聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)

聖書の死生観(3)旧約から新約への展開(2)

 聖書の死生観(1)で提示したテクストの1.2「旧約から新約への飛躍」から3「神が生死を支配する—今・ここにおいて働く旧約の神」さらに4「何故永遠の生命への追求は旧約人にはわずかしか見られないのか」まで自由に論じました。94頁に「永遠の生命を待望するということが、ヨブや預言者等特異な状況にある個人を除いては記録されていない」と書いたが、その具体的な箇所について質問がありました。ヨブ記19章25節に「わたしは知っている わたしを贖う方はいきておられ ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚がそこなわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう」とあり、これは身体を贖う神が塵の上にたたれ、その神を仰ぎ見る日が来るという希望を表していると理解します。Scofield Study Systemの当該箇所注にはこうあります。「19:26この箇所は旧約聖書における生ける贖い主の信仰の最も崇高な諸表現の一つを含んでいる:地上へのご自身の人格的な顕われ、ご自身の故の祝福された者の復活における神的なものの人格的参与、そして義人による神の確かなヴィジョンがそれである」。なお、詩篇16:8-11にはこうあります。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府(よみ)に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、生命の道をおしえてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます」。この箇所で詩人はインスピレーションを受け、魂の踊るような喜びを表現しています。それは永遠の生命における神の御顔を仰ぐ生活を表しています。イザヤ書65章17節に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。はじめからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と語られています。これは永遠の生命への希望の表現と理解します。

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聖書の死生観(4)永遠をめぐって

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聖書の死生観(2)旧約から新約への歴史の展開