憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―
憐みを引き起こすもの(その1)―コントラストの知識をもたらす信仰―
日曜聖書講義 6月13日
(録音は4節「復活と永遠の生命」の途中までです。来週また、われらの心魂に憐みを引き起こすものの探求を続けます)。
聖書箇所(マタイ福音書25:31-44口語訳)
[25:31]人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。
1憐みをかけるひとは誰であれ主にかけている。
春からわれらは挑戦している。憐みを獲得することができるかどうか。いかなる競争心や憎悪、嫉妬からも自由にされ、喜びのうちに友と友の関係を構築できるかを。憐みのうちに、善きサマリア人のように困窮したひとを援けることができるかを。そこに至る道は「われは道であり、真理であり、生命である」と言ったイエスの歩みに追随する以外にないであろう。イエスの軛を共に担ぎ上げ、彼と共に歩むこと以外に、イエスの柔和を獲得することはないであろう。この世のものではない神の平安がわれらを守るであろう。他の道が魅力あるものともはや見えない。富や栄華やそして名声など、この世の価値はこの憐みと柔和を持つ、ひととしての本来性から比べて、いかにもこの世への隷属を示している。
「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。汝らは、神と富とに仕えることはできない」(Mat.6:24)。「その心によって清い者」とはその心に二心(ふたごころ)がなく、心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者のことであった。「汝の宝のあるところ、そこに汝の心もある」(Mat.5:21)。「ともし火をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。汝の身体のともし火は目である。目が澄んでいれば、汝の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、汝のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし汝の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、ともし火が明るさによって汝を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲を照らす。そのように「世の光」はこの世界を支え、導く(Mat.5:14,cf.Phil.2:12-15)。
ひとは光を好むか闇を好む。全身の明るい秩序を求める者はイエスのもとに行く。彼と共に歩む。福音書のイエスの言葉に、小さな者への愛が福音のもとに生きているか否かの規準になることの証が見られる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから汝らのために用意されている国を受け継げ。汝らはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。汝らはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらは汝が飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」。(Mat.25:34-45)。
これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、それは天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。これは一種の理想主義に捉えられよう。山上の説教においては人間のありうる究極的な道徳が語られているため、理想主義的に捉えられようが、これはユートピア「生起する場所のない幻想的な場」ではない。イエスがあの山上の説教を生命をかけて生き抜いたからである。
言葉と行いを合致させたこの方を忘れて、困窮者一般を問題にするとき、律法主義に陥ってしまい、イエスの生命を失ってしまうことがある。善きサマリア人の譬えが教えるように、この三人のうち「誰が隣人となったのか」がその都度問われているのであり、一般的に悩める人、苦しむ人、神の子に相応しくない人一般を相手にしようとするとき、いつの間にか生きた主を忘れ、自らの理念に捕らわれてしまうことに気を付けよう。常に原点に立ち帰ることによってだけ、隣人となることができる。
イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言においてはっきり分かることは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。われらは一度でもこのような視点をもったことがあるであろうか。誰かがシリアの難民に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしにくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうか。はっきり言って、わたしはそのような感覚をもったことは一度もない。これは或る意味でキリストの弟子として衝撃的なことである。しかし、そこに自らのパトスが今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。
キリストについていくということは具体的にキリストが為したように生きることである。これは覚悟がいる。しかし、「その霊によって貧しい者は祝福されている」。この世の様々な富、つまり自らの人徳、名誉、金銭そして地位など、これらの所有によって自らに満足している者は飢え渇くことはない。肉によってこの世の豊かなもので満たされている者たちは一つ欠けているかもしれない、即ちその霊によって貧しく、この世の何ものによっても満たされないことを知っているその知識を欠いていよう。その霊によって貧しい者たちは「天の国は彼らのものだからである」と、この祝福が語られている者たちであった。この世のいかなる富や才覚によっても満たされず、天国の平和と正義と愛を求めて、入れていただくことにのみ希望を見出す者たちがいる。イエスはこのようなひとたちと共におり祝福していたことが分かる。イエスのこのような言葉にであうとき、われらにはまだ分かっていない人間の消息があるのではないか、われらがこの社会において求めている良きものとは異なる良きものがあるのではないかという思いにいたる。
2良きものどもの秩序づけ
良きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じるのであった。イエスは山上の説教においてパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。イエスは山上の説教においてモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝えた。そこで乗り越えが企てられている敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心(みつごころ)が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」。このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。「裁くな」「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛をさえ不可能にするように見える。
しかし、イエスは誰にも担いえない重荷を課す方ではなく、その重荷から解放する信仰に招いていたまう。業の律法のもとに生きるパリサイ人への彼らの自己矛盾を指摘する厳しい言葉の数々も、ご自身がそのもとにある信の律法への立ち返りを促すものであった。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」。各人にとって求めるべき良きものとは神ご自身であり、その最も良きものに他の一切の良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。
ひとは天国への帰一的集中のもとに行為の選択から宇宙の構成の知識に至るまで一切を秩序づける。「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものだ」。人間に最も重要なことを学んだ者は生の全体のなかで個々のものをそれは古いものであれ新しいものであれ自由に適切に位置づけそしてそれに対応して行為を選択することができる一家の主人に似ている。この発言を単にパトスに対して良い態勢にある人格的な有徳性に対してだけではなく、その認知的な卓越性に対する賞賛と読むことができる。
3ひとの心魂の根底にのみ正しい信仰が宿る
かくして、二心や三つ心のなさを求める者は心魂の根底から生きることが求められる。そしてひとの心魂の構造、構成からして、「信」「信仰」こそ人間の心魂の一番根底に生起するものとして人類は位置づけてきた。ひとびとはこれを「理解を求める信仰(fides quaerens intellectum)」「知るために信じる(Credo ut intelligam)」と呼び信仰が知識をもたらす心魂の基礎となることを確認してきた。哲学において「知識」とは「正当化された真なる信念」として定義されてきた。或る主張を真理であると信じることがおこり、そしてそれが検証されエヴィデンスを蓄えることにより知識となると理解された。また儒教においても「信なくば立たず」と語られ、実際生活において社会のなかで生きていくためには、信頼、信実、信義が生の基本を作るということは古今東西変わらぬ生の原理であるとされてきた。
正しい信が根底にあるときのみ、ひとには肯定的創造的な生の展開を望むことができた。正しい信仰とは非理性的な心魂から生じる狂信でもなく、パトスの偏りから生じる迷信でもなく、知性と人格を成長させるそのような心魂の根底の在り方であった。心が散逸しているとき、誘惑に引きずられるとき、もはやわが心そこにあらずであり、目の前の問題、課題そして使命に誠実に取り組むことがなくなり、ひとは「人生は暇つぶしに他ならない」と嘯きつつ、焦点のぼやけた生を営むことになる。ひとの心はこのようなものに満足できないのである。聖霊に応答する二番底パウロの言う「内なる人間」(Rom.7:24)があるからである。それが人であると明確に認識した者たちは、信に立ち帰る。信仰という不思議な心の働きが生得的に一つの力能として心魂の根底に備えられている。
ということは、この情報化時代、心が様々なことがらに散逸しやすい時代にあって、最も求められるのは、自ら戸を閉めて父なる神に祈り、対話し心を根底から秩序づけることを常に繰り返す以外にないであろう。ルターは95か条の提題第一条において「信仰は悔い改めに始まる」と言う。二心、三つ心、四つ心を悔い改めて、心を清め、イエスと共に生きることをその都度始めることが信仰生活ということになる。なぜひとはこれほどの狭い真っすぐな道を歩んできたのか。そこには喜びがあるからである。
喜びは最も現在的な感情であった。放物線が接戦に触れるように、今の充溢があった。未来の煩いや恐れによって今を生きるのでもなく、過去の後悔や憎悪によって今を生きるのでもなく、永遠の愛に触れ心が刷新され、喜びがわいてくるのであった。イエスは人間の本来性であるひとびとが「天の父の子」となるべく、自ら「神の子」であるという信のもとに、信の従順の生を十字架に至るまで貫かれた。その信仰が嘉みされ神との正しい関係においてあったその信義の故に、彼は復活を与えられた。そしてそれは永遠の生命の証であり、召天後、キリストが共にいたまうとき、「聖霊」が注がれるにいたった。
4復活と永遠の生命
十字架と復活は人類の歴史において「一度限り」のことであり、他の誰かによって再現されるものではない(Rom.6:8-10)。再現性のないものについては科学的知識の対象とはなりえず、ひとは御子の復活については信仰により突破するしかない。もちろん、科学は例えばあらゆる物質を通過する素粒子の研究などにより知見を重ね、一般的な仕方で、ドアを通過し、脇腹に槍穴のある質量をもつ三次元の存在者についてのその科学的仕組みの解明に向かい続けるであろう。そういう意味で現在われらに不思議に思えることがらの一般的な探求とその解明は蓄積されていくことであろう。
とはいえ、復活は優れて信仰の対象であり続けるであろう。というのも、信念は、一般的には、知識をもたずにも、或る命題を真理であると信じる、そのような知ること以前のそして知ることに向かう認知的働きだからである。そして預言されていることとして復活は終わりの日にしか個々人には救いとして体得的知識とならないそのようなものだからである。キリストの来臨に伴う終わりのラッパと共に死者が目覚めさせられ呼び起こされる。その再臨信仰を基礎づけるものがキリストの復活である。御言葉が受肉し受難により生物的死を引き受け三日後に甦らされたことは永遠の生命を保証するものであり、終わりの日の新天新地を伴う栄光ある到来を備えるものである。
パウロはキリストへの言及なしに天国も黄泉も理解できないとして信仰による突破をこう語る。「キリストが信じるすべての者にとって義に至る律法の目指すものである。というのも、モーセは律法に基づく義をこう記しているからである、「それらを為した者はそれらによって生きるであろう」、だが、信に基づく義はこう言うからである、「汝は汝の心のなかで、「誰が[義を求めて遥か]天に昇るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを引き降ろすことである、あるいは「誰が[義を求めて遥か]黄泉に降るであろうかと言ってはならない」、それはキリストを死者たちのなかから引き上げることである。しかし、彼[モーセ]は何と言っているか、「言葉は汝の近くにある、汝の口のなかにそして汝の心のなかにある」、これはわれらが宣べ伝える信仰の言葉である。すなわち、もし汝が汝の口において主イエスを告白し、そして汝の心のうちに神が彼を死者たちから甦らせたと信じるなら、汝は救われるであろう。というのも、主イエスが心によって信じられるのは義のためであり、口で告白されるのは救いのためだからである」(Rom.10:5-10)。
心の中での信仰を固く保持するためには公にそれを告白し社会の認知の中での自覚を必要としている。それほど復活は信仰による乗り越えと公的な表明を必要とするそのような理解に困難を伴うものだからである。パウロは知の都アテネのアレオパゴスで彼らが知らずに拝んでいる「知られざる神」を教えようと宣教をはじめ、死者の復活について語り始めると、聴衆は「われらはこのことについてはまた汝から聞こう」と言って去っていった(Act.17:32)。アテネのことではない、エルサレムにおいてさえ使徒たちへの女性たちによる復活の第一報に対して「これらの言葉は彼らにはあたかも戯言(たわごと)に思えたそして彼女たちを信じなかった」と報告されている(Luk.24:11).肉のイエスから予告されていたにもかかわらず、このような事情であった。だからこそ公的な告白は信じることができることそれだけで喜びであることを含意している。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13).
そこに伴う生命の躍動は永遠の生命の何らかの兆候であろう。ヨハネもイエスの言葉を報告している。「[16:7]しかし、わたしは汝らに真実を語る、わたしが去って行くとき、汝らには益となる。わたしが去って行かなければ、汝らのところに助け主は来ないであろう。もし行けば、わたしは彼を汝らに送ろう。彼がやって来て、罪についてそして義についてそして公正な裁きについて、世界に露(あら)わにすることであろう。一方、罪についてとは、彼らがわたしを信じないということである。他方、義についてとは、わたしが父のみもとに行くということそして汝らはもはやわたしを見なくなるということである。公正な裁きについてとは、この世の支配者が裁かれてしまっているということである。
[16:12]わたしには、汝らに言うべきことがまだ多くあるが、汝らは今担うことができない。しかし、かのもの、真理の御霊が来る時には、汝らをあらゆる真理に導いてくれるであろう。というのも、彼は自らから語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべきものごとを汝らに知らせるであろうからである。彼はわたしに栄光を帰するであろう、わたしから受け取り、それを汝らに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。そのことの故に、わたしは言った、彼がわたしから受け取り、それを汝らに知らせる、と。
[16:16]まもなく、汝らはもうわたしを見なくなる。しかし、またまもなく、わたしに会えるであろう」。そこで、弟子たちのうちのある者は互に言い合った、「彼がわれらに語っていることは何であるのか、「まもなく、汝らはわたしを見なくなる。またまもなく、わたしを見るであろう」また「わたしの父のところに行く」とは」。そのとき彼らはまた言った、「「まもなく」とは何であるのか。われらには、彼が語っていることがわからない」。イエスは、彼らが尋ねたがっていることに気がついて、彼らに言われた、「まもなくわたしを見なくなる、またまもなくわたしを見るであろうと、わたしが言ったことで、互に尋ねあっているのか。 アーメン、アーメン、わたしは汝らに言う、汝らは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。汝らは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう。女性はお産の時、その時がやってきたと不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、ひとりのひとがこの世に生まれたという喜びのゆえに、もはやその苦しみをおぼえてはいない。このように、汝らにも今は不安がある。しかし、わたしは再び汝らとまみえるであろう。そして、汝らの心は喜びに満たされるであろう、そしてその喜びを汝らから取り去る者は誰もいない。かの日には、汝らはわたしに何も問うことないであろう。アーメン、アーメン私は汝らに言う。汝らがわたしの名において父に求めるものはなんでも、下さるであろう。今までは、汝らはわたしの名において求めたことはなかった。求めよ、そうすれば、汝らは受け取るであろう、そこでは汝らの喜びが満ちあふれるであろう。
[16:25]わたしはこれらのことを汝らに比喩(イメージ)で話したが、もはや比喩(イメージ)では話さないで、端的に父のことを汝らに話してきかせる時が来るであろう。かの日には、汝らは、わたしの名において求めるであろう、そしてわたしは汝らに、汝らについて父に願うとは言わない。父ご自身が汝らを愛しておいでになるからである、というのも、汝らがわたしを愛しており、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたからである。わたしは父のところから出てこのの世にやってきた、またこの世を去って、父のみもとに行く」。
弟子たちは言った、「見てください、今は端的にお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません。今、われらは、汝がすべてのことをご存じであり、誰も汝にお尋ねする必要をもたないことが、わかりました。このことによって、われらは汝が神からこられた方であると信じます」。イエスは彼らに答えられた、「汝らは今信じているのか。見よ、汝らは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。しかも、わたしはひとりではない、父がわたしと共におられる。これらのことを汝らに話したのは、わたしにあって汝らが平安を得るためである。汝らは、この世では悩みみがある。しかし、雄々しかれ。わたしはすでに世に勝っている」(Joh.16:7-33)。
信仰がもたらす喜びこそ、この狭くまっすぐな道を歩ませる。助け主が聖霊としてこの世の苦難に打ち勝つべく支え励まし共にいたまうからである。永遠の生命の希望がそこに湧き上がるからである。
結論 生命の証
種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉そして御心が聴衆の心に蒔かれそれを受け止めた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10).
この主による種蒔きの譬えは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らが蒔かれた所は「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。復活信仰は困難を伴う、しかし、実りと呼ばれる生命の横溢のなにがしかをこの生において経験するとき、永遠の生命への希望が湧きあがる。夢は抱くものであるが、希望は何らかの現実の肯定的な変革に伴い湧いてくるものである。告白するということは自らの心に二心がないからこそなしえることであるがゆえに、その二心のなさにおいてある自己を喜ぶ。豊かな実りとは八福を語られるイエスご自身にとって「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。