一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)

一度限りの復活―奇跡物語序論(その四)

                                                                               2021年1月31日

1テクスト 「第一コリント書」15章

 「35ひとは問う、「死者たちはどのように甦らされるのか、どのような身体(sōma)で彼らは来るのか」。愚か者よ、汝が蒔くものは、もしそれが死ななければ生命にもたらされることはないではないか。また汝が蒔くものは、やがて成るべく身体ではなく、麦であれ何か残りのものであっても、裸の種粒である。神は自ら意図したように(kathōs ēthelēsen)そのもの[麦]に身体を、そして[生物]種(しゅ)のそれぞれに固有の身体を与えていたまう。すべての肉(sarx)[身体を持つものの生命原理]は同じ肉ではなく、かたや人間たちの肉があり、他方獣たちの別の肉があり、鳥たちの別の肉があり、魚たちの別の肉がある。40そして天上的な身体もあれば、地上的な身体もある。かたや、天上的なものどもの栄光があり、他方、地上的なものどもの栄光が別にある。太陽の栄光と月の栄光は別であり、また星々の栄光も別である。

 死者たちの復活もまた同様である。朽ちるものに蒔かれ、朽ちないものに甦らされる。価値なきものに蒔かれ、栄光に甦らされる。弱さのうちに蒔かれ、力能のうちに甦らされる。魂体(魂的身体)(sōma phsukikon)に蒔かれ、霊体(霊的身体)(sōma pneumatikon)に甦らされる。魂体があるなら、霊的なものもまたある。45こう書かれてもいる、「最初のひとアダムは生きる魂となった」、最後のアダム[キリスト]は生命を造る霊となった。しかし、霊的なものではなく魂的なものが最初であり、続いて霊的なものである。最初のひとは地に基づく土製であり、第二のひとは天に基づく。その土製の者[アダム]がそうあるように、土製の者たちもそのようにあり、そして天上の者[キリスト]がそうあるように、天上の者たちはそのようにある。ちょうどわれらもまた土製のものの形姿(eikona tū choikū)を担ったように、われらはその天上のものの形姿(eikona tū epūraniū)をも担うであろう。50兄弟たち、われ語る、肉と血(sarx kai haima)は神の国を相続することはできない、さらに朽ちるものは朽ちないものを相続しないと。

 見よ、われ汝らに奥義を語る。われらすべてが眠りにつくということにはならず、かえってわれらすべてが、不可分の間に、瞬く間に、最後のラッパにおいて、変化させられるであろう。というのも、死者たちもまた、ラッパが鳴ると、不死なる者たちとして甦らせられそしてわれらもまた変化させられるであろうからである。というのも、この朽ちるものが朽ちないものを着させられ、そしてこの死ぬものが不死を着させられねばならないからである。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを、死ぬものが不死を着させられるであろうとき、そのとき書き記された言葉が出来事になるであろう。「死は勝利に飲み込まれてしまった、死よ、汝の勝利はいずこにある、死よ、汝の棘はいずこにある」[Isaiah.25:8,Hose.13:14]。罪が死の棘であり、罪の力能が[罪の]律法である。われらの主イエス・キリストを介してわれらに勝利を賜る神に感謝する。かくして、わが愛する兄弟たち、あらゆるときに主の働きにおいて満ち溢れつつ、汝らの労苦が主にあって無駄なものではないことを知りつつ、動かされることなく、堅固たれ」(1Cor.15:35-58)。

 

2 宇宙のなかのわれら

 奇跡物語序論第四回目です。難しくて恐縮です。今日この限られた時間では「第一コリント」のこの箇所を解説することはできません。地上のものから天上のものへの刷新がパウロにより緻密にでしかも大きなスケールのもとに議論されていることを感じ取っていただければ幸いです。今日も奇跡物語の序論として一般的に語ることを許してください。今理解できなくとも、何度も聞いているうちにそしてご自身で聖書にとりくんでいくうちに少しづつ理解がすすむことでしょう。この一年の挑戦は聖書を正しく引用している限り、何らか伝わるはずだという信念のもとに、聖句を引用しながら講義をすすめてきました。

 神について語ることは宇宙の果てのその向こうについてお話しすることになります。土的な生成物についてまた天上のものごとについて、本来ならあらゆる学問を究めねば理解できない話でもあるでしょうが、その向こうにおられる一切の創造者がこの惑星にわれらと同じ肉をまとい、われらと同じ種類の身体を生きたということにより、アクセスを得ているのです。聖書はその方についての証言なのです。わたしどもは人間について生物について、そしてこの惑星について宇宙について少しずつ知見を蓄積していますが、全知で全能者の視点からすれば、微々たるものにすぎないのです。わたしどもはあたかも知者のごとく高ぶったときには「哀れな道化」(シェークスピア)と化すのです。喜ばしい探求者なのです、自己について世界について。

 トマスが「主よ、汝がどこにいかれるのかわれらは知りません。いかにしてわれらはその道を知ることができますか」と訴えると、イエスは言います。「わたしが道であり、真理でありそして生命である。誰もわたしを介するのでなければ父のみもとに赴くことはない。もし汝らがわたしを知ってしまっているなら、わが父をも知ることになるであろう」(John.14:5-7)。

 宇宙の創造者、万軍の主なる神へのアクセスはナザレのイエスを介して為されるのです。宇宙の法則は数式により少しずつ解明されてきていますが、水溶液にいれられた脳に譬えられる知性だけの数学者でも物理学者でもなく、パトス(感情等の身体的反応)を理解する人格的な神に出会うにはナザレのイエスを介してしか為されえないという主張は道理あるものです。もちろん神の痕跡は神の憐みとして至る所に見いだされるでもありましょうが、人類に対する神の意志は最も明白にナザレのイエスを介して知らされています。「わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにいます」(14:10)。

 

3権威ある言葉にふさわしい出来事

 ナザレのイエスが神の子であり神の意志を体現しておられることを知る、その主要な手がかりはイエスの山上の説教が「権威」(Mat.7:29)をもって語られたということです。ここで権威とは言葉に偽りがなく、そしてそれをご自身実践し、自ら言行一致の率先垂範を示し、しかも聞く者にご自身の愛の力により自発的に彼に従いたいという熱望を生みだし、愛を実践せしめるその力能を伴った人格的特徴のことです。彼は神の意志を一言一句、一挙手一投足において持ち運んでいたのです。

 始めから脱線ですが、この一年この集会に皆さんの参加を十全に得ることはできませんでした。福音の喜びを伝えるさいに、この共同生活のなかでは自らの生活を偽って見せることはできません。「人生これ演技なり」(シェークスピア)であるとすれば、へぼ役者であったのだと思います。昨年冒頭にお話ししましたように、この福音の喜びをby showing an example(ひとつの例をしめすことによって)伝えたいと思って努めてきましたが、あまり美しい事例ではなかったことを認めざるをえません。わたしの善きものを捧げてきたつもりではありますが、私の語り方に問題があったことを認めます。来年度はもっと福音書の現場を彷彿させるような語り方を試みたいと思います。実は哲学の訓練によりそのような詩人や文学者の心が育たなかったこと、むしろ減衰したことを告白しなければなりません。そのなかで何か真実であり権威がにじみ出て、おのずと話を聞きたいと思ってもらえるような生活を心がけたいと思います。こちらに赴任するとき、なにはなくとも喜んでいようと思いつつ、赴任しました。マザーテレサは福音の喜びに到達するべく、毎朝2時間自分だけの時間をすごすそうです。うなじ堅いわたしは喜びにいたるには相当の時間を費やしていることを告白しなければなりません。それでも「柔和の霊」を頂きつつ、この喜びを伝えていきたいと思っています。始めからの脱線で失礼しました。

 さて、われわれが三十回かけて学んできた山上の説教は人類の誰かが言わねばならない究極的に人格的なことがらであり、そしてその道徳訓は人類のなかの少なくともひとりにより実際に満たされたこと、それがナザレのイエスが神の子であったことの大きな証です。或るひとは同じ人類にそのようなひとが一人いたというだけで、人類に対する絶望から救われる思いを持つこともありましょう。御子の清さそして御子の力能が従う者に伝達されなにがしか山上の説教を生きることができるものになることがこの二千年証言されてきました。その事実は或る人々を人類への絶望から解放してくれることでしょう。

 イエス以外には到底満たされないひととしての根源的な道徳が十字架に至る信の従順により満たされたのです。イエスはその生涯を通じてそれにより「まず神の国とその義とを求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招いたのです。まず神との正しい関係を築くことを通じて人生と世界に秩序が与えられるのです。これは創造者と被造物の正しい関係を伝えています。

 ユダヤの文脈ではその道徳は「業の律法」と呼ばれたものであり、モーセを介して十戒として知らされた神の意志です。イエスはそのモーセ律法を純化、内面化し、「律法の一点一画」をも廃れないと言うことによってそれを愛に収斂させています。「律法の冠」(Rom.13:9)である愛が満たされるとき一切の律法が満たされます。自らが宇宙の創造者であり自ら救済者である神の御子であるという「神の子の信」(Gal.2:20)を貫き、人類への愛をこの肉において成就しました。神はそれを嘉みして、パウロによれば「業の律法を離れて」、「信の律法」として、つまり「神の信」と「神の義」のあいだに「分離がない」ものとして知らしめました(Rom.3:21-27)。信に基づく義のほうが業に基づく義よりも、より一層神ご自身にとって根源的であることをイエスの生涯が伝えています。彼はご自身が神の子であるという信のもとに、悲惨と罪に沈む自らの同胞に深い憐みをいだき、同胞が「天の父の子となる」(Mat.5:45)べく罪の赦しを実現し罪から解放したのです。これが福音という救いをもたらす神の力能なのです。

 

4罪の赦しをもたらすイエスの甦らし

 所謂「奇跡」という稀なる不思議な現象は、聖書的には、御子ご自身がこの地上にて神の秩序の回復に向けて為し給う神の力能の働きなのです。そしてその力能の実践は常に宣教の言葉に相即しているものであることが特徴であり、所謂魔術との異なりを示すものです。魔術は自らの力を誇示するにすぎないものです。憐みの言葉に相応しいものが憐みの業です。双方とも人々を窮境から救い出します。所謂奇跡は主の憐みの顕われなのです。

 このロゴスとエルゴン、言葉と働きの展開についてイエスとパウロのおかれた状況の違いにはとても興味深いものであることをお話してきました。イエスは十字架への途上の生を信によってリアルタイムに生きていたのです。福音書記者たちはそれを伝記として伝えています。もし彼が十字架から降りてきてしまったなら、父なる神に喜ばれず、ご自身が信に基づき義である方であることの啓示の媒介として用いられなかったそのような今・ここをナザレのイエスは生きていたのです。

 パウロにおいては父なる神の専決行為である死者の甦らしはそれを信じる者を義とするためのものであると特徴づけることができました。「彼はわれらの背きの故に死に引き渡され、われらの義化故に甦らされた」(Rom.4:25)。福音とは信じると神が看做す者を救い出す「神の力能」でした(Rom.1:16)。イエスの復活がその信仰を引き起こし、信に基づく義を実現させると特徴づけられました。復活は神ご自身のイエスの生涯が自らの意図を十全に遂行したことそしてそれ故に彼の生涯が罪に対する勝利であることを知らしめるものであると、パウロは受け止めることができたのです。イエスはユダヤ人やローマ人により冤罪を帰せられつつも十字架に至るまで信の従順を貫きました。彼は人間の偽りにより死刑に処せられましたが、イエスはその処刑を自らを磔る罪人たちの代わりにそして彼らのために受忍したのです。神はイエスが何ら罪なき者でありながら人類の身代わりの死を遂行したことを嘉みしました。

 イエスの十字架刑において神は信の従順を貫いたイエスに罪人として罰を与えるという類の不正を行っておらず、刑罰代受・代罰(vicarious punishment)ということではありません。パウロは言います。「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した、それはわれらが彼において神の義となるためである」(2Cor.5:21)。ここでイエスは罪びとの身代わりとして罪人の位置につくことを自ら為さったが、罪を犯したのではなく、人類の罪を担い、自らの義の上にわれら人類の罪を着たのです。

 そこではもはや神は各人の背きを「彼ら自身において考慮することなしに」(2Cor.5:19)、キリストにおいて考慮することによって、「神は罪を知らざる方をわれらの代わりに罪と為した」のです。業の律法を適用するとダビデのような姦淫者は救われないのですが、パウロはダビデの詩を引用しつつこう言います「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものとみなされる。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みしたのです。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦します。

 神は身代わりの罪を罪なきイエスに罪なきままに担わせました。そのことによって、キリストの死に古き罪人は共に飲み込まれ死んでしまいました。しかし、それはその死が生命に飲み込まれるためです。「われらはこのテント[身体]のなかにいるあいだ、われらは重荷を担いつつ呻いているが、彼にあってわれらは脱がされることを欲しているのではなく、[身体の]上に着ることを欲している、それは死すべきものが生命によって飲みこまれるためである」(2Cor.5:4)。われらは重荷に喘ぐ身体を脱ぐのではなく、キリストが担い給うたのはその身体の重荷であり、彼はその肉のうえに生命を担ってい給うたからこそ、身体に帰属する死は生に飲み込まれるのです。神において、イエスが「罪を知らざる方」であるという認識は揺るぎませんが、この身代わりを認可しました。罪なきままに人類の罪を担うことを「罪と為した」とパウロは報告しています。

 復活はこの歴史的前提のもとでの永遠の生命の証、罪に対する勝利の証であり、信じる者の罪を赦し、義とするものなのです。復活はイエスを神の子と信じる者を義とすることへの信仰を引き起こすものです。

 

5「一度限り」の再現性のない復活は信仰の対象であること

 復活は現代のわれらにはもはや見られるものではなく、信じられるものです。唯一の御子以外にこの人類の歴史において復活が生じた場合、もちろんそれは神の自由に属しますが、スキャンダルだと思います。キリストの復活はその死とともに「一度限り」のものでした。それは神ご自身による御子への信実を示すものでありました。彼の一度限りの死と復活では人類の救いに十全でないとすれば、他の誰かの十字架と復活を必要としており、それは御子による信の従順の死が弱弱しきものであったものとして御子への父なる神による不信さらには侮辱を含意します。十字架も復活も人類の歴史で一度限りのものでなければならないのです。

 他の誰であれ復活はこの古い天地が巻き去られるまで、起こってはならないことだと思います。それ故にこそ復活は目撃者たちはさておくとして、次世代の者にとっては信仰の対象となるのです。再現性のないものは科学の対象とならないでありましょう。神学的な制約のもとに、あれは一度限りであったのです。人類の罪は「一度限り」御子において贖われたのです。パウロは言います。「もしわれらがキリストと共に死んだなら、キリストは死者たちのなかから甦り、もはや死ぬことはないであろうことを、われらは知っているので、彼と共に生きるであろうことをもわれらは信じる。というのも彼が死んだ死とは罪に対し一度限り死んだところのものであり、彼が生きる生命とは神に対して生きるところのものだからである」(Rom.6:8-10)。

 ヤイロの娘やラザロの甦りは蘇生(resuscitation)であり、イエスの復活を指し示す象徴的な先駆ではありましたが、先駆的ではあってもイエスの復活とは異なるものであると思われます(Mac.ch.5,John.ch.11)。イエスの地上での復活体は魚を食べることができ消化器官を備えていたようです。また脇腹に槍の穴があり、指をつっこむことを疑うトマスに促しています。他方、ドアの通過性があり、単なる三次元の身体ではありません。これは人類において一度だけ生じたため、復活の主との聖霊を介しての共なる生は信仰箇条に留まります。

 他方、二千年前のユダヤの地方において、復活を目撃することのできた幸いな人々がいます。当時、先週学んだように、エマオの途上の弟子たちが興奮のうちに復活の事件を語り合っていたように、数百人に目撃されています。パウロは証言しています。「キリストは書に即してわれらの罪のために死んだそして葬られたそして書に即して三日目に甦らされた。そして彼はケパに続いて十二人に顕れた。続いて五百人以上の兄弟たちに一度限り顕れた。・・もしキリストが甦らされなかったなら、われらの宣教も結局空しいものであり、汝らの信仰も空しい」(1Cor.15:4-6,14)。このようにパウロによれば、復活はイエスの身代わりの死に続き、ひとびとの罪を赦し、和解をもたらすものとして位置付けられます。「汝ら神と和解せよ」(2Cor.5:20)というパウロの促しは死者の復活を信じることそしてそれ故に「新しい被造物」となることの促しです。「誰であれキリストにあるなら、新しい被造物である」(2Cor.5:17)。これは旧約聖書以来の罪の贖いをもたらすものとしての神の人類への贈りものなのです。パウロはキリストの復活のゆえに、新創造を語ることができたのです。

 

6 われらの思いにすぐる神の平安

 神の力能は各人が自らその存在と働きのあることを信じて、実験してみる以外に体得できないそのようなことがらです。「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。このいかなる理解をも超える神の平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからです。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 われらの思いにすぐる神の平安がわれらを支配しているとき、神の静かな力能を実感します。山上の説教に即して生きてみようとしない限り、その実現はおろか、イエスご自身がその途上で体験した神の援けを経験することもできないでしょう。二千年間多くの人々がその信仰により励まされ喜びを経験してきたのです。そしてそのような神の力能の経験の基礎には神の信実に対応するひとの信仰が不可欠でした。信仰はひとが神に対して取りうる心魂(こころ)の根源的な態勢、構だからです。認知的、人格的に十全な神が御子において人類に対し信実であったとき、不十全な人間は神の信についての認識にいたらずもそれに信によって応答することだけが偽りのない唯一の態度なのです。心魂の奥底で偽りがあれば、すなわち二心や三心があれば、もうすでに神と正しい関係をむすぶことはできない。これは山上の説教において学んだことです。「信じます、信なきわれを憐み給え」(Mac.9:24)。神がイエス・キリストにあって人類に対し信実であったとき、それへの適切な応答は信実であろうとすることです。神の力能とその働きであるキリストにおいてあらわされた愛を信じ、そのもとに生を構築する以外に神の力能を知ることはないのです。これは懐疑のうちにあるものはその当該のものごとを知ることができないという一般的な知識と信念の関係に基礎づけられるものです。ヒュームは真理に対するこの根源的態勢としての信のもとにいません。彼は、信念の形成は感覚的に得られる証拠と「比例的」でなければならぬと主張していました。それ故に、人間を秩序あるつまりものごとに理・ロゴスが内在している自然の中で正しい位置に置くことができていません。

 「信」を心魂の根源語として理解することは道理ある主張です。宇宙万物の創造者、時空の創造者その方が一切を支配しておられ、われらの認知的、人格的力能はとても貧弱であり、限られているとき、それを突破するのは宇宙の創造者がいまし、その御子が栄光を捨て、われらのために受肉しひととなったその愛を信じる以外に適切な態度はとりえないのです。パウロは言います。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿をお取りになりご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。

 そしてその信が生起する場所は心魂の根底にある「内なる人間」と呼ばれる部位です。そこは常に「刷新」が必要とされる部位であり、内なるひとは神の霊に反応する「霊(プネウマ)」とその認知的働きである「叡知(ヌース)」により構成されています(Rom.7:22-24,7:6)。ひとは土から造られている即ち自然的な存在者であり、その自然的な身体を持つものであるひとの自然的な原理は「肉」と呼ばれます(Rom.6:19)。肉の底に「内なる人間」が神の力能を運ぶ聖霊に触れるごとに生起し、身体とその生の原理である肉を刷新します。

 ヒュームは「人間は必ず死ぬ」と主張していましたが、「人間」を構成する二つの部位「肉」と「内なる人間」のうち「人間」により「肉」を理解する限りヒュームに同意することができます。しかし、「内なる人間」は神の霊に反応する部位として生物的に死ぬことはない。

 このように理解するとき、神の力能に反応しうる部位がすでにわれらのうちにあるからこそ、所謂奇跡と呼ばれる病気の快復や不思議なる力ある愛の業がわれらを通して遂行されます。右の頬を打たれて左の頬を向けることはもはや奇跡です。身体をもった存在者としてわれらの肉によっては為しえない出来事です。このエヴィデンスを積み重ねていく以外に、山上の説教の言葉の力とイエスご自身による癒しや所謂奇跡における神の力能の顕現を確かなものとして経験することはできないでありましょう。

 

7結論

 あまりに尋常ならざる事件が歴史のなかで生起しました。単にモーセ律法の遵守による義の追求では到底まかないきれない神の知恵が「信に基づく義」の世界を切り開いたのです。心魂の根底に信があることにより、その信仰が嘉みされるのです。復活は一度限り人類の歴史に生じるものでなければならないという理解はこのように道理あるものです。再現性のないものは信仰するしかないのです。もちろんそれは理性の逸脱からくる狂信ではなく、恐れというパトスの過剰からくる迷信でもありません。正しい信は認知的にものをよく見知ることのできるようになり、人格的に「律法の充足」(Rom.13:10)である愛を満たすようになるのです。

御子の甦らしを介して認知的、人格的に十全な神はアブラハムに対しひいては人類に対する自らの約束に対して信実であったのです。そしてその信実のもとに人類への愛を御子の受肉と十字架そして復活により示されたのです。神の信に心魂の根源でまっすぐに「信じます」と応答すること、それが正しい信仰です。復活はモーセ律法の遵守によってではなく、心魂の根底に立ち返り信仰によって受け止められるものなのです。そこでは、例えば、自ら復活するなどと思い込み狂信により自死したり、幽霊のようにイエスは出没するという迷信から解放されるのです。見えないものである以上、正しく信じるしかないのです。そしてイサクの捧げに見られるアブラハムのような真っすぐな信が正しいものとして嘉みされるのです。パウロはこのようにナザレのイエスの信の従順の生涯から神のメッセージを読み取ったのです。

 へブル書の記者は言います。「信仰によって、ノアはまだ見ていないものごとについて神の御告げを受けたとき、栄光を帰しつつ、自らの家族の救いに向けて箱舟を造り、その信仰を介して世界を罪に定め、またその信仰を介して信に即した義を受け継ぐ者となった」(Heb.11:7)。またパウロは言います。「われら自身も御霊の初の実を持つことによって、われらも自ら子としての定めを、われらの身体の贖いを待ち望みつつ、自らのうちで呻いている。24なぜならわれらは希望により救われたからである。しかし、見られる希望は希望ではない。というのも、誰が見ているものを望むであろうか。25しかし、われらが見ないものを望むならば、忍耐をもって待ち望む」(Rom.8:23-25)。

 パウロは各人に「汝が汝自身の側で[自らの責任ある自由において]持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じ、自らの責任ある自由のもとで神の信義がイエスにおいて啓示されており、自らはそのもとで信に基づき義であると神に看做されていることを信じるよう促されています。十字架だけで復活がなければ、われらは神が罪なきイエスが冤罪のもとに死に処せられることを放置したないし認可し、ご自身は不義ではないかという嫌疑に十全な応答ができないことになります。復活はイエスの生涯は神に嘉みされたものであり、無罪であることを歴史のなかで知らしめる行為として位置付けられます。復活という所謂奇跡も神による人類への愛という「神の力能」の働きだったのです。「聖性の霊に即して力能のうちに死者たちのなかからの甦りに基づき神の子と判別された」その方についてこそ、われらに信仰に基づく義を与える福音(良き音信(おとずれ))が語られるのです(Rom.1:4)。神の御子が人類の歴史に関わった以上、人類の歴史においいて一度だけ生起した、そして二度目を必要としない一度限りの復活を信じるかが問われています。所謂「奇跡」ではなく神の愛の力能を信じるかが問われています。

 

 

 

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