荒野の誘惑

2022年5月1日 日曜聖書講義

 

荒野の誘惑 マタイ福音書4章1-11節

 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。

そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。

すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて

言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。

イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 

 1歴史の展開への眼差し

 先週は旧約最後の預言者ヨハネについて学んだ。水で悔い改めの洗礼を授けるヨハネはイエスを聖霊と火で洗礼を授ける方、旧約で伝えられている救世主であると告げ知らしめた。彼はイエスの先触れ、所謂露払いの役目を引き受けた。このヨハネなしにはイエスは旧約の長い歴史のなかでの預言の成就として正しく位置付けられることはなかったかもしれない。少なくとも、イエスは突然自ら神の子であることを叫ぶ者として浮いた存在、孤独な存在となったことであろう。歴史とは、連続的な展開であり、一つの事象には先行する事象があり、そのつど時の徴を見きわめることが求められる。

 イエスの出現を預言した預言者ヨハネは歴史の展開、帰趨をよく見ることができたひとであった。もう自分の時代は去り行くことを認識しつつ、前触れとして良き音信(おとずれ)を告げることができることにヨハネは喜んだに違いない。旧約から新約への引継ぎの象徴的な出来事として、悔い改めを必要としないイエスがヨハネから水の洗礼を受けた。水による洗礼の授けというこの二人の接触は聖霊による洗礼の授けの新しい時代の幕開けを告げるものであり、バトンの引き渡しとして歴史に深く刻まれる大事件であった。そのとき、神からの祝福が鳩のようにくだった。「わが愛する子、わたしの心に適った」という天から声が響いた。イエスの公生涯、伝道の出発として相応しい事件であった。あの出来事に匹敵する出来事は人類の歴史においては主イエスの再臨である。そのとき、この古い地と古い天は巻き去られ、新しい天と新しい地である神の国が成就することであろう。これら二つの大事件のあいだすなわち中間時においてわれわれの歴史は進んでいる。

 人類は滅びに向かっていることをひとは感じているであろう。良き歴史は細い真っすぐな光の道の歴史であり、われらがその歴史につらなるかが問われている。今回のロシアによる侵略についても、現代生きる者はそこに顕わにされているまた隠されている歴史のメッセージを連続性のなかで捉えることが求められる。個々人は自らと人類の神に対する罪を悔い改めることが求められている。しかもこの悔い改めはヨハネ的な悔い改めとして旧約のなかでの良き実を結ぶ良き木となることではない。新しい悔い改めはヨハネが唱えたモーセの業の律法からイエスが信の従順を貫いてうちたてた信の律法に心の根底で移行することである。神が歴史のなかに御子を送られたそれほどまでにこの世界を愛したことを信じるかが問われている。この神の愛への信のもとにその応答として神への愛と隣人への愛の道を歩む。「神は、その独(ひと)り子をお与えになったほどに、世界を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである。神が御子を世界に遣わされたのは、世界を裁くためではなく、御子によって世界が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)。イエスはまことのひととして歴史のただなかで、信の従順を貫いた。その信のもとでの宣教と受難の歴史を福音書は伝えている。

 

2悪魔の誘惑

 今日はこの新しい時代の幕開けの儀式に続いておこった悪魔による誘惑、試練の箇所である。三つの誘惑が記されている。パン問題、すなわち生活上の誘惑、それから神を試す不信仰の問題、すなわち神の援けを疑い、目に見える形で援けを求める誘惑、第三は悪魔と手を結び、手下となり、この世界を支配する問題、すなわち神を裏切るよう誘惑がささやかれている。悪魔はその光の道からイエスをそらせようとした。イエスはそれに対しすべて旧約聖書の引用により誘惑に打ち勝っている。

 翻ると毎日のように誘惑を受けている。あらゆる誘惑はひとと神の関係を破壊し、ひととひとの関係を破壊するそのようなサタンの企みである。福音に立ち帰りそのつど隣人となることにより乗り越えたい。

 イエスはわれらと同じひとであったから40日40夜断食をして空腹を覚えられた。ルカの並行箇所では、こう言われている。「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(ルカ4:1-2)。生理的には10日間飲み食いしないと目が見えなくなると言われる。知り合いの僧でアウシュビッツで10日ほど断食し祈っていると、ドイツ人の女性が泣きながら暖かいミルクを差し出したという、それを飲むことにより失明を免れたと言う。ギリギリの状況であったようだ。イエスは一か月以上荒野を彷徨ったこと、そして食べるものもなく40日間過ごしたことが報告されている。彼には通過すべき試練が神の認可のもとに悪魔の誘惑として与えられた。

 

3 生活の誘惑

 最初の誘惑は、この石をパンに変えてみよというものであった。このパンの誘惑は生活一般の誘惑である。衣食住、すべてに欲望を満たすよう誘惑されている。身体をもたなければ、どんなにいいだろうと思うこともあるが、人間はこの制約のなかで、或いはこの祝福のなかで生きている。自然の産物は味覚、嗅覚、聴覚、視覚そして触覚に訴える。神はこのような感覚を備えた人間を創造した以上、その喜びを享受することは許されているはずである。このような感覚をもつことによる人生は祝福されている。

 イエスも洗礼者ヨハネのようにことさら禁欲的ではなかったことが報告されている。旧約の律法主義から自由であったのであろう。イエスはヨハネとの対比において自ら受けた中傷をこう語っている。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子[イエスのこと]が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される」(Mat.11:18-19)。神の知恵の正しさは自分の一挙手一投足において証されるという信のもとに彼は父なる神を信頼して虐げられたひとびとと共に生きた。

 山上の説教で、奢侈や貪欲は当然戒められるが、神との正しい関係を打ち立てることが最も喫緊のことであるとされる。野の百合空の鳥を見るようにと自然物が神に養われていることに眼差しを注ぎつつ、自分たちが「天の父の子」であると信じるよう信仰に招く。その信仰により神と正しい関係が成り立つとき、「神はこれらのもの[衣食住]がみなあなたがたに必要なことをご存じ」(Mat.6:32)であるから、野の百合空の鳥のように必要なものは備えられるとしている。イエスはパン問題、生活問題に対して聖書を引用して応える。「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」(申命記8:3)。そのつど、聖書に神の言葉を聞きながら、聖書を生活の基礎に据えることの大切さが説かれる。イエスでさえ、書かれた文字としての聖書の言葉の力により誘惑を退けていたのであるなら、肉の弱さをかかえるわれらはなおさら、聖書に神の言葉を聞くことによって乗り越えることができるであろう。

 身体的な衰弱や変調が一つの誘惑のきっかけになることは誰もが経験することである。欲求は欠乏の徴であり、それを満たすものを求める。これを欠乏充足モデルと言う。自らの欠乏を世界に投影し、世界からその欠乏を満たすものを取り入れようとする。欲望の強い人間は欠乏も大きく、権力をもてばもつほど欲望を満たす力も備わることになる。独裁者たちは大きな誘惑にさらされることになる。しかし、ひとは欠乏充足モデルにはまりこんでしまうと、たとえ欲求や欲望を身体にわずかにしか感じることがなくとも、或いは全く感じることがなくとも、習慣化、常態化された行為が遂行されてしまう。わたしなども、手許に食べるものがあるとつい手をだしてしまう。飽食の時代、空腹感がなくとも食べ物に手がでてしまう。これを「魂が肉になる」と言う。欠乏充足モデルのループのなかに自らが捉われていることを示している。そこから逃れるには、他のものにより満たされることが起こることを経験することである。実際、他のことに夢中になっているとき、空腹を忘れることがある。

  ひとは何らかの固定観念のもとに支配されてしまうことがある。ドンファンはおのれの欲望を満たすには世界は一つではたらない、二つなければならないと言ったと伝えられる。生きることは欲望を満たすことであるという基本的な人生観のもとに、欲望をフルに開放する。そこでは生の質ではなく、土地の広さであれ、従属させる人間の数であれ、量がものを言う。大きいことはいいことだ、大量生産、大量消費されること、これが豊かな社会の徴でありよいことだという考えにとらわれてしまうことがある。がさつとなった魂がこの世界の繊細さや美しさを堪能することができずに、自らの欠乏を世界に投影し、一色にする。シモーヌヴェーユ(第二次世界大戦下の哲学者)は言う、「悪の単調さ、そこには新鮮さが何もない。そこではすべてが同じものだ。そこでは実在するものがない、すべてが空想の産物なのだ。質ではなく量が大きな役割をはたすのはこの単調さのせいである。多くの女をものにするドンファンのように、多くの男をものにするセリメーヌのように、われわれは偽りの永遠を求めるよう強いられている。それが地獄だ」。自ら、世界に対し正面から向き合い、自分を勘定にいれずに、「よく見聞きし分かりそして忘れず」と世界に開かれるとき、新しいものにであう。それ以外は自らの欲望のもとに捉われ、支配され、空想により世界を一色で塗りたくり、何ら新しいものには出会わない。その証拠にそこでは質ではなく量がものを言う。

 

4 身体の欲求と神の言葉

 ひとは当たり前のことであるが、身体を抱えてこの人生を遂行しなければならない。人格的な有徳性は身体に自然にわいてくるパトス・受動、受苦、感受態、に対して良い態勢にあることだとされる。ひとがどのような対応を取るかによりそのひとの魂の実力が分かると言われる。恐れると青ざめるが、勇気はその恐れに対して良い態勢にある心の状態のことである。正義は怒りに対して、節制は快楽に対して、良い態勢にあると言われる。愛は喜びに対して良い態勢にあることだとされる。有徳な人々はパトスに翻弄されることはない。

 ひとは身体を正しくコントロールすることが求められている。憐み深いひとは、人間の本来性とのコントラストにある人々に対して可哀そうだ、というパトスが湧いてくる。ひととしての立派さの指標はどのようなパトスを得るかに見いだされる。競争心に心が支配されているひとは、ひとの悲惨な状況に憐みをいだくことはなく、そのひとが競争から脱落したと看做すであろう。有徳なひとは適切な量のパトスのもと、正しい行為を選択できる人々である。イエスは節制あるひとであり、サタンが空腹につけこんで誘惑してきたことに対して神の言葉により打ち勝った。神の言葉はわれらの心を刷新する力を持つ。欠乏―充足モデルのループに捉われると、そこから抜け出すことはむずかしい。習慣としておなかがすくと、食べ物に手がでてしまう。ダイエットしているひとは、誘惑を感じたら、「ひとはパンのみにて生きるにあらず、神の言葉により生きる」と言いつつ、聖書を開いてみよう。ひとは生存のために食べることは不可欠であり、毎日生物の循環構造の与件のなかで生きている。生活の基本を受入れつつ、喜ばしい新しいものとの出会いが必要である。ひとは生きるために食べるのであり、食べるために生きるからではないからである。

 

5 神を試す誘惑:疑いから信仰へ

 第二の誘惑は神を試すことの誘惑である。ひとは徴を求める。神を疑っているからこそ、ひとはこの歴史のなかに様々な神の働きの痕跡を求める。聖書時代には多くの奇蹟がおこなわれたのに、現在五千人のパンのような奇跡、病人の癒しの奇蹟は見られないではないか。神がいるならその証拠を示せとひとは迫ってくる。しかし、人類は現在80億人の人々が生活できるよう、食料生産や医療の進歩を経験している。これは一種の奇蹟ではないのか。神から授かった知性により、人類の諸問題を一つ一つ解決してきたのではないかということは一つの応答になるであろう。

 ともあれ、悪魔は第一の誘惑が神の言葉により退けられたことから、神の言葉として詩篇を引用しつつ、寺院の高いところから身を投げても、天使がきて支え助けてくれるとイエスを誘惑する(詩篇91:11-12)。イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という申命記の引用により退けている(申命記6:16)。彼はどれだけ旧約聖書を自らの糧としていたか、ここから分かる。とっさにあの分厚い聖書のここかしこが浮かんでくる。幼少期からシナゴーグに行き、ラビの話を聞き自分で読んでいたのであろう。こう報告されている。

 「イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった」(マタイ13:52-58)。

 イエスの力の秘訣は神の言葉である聖書に自らの行為を選択したことである。この信の従順こそ彼の力の秘訣であった。われらが何か証拠を求めるとき、相手を信用していない。信の根源性にそのつど立ち帰ることにより、誘惑を退けることができる。

 

6 世界支配への誘惑

 第三の誘惑はこうである。悪魔はイエスを高い山に連れていき、一望のもとに世界のすべての国々の繁栄ぶりを見せた。「もしひれ伏して、わたしを拝むなら、これをみな与えよう」。この誘惑は大きいものである。世界の支配者になることができるという誘惑である。権力者、為政者たちはこの誘惑にかられている。力を持てば持つほど、この誘惑にかられる。プーチンも為政者になったとき、神に選ばれたと強く感じたことを告白している。人間のこのような勝手な思いをどのようにして克服できるのであろうか。イエスだけが、神の意志を十全に遂行した神の子であることをその都度信じ、その都度悔い改めて信仰に立ち帰ることによってである。

 イエスの応答は単純明快である。「「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」(申命記6:13)。この申命記による応答とともに、「下がれサタン」と退けている。ひとは通常多くの上司や指導者をもっている。上下関係が人間社会にはつきものであるが、イエスはただ父なる神にのみ仕えた。それにより人生は単純明快となる。

結論

 聖書はイエスが神の子であることを証する書である。この出来事に立ち帰りつつ神の意志を聴く。たとえ自らが何らかの指導者になったとしても、イエスの忠実な弟子であることにこそ正しい選択の可能性が開かれる。そこでは愛の戒めが説かれているからである。正しい指導者はキリストの憐みに立ち帰り、そのつど隣人となろうとすること、それが心の根底に置く人々である。他方、指導者は単に隣人を相手にするのみではなく、国家の進路等一般的な判断をしなければならない。とはいえ、指導者も一人の人間であり神への信仰が問われており、個々人の根底に正しい信仰があることがまず求められている。この世界の為政者や上司、教師たちは、個人としてその都度主なる神のもとに立ち帰りつつ、悪魔の誘惑を退けつつ、相対的な自律性を持つ者として歴史を導く。指導者も一人の人間であり、神の言葉により誘惑を退けつつ、光の歴史の細い道を歩む。われらはイエスを派遣された天の父なる神を仰ぎ、神に仕える。

 

 

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