょこざいさのなさ。理性を信頼したオーソドックスな思索は片寄った矮小な人間にはできないことだ。僕が少々問題だと感じるところを決して彼は見逃さない。彼には大きな問題として抗うべくもなく映っているのだろう。アグリーメントということはあるものなのだ。ロゴスで互いに世界を堀りあうということはあるものなのだ。彼は堀り損ねた場合何が間違っているのかを明確にしてくれる。僕のアイディアをよく理解してくれる。「セクションA エピステーメーにおける科学的そして認知的側面」或る意味で画期的な発見だった。昨日「ヤッタ」と原稿片手に彼の部屋に飛び込むと「Welldoneウエルダン」と向かえてくれた」。

「4月27日(木) 知性革命とでも言うべきことがこのイギリス滞在中に起こった。それはどんな問題が提出されてもそれを分析する力がついたということだ。情報量ではない、分析力そして議論の構成力だ。この知性の明晰性こそ僕が苦しみながら求めてきたことなのだった。人間が考えていることで全然解りえないものはないように思えてきた。後は慣れの問題だ、その領域で時間を費やしさえすれば何とかなるような気がしてきた。思考力がついたのだろう。楽しくてしようがない。知ることの喜び」。

「5月25日(木)・・アリストテレスと分析哲学と宗教哲学を自分のプロフェッションにしたい。日本と世界の平和に何らか役立ちうるかもしれない。1932-33年のウクライナにおけるスターリンによるマンメード・ファミン(人工飢餓)のドキュメント番組を見た後、「哲学は無力に感じる」とディヴィッドに言ったら、彼は少し不快な表情をしたことを思い出す。彼のようなプロの哲学者はそのような性急な答えをださないのだ。最後的に世界を支える理性の牙城たらんとしているのだ。理性と信仰を前進させることによって、少しでも世界の真実を明らかにしてゆきたい。こちらに来て初めて知性というもののすごさを知った。ロゴスで世界を掘っていく力、それを哲学は与えてくれる。・・今僕は知的好奇心の塊と化した。今まで見えなかったものが見えるようになった、自分自身そして人間というものについて」。

 ・・・今このように日記を読み返しますと道化のような日々でしたが、とにかく多くの人々の助けにより終えることができました。今学期チューターのJ.バーンズ先生は私が彼を引用するたびに意見を異にしていましたので、激しい攻防を覚悟しておりましたが、先生はシンパテティックで「とても良い」と評してくださりほっとしました。その後先生は手紙を下さいました。「親愛なる千葉君、手紙ありがとう。君の議論は今や一層明瞭になりまたより説得的になっていると真に思う。私は完全に折伏されたとは言わない。しかし、それは恐らく私自身の頑固さの反映にすぎないのであろう。(I won't say that I'm wholly convinced, but that is probably only a reflection on my own stubbornness.)」。

 また、カリフォルニアに招かれていたディヴィッドからは各章に対する批評の後に次のようなコメントを頂きました。「君の論文は哲学的に興味深くまたかなりよく論じられている。私には 博士号基準を満たしていると思う。そのことは過去2、3年間における大きな進展を示している。君は君がなした進歩を喜ぶがよろしい。そしてお祝に値する。私は知っている、君が時に道は長くかつ険しいと感じていたことを。しかし、今や、終りが視野に入ったのだ!(I know that sometimes you have felt that the road is long and difficult. But the end is now in sight !)」・・


5 Farewell

 私はこうして、1989年11月に博士論文を提出し、1990年2 月14日にスクールズでM.ウッヅ先生とC.カーワン先生により口頭試問(Viva)を受けた。翌日、チャールズ先生が電話で「ハロー、ドクター千葉」と呼びかけてきた。彼等の当局への報告書には、「極めて野心的」であり「明らかにとても徹底したテクストの一つの読みであるものを基礎にして、アリストテレスの科学の理論における多くの重要な論点の興味深い議論を含んでいる」と評されている。私はかの地の生活を何の資格身分もなく、言葉をかわした人もなく、ゼロから始めた。2ヵ月の滞在許可しかもらえず、ロンドンの場末のユースホステルで途方に暮れていたことを思い出す。その後の5年間において筆者はオックスフォードにおける知的訓練の伝統によって変えられた、そして教育の力ひいては人間の愛の力を信じるようになった。2月27日に聖書学のG.グラゾフが主催するダヴィンチ・ソサイエティーの例会とお別れ会をジョイントでポルステッドロードの私の下宿で持った。私は"Fides quaerens intellectum(知解を求める信仰)"という題で発表した。翌朝、「Farewell(さよなら)」という詩をオックスフォードとその地の人々に捧げ、イギリスを去った。

 

 さよなら

さよなら、Oxford、大学街。

スカイライン、牧草地、丘そして人々からなる星雲状の集塊。

地下室のワイン、教会の鐘の音、車の臭い、手の掌に柔らかい中世写本の皮表紙、そして白金の壁がおりなす不可解な調和の街。


早春の晴れた一日あなたは生命にはずむ。

あなたの造りし物たちは、春一番の暖かい南風に呼応して、

深い動きのない眠りから目覚め、生命を吹き返す。

春の息吹がここかしこに感じられる。


あなたは夏の暑い朝あでやか(gorgeous)だ。

あなたのジョージア朝風のカレッジ壁やヴィクトリア朝風の庭園は、

あざやかな色とりどりの薔薇と紫色の藤にあやどられている。


夏の夜明けあなたは静穏(intimate)だ。

紫色に発光する生命のきざしが、サウス・パークのきわに明け初めるころ、ニューカレッジ・レーンのナルニア風ランプが周囲の闇を際立たせている。

あなたの恵み深いセント・メアリーズ、ボードリアン、キャメラそしてシェルドニアンは昼の強度の活動の後、沈黙のうちにたたずんでいる。

あなたは休んでいるのだ、あなたの胸元で眠る息子や娘の寝息を優しくつつみながら。


9月の午後早くあなたは美しい。

観光客の後、学生の前、あなたは一時の落ち着きを楽しんでいる。

空はより青く、より高くなる。

秋の太陽のひざしが、そよ風に揺れる緑の枝葉と戯れに踊る。

広々として穏やかなウッドストックロードで、光りと影のかくれんぼうを繰り広げる

サワサワ揺れる木々のトンネルを、一人自転車乗りがくぐりぬける、

秋の音と輝きに髪なびかせて。


秋深い夕暮れ時にエルスフィールドから見るあなたは厳粛だ。

大きく赤い丸い太陽があなたの描くスカイラインのむこうに沈む。

夕陽は、名残りおしそうな雲の色がだんだんかすんだ白から

あかね色へ、そして深い群青色へとかわり、やがて漆黒の闇にのまれる。

夜と昼が、西の地平線で競う時、あなたは自分のシルエットを

カンヴァスの微妙な色合いに符牒しつつ描きかえている。

あなたの尖塔とピナクルはそのゴシック調の気高さのうちにあなたを引き上げる。

あなたは、夕暮れ時の朧な光りに浮かびつつ、

ただ白靄の上にそびえるセント・メアリーのスパイアーとなる。

それはまるで天界への最後の証し人が残されているようだ。


冬の雪の朝あなたはロマンティックだ。

アディソンの小径は足跡に汚されていない、鹿と栗鼠のそれを除いて。

「学者の庭」にそって流れるあなたの小川は、白い結晶の粉を常ならざる静寂さの中にひきこんでいる。

小川のカモは凍えて動かない。


さよなら、私のアルマ・マター(母校)


あなたは東の国からの羽毛そろわぬ根なしの学生を

優しく柔和な腕で抱きとめ育んでくれた。

それはまるであなた自身がボアーズ・ヒルやカムナーそしてエルスフィールドの丘に守られ、アイシスやチャーウエル川に育まれてきたかのように。


あなたはそのはじまりからエクレシアの体だった。

「ドミヌス・イルミナティオ・メア(主は我が光)」があなたの魂(こころ)であった、そして今そうであり、またそうであり続けるであろう。

何世紀ものあいだにどれほど多くの祈りがあなたの主に捧げられてきたことか、

セント・メアリーの尖塔高く舞い昇り、中世の最後の魔法がチャペルの壁の背後で今だに囁かれている。

伝統は思想より強い。

あなたの気風が密やかに人々の魂の底にしみこんでいく。

だからあなたの子供たちは知的に正直に霊的に深く昇るのだ。

あなたの胸元で鍛えられ豊かにされたあなたの息子や娘は幸いだ。

あなたの開拓心、堅固な議論と気品は彼らのものだから。

あなたが永遠の平和へと眠りにつくその日まで、真理探究の証人として人間の延長された影であり続けんことを。

さよなら、Oxford、「主の葡萄畑」。

結論

 これは一人の人間に必要であったものが神の憐みにより備えられたことの一つの証にすぎません。各人は各人なりの仕方で導かれていることを信じます。


 

Previous
Previous

枡形山春の聖書講義―21世紀の宗教改革(2)―

Next
Next

一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)