罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?

日曜聖書講義5月29日

罪の誘惑(4)「われ」とは誰か?

「ローマ書」七章

律法の新たな位置づけ (1-6節)

 それとも、兄弟たち、われは律法を知る者たちに語りかけているのであるが、汝らは知らぬか、律法がひとを支配するのは、そのひとが生きている限りの時であると。二なぜなら、既婚の婦人は生存している夫に律法により縛られているのだから。しかし、もし夫が死ねば、彼女は夫の律法から解放されている。三だからそれ故、夫が生きているあいだに、他の男のものになるなら「姦通者」と呼ばれるであろう。しかし、夫が死ねば彼女は律法から自由であり、彼女が他の男のものになっても姦通者ではない。四従って、わがきょうだいたち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。五われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。六しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている。

 

第一議論「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」

  七それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見出された。なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺きそして[戒め]そのものを介して殺したからである。かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である(Rom.7:7-12)。

 

第二議論「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」

 一三それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ罪が善きものを介してわれに死を成し遂げつつあることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである。なぜなら、かたや、われ律法は霊的なものであると知っているが、他方、われは肉的なものであり罪のもとに売り渡されているからである。というのも、われが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわれは認識していないからである。というのも、われの欲するところのもの[律法遵守]をわれ為さず、憎むところのもの[律法背反]をわれ作りだすからである。しかし、もしわれ欲せざるところのもの[死]を作りだすなら、律法にそれが善きものであると同意している。しかし、今やもはや、われがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、われ知るからである。というのも、善美を欲することはわれに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわれ作らずに、欲せざるところの悪をわれ為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわれ為すなら、もはやわれそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す。かくして、善美を作ることを欲するわれにおいて、悪がわれに備わるという律法をわれ見いだす。なぜなら、われ内なる人間に即しては神の律法を喜んでいるからである。しかし、わが肢体のうちに他の律法を見る、それはわが叡知の律法に対し戦いを挑んでおりそしてわが肢体のうちにあって罪の律法のうちにわれを捕らえている。惨めだ、われ、人間。誰がこの死の身体からわれを救い出すであろうか。しかし、われらの主イエス・キリストにより神に感謝[する]。それ故、かくして、われ自らかたや叡知によって神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている(7:13-25,(7:14はdeとの対比を明確にすべく、また主語「われ」の流れを切ることのないためにoidamen(われら知る)ではなくoida men(かたや、われは知る)と読む))。

 

1 七章の問題の所在

 パウロの信仰義認論つまり信の根源性に立ち帰るだけで罪赦され、信仰+行い(+アルファ)ではないというパウロの主張はユダヤ主義者、律法主義者、律法遵守者と当時論争を引き起こしこた。彼らはパウロの信仰義認論からの帰結として、どんなに不義であっても信じるだけで罪赦されるなら、われらの不義は神の義に貢献している、善をもたらすために悪を為そうと反論していた。「もしわれらの不義が神の義を確立するなら、われらは何と語ろうか。怒りをもたらす神は不義ではないのか。人間的にわれ言うのだが。六断じて然からず。なぜなら、その場合には、神はいかに世界を審判するのか。七しかし、もし神の真実がわが偽りにおいてご自身の栄光へと彌や優ったのなら、何故われなお罪人として裁かれるのか。八そしてわれらはこう中傷されているのではないのか、すなわち「善きことどもが来るために、われらは悪しきことどもをなそう」とわれらが語っていると或る者たちが主張しているように。審判がそのものたちにあることは正当なことである」(Rom.3:5-8)。

 このような律法違反への勧めに対し、パウロは律法の新たな役割を明らかにしなければならなかった。そのために「ローマ書」七章で律法は善なるものであること、そして善である律法が死をもたらしたわけではなく、罪が文字としての律法に寄生しひとを欺き生物的な死をもたらしたこと、さらに神に反抗させ魂の滅びを画策していることを明らかにしている。律法は罪の醜悪さを暴き出す役割を持つに至る。

 七章における罪の誘惑とその葛藤についてさらに詳細に取り組む。ひとは自らの生の第一段階としてつまり最初のひとアダムと同様に肉において魂体として生きる。「最初の人アダムは生きる魂となった」。魂という生命原理の基礎のうえに生存欲求の主体である肉と永遠なものを欲求する霊が身体を用いる。パウロは「われらは肉に対し肉に即して生きる義務ある者にあらず」(8:12)と肉の自己救済の不可能性を警告している。自然的には、免疫反応に見られるように、自己と非自己を識別しつつ、非自己である外界をたくみに自己に取り組みながら、また排除しながら、生物は生きている。人間は、自己の身体の限界が自己の限界であると時間と空間の制約を当然のこととして受け入れがちであるその事実、そしてそのもとに「生きる義務ある者」(8:12)と見做しがちであるその事実、それが「肉の弱さ」(6:19)である。肉は被造物であり生きる限りその場に駐在せざるをえない制約のもとにあるところのものである。

 七章は罪の誘惑のもとにある肉と叡知の葛藤の分析を介して、パウロの心身論を理解する好個の場所である。パウロはこの章で戒めや業の律法が差し向けられる者の反応はいかなるものであるべきかを明らかにしている。まず七章における「われ」との関連で「肉」を考察する。

 七章はユダヤ主義者との二つのディアトリベー(談論風発)を持つ。第一議論において、パウロは彼の信仰義認論への批判のひとつとして「律法は罪か」というユダヤ主義者の問いに、「律法と戒めの聖性と善性のアダム的文脈の想起による証明」(7-12)と呼ぶべき議論を展開する。続いて、彼は第二議論において「善なるものが死となったのか」という問いには、彼は罪の罪性を著しいものにする霊的な神の律法の提示を介して「肉と内なる人間の葛藤による二種の律法の判別証明」 (13-25)と呼ぶべき議論を展開する。第一議論では過去時制が、第二議論では現在時制が用いられており、異なる議論として扱わねばならない。第一議論においては霊に対する言及がなく創世記のアダムの記事に基づき、知恵の説得が行われる。そこでは蛇を想起させることにより罪の擬人化の正当化を遂行し、罪の働きとして、罪は戒めに機会を捕らえひとを欺き生物的な死に追いやる。「われ」はそこでは葛藤が描かれず罪に同意し「罪の賃金」(6:23)としての死を受け取る。第二議論では、「われ」は罪に同化しきることなく、霊的な律法に対する今・ここの知識を持ちつつ、神の律法と罪の律法のあいだで葛藤する。前者では罪の誘惑に負けてしまった「われ」が描かれるが、後者では罪のもとに売られ葛藤のうちにある「われ」が描かれる。

 パウロは福音の提示に続き、業の律法の新たな役割をこの章において明らかにする。パウロは言う、「キリストは信じるすべての者にとって義に至る律法のゴール(telos=目指すもの)である」(10:4,cf.「汝ら神に仕えており・・そのゴール(telos)は永遠の生命である」(6:22))。福音の提示により、律法はそこにおいて義が成立するキリストを目指すものとして、業の義から信の義にひとを追いやる新たな機能を明確な仕方で与えられたと言える。業の律法は神の意志である限りにおいて善であり、文字から霊に何らかの仕方で転化される限りにおいて、それは罪の苦悩をもたらし、福音に導く。「われ」とは意味論的分析によれば「汝貪るな」と命令形により語りかけられる者のことであり、背くこともできる責任ある自由のもとに生きる人間中心的な次元にいる自律的な一人の人間のことである。

 

2「われ」とは誰か

 パウロは短く、凝縮された「ローマ書」七章において、罪を暴きだしている。この章で登場する「われ」とは誰かが争われてきた。印象深く述べられる「われ」とは何者であろう。原人アダムのようにも、モーセ律法のもとにあるユダヤ人のようにも、また福音に与ったパウロのようにも見える。なお、福音の恩恵に与った人間がこのような苦悩の叫びを挙げることができるのか、回心以前のパウロの自己認識の述懐なのではないか等が問われてきた。研究史上、現在形において苦悩するこの「われ」が実際パウロを指示しているのかが問われてきた。

 Cranfieldは「われ」が指示する七つの可能性を提示して、パウロの(一)「自伝的なもの」であるないし(七)「キリスト者の経験一般」という立場に対する伝統的な困惑をこう説明する、「この困難さは、初期の時代からとても多くの人々に感じられてきたものであるが、キリスト者の人生についてのまったく暗い見解を含んでいる、とりわけ信徒の罪からの解放(6:6,14,17f,22,8:2)について言われていることと不整合であると思われてきた」[i]。しかし、Cranfieldはアウグスティヌスやトマス・アクィナスそして一六世紀の宗教改革者その他近年の註解者四人の名を挙げて、こう言う。「これらの解釈者たちがパウロの心を正しく理解してきたことをわれらは疑わない。というのも、(一)「自伝的」或いは(七)「キリスト者の経験一般」のいずれかの線にそってのみ、われらはテクストに対して正しく対処しうるからである。・・善を意志しそして悪を憎む「われego」において、nūs(叡知)(7:23,25)において、「内なる人間」(7:22)において、われらは、未だ回心していない人間の自己でも或いはその自己の或る部分をでもなく、神の霊によって新たにされうる人間的自己を確かに認めなければならない。実際、ここで記述されているほどの真剣な葛藤はただ神の霊が現在しかつ実働している場所においてのみ生じうるものである。・・一層キリスト者が神の律法について律法主義的な思考から解放されればされるほど、そして彼がそこへと召されている完全性の十全な輝きをより一層明晰に見れば見るほど、彼はより一層自らの継続的な罪深さ、彼の頑固な滲み通る自我意識・・について自覚的になるということは本当なことではないのか」[ii]

 心的状態としてCranfieldが敬虔に苦悩の深まりを語るそのようなことは真実でもあろうが、心理主義的な所謂寝技に持ち込む前に為し得る分析は存在する。福音の啓示に基づき律法の機能を新たに考察したパウロは第二議論で律法はもはや文字としてではなくキリストを目指すものとして霊的なものとなり罪を暴きたて、罪の罪性を著しいものとして知らしめるものだという理解に到達している。第二議論ではパウロの自覚としては「われ」が誰であれ現在形により臨場感を保ちつつ、どんな「われ」にも妥当する仕方で今・ここの働き(エルゴン)として叡知(ヌース)の発動のなかで葛藤している、その現場の提示により「霊と力能の論証」(1Cor.2:4)を遂行していることを示したい。

 この一連の二つの議論のなかで最低限確かなこととして語りうるのは律法が罪ではなく、死をもたらすものではないことを明らかにするために「われ」が登場することである。その目的が達し得るのであれば、パウロであっても、パウロでなくとも構わないと言うことができる。パウロはここで、誰を「われ」が指示するのであれ、最も基礎的に了解できることとして、「われ」とは彼の論敵たちが彼の信仰義認論の含意として律法が罪であり、善きものが死をもたらしたという反論を反駁する証明のなかで登場する人物のことである。戒めが「汝」と呼びかけたさいに、「われ」として応答する者のことである。ここではパウロの二つの論証の過程を誰にも理解しうるものとして共約的な次元で追跡する。そのため罪や霊が行為主体として言及される場合においても、相対的な自律した視点から譲歩された人間の視点で語りなおすことを厭わない。

3「われ」がもたらす臨場感―罪の奴隷から福音へ―

 「われ」は「汝」と呼びかけられた「われ」が一つの虚構空間を形成しており、パウロでも誰でもないあるいは誰であってもよい「われ」がここに展開されている。「われ」は複層的な視点を持ちその都度の現在において推論を展開している者として描かれていることは確実である。今・ここの思考の展開により罪の欺きと律法の善性に基づく葛藤としての働き(エルゴン)が戒めの差し向けられたすべての「われ」に適用されるべく現在形で劇的に描かれている。「われ」は善なる律法と罪の三つ巴の一つの極として提示されている。この戦いは一人の個人の今・ここの具体的な認識そして行為であり、そのエルゴン言語を展開しているが、フィクションとしてのわれであって、歴史のなかにある特定の個人の経過を時系列において記述しているわけではないと理解する。第二議論の現在時制は誰であれ戒めが差し向けられ応答している「われ」であり、善きものが死となったわけではないことを論証していると理解すべきである。

他方、これらの複合的な出来事の個々の描写はそれぞれ各個人のそれぞれの現在において実際に程度の差こそあれ妥当する時点が存在するとパウロは主張していると言うべきである。彼は今・ここの働き(エルゴン)言語を普遍化しうるものとして常に展開している。さもなければ、議論は迫真性をもたないであろう。罪が欺いてわれが死を成し遂げているということを自覚しないことはある。ひとが死を生物的な与件と受け止めることは共約的であるが、これは罪からの支払・報酬であることを知らないだけでもあろう。そして誰も死を欲していない以上、それをする者はもはやわれではなくわが肉に巣食っている罪が為していることに同意することもできよう。

 「内なる人間」と「肉的」これら双方から構成される者を「われ」は指示している。われは霊を受けているか、それとも良心の葛藤のうちにあるかであり、それ故に「肉に在る限り(inquantum carnalis)」(ルター)常に罪に欺かれているということは帰結しない。すべての者は罪を犯したので罪からの支払い、労賃として外なる人間は死を成し遂げている。それを生物の与件として受け止めているときは欺かれていようが、パウロのように「外なる人間」と「内なる人間」の双方の自覚のもとに受け止めている場合もあり、常に欺かれているわけではない。虚構のなかでの今・ここの働き(エルゴン)言語を、文脈を無視して一般化するとき聖霊の注ぎの神の自由を束縛することになる。「われ」は内なる人間に即して喜んで生きるという働きも十分に想定される。

 罪が肉を常に支配しているか否かはこの論証の中心点ではない。従って、回心後の葛藤であるかも中心点ではない。この論証の成否を握っているのはどれだけ読者が罪の巧妙さに気付き、肉にはどうしても手に負えない威力を持っていることに同意できるかが問われていることである。これが共約されそしてそれにもかかわらず福音が罪に勝利したことを確認できるとき、論証は説得的なものになる。

 「われ」は次の二つの記述(7:5,6と8:1,2)にはさまれている。パウロは「われらが肉にあった時(hote ēmen en tē sarki)、律法を通じての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えるべく、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された」(7:5,6)と述べ、福音の啓示により根源的な変革が起こり、肉、律法、罪、死そして霊を新たな枠のなかで理解すべきことを告げている。人間の側から語るとすれば、「今や、われらは・・」と語るパウロを含む「われら」は神の前とひとの前双方を生き抜いたキリストの媒介の働きの故に、神の前に霊の新しさにおいて義人として生きることができると主張している。これを一般的に言えば神とひとの肯定的な媒介であるが、聖霊の媒介のもとにある者はもはや単なる人間中心的次元にある者ではないため、「肉にあった」と過去形で語ることができる。ただし、これは(パウロの自覚として)聖霊の働きのもとにある今・ここのエルゴン言語であり、これを一般化することは聖霊の注ぎを私物化することである。

 この文に続き「それでは律法は罪か」の問いとともに、「われ」が主語として立てられ章の終わりまで続き、八章冒頭の「かくして、今や、肉に即してではなく霊に即してキリスト・イエスにおいて歩む者たちにはいかなる罪の定めもない。なぜなら、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したからである」(8:1-2)という記述によって神の律法による罪の律法に対する勝利が語られ、「われ」は終息、消滅している。

 霊に即しキリスト・イエスにおいて歩む者は聖霊の働きにおいてある。それを説明するものが生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放したことに求められている。これは神の働きである。八章冒頭で「汝を」とあるのはもはや「われ」の苦悩は終息し、キリストの福音の出来事が業の律法からの解放をもたらした以上、「われ」に対し客観的な視点から「汝」と呼びかけ、神が解放したことを報告できるからである。「われ」の役割は終わった。だが、律法のもとに生きようとする者がいる限りこの「われ」の葛藤は有効である。かくして、律法から解放された二つの叙述のあいだに「われ」は登場し、二つの反論、ディアトリベーを乗り越え、やはり確立された福音に連れ戻す役割を担っていると言うことができる。

 パウロがこの二つの論駁を通じて福音は罪に勝利したことを確認しているこの事実は、この箇所では福音以外にはこの罪の力能に打ち勝つものはないということを示すべく、いかに罪が巧妙でありひとを死にもたらすものであるかを説得的に示すことが一つの目標となる。パウロは自らの深刻な経験であったとしても何ら問題はないが、ここで罪の巧妙な力能がすべての人間に適用されるものであることを示している。「われ」はそのための登場人物であり、現在時制により具体的なエルゴンを表現することを通じて、回心前の者にも後の者にも信に関わらない者にも普遍的に妥当することが求められている


[i] Cranfield, Romans I,p.345.

[ii] Cranfield, op.cit.,p.346f.

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