憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト―
憐み深く柔和な心―かつてと今のコントラスト― 2021年6月6日
聖書箇所
「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28-30)。
「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」(Mat.5:5-9)。
1憐み深い心を請い求める―「コントラスト(対比)」―
われらは入寮式以来、憐みを求めてきた。支配からも競争からも憎悪からも自由なところで生起する憐み深いひとになることを求めてきた。憐みとは何かを探求してきたが、愛や競争心や嫉妬など種々の感情の文法の分析を通じてそれらの何であるかとの対比において憐み深くなることを追い求めてきた。憐みはわれと汝の等しさとしての愛に向かう心の基礎的な感情である。愛の感情実質は喜びであった。喜びは最も現在的な感情であり、愛は情熱恋愛でさえ永遠との何らかの関わりにおいてしか成立しないものであった。放物線が接戦に触れるように、永遠がこの過ぎ去りつつある今に触れるとき、ひとは時と和解する。そこでは未来により支配される焦りや欲望からも、過去により支配される後悔や憎悪からも解放されている。愛の感情実質がこの今の充足のうちに生じている。
それに対し、憐みの感情実質はより複雑であり可哀そうという思いや愛おしい、慈しむという思いなどからなり、憐みの感情は、そのときにおいては少なくとも相手を支配する、操作するそのような欲望から解放されている。愛は支配することからも支配されることからも唯一自由な心の場で出来事になるわれと汝の等しさであった。憐みはこの友と友のような等しさが生起している愛に方向づけられる。憐みはわれと汝の等しさの喜びに向かう源泉となる力であると言うことができる。
イエスによる神の国の宣教活動のなかで、彼は「はらわた(splagchnon)」からの深い憐みにとらわれたことが報告されていた。イエスは人々が人間の本来性に相応しくない仕方で彷徨い、苦しんでいることに対する状況に直面し、深い憐みを抱いた。イエスは「群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、「彼らに多くのことを教え始められた」と報告されている(Mak.6:34,Mat.9:36)。
憐みがわきだしているところ、そこではかつてと今、悲惨と救い、非本来性と本来性これらコントラストの認識にこそこの感情の源泉がある。善きサマリア人は彼自身かつて強盗に襲われるなどして悲惨な状況を経験しており、誰かに憐みを受け救われたからこそ、今目の前に倒れている半死半生のユダヤ人に憐みを抱いたのだと思われる(Luk.15)。憐れまれたことの経験あるひとは「わが足すべりぬと言いしとき、主よ、汝の憐みわれを支えたまえり」(Ps.94:18)に同意するであろう。あのとき、あの援けがなかったら、自分は破滅していた、と。暗黒から光明を見出した者はこのコントラストのなかで、かつて己がそうであった状態に沈んでいる人がいた場合には、憐みをいだく。
イエスはひとは本来「天の父の子」(Mat.5:45)たるべきものであるという認識のもとに、そのあまりのギャップのもとにある人々に自然に憐みをいだいた。そして彼は天国について「多くのことを教え始めた」。イエスはご自身の使命をシナゴーグにおいて聴衆に聖書のメッセージに託しそれを読みながらこう伝えている。「「主の御霊がわたしのうえにある。貧しい者たちに福音を宣べ伝えるべく、そのためにわたしに油を注いでくださった。主がわたしを遣わしたのは、囚人たちに赦しを、盲人たちに視力の回復を告げ知らせ、虐げられた者たちを解放において遣わし、主の受容の年を告げ知らせるためである」。彼は書を閉じたそしてそれを係りの者に返しそして座った。シナゴーグにいる皆の目が彼に注がれた。そして彼は彼らに語った、「今日この書それ自身が、汝らが聞くことのなかで、成就されてしまっている」」(Luk.4:18-21)。
彼はこの使命感のもとに困窮している人々と自らが預言の成就であることを伝えつつ、共に生きた。憐みのなかでの神の国の宣教すなわち愛と正義と平和で満ちた神の国について教えた。彼は自らの宣教の言葉を死に至るまで生き抜いた。この憐みのもとでの教えがもたらす知識は弱ったひとびとを窮境から救いだす力である。
2 山上の説教は憐まれているなかで憐れむその平安の在り処を教える―
イエスは山上の説教において旧約のモーセ律法が伝える道徳を純化しつつ、旧来の道徳を内側から破り信仰に招いた。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれらすべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。ひとはみな愛と平和と正義の満ちる神の国に入れていただくこととの関係において、しかも神を愛することと隣人を愛することとを通じて、一切を捉え直すよう励まされている、それが山上の説教の主眼である。神の国についての明晰な理解がひとを新たにするという言葉の力を山上の説教は示している。彼は彼を求めてついてくるひとびとを見捨てることは考えられず、彼の権威ある祝福はこれらを聞いたひとびとの心に直に響いたことであろう。
イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは[約束の]地を受け継ぐであろうからである。祝福されている、正義に飢えそして渇いている者たち、彼らは満ち足りるであろうからである。祝福されている、憐れむ者たち、彼らは憐みを受けるであろうからである。祝福されている、その心によって清い者たち、彼らは神を見るであろうからである。祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうからである」。これらは今或る心的な態勢、状態のうちにある者たちの祝福であるが、それは未来文で表現される善きことどもに基礎づけられて祝福されている。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。
憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることを認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。
これが、「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活に必要なもの]すべては汝らに加えて与えられるであろう」(Mat.6:33)というイエスの信仰の招きのメッセージである。これらすべてのものごとと生活の必需品をはじめ、各人が打ち込んでいるものごとに必要なものごとも含まれよう。「汝らの天の父はこれらすべてのことを汝らが必要としていることをご存知である」(Mat.6:32)と言われる。この慰励の言葉の背後には天父への信が働いている、「汝らの天の父はご自身を求める者に良いものをくださるであろう」(7:11)。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。
全知全能であり「完全」(5:48)な天の父により一切が秩序づけられるとき、すべて肯定的な心的態勢は神の憐みのうちにあることであろう。地に住むことそれ自体が重力の法則の枠のなかにあるように、肉の弱さを抱え「何を食べ、何を着ようか煩う」(6:25)ことが常となるそのような者たちへの憐みの中で、人々は正義を求め飢え渇き、柔和で清く平和を造るべく憐み深くあろうとする。
3柔和で憐みの生の準則とそのエヴィデンス
そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。
ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。
さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。
イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。
聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。
しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。
ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。
パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。
この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。
4キリストの弟子のこの世における独自の在り方
このような柔和、憐み、清さを求めるひとはこの世にあって競争的な人々によりそれぞれの従事する領域において抑圧され、冷遇を受けまた押し出されてしまうのではないかと問われよう。もちろん天に宝を積むことが目的であるから、この世の栄華、権力とは無縁であろう。しかし、それぞれの仕事や活動において独自な働きをなすことができよう。信仰による統一された心の働きであるため、様々な誘惑から護られまた気をそらされることもなく、集中して活動に従事することであろう。
種蒔きの譬えはイエスの宣教を介して神の御言葉、御心が聴衆の心に蒔かれそれを受けとめた信仰の実りについてのものである。「イエスは彼らを多くの譬えで教えた、そしてご自身の教えのなかでこう言われた。「聞け、そして見よ。種を蒔く者が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」。そして、「聞く耳のある者は聞け」と言われた」(Mak.4:2-10)。
この譬えにおいて御言葉の蒔き手はイエスご自身であり、受け止める心、拒否する心等われらの様々な心の環境のもとに御言葉が蒔かれる。これは人生にも適用される。誰も自らの親を選べない、そこに自らの生が奪われ、焼け枯れる運命の過酷さを見るひともいよう。同時にそこに「誰も~ない」という人生の或る意味での平等さと醍醐味がある。自らに生が与えられたことを厳しい与件に思えても、肉の親の背後にいたまう蒔き手を信じ、自らを「良い土地」であると受け止めることなしには三十倍、五十倍に実らすことはできず、蒔き手に対する信頼が不可欠となる。荒地に蒔かれ悲惨にしか思えない与件であるにしても、聞く耳を持ち神に与えられた良い土地であると信じるとき、開墾が始まり、自らの与件から推定されるものの百倍の実りをもたらすこともあろう。まったく黒歴史であると思っていた自らの生が憐みに触れ一気に白歴史に変換させられるひともいよう。
豊かな実りとはイエスご自身の認識では「天の父の子となる」こと以外ではないであろう。誰であれ自らの人生の終盤にさしかかり、自らの人生のかつてと今との対比において、三十倍、五十倍の実りを経験している者には、始めと終盤のコントラストの著しさにただただ驚愕し、神に賛美を帰することであろう。こう語る私自身も、人から見れば取るに足らないものであろう小さき実りではあるが、始まりのころの無知蒙昧、悲惨な現実に思いをはせるときこの果実にただ驚愕し、感謝している。
ひとは天の父の子として父に栄光を帰しつつ生きるとき、単に競争的であり、他人を蹴落とそうとする人々より、豊かな実りをもたらすこともあろう。われら個人の生にはじまり、社会そして地球や宇宙全体が唯一の神のもとに秩序づけられるとき、それは最も道理ある人間、世界理解であるという心の真っすぐさのゆえに、よき仕事を遺すことであろう。
5結論 イエスと共に歩むとき、柔和な者となる。
八福の第三福は柔和な者であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。汝らを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を汝らのうえに繋げなさい。そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば汝らは汝らの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は良きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。イエスは暴れ馬のような方ではなく、イエスは驢馬の子にのってやってくる平和の君であった。その彼の軛に繋がれて歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与える者となる。平和の君だからである。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶(た)つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。
イエスの弟子であろうとする者はイエスの担いやすい低い軛に繋がれる。ひとは見捨てても彼は決して見捨てることはない。誰であれ、ご自身の栄光を棄てられ、ひととなり、貧しいもの、悲しむ者、争いを好まない者、正義から不当に見放され正義に飢え渇いている者、憐み深い者、平和を造る者そして正義のために迫害される者たちとどこまでも共にいたまう方のところなら行くことができる。この世界で見失われているひとびとであればあるほど、イエスの軛につながれつまり神の子の信のもとに生きることによって、この人生を歩むことができる。
イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。