良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―

良い木は良い実をむすぶ 最終回―クリスマスに想う―

   2022年12月18日

 [本年最終です。今年度31回目になります。今週は先週の続きで「良い木は良い実を結ぶ」のその5最終回です。録音は結論までです。よいクリスマスと新年をお迎えください]。

聖書

 「狭い門から入りなさい、滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。

羊の衣のうちに汝らのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である。汝らは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアカンサス(ハアザミ)から葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての良い木が良い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。良い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は良い果実を生み出すことができない。良い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から汝らは彼ら自身を知ることになるであろう。

 「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入ることになるのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入ることになるであろう。かの日には多くの者たちがわたしに尋ねるであろう、「「主よ、主よ」われらは汝の御名によって預言を為し、また汝の御名によって悪霊を追い出し、そして汝の御名によって多くの力ある業を成し遂げたではありませんか」。そしてそのときわたしは彼らに応じるであろう、「わたしは汝らを一度も知ることはなかった。汝ら、不法を働く者たち、わたしから離れ去れ」。

 かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけたが、しかもかの家は倒れることはなかった。というのもその基礎が岩の上に築かれていたからである。これらのわが言葉を聞きそして行わない限りの者は皆、自分の家を砂地のうえに建てた愚かな者に似せられるであろう。かの家にむけて雨が降りそしてそれらが川となって押し寄せてきてそして風が吹きつけた、そうするとかの家は倒れたそしてその傾きは大きかった。

 イエスがこれらの言葉を終えられたとき、群衆は彼の教えにとても驚いてしまった。というのも、彼は権威ある者のように、彼らの律法学者たちのようにではなく、彼らに教えたからである」(Mat.7:13-29)。

1 クリスマス

 クリスマスです。感謝です。闇は光に打ち勝ちませんでした。救いの光が燦然と輝き、われら人類の歩むべき真っすぐな道を照らしています。この道を歩む限り天の父の子となることができる、その幼子の信が不思議な平安とともに沸き起こります。信じることができるだけで嬉しい、そのような思いに満たされます。わたしのなかに自らを救い出す力のないことを確かなこととして認めることができます。無力です。死に勝ち給うた主イエスのあの復活の永遠の生命のなかにわれらが憩うとき、彼の柔和と平安がわれらを包みます。「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことです。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わります。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができます(Gal.6:1,Mat.5:9)。彼は「われ既に世に勝てり」と言われた方です。

 不思議な平安、不思議な力これはすべてわれらの魂はこの人生で終わりではないという信から来ます。信仰が生活になっているひとには基本的にその平安のうちに日々を過ごします。たとい何が起きても、立ち帰る場所が、光の場所があります。

 山上の説教はこの世界に何ら頼るもののない最も低い人々に向けて語られています。「祝福されている、その霊によって貧しい者たち」(Mat.5:3)。実はひとはこの世のいかなるものによっても満たされないそのような霊の貧しさを抱えているのです。神に向けて造られているから、神を仰がざるをえないのです。そして御子の派遣とはこの死に打ち勝ったその力を人類に知らしめることでした。主イエスと共に生きる限り、死の恐れは取り除かれます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名(みな)にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。

 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適うひとにあれ」(Luk.2:14)。

 宇宙一切を統べ治めたまう神がひととなったこと、これがクリスマスの使信(メッセージ)です。80億の人類は大丈夫なのです。ひとりも取り残されないのです。11世紀の神学者アンセルムスは聖書を引用せずに、理性のみにて神は単に思考においてあるだけではなく、ものごとにおいてもあり、生きて働いていたまうことを証明しました。弟子のボゾは無神論の立場をひきうけ、アンセルムスに次から次に懐疑をぶつけます。すべて解決したときに、ボゾはこれらの長い対話の終り近くで、信じうることそれ自身が喜びであることを表白します。それは信が明確なロゴス(理ことわり)をもっていたことの認識からくる喜びです。「何もこれ以上理に適うものはなく(nihil rationabilius)、何もこれ以上甘美なるものもなく、何もこれ以上、世が聞くことのできる望ましいものはありません。私はこのことから、わが心がどれほど喜びにあふれているかを語ることができないほどの信を抱きます。といいますのは、神はこの御名のもとにご自身に向かういかなる人をも受け入れたまわないことはないと私には思われるからです」 (Cur Deus Homo 「何故神はひとととなったか」II19)。

 

 2 山上の説教の三種類の解釈

 山上の説教を中心に今年度30回学んできました。ほとんど休まずに参加してくれた君たちにお礼を言いたいとともにこの喜びをあらためて分かち合いたい。信じることができるというだけで嬉しいのです。福音は理にかなったものなのです。そして永遠の生命の力溢れるものなのです。

 山上の説教をめぐる幾つかの解釈をみてきました。道徳的な次元で自らの力で良い実を結ばないものは火で焼かれてしまう。立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解。ウルリヒ・ルツは神についてこう語っていた、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」(U(ウルリヒ)・ルツEKK新約聖書註解I/1p.594小川陽訳)。これを律法主義的解釈と呼ぶ。

 或いは、良き木と良き実を一なる全体として捉えることが正しいとする理解。ユリウス・シュニーヴィントは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言うJ. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』p.211量義治訳)。。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。

 或いは、やはり誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性への審判を通じて信仰に招くという理解。これをルター主義的であり律法の審判から福音に追いやる断絶的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と呼ぶ。エドワルド・シュワイツァーは道徳的次元に留まり、常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対してこう問う。「良い人間が必然的に、自動的に良い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも良い人間になることができないということを意味していないのだろうか」というものであるE.シュワイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』p.257佐竹明訳)。これは神頼みのであり、信仰も責任ある自由のもとでの決断ではなく、律法を守りえない者の苦肉の策という敗北主義的な理解に留まる。「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しかのこっていない、ということなのであろうか」とシュワイツァーは問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係、断絶が強調されるが、山上の説教を語られるイエスご自身は野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となることに業と信のあいだに分断を見出すことは出来ない。

 また聖霊論的解釈、断絶解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じる。ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(良い意志)を持っている限り、良い木なのである、というものであった。ルターは良い木を信仰であるとした」(ルツ p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その良い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として良い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに良い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになるであろう。

3山上の説教の文脈に留まる解釈の提案―三つの解釈に抗して―

 われらが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成してい給うことをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う(Rom.8:9への注解)。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成してい給うという信は正しい。シュニーヴィントは信じることは信じせしめられることだというルター主義的な信仰理解を展開しており、働き(エルゴン)上正しい。

 それに対して、山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元にとどまっていることが指摘されよう。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「まず神の国とその義を求めよ」や「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるように信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。このような聖霊の媒介を要求することはできないのではないかが問われよう。全体論や分断論のような過剰解釈を避けるとき、残されるのは律法主義的解釈かということになるが、それは信仰への招きがある限り、やはり木の良さの議論から展開されねばならない。

3:1カトリックとプロテスタントの和解

 これらの主張にどのように応答できるであろうか。まず、カトリックとプロテスタントの立場の和解について簡単に振り返り、そのうえで山上の説教そのものから応答を試みたい。パウロはカトリックもプロテスタント双方とも言わば半分づつ正しいことを「言葉と働きを通じて」(Rom.15:18)既に明らかにしていた。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)として、神の前とひとの前を理論(ロゴス)上分けて人間中心的に語ることを許容していた。そこでは人間の魂の態勢・実力として有徳性を語ることができる。立派な人間とそうでない人間のいることが当然のこととして認められる。ルター主義的には人間は「蛆虫の詰まった頭陀袋」であるからには、右手で為す善行を左手に知らせないとしたなら、それは神がキリストにあって為し給う奇跡ということになる。他方、働き(エルゴン)上、パウロは「愛を媒介にして働いている信仰が力強い」(Gal.5:6)と語るように、信の根源性故に信じることから愛が生まれるという一本道については明確な主張をなしていた。もちろんイエスご自身「まず神の国とご自身の義を求めよ」と信に招く。そして信仰内容として、今・ここでキリストの十字架にある神の憐み故に神に罪赦され、愛されていることをキリストにあって信じる。理論(ロゴス)と実践(エルゴン)、言葉と行いをこのように分け綜合する限りにおいてカトリックもプロテスタントも力点の相違はあれ正しかったのである。このような事情であるとき、山上の説教の律法主義的解釈は拒絶されねばならない。

3:2山上の説教が語られた文脈

 ナザレのイエスは言葉と行いにおいて山上の説教を成就すべく信の従順を十字架まで貫かれた。イエスご自身は旧約の伝統のなかに留まったが、新しい葡萄酒であったために、古い革袋を期せずして破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。イエスは自ら神の子であることの信のもとに山上の説教を身をもって成就した。新約においては仲保者、和解の執り成し手がいますがゆえに、旧約におけるように直接的な人間の側からの罪と償いの犠牲の交換の提供は、愛のもとでの仲保者を介した間接的な和解となる。しかもそれは神の右の座にいます仲保者故に永続的な和解であり、もはやいかなる犠牲や献げものの要はなくなった。

 イエスご自身はこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語られた。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない。そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。

 聖書は信(信仰)と義(正義・公正なさばき)と愛(憐み)を最も大切な魂の在り様として捉えている。イエスは旧約聖書に基づき父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。彼は言う、「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばき(正義)そして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。神ご自身が信であり、正義であり愛でありたまうことに基づき、これらの三つが神の意志として最も重要であると語られている。

 イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては直接まみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして義と愛の両立に向かった。「まず神の国とご自身の義とを求めよ」(Mat.6:33)。山上の説教の純化された道徳を遂行する手前で、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることが「まず」第一になすべきこととして語られている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。

 パウロも愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その義と愛、正義と憐みの両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が和解した。これが福音である。

 

4 究極の道徳と究極の救いの確かさ

 われらはここで生身のイエスは十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。彼は洗礼者ヨハネの預言のもとで自らメシアであるという自覚のなかで(旧約)聖書にもとづき神のみ旨をその一挙手一投足において実現しつつあるそののただなかで、この説教を遂行している。福音書記者マタイは、イエスの死後、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方であるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシアとして内側から破っているその現場を報告している。

 山上の説教は厳しい教えの連続であった。これまでわれらは、山上の説教がユダヤ人の通常の道徳や宗教観を前提にして、その土俵のなかで語られたことを、即ちイエスの議論が対人論法であることを前提に分析を試みてきた。イエスは自らがユダヤ人であることそしてその伝統を正面から誠実に引き受けた。彼はモーセ律法を良心に訴えつつ急進化しまた内面化していった。ユダヤ人は自分たちが神に律法を付与された選びの民であり、律法を遵守する限りにおいて義人であり、異邦人や罪人たちと異なるという理解をもっていた。さらにこの世界とは別に天国と地獄があるという二世界的理解を持っていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。重要なことは彼らの偽りが、道徳的次元だけに訴えることにより、誰にも同意されうる仕方で暴き出されたことである。

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り抜けていた。いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの教えは尋常ではなくこれらは神ご自身の認識としてあり、神に明らかなことがらとして「汝らの良心・共知(sun-eidēsis, con-science)にも明らかになっていることを望む」とパウロにより共知が目指されていることがらである(5:22,5:28,5:39, 2Cor.5:10-11)。

 良心は「共知」であるが、次第に共知の相手方は深まりうる。万引き家族の一員であるとき、窃盗は良心の呵責をもたらさない。家族とのあいだで共知があるからである。「天の父」との共知が成立するとき、われらはキリストの贖いにおいて良心の宥めをうる。神がゴルゴタの十字架においてわれらの古きひとの死を理解していたまうからである。共知はこのように展開していく。

 イエスはあの神の国の宣教のただなかでユダヤ人であることに内在し、その内側からその限界を突き破り、広やかな福音を展開するその歩みの途上でこの説教を行っている。「生命であり道」であり給うイエスご自身が山上の説教を言葉の力だけで遂行されたのであった。そしてその生涯はその言葉を生き抜いた、そのことが福音書において報告されている。その限りにおいて言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であったに相違ない。「権威ある」とは単に「彼らの律法学者のように」言葉だけ立派なことを語るという印象を与えず、行為を伴っているという印象を与えるものであったに相違ない。ただしイエスご自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら胸に手を当てて顧みるとき、山上の説教は、それは単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。ましてや語った方は自らの言葉を死に至るまで生き抜いた永遠の生命に満ち溢れた方であった。少なくとも人類には一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実に感謝し賛美する。

 これを山上の説教の「十字架の道の途上の解釈」と呼ぶ。これは何らか他の三つ、律法主義的解釈、聖霊論的解釈そして審判から福音への断絶的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。

7結論 

 クリスマス。神の愛のあらわれであり唯一の人類の希望の光であるキリストの誕生を感謝し賛美する。キリストがここでは言葉の力だけに訴えひとの本来のあるべき姿を明確に示し、そしてそれを実現させるべく自ら十字架の道を歩まれた。それ以上にひとは求めるものをこの世界にもたないであろう。

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