平和への道(4)―一本の真っ直ぐな道―

日曜聖書講義2月5日(本年度最終講義)

 平和への道(4)—一本の真っ直ぐな道―

 

 聖書「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、生命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(マタイ7:13-14)。

 

はじめに

 本年度最終講義です。35回目です。今回で学寮を巣立つひとびとには別れの集まりということになります。無教会の伝統に即して「聖書講義」という名前ですが、これは毎朝食事をとるように、心の栄養を取る営みなのです。レシピのように情報としての知識の提供がおこなわれつつ、神様と出会い魂が刷新されるそのような場となることを願って毎週続けてきました。語る者拙く、35回提供された聖書の話をおいしくない、食べたくないと思う事が多かったことでしょう。ご自分の生活と関連性を見出せないと思うこともあったことでしょう。それでも最後まで出席し、共に食事に与ってくれた皆さんにはありがとうを、言いたい。よかったです。これが今後の人生にとって、少しでも栄養になればと願っています。語る者の第一の務めは毎週福音に立ち帰り魂が刷新され喜びをもってここに立つことです。このつとめに従事できたことは感謝です。魂の刷新なしには日曜のこの話はできないのです。

 

2悔い改め

 魂の刷新とは「悔い改め」と呼ばれる。その果実はイエスの「謙遜と柔和」をいただくことである。イエスは彷徨うひとびとを招く、「疲れたる者、重荷を負う者、わたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わが軛を担ぎあげそしてわたし[の歩調]から学びなさい、わたしが柔和で謙(へりくだ)っていることを。汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。わが軛は良くわが荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼の良き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙りが伝わる。栄光を捨ててのご自身の自己卑下が弱小者への祝福を裏付ける。彼から当方の誇りが取り除かれ「柔和の霊」を頂くことにより、ひとは謙遜を学び自らより弱小者への憐みを頂き、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者になることができるであろう(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 食事の前に手を洗うように、霊の糧をいただくには悔い改めが必要とされる。眼差しをこの世のこと、おのれのことから、天に向け直すことが求められる。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」(Rom.2:3-6)。

 悔い改めとは業の律法から信の律法に立ち帰ること、そしてそこで罪赦されたことを確認し、その証拠は隣人を愛しうることであるその信から義から愛への一本道を歩みうることである。業の律法から解放されることにより、600数十ある旧約律法は信の律法のもとにある愛に変換されている。ただ信による愛の実現に向かう一本道をキリストは指し示している。パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。

 

3 モーセは顔にヴェールをかけたがわれらはキリストを着る

 モーセは神の山で業の律法を与えられた。彼が十戒をさずかり麓におりてきたとき、彼の顔は輝いていたが、その輝きが消えるのを恐れて顔を隠したことが「出エジプト記」(34:33)において報告されている。パウロはその輝きの消えていくのを恐れてヴェールをかけたモーセを見逃さなかった。文字として律法を受けとめる限り、それは罪の寄生の巣となる。だからこそ、神の義は「律法を離れて」(Rom.3:21)福音において新たに啓示されたのである。パウロは福音により霊に仕える務めを死に仕える務めである業の律法と対比して言う。「もし石の文字のうえに形成される死に仕える務めが栄光のうちに生じており、用いられなくなる彼の栄光の故にさえイスラエルの子らがモーセの顔を直視できないほどであるなら、どうして霊に仕える務めがいっそう栄光のうちにないことになるであろうか」(2Cor.3:7-8)。神の山で十戒を与えられたモーセの顔の輝きはつかのまであり、彼は輝きの喪失を恐れ「自分の顔に覆いをかけた」(2Cor.3:13)。モーセは死に仕える務めを引き受けたのである。より少なく根源的な神の意志である律法は、かくして、悔い改めを介してキリストに導くものとして新たに位置づけられる。「神に即した苦悩は後悔なき救いに至る悔い改めを働く」(2Cor.7:10)。

 業の律法の適用のもとでは「律法を行う者たちが義とされるであろう」(Rom.2:13)。それ故にダビデのような姦淫者は救われない。パウロはダビデの詩を引用しつつ信の律法のもとにある者をこう特徴づける。「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと看做される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される。ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(4:4-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。

 パウロは命じる、「汝らは主イエス・キリストを着よ、そして欲望どもへの肉の計らいを為すな」(13:14)。「着る」とは神の前に立つとき、われらがわれらをわれら自身において考慮することなしに、彼の義を着ている限り、つまりその信が嘉みされている限り、たとえ自らの内面が清められていなくとも、自らの業(わざ)の実力にかかわらず、神は罪と死に勝利したキリストの信義に基づく愛においてわれらを見たまうということである。詩篇詩人は言う、「不法を赦され罪覆われし者は祝福されている」(Ps.32:1)。われらはキリストのヴェールを着せてもらうとき、神はわれらのこの醜悪な罪の現実を直視することなく、罪覆われた者として見給う。キリストがわれらの楯であり砦であり、衣服である。

 

4「わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して、[業の]律法に死んだ」

 パウロは「ガラテア書」において言う。「われらは自然本性においてユダヤ人であり、[業の律法を何らかの仕方で遵守しており]異邦人に基づく罪人ではない。しかし、ひとはイエス・キリストの信を媒介にしてでなければ、業の律法に基づいては義とされないことをわれらは知っているので、われらもまたキリスト・イエスを信じた、それはわれらがキリストの信に基づきそして業の律法に基づかず義とされるためである。というのも、すべての肉は業の律法に基づいては義と看做されないであろうからである。しかし、もしわれらがキリストにおいて義とされることを求めつつ、われら自身もまた[業の律法に基づく者と同様に]罪人であると見出されたなら、それではキリストは罪に仕える者なのか。断じて然らず。というのも、もしわたしが廃棄したものども、それらをわたしが再び建てるなら、わたしは自らが違反者であることを証明するからである。というのも、わたしは神によって生きるために、[信の]律法を介して[業の]律法に死んだからである。わたしはキリストと共に十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている。しかし、わたしは、今わたしが肉において生きているところのものを、わたしを愛しわがためにご自身を引き渡した神の子の信によって、信において生きている。わたしは神の恩恵を無駄にしない。というのも、もし義が[業の]律法を介するものであるなら、キリストは空しく死んだことになるからである」(Gal.2:15-21)。

 この「ガラテア書」においてパウロは直截である。もはや自分は生きていないと言う。キリストを着ることによって、彼がわたしのなかで生きていたまう。キリストが共に生きているとき、われらはただ信から義そして義から愛への一本道を歩む。数百あるモーセ律法は「信の律法」(Rom.3:27)すなわち「キリストの律法」(Gal.6:2)のもとに愛に変換されている。われらはわれら自身の力では愛を充たすことができない。ただ、悔い改めにより信に立ち帰る。モーセ律法に対しては死んでしまったのである。この再生が悔い改めである。そこにキリストの現在(presence)と呼ばれる聖霊が宿っていたまうことであろう。パウロが「ローマ書」で信仰義認の理論を展開するが、その理論を読む者を聖霊がそこにおいて執り成していると理解することを妨げるものは何もない。パウロが「キリストがわたしを介して[神の知恵の]言葉・ロゴスによってそして[聖霊の]働き・エルゴンによって成し遂げたこととは何か別のことを語ることはないであろう」と報告するとき、彼は自覚として今・ここで働く聖霊の執り成しのなかで信仰義認論を展開している(Rom.15:18)。

 

5「すべて木に架けられた者は呪われている」―文字に寄生する罪による「律法の呪い」―

 「ガラテア書」においてパウロは業の律法のもとにいる者の「呪い」をこう語る。「誰であれ業の律法に基づく者たちは呪いのもとにある。というのも、こう書いてある、「律法の書にそれらを為すべく書かれているあらゆるもの[戒め]に留まらない者はすべて呪われる」。しかし、律法のうちにある誰も神の前に義とされないことは明らかである。というのも、信に基づく義人が生きるであろうからである。しかし、律法は信に基づいておらず、「それらを為す者が律法において生きるであろう」。キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって、というのもこう書いてある、「すべて木に架けられた者は呪われている」」(Gal.3:10-13)。

 ここでの問いは誰に或いは何にキリストが呪われたのかというものである。「律法の呪い」の「の」は文字の律法に囚われることによる呪いという理解に導く。「われら」は、罪が寄生する文字としての律法に囚われ欺かれ、キリストを磔た。そこから「われら」はキリストが代わりに呪われることにより「贖い」だされている。律法は神の意志としては「聖」であり「霊的」である(Rom.7:12,14)。しかし、モーセは神の指で書かれた十戒の石板を怒って割ったために、主の契約を新たに自ら書き直している(Exod.34:28)。「文字は殺す」(2Cor.3:6)。なぜなら、罪は霊的な効力のない文字としての律法には寄生しひとを神に背くよう唆すからである。ひとは自らの肉を「貪る」(Rom.7:7)とき、罪により文字としての律法が利用され誘われわれらを神に背かせる。

 キリストが「われらの代わりに呪いとなることによって」により、罪の寄生のもとにある神に背いた人間に呪われたと理解すべきである。罪のないキリストが生ける神に呪われることはやはり想定できない。そこでは神が不義となる。罪に誘われた人間たちの罪をキリストが受苦するという意味において呪われ、彼はその木に架けられるという「呪い」を通じて彼らの呪いからの贖いを遂行した、自ら信の従順を貫くことにより呪いに打ち勝ったという仕方で。神はそこで御子がわれらの肉に寄生する罪に呪われ死に至ることを認可している。その身代わりの愛故に神が予めご自身の子と定めた者たちに無償の「贈りもの」を与えることができる(Rom. 3:24)。

 

結論 業の律法の新しい機能と永遠の生命

 福音が啓示されることにより、パウロは「ローマ書」七章で業の律法に新たな機能を見出している。彼はそこで肉と「内なる人間」(7;24)と罪の三つ巴を描くが、誰であれ「汝貪るな」(7:7)と二人称で命じられている者が仮想的な一人称「われ・わたし」として誰にも当てはまる仕方で主語に立て、自らに巣食う罪の罪性の著しさを知ることによって葛藤し、その葛藤を通じて悔い改めに至る過程を論じている。悔い改めとはモーセ律法からキリストの律法のもとに方向を転換することである。

 新しい葡萄酒は新しい革袋に入れられねばならない。「ガラテア書」において「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした、われらの代わりに呪いとなることによって」と語られ、この「律法の呪い」は人類が文字としての律法に留まる限り、神によるものではなく、罪に寄生されている文字としての律法の呪いとなったと理解すべきである。かくして、人間的には罪に呪われたら死ぬしかないであろうが、イエスは神の前では清い無罪のままであり続けたため、殺されたのち永遠の生命のみなもととなったのである。彼は罪に誘われた人間からの呪いを受けたが、それに抗してナザレのイエスは十字架上で嘉みされている。神はそこに現臨していたまうた。

 神は十字架上のイエスを見捨ててはおらず、共にいました。イエスは罪なき者、信に基づく義でありつつ、人類の罪を担ったが故に、神は十字架上のイエスの肉において、むしろ、罪を審判したのである。「ひとが肉を介してそこにおいて弱くなっていたところの律法の[遵守し]能わぬことを、神はご自身の子を肉の罪の似様性において遣わすことによって、そして罪に関して、その[イエスの]肉において罪を審判した」(Rom.8:3)。 神はひとびとの背きを「彼ら自身において考慮することなしに」、罪をそれ自身としてキリストにおいて罰した(2Cor.5:19)。罪と「罪の給金」である「死」に対し甦りの主は勝利したのであった(Rom.6:23)。

 

 卒寮生の皆さんは社会にすだっていきます。何か学寮のことを思い出すことがあったなら、そのときこの「福音」のことも思い出してください。今はわからなくとも、いつか必ず力になることでしょう。人生は探求です。喜ばしい探求です。前途の祝福を祈ります。

 

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