良い木は良い実をむすぶ その四

良い木は良い実をむすぶ その四

   2022年12月11日

 [アドヴェント(待降節)の日々です。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその4です。録音は5節までです]。

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

1心に常に鳴り響く山上の説教

 あらためてこの山上の説教をしめくくるこの箇所の厳しさを思う。山上の説教に立ち帰るたびに、自らの心の奥に宿る良心が喚(よ)び覚まされる。到底天国に入ることはできないと思う。子供のころ材木屋であった我が家では建築資材に囲まれて育った。母親から「土台はしっかり建てましょう」と語られたことを思い出す。自分が建築する人生という家は嵐にあっても倒れない固い岩盤の上に建てられるものであろうかと自問したことを思い出す。まがりなりにも70年近く生きてきたが、戦々恐々薄氷踏むがごとき日々はかわらない。人間的には何らかの態勢を培ったとは言えるかもしれないが、自分の心魂のなかには救いはないという感じはかわらない。キリストを仰ぐ。

ナザレのイエスは生前に公生涯3年の始めのころにこの説教を丘の上で多くの群衆に向かって風に乗せてシャウトしたのであろう。少人数に静かに語ったこともあろう。この究極の道徳を人類の誰かが語ったということ、そしてそのひとはその言葉を偽りなく生き抜いたということ、そのことのゆえに人類にまた自らに絶望しない。ひとを傷つけ、争いあいながらも、あらためて立ち上がり、彼についていこうと思う。山上の説教のメッセージは、明確に誰であれ、愛しているなら、敵をも愛しているなら、そのひとは正しい信仰のもとにいるということであった。正しい信なしに愛を実現することはできない。良い木は良い実を結ぶ。良い信仰は良い愛を結ぶ。これがイエスの生涯において遂行されたことであった。

 山上の説教を割り引かずに聞くこと、そのとき、われらの心には何が生じるのか。偽りの感覚だ。良心は共知である限り、イエスと共に人間の道徳的であるその本性を知ろうとするとき、胸に手をあてると彼のようにありえない自らの偽りを知る。人類の、学寮の未来を明確に知ることができず偽預言者と同じように自己中心的にバイアスのかかった視点からものごとを見ていることに気付かされる。それでもそのつど判断しながら生きていかねばならない。自らに厳しいひとたちは魂の深いところから考え語り憐みをもってひとびとを導いていることであろう。学寮の若者たちをあずかる者として各自の魂の在り処を正確に知り、しかも憐みをもって、最も必要なときに正しい判断を伝え年長者としての務めをなすことができたなら、どんなに双方にとって楽しく、幸せなことであろうかと思う。いたらない者であることを詫びねばならない。

 それでも彼は招いてくださる。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 もう一度立ち上がる。木は実によって知られる。果実は結果であり、木はその原因、元である。日曜の話においては常に心魂(こころ)における信の根源性に注目してきた。あらゆる良き行い、果実の基礎に何らかの良きものに対する信が不可欠であることを毎回の聖書講義で確認してきた。種蒔きの譬えにおいて、イエスは茨や荒れ地に蒔かれた種との比較において、良き地に落ちた種は五十倍、百倍の実りをもたらすと語った。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」(Mac.4:20)。主観的にはどんなに自らの成育環境が殺伐とし、不毛に思えても、自らが良き土地、環境、バックグラウンド、背景のもとに蒔かれたことを信じることなしに、成長し豊かな人生をもたらすことはできない。

 神に愛されていると信じる者はナザレのイエスと同じホモサピエンスであるその力能に感謝しつつ、自らの力能を発揮させる。われらに与えられたすべての力能は愛に収斂する。われらは親を選べず、この人生を始める。愛するためにわれらは生まれてきた。愛に至る途上にあって、様々な苦難も人生の与件も自らには必要であったと信じることなしに、肯定的、創造的な生は生まれてこない。何かを要求するのではなく、自ら信じていることがら、信の内容が真実であることを証すなわち証明しようとする。そしてその証明の過程で果実を吟味して、そこに何か問題があれば、フィードバックによりその根である信の内容、理解に修正が加えられることになるであろう。木は実によって知られる。人生は木と実の間の往復、吟味により、よりよいものになっていく。

 このように語ってきた。神の愛を信じる者はイエスの軛につながれ歩む。彼の歩調にあわせて共に歩むこと。いつも彼の柔和と謙遜を確認しつつ歩むこと。そのとき良い果実が生み出されていくと信じる。その信に立ち帰ることが人生となる。

2心魂の実力としての態勢と恩恵―立派な業か信仰のみか―

 山上の説教においては、イエスはモーセ律法が与えられたことを誇る伝統的なユダヤ人の立場に身を置き、基本的に道徳的次元に留まっている。端的に木は実によって知られると言われる。他方、端的に「まず」と、良い木となることを求めるよう教え、道徳はその果実であると、不可逆的な、変えることのできない順序を確認している。「まず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)と信仰に招く、「信仰」という言葉は用いられないが。この順序を確認しつつ、イエスはユダヤ人の伝統的立場に身をおき、モーセ律法、道徳の極限を示しつつ、道徳の究極は愛によって満たされることを告げ知らせている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝にどんな報いがあろうか」(Mat.5:43-45)。

 厳しい戒めである。殺され、インフラが破壊され、電気も水もないウクライナ人にプーチンを愛せよと言われる。あまりに厳しい教えのように思われる。山上の説教は「これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」と結ばれていた。良い行いを結ばない者は火で焼かれてしまうと語られる。

 信仰こそが良い働きを生むことは「求めよ、そうすれば与えられる」(Mat.7:7)から導かれるはずである。神を求めること、神を信じたいと思うことと信じることは同時であるそのような心魂の根源的な行為であった。他方愛したいと思うことと実際愛すること、良い働きのあいだには様々な葛藤や障害が待ち受けており同時であることは難しい。この時間の流れの不可逆性のなかで、信じることから次第に愛がうまれてくる。先週ウルリヒ・ルツによる良い働きを生む者を「キリストは助ける」という解釈を吟味した。ルツが「「イエスは[神による]自分の派遣使命において律法と預言者[であること]を成就し、教会に義の道を歩む可能性を贈る方である」と語るとき、この可能性はわれらの信に基づく義と義の果実である愛に至る可能性のことであると理解した。ルツは「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである。キリストはそのようなものを、そしてそのような者のみを、助けるのである」と語るとき、この可能性を正しく理解していない。「可能性」とは神の前の可能性なのかが問われる。神の前では一切が明らかであるのではないのか。人間的な可能性と神の前の可能性の明確な判別が求められよう。聖霊が神の前とひとの前の相互を媒介する働きである限り、山上の説教においては確かに聖霊は直接語られないが、イエスご自身は実質的には聖霊の助けのもとに神の国を一挙手一投足において運び伝達していた。神の前では良い木と悪い木は、さには「義の道」を誰が歩むかは明確に知られていることであろう。ここでルツが言う「可能性」とはわれらの可能性、良い実を結ぶ善に至る力能のことでなければならない。イエスは山上の説教のみならず、あらゆる局面でひとの悔い改めの可能性、義に至る力能を認めている。これは疑いえない(e.g.Luk.13:3,Mac.6:12,John.8:11)。悔い改め幼子の信に立ち帰ることがまず求められている。ルツは信の可能性、力能と信から愛への不可逆性を捉え損ねた(U(ウルリヒ).ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。

 かくして、ひとの前のことがらとしては「自分たちの実によって測られる備えのないどんな心情倫理[心の内側の良心に陰りがないことが重要と考える立場]も、この山上の説教の結びの前ではぶち壊される」という強い主張はなされえないはずである。イエスは、ご自身の信の生涯において、心魂の根底における「心情倫理」の「備え」そのものが「可能性」そのものが恩恵により備えられてきたことを否定することはないであろう。彼は野の百合空の鳥を見るよう招く。「空の鳥をよく見よ、種も蒔かず、借り入れもせず、藏に収めもしない。だが、汝らの天の父は鳥を養ってくださる」(Mat.6:26)。まず神の愛を信じるよう、イエスは招きたまう。そのように、イエスはわれらが良い木であると信じるよう招きたまう。神の愛のなかで、信仰が成立するからである。信じるとは今・ここで神に愛されていることを信じることである。

3 ユリウス・シュニーヴィントによる「全体的人間」の解釈

 立派な行為ではなく所謂「信仰のみ」にすがるルター主義者たちにとっては、ルツのような主張はなされない。シュニーヴィントは言う、「19節[切り倒され火に投げ捨てられる]の威嚇は文字通り3:10の洗礼者の説教からでている。木が良くて、実も良いか、あるいは反対か[悪―悪]である。比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である。この認識は宗教改革において再びよみがえり、パウロにおいて(たとえばRom.6:21-22[どんな実を結んだか]、Gal.5:22-23[霊の実])同じ比喩の適用において与えられている。心と行為の連関はわれわれにとって山上の説教のあらゆる文言において、一番最後には6:21[汝の宝のあるところ、そこに汝の心がある]において、明瞭になっている。ただ新しい心が新しい行為を生むとこれまで言われていたのに対して今は逆に行為から心が推論されている」(J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。

 すなわちシュニーヴィントは「全体的人間」にまなざしを注ぎ、「新しい心」をもったひとをトータルに一なる者として考察しなければならないと主張する。歴史のなかにあり時間の過去から現在そして未来に流れていくその経過を考慮するとき、信なしには愛は生まれないが、木とその果実、信と愛を全体に言わば無時間的に、神の前のことがらとして考察するよう促す。全体的人間においては心が清ければそこから生まれる身体の行為も清く、身体の行為が清い場合にはその心も清い。山上の説教は統一された全体としての人間という視点から語られており、それを離れた場合には心情倫理と責任倫理[行為にあらわれる結果が重要という説]ないし、心と身体の振る舞いのあいだになんらかの籬(まがき)をもうけてしまうことになると主張する。この一なる全体性の故にこの説教においては善い行為の側から善い心が語られる。パウロの「聖霊の実」(Gal.5:22)がシュニーヴィントにより言及されているように、「新しい心が新しい行為を生む」この全体的な人間は聖霊により統一されていることを要求している。信仰という根源的な態勢からの聖霊の援けの中での身体との分裂なき行為の産出がめざされる。

 これはルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。

4 ルター的解決に対するエドワルド・シュワイツァーにおける道徳的次元に留まる解釈

 常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対するここでの一つの問いは「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものである。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。

 ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

 ルターにとって信仰は神の恩恵であり、信じることは聖霊の媒介により信じせしめられていることである。そこでは愛の業が生み出されると主張された。これは道理ある主張である。われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。

 E.シュワイツァーは山上の説教のルターの解釈をそのような道徳的次元に限定したうえで問う、「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」(E.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。この理解のもとではイエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。

5 カトリックとプロテスタントの和解

 その後の歴史において、カトリックが、ひとは責任ある行為主体であり、相対的自律性を持つものとして、神の前とひとの前を少なくとも理論上判別することを許容し、有徳な人間、聖人を語る余地を残している。このアリストテレス哲学に対応する人間中心的にひとの心魂の有徳性を語ることができるとするカトリックの立場に対し、プロテスタントは働きのうえで神の前とひとの前を分けずに常に聖霊の媒介を要求する。そのカトリック的理解はパウロが、神の前の出来事を自らの出来事とすることが困難な人間の「肉の弱さ」(Rom.6:19)への譲歩として、人間中心的に語ることを許容している以上、道理ある立場であるように思われる。他方、ルターが主張するように、われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことも信じる内容に含意される以上、神の前とひとの前を働き上分けない彼らの主張も道理ある。

 カトリックとプロテスタント双方ともそれぞれ道理があり、私はロゴスとエルゴン、理論と実践の相補的展開として常に今・ここの働き(エルゴン)において聖霊の働きを見るプロテスタントに対し、人間の心の態勢をそれ自身として語る有徳性の理論(ロゴス)を人間中心的に展開するカトリックの立場は補いあうものとして両立すると理解する。ひとの前と神の前を分けずに今・ここのエルゴンに留まるプロテスタントと肉の弱さへの譲歩から理論的に分節するロゴスを展開するカトリックは少なくとも矛盾することはない。

6山上の説教が語られたリアルタイムの状況

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 イエスは山上の説教を遂行し、われらはその途上の歴史にある彼からこの説教を受けている、その状況に身を置くことが求められている。確かに、その時点で純化された律法を守りえない者であっても、この厳しい道徳的内容を語る方自身についてくるよう招かれている。彼の言葉に偽りはなく「権威ある者」として彼はわれらに迫ってくることであろう。彼が旧約以来預言されていたメシア(救い主)であるか聴衆は決断を迫られている。イエスは言葉と行いをもってひとびとを救いだそうとされた。「行ってヨハネに伝えよ。盲目の者が見えるようになり、歩けない者が歩けるようになり、皮膚病の者が清められ、聞こえない者が聞けるようになり、死者は生き返り、貧しい者は福音を告げ知らされる。わたしに躓かない者は幸いである」(Mat.11:4-6)。

 そしてわれらも同じ状況にある。ひとは人類に、道徳上、この山上の説教以上の何を要求することがあるであろうか。そしてそれを語る方が不思議なる力をもち聖霊を注がれる救い主であられた場合に彼以外に誰を、また何を待ち望むであろうか。

7結論

 待降節(アドヴェント)を迎えている。キリストの誕生は神のわれらに対する愛に他ならない。感謝し賛美したい。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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