契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—

春休み聖書講義  2023年2月26日

契約における信の力と規則—組織管理と仕えること—

「愛は不作法をせず、おのれの利を求めず、いらだたず、悪を数えない」(1Cor.13:5)。

 「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。学寮にもモーセの「業の律法」に比せられる寮則がある。寮則は神の啓示ではなく、生命に与りやすい「信仰的清純の環境」(学寮設立趣意書)を備えるための、人間の責任ある自由のもと改訂可能な生活の指針である。入寮のさい相互の信頼のもとに契約を交わし、約束に信実であり正しい人であると信じ共同生活を遂行する。その信に基づく正しさが証明されるのは愛の果実を生むか否かであると受け止め、相互に愛するよう努める。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場で出来事となる我と汝の等しさである。友と友、寮生と寮長、妻と夫等この等しさのもとにある愛の感情実質は端的な喜びである。そこでは共同生活は楽しく豊かなものとなる。管理者の喜ばしい職務は、寮生各位に神の愛を注がれているという信を常に刷新しつつ、各位の健康を守り、学業を支援し立派に社会に送りだすことである。これが信→義→愛(「義の果実」)の一本道であり、学寮はその実験の場であり、この一本道を歩んできた先達たちの細い真っすぐな光の道を仰ぎ見る度に励まされる。

 寮則は経験に裏付けられた愛の具体化の目安、参考にすぎず、クラーク先生は札幌農学校一期生に「紳士たれBe gentleman!」とだけ語った。愛と信頼に生きる者は感謝と賛美のうちに、旧約の数百ある律法は信の律法のもとでの愛に変換され、業の律法を言挙げせずにすべての律法を満たす。「愛を媒介にして働いている信が力強く」、「愛は律法を充足する」(Gal.5:6,Rom.13:10)。寮則例えば「23時以降自由に食べてよい」は「食べた奴シバク」から「信の律法」のもとで「お腹をすかした人に食べてもらえて嬉しい」に変換される。

 学寮に赴任したさいに「寮生活が不適の場合には退寮することに同意します」という「誓約書」を見て、驚いた。擬人化される罪は「神はそう言ったのか」とエヴァを誘惑する蛇のように、文字としての律法を殊の外好み寄生し、神と人との関係を破壊すべく誘惑する。もちろん罪は生きた「聖」(7:14)なる神の意志に歯向かえないが、「モーセは死に仕える務め」を引き受け、石板に自ら刻み直したその十戒には寄生できる。パウロは言う、「文字は殺し、霊は生かす。もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:6-8)。モーセの顔の輝きは束の間であり、輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。かくして、「誓約書」について「この伝家の宝刀をゆめゆめ(努々)抜いてはならぬ」という自戒は新たにひとを縛る文字となり、さらに、罪に負かされてしまうであろう。

 律法主義とは「~為すべし」の命令法が先行し、直接法「君は義である」が後行する。福音は直接法「君は義であり救われた」が先行し、命令法「それにふさわしい実を結べ」が後行する。パウロは言う、「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。

 イエスが福音を実現しつつあるとき、「律法の一点一画とも廃棄されない」という山上での純化された語りははモーセ律法の新たな機能が罪を知らしめ福音に導くことにあることを知らしめている(Mat.5:18,Rom.7)。「先ず神の国とご自身の義を求めよ」(Mat.6:33)。福音は信に基づく義として歴史に打ち立てられた。悔い改めとは山上の説教を満たしえない自己に苦しみ信の律法のもとに移行することである。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。自らの正義を主張する者は自らの生活様式を維持したまま、自らの義の規準のもとに他者を審判するが、神の意志に即す悔い改めとは高ぶる自らが御子とともに磔られたと信じ、そこから解放され「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに彼と共に生きる者となることである。

 神は公平であり、「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)。神は、一方、古い旧約律法のもとに生きる者には業の律法を適用する。そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされる」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と報告される時、ヤコブは信の律法のもとに生き、エサウは業の律法のもとに生きたことが想定されている、ただエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない(9:13)。「滅びにふさわしい怒りの器を大いなる寛容のうちに忍耐したのなら・・」どうか(9:22)。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。

 神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は目が曇らされ神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。

 信の律法のもとに生き「神の善性」に留まろうとする者への審判規準は「イエスの信に基づく者を義とする」神に対する幼子の信を抱くか否かである(11:22,3:26)。イエスはユダヤ教の伝統のただなかに「新しい契約」である福音を実現すべく信の従順を貫いた。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。

 業の律法の適用のもとでは姦淫者ダビデは救われない。パウロはダビデの詩を引き信じる者の義を語る。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに審判することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 寮則では朝礼拝出席しない者には朝食は「保障されない」。誰かがそのような「罰」を受ける筋合いはなく朝食分の金銭的保障を求めたとしよう。ここでも経営と創設の精神の実現という基本的なディレンマが顔をだす。まず管理者には寮生の健康を守ろうとする親の愛があるかを自ら吟味する。同時に健康のために生活を改め規則正しく7時に起き、共に讃美歌により心を清めて始めようと励ます。寮の支援者のおかげで市況より安く生活できている事実さらに調理職員は朝食三時間勤務の契約でありその後は住み込み職員の奉仕であることを伝える。それでもパンフに「二食付き」とあると抗弁されたなら、聖書には神は公平であり、「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)という諺を伝える。神が僻む者に僻む者として振る舞うとあるのは自らの魂の歪曲を神に投影しているからであり、悔い改めない限り憐み深い神に出合うことはない。僻む者は自らの欲望や思いを世界と神に投影し、その枠のなかでしか世界や神を思い描くことができない。 朝を皆で七時に食べ心を清めて一日を始めようという励ましを、脅しや罰という拗けた思考しかできず信頼のないところでは、業の律法に訴え寮則違反を指摘する。それはちょうど法治国家が「徒然に剣を帯びているわけではなく」、相対的自律のもと法による強制力を持つのと類比的である(Rom.13)。

 「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」(Mat.22:21)。もちろん一切は神のものであるが、人間には委ねられているものがあり、また「肉の弱さ」「頑固さ」の故に法や政治そして経済制度等「人間中心的」にものごとに取り組むことが許容されている(19:8,Rom.6:19)。神の前にあることと法治国家のもと相対的自律性のもとにあることの関係は常に吟味される。パウロは命じる、「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て。自ら識別することがらにおいて、自らを審判しない者は祝福されている」(14:22)。神の意志の啓示すなわち神がキリストにおいて為したことがらを常に自らのこととして責任ある自由のもとに受け止める。「信に基づかないすべてのものごとは罪である」(14:23)ことを思い起こし、自らの責任ある自由において遂行することがらが、信仰に基づくものであり審判でないかを吟味する。管理者は啓示された二つの神の意志の類比のもと相対的に自律した自らの責任において寮則を適用するが、主の如く赦しきれなかった自らの胸を打つこともあろう。

 パウロは信じることの喜びをうたう。「希望の神が、汝ら聖霊に満ち溢れるべく、信じることにおける喜びと平和で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(8:2)。この生命のなかで、規則は愛の目安、参考となるが、これらの規則は社会環境等により改変されることもあろう。寮則はモーセ律法のように神に啓示されたものではなく、生命に与りやすい環境を整えるための、人間中心的な生活の指針であり改訂可能である。しかし、人類には愛されたことの信に基づく義とその果実としての愛の一本道が照らし続けられている。十字架上で既に愛されていることを信じて、その都度業の律法に死に悔い改め信の律法に生きよう。それ以外に否定的なもの、破壊的なものを歴史から排除する道はないのである。

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