最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―

2022年4月24日聖書講義

 最後の旧約の預言者ヨハネ―旧約と新約を繋げる者―

聖書箇所 マタイ3:1-17

1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え 2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て 6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 13そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。15しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

1 神の約束・契約の歴史

 聖書は神による人類への関わりの記録の書物である。今から3700年以上前、紀元前18世紀後半、神はメソポタミア(「二つの川(ポタモス:ユーフラテス川とチグリス川)の中間(メソス)という意味)地、カルデアのウル(シュメール人の古代都市といいう説がある)に生まれ住んでいたアブラハムを呼び出した。彼は七十五歳のときに神の言葉だけをたよりに妻サラと共に流浪の旅にた。「主はアブラム(アブラハムこと)に言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように」(Gen.12:1-2)。アブラハムは地中海とヨルダン川のあいだの土地カナン地方に住んだ(Gen.13:12)。アブラハムはもはや生殖機能を失っていたが子孫が栄えるという神の言葉を信じ、その信仰が義と認められた(Gen.15:6)。彼のこの信頼は神との正しい関係は信仰によって得られることの一つの根拠となり、イエス・キリストの「信の律法」(神の意志として最も根源的な正義)の先駆となった。信が心魂の根源的態勢であることを明らかにた。「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(Gen.17:19)。

 アブラハム、その子イサクそしてその子ヤコブへと祝福は受け継がれる。ヤコブは「イスラエル (神の勝利)」と呼ばれ、この民族はその後「イスラエル」と呼ばれるが、「ヘブライ人(イビリーム)」や「ユダヤ人」と呼ばれることもある。「ヘブライ(イビリーム)」の語源は分かっていないが、フェニキヤ人等の集団を指すという説がある。またエルサレムがある地方がユダヤと呼ばれたことから、他の民族との関係においてこれらの呼称で呼ばれたり、自らをこれらの呼称で呼んだりしていた。

 アブラハムは175歳で死んだ(Gen.25)。恐らく紀元前17世紀後半であった。ヤコブの時代に飢饉がおこり、多くのイスラエル人がエジプトにわたった。ヤコブの末子ヨセフはエジプトでファラオ(王)に信頼され宰相となった。その後ヨセフを知らない王があらわれ、イスラエル人を差別し苦役に従事させ、ファラオの娘に育てられたモーセが出エジプトの指導者として選ばれる。出エジプトを遂行した民族指導者モーセは神の山(シナイ山)で「十戒」と呼ばれる神の意志が伝えられたため、それをモーセは書き記しエジプトから一緒に逃れてきた民に伝えた。「モーセは契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは[雄牛の]血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」」(出エジプト記 24:4-8)。アブラハムとの約束・契約に始まり、モーセを介して約束・契約が新たに結ばれた。

 モーセはエジプト王(ファラオ)ラムセス二世(BCEcirca1303-1213)の頃或いは次世代のファラオのとき、苦役に苦しむ同胞へブル人を連れて60万人の成人男子とその家族を連れていた(Ex.12:37)。「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であった」(Ex.12:40)。パウロはこれにならいアブラハムへの神の約束(契約)からモーセの出エジプト敢行後、シナイ山で交わした契約まで「430年」と記している(Gal.3:17)。

 

2 預言者たちと「新しい契約」の預言

 紀元前10世紀にダビデとその子ソロモンによりイスラエルに王国が建てられ、栄えたが、紀元前9世紀以降四大預言者(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)による預言書が残されている。また十二小預言者(ホセア、ヨエル、アモス等)がたてられ、神の言葉が取り継がれている。預言者エレミヤはこれらの歴史の展開のなか、紀元前6世紀バビロン捕囚のころ「新しい契約」(エレミヤ31章)を神の言葉として取り継ぐ。新しい契約の実現であるイエス・キリストの福音(良き報せ)を預言している。「わたしはとこしえの愛をもってあなたを愛し変わることなく慈しみを注ぐ」(Jer.31:3)。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(Jer.31:31-34)。

 パウロはこれらの契約の結び直しの連続のなかで、旧約聖書において預言され待ち望まれた救世主(メシヤ)がナザレのイエスであることを宣教している。これがエレミヤの新しい契約の成就であると理解されている。「神はかつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くの仕方で先祖に語られたが、この日々の最後に(ep’eschtou tōn hemerōn touōn)御子によってわたしたちに語られた」(ヘブライ人の手紙1:1-2)。

旧約から新約に至るまで、イスラエルに象徴される神と人間の交わりの歴史は展開しており、歴史の終わりにはこの古き天と古き地は巻き去られ、新しい天と新しい地があらわれると「イザヤ書」や「ヨハネの黙示録」に預言されている。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起す者はない。それは誰の心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する」(イザヤ65:17-18)。「そして、天使はわたし(ヨハネ黙示録著者)にこう言った。「これらの言葉は、信頼でき、また真実である。預言者たちの霊感の神、主が、その天使を送って、すぐにも起こるはずのことを、ご自分の僕たちに示されたのである。見よ、わたしはすぐに来る。この書物の預言の言葉を守る者は、幸いである」(黙示録22:6-7)。

 

 3 最後の旧約の預言者ヨハネ

 聖書はこのように神がその都度人々を選び自らの意志・契約を伝え、イスラエル民族をさらには異邦人をも救いに導いている。パウロはこれらの契約をイエス・キリストにおける契約の成就という視点からまとめ直している。「神によってあらかじめ有効なものと定められた(アブラハムとの)契約を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故(ほご)にすることはないということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし、神は約束によってアブラハムにその恵をお与えになったのです。では、律法とは、いったい何か。律法は約束を与えられたあの子孫(イエス)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、注解者の手を経て制定されたものです」(ガラテア書3:17-19)。

 モーセ律法はイエス・キリストにおける信の律法により乗り越えられまた包摂される。イエスは言う、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)。イエスはモーセ律法を先鋭化、急進化しながら、「まず神の国とご自身の義とを求めよ」と神との正しい関係を築いてこそ、律法の「冠」である愛が満たされると主張した。そして彼はその言葉と行いのあいだに乖離や分離のない唯一の人として信の律法のもとに自らの信の従順の生を死に至るまで貫いた。

  このように聖書は人類の歴史の展開を報告しまた預言している。最後の旧約の預言者洗礼者ヨハネは契約を介したこのような一直線の神とひとの交わりの連続性のなかで、旧約(モーセ律法)から新約(イエス・キリストにおける信の律法)への橋渡しの役割を担っている。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者であり、ダビンチが描くところの十字架を指さす人である。

最後の預言者はナザレのイエスをメシヤ(油注がれた者=救世主)であると認識し、正しく彼にバトンを渡している。二人とも旧約の伝統のもとに生きた。ヨハネは禁欲的な生活を送りつつ、神から啓示を受け預言者の伝統としてイザヤを引き、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と主の到来の準備をする。その過程において、彼は自らの民を「蝮の子」と罵りつつ審判の預言を民に告げ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼(潜浸)をほどこしていた。旧約における悔い改めは悪しき行いを悔い改め、神に立ち帰り生活を一新することであった。洗礼は古い自己の死と新しい自己の再生の儀式である。

ヨハネが出現しなければ、イエスは神の歴史の連続性のなかで正しくイスラエルの民に告げ知らしめられ、位置づけられることはなかったことであろう。少なくとも、イエスが突然現れ、神の子、メシヤであることを単独で主張せざるをえなかった場合に、歴史の展開のなかでの彼の位置づけが不明瞭になることであろう。彼は長い歴史のなかで預言され待望されていた以上、同時代人によって告げ知らされることは不可欠であった。歴史においては重要な事件においては先触れ、ヘラルド・伝令が顕われる。なぜなら、人類の歴史はそのつど偶然にランダムに事象が生起するわけではなく、預言され待望され、歴史が展開していくからである。旧約の時代の終わりを告げ、そして新しい救いの時代を告げるヨハネの出現は歴史の必然であった。

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる 。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(マタイ3:8-12)。

 ヨハネは水による悔い改めの洗礼を授けたが、聖霊と火で洗礼を授ける方として神の子を預言する。「イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた」(3:13-17)。

 イエスは悔い改めの洗礼を受ける必要はなかった。しかし、旧約から新約への象徴的なバトンの引き渡しとして二人の共同の行為は神の歴史の正しいプロセスとして理解していた。共に一つの出来事を共有すること、それは歴史の新たな展開に象徴的である。国王の戴冠式は荘厳におこなわれるであろうが、野の蜜を食べ、枕するところなき貧しい二人には、豊かな自然の恵みであるヨルダン川の水を分かち合った。教会堂のコアーの響きはなくとも、野の百合空の鳥が祝福していた。その「正しいことをすべて行う」ことにより、聖霊が鳩のようにくだった。そのとき天の声が響いた。神はナザレのイエスの信仰を嘉みし、喜び、神の子として公に伝えられた。歴史は、このように一つ一つの行為に意味があり、それを正しく踏まえる限りにおいて神に神の意志の正しい行使者として用いられる。他方、神に背く闇の歴史も連綿と続いている。その者たちへの「神の怒り」は欲望への「引き渡し」として勝手にせよと放置することに確認される(ローマ書1:24)。「木はその実によって知られる」(マタイ7:17)。良き木は良い実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ。「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(7:19-20)。これは歴史の厳粛なる事実である。

 

 4 結論

 人類の歴史は神に導かれている。そう信じる。ロシヤによるウクライナへの侵略の残酷さと長期化に神の怒りを感じる。終わりの日に、正確に一切を知りしかも憐み深い方の正しい審判がなければならないと心から思う。われわれの根元にはすでに審判の斧が置かれている。人類は自らを破滅させる核兵器を既に有している。もう終わりのとき、最後の審判の時が近いのであろうか。われわれにできることは何であろうか。少なくとも周囲に悪の歴史を負の歴史を刻まないことだ。負のスパイラルに陥らないよう、悪の手下にならないことだ。歯を食いしばって迫害に耐え、敵をも愛することだ。それ以外にこの悪循環を断つことはできないであろう。人類の歴史は厳粛である。闇の子ではなく、光の子でありたい。各人が悔い改めて、すこしづつイエスに倣う者となり、神に喜ばれる者でありたい。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また灯(ともしび)をともして枡の下に置くものはいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:13-16)。

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