イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

イエスとパウロ―故立花隆(橘隆志)氏「方舟」創刊号のイエス論を手掛かりに

                                           日曜聖書講義 2021.6.27

 

聖書箇所

「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」(へブル書5:11-13立花氏引用訳文)。

 

1はじめに 立花隆氏のイエスとパウロ論

 学寮の草創期の先輩に「知の巨人」と呼ばれた政治から宇宙そして死に至るまで「僕は3万冊読んで100冊書いた」と語ったジェネラリスト立花隆氏がいる。彼が4月30日に逝去されていたことが6月14日月曜に報道された。立花隆(本名、橘隆志)氏は1959年6月「方舟」創刊号にイエスとパウロについての若き魂の躍動を感じさせる短文を寄稿している。とても興味深い文章なので、追悼の意味をこめてここで紹介して、イエスとパウロの関係について考えたい。そのため先週約束した「ひとは何を為しても赦されるか」の続きを一旦中断することをおゆるしいただきたい。とはいえこれら二つの論題は深いところでつながっているので、罪の赦しの議論の序論として今日の話をお聞きいただきたい。2021.7.5追記。6月27日の文章に誤りがあったので、訂正します。ジッドの『田園交響楽』の一節を氏自身のものとみなし論じていました。お詫びして訂正します。

     考えていること 橘隆志

 「『神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものは自ら神となるのです。      その時こそ新生活が始まる。新人が生まれる。一切が新しくなる・・・・その時こそ、歴史を二つの部分に分けるようになる・・ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から・・』そうだ僕等は神を撲滅し、キリーロフに従おう、神の撲滅により、僕らに全き自由が達成されるのだ。」こんなことを考えては何度か神様から離れようと思いました。でもいつも事実が、キリスト・イエスという事実が僕をひきとめました。神を否定してもイエスという事実が残るのです。そしてそのイエス様がとてもきれいな存在なのです。あんまりきれいなので聖書を読んでいて泣きたくなる時があるほどです。その清らかさがどんな恋人にもまして離れがたさを感じさせます。イエス様にくらべてパウロはいやです。きらいです、パウロの手紙もきらいです。「ジェルトリードの宗教教育は、私に新たな眼で福音書を読み返させることになった。それにつれて益々われわれのキリスト教の信仰を形づくっている数多の概念がキリスト自身の言葉というよりは寧ろ、聖パウロの釈義に負うところが多いようにおもわれてくるのだった。―中略―私は福音書のどこを探しても、誡命、威嚇、禁則の類は一つとして見出すことができない。すべてこれらはことごとく聖パウロに発している」[田園今交響楽]。僕等は生命のパンを直接にたべるべきだと思います。「あなた方は久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなた方は堅い食物ではなく乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は幼子なのだから義の言葉を味わうことができない。」[へブル書5:11-13]僕たちもう形而上学的論争をやめよう。行動こそ、直接イエスの言葉を味わうことのできる道だ。

 若々しい生命の躍動感が伝わる清冽な言葉である。アンドレジッドの『田園交響楽』における牧師による盲目の少女ジェルトリードの教育について、氏は牧師の言葉を引用しているが、彼はそれに同意している。孤児のジェルトリードを引き取った牧師は罪について教えなかったが、手術により目が見えるようになり、物語は急展開を告げる。(配布の松澤有子氏によるブログ「ジェルトリュードの心情」(2014.8.31)からあらすじをご理解いただきたい)。そこで重要な働きを為すパウロの言葉は「ローマ書」七章九節と十三節である。その前後を含め引用する。「それではわれらは何と言おうか。律法は罪であるのか。断じて然らず。しかし、われは律法によらなければ罪を知らなかった。なぜなら律法が「汝貪るな」と言わねば、われ貪りを知らなかったからである。8しかし、罪は戒めを介して機会を捕らえわがうちにあらゆる貪りを引き起こした。なぜなら、律法を離れては罪は死んでいるからである。9しかし、われかつて律法を離れて生きていた。しかし、戒めが来るや罪は目覚めた。10だが、われは死んだ、そして生命に至らす戒め自らが死に至らすものとわがうちに見いだされた。11なぜなら、罪が戒めを介して機会を捕らえわれを欺いたそしてその戒めを介して殺したからである。12かくして、かたや律法は聖なるものでありまた戒めも聖であり義であり善である。13それでは善きものがわれに死となったのか。断じて然らず。むしろ、罪が善きものを介してわれに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom.7:7-13)。彼女は牧師に言う、「あなたが授けてくださる幸福は何から何までわたしの無知のうえに築かれているような気がしますの」。盲目の少女に規範を教えずに、あたかもアダムとイブが神の光のなかにいることを認識しないほどに光のなかにいた時期があったように、美しいものを教え、闇や醜悪なものを教えなかった。そこでは規範がないため、妻子ある男性を愛することに気づいていても自覚的には罪意識を持つことはないであろう。なんでもありの世界はタブーも存在しない。9節は律法の一つの役割についてアダムをモデルにして教えている。パウロによれば律法は福音の準備として位置づけられる。

 立花氏は入寮作文において「クリスチャンになりました」その経緯を読む者に興味深く書いている。ただし、本人が公にすることを望んでいないかもしれず公にはできない。立花氏はのちにキリスト教が他の宗教を邪教として排斥するその独善がいやで学生時代に離れたと回想している。「キリスト教は他の宗教をすべて邪教と考える独善性がいやで、大学時代に離れた。いまは哲学的&科学的世界観にもとづく無宗教派といったところです」(文春オンライン 2014.11.6「追悼 立花隆さんインタビュー#2」)。このように若い時に読んだドストエフスキーやジッドの作品は彼の思想形成に大きな影響を与えたことがこの短文からも理解できる。彼は「私に新たな眼で福音書を読み返させることになった」という牧師の言葉を引用しつつ、福音書に対する新たな理解とパウロに対する嫌悪感を表明する。彼はパウロの律法理解に同意できなかったのではないかと思われる。学寮時代はイエス・キリストの「事実」により支えられていたけれども、パウロ神学に躓いたのだと思われる。しかし、後年或る時、大江健三郎との対談で、タイムマシーンで訪ねたい時代があるかという話題になって、二人ともナザレのイエスに会いたいと語っていた。彼は最後までナザレのイエスの清さに惹かれ、憧れていたことであろう。

 わたしどもには神がひとの内面をどう見ておられるかについては2千年前の福音の啓示においてほどには、個々人の誰にもそれほど明確には知らされていないので、信による突破が不可欠となる。一方でイエスは「主よ、主よという者が皆天国にいれていただくわけではない」(Mat.7:21)と語っており、自分で信仰があると思っても神はそう看做していないかもしれない。他方で、イエスご自身「後の者が先になり、先の者が後になる」(Mat.20:16)と語っておられ、自らは後退したと思っても、神ご自身はそう看做しておられないかもしれない。

 パウロもイザヤを引いて、神の選びの自由について語っている。「14それでは、信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聞くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。15しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」。16しかし、あらゆる者が福音に聞き従ったのではない。というのも、イザヤは語っている、「主よ、誰がわれらの伝聞を信じたでしょうか」。17かくして、信仰は聞くことから、聞くことはキリストの語りを介してである。18しかし、彼らは聞かなかったのではないかと、われは語っているのか。いや、むしろ、「その者たちの声は全地に響きわたった。そして彼らの言葉は世界の果てにまで[及んだ]」。19しかし、イスラエルは知らなかったのではないかと、われ語っているのか。誰よりもまずモーセが語っている、「われ [わが]民でない者のことで汝らに嫉みを起こさせるであろう、悟りなき民のことで汝らに怒りを抱かせるであろう」。20他方、イザヤは大胆でありそして語る、「われはわれを探し求めない者たちに見いだされた、われを尋ね求めない者たちに現れる者となった」」(Rom.10:14-20)。このように、神の恩恵は風が思うがままに吹くように、自由であり、その恩恵を受けながら自ら自覚していないということも起きよう(「神には偏り見ることがない」(Rom.2:11)神の公平性についてはここでは扱ええない)。

 神との関わりは最後まで福音の啓示ほどには知らされてはおらず、「恐れと慄きをもって救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)と命じられることになる。この世界は「後の者が先になり、先の者が後にな」(Mat.20:16)そのような状況にある。わたしどもは立花氏が力一杯この人生を駆け抜け、著しい好奇心のもとに生と死を探求したことに心から敬意を表したい。彼はテロでも戦争でも何でも起これ自分が一番先に現場に行くという「こと起これ主義」を標榜し、イエスのように「行動」のひと、実践のひととして勇敢に人類の苦しみや、悪そして死を調査と科学的知見を頼りに正面から受け止めた。パウロの理論化に躓いたことがあったかもしれないが、それは聖書学者たちによるパウロの誤解像に基づくものであったかもしれず、天の父なる神様が今は彼に一切を明らかにし、彼の御霊を受け止めてくださるよう、祈る。

 10代のこの若々しい文章には清らかなイエスへの愛が美しく表明されている。その対比においてパウロに対する嫌悪も明瞭に記されている。新約聖書のラテン語訳は二世紀の古ラテン語訳(vetus latinus)に基づきヒエロニムスが四世紀に自らその「編集」であるとして世にだした流布版Vulgata聖書が権威として位置付けられてきたが、わたしはパウロの神学的主張の中心的部分「ローマ書」の3章22節等がそれ以降今日まで誤訳されてきたために、カトリックとプロテスタントが分かれてしまったことを指摘し、正しい理解の普及に努めている。パウロは既にカトリックとプロテスタントの和解案を分裂以前に提案していた。またパウロはイエスの山上の説教をはじめ彼の宣教を最も適切に理論化していると主張している。それ故に長いキリスト教史のなかで立花氏が引用するジェルトリードの議論にも何らかの誤解があると考えている。立花氏は聖書学者たちの誤訳の一人の(人間的には)犠牲者であったのではないかと思われる。わたしどもはなんとか正しくイエスとパウロの教えを世に伝えていきたい。

 イエスが言葉と働き(ロゴスとエルゴン)において成し遂げたことをパウロが理論化したが、ここでは「良心」、「愛」、「福音」、「信仰」それから「排他性或いは寛容」について双方の理解が合致していることを確認したい。「良心」については①J、①Pと表記し、良心は神との共知として働くことにおいて双方同意見であることを明らかにする。モーセ律法が「愛」に収斂されていることにも二人は同意見であり、双方の理解を②J②Pと表記する。イエスはリアルタイムに「福音」を生きまたそのために死にそしてその生死が神に嘉みされ甦った(③J)が、パウロはその福音を復活に基づき理論化した(③P)。「リアルタイム」というのは、例えばもしイエスが十字架から降りてきてしまったなら、神の計画は成就されず、新約は実現しなかった、そのような一挙手一投足が問題となることを言う。イエスは自然とその創造者、管理者である天の父が野の百合空の鳥を養っていることに聴衆に思いを向け、道徳的次元を内側から破り「信仰」に招き(④J)それにより律法を成就できることを自ら実践した。パウロは心魂の分析を介して「信仰・信」(④P)がその根源的態勢であることを理論化することにより、信仰が罪を克服させ一切を創造的、肯定的に秩序づけた。他の道を歩む者への排他性或いは寛容をめぐって、双方とも神の前においては信の一本道を歩んだが隣人に対しては肉の弱さへの譲歩故に寛容であったことを明らかにする。(⑤J)イエスは狭い真っすぐな道を歩みぬき、「わたしのもとに来なさい」と信仰に招くが、イエスは従う者に他の道を勧めることにより裏切ることは想定されない。他方、(⑤P)パウロはその福音の宣教とともに「汝らの肉の弱さのゆえにわたしは人間的なことを語る」と言う仕方で、「何であれ真実なるもの」に対する理解を示している。これは立花氏がキリスト教に躓いた論点である。おおよそ真実なるもの、信実と裏切りの概念からして神の前における排他性と肉の弱さへの寛容の両立を捉えたい。

 

 2「良心」と律法

 イエスは山上の説教において人類の語りうる最高の道徳を提示した。憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。モーセ律法を極性化したこれらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心・共知(sun-eidēsis, con-science)の痛みの発動を引き起こすに十分である(Mat.5:22,5:28,5:39)。イエスとその山上の説教とを「共知」の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえ、全身が地獄に投げ込まれるよりましである、と警告される(5:27-30)。①J良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。良心は神の歓心を買いつつひとへの憎しみを育てる二心の偽りにたいして発動する。

 パウロにおいてこのイエスの良心理解に完全に対応する議論①Pを見出すことができる。パウロも良心を神に明らかなことが自らに明らかになることであると規定する。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが汝らの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:11)。異邦人ならびに「アダムからモーセに至るまで」のユダヤ人をも含め、ひとの「良心」は「律法を持たずにも自らに対し律法」である(Rom.5:14,2:14)。神の義の一つの顕れである神の怒りは律法に違反する者に対し「引き渡す」即ち勝手にせよという仕方で啓示されている、完全に引き渡されている限り良心は反応しないであろうが(Rom.1:27,32)。というのも、罪との共知のもとでは、神の意志について盲目にされており、何ら良心の痛みを感じることなしに、罪の手下として悪を繁殖させるだけであろう。

 律法が良心を目覚めさせる。律法という善が与えられたのは、「罪が善きものを介してわたしに死を成し遂げていることによって、罪が明らかになるためであり、罪が戒めを介して著しく罪深いものとなるためである」(Rom. 7:13)。ひとが悪行に身を染めているその瞬間には、自らが「死を成し遂げている」その自覚をもたないであろう。律法は罪の奴隷となり悪行に身を任せ死に向かっていることを知らしめる。律法による罪の暴きたてに呼応して、「内なる人間」が「叡知の律法」に即すことによって霊を伴う良心が発動し、葛藤が引き起こされる、そのような役割を業の律法と叡知の律法は担う(Rom.7:22-25)。この葛藤を介して信の律法に移行するべく「福音」が宣教される。このようにパウロの良心論は業のモーセ律法から福音に導くものとして位置付けられる。イエスご自身は律法への尊敬のなかで、しかも業の律法を実現すべく、天の父の子であることへの信仰に招く。

 

3モーセの業の律法の「愛」への収斂と「信」を介した愛の実現

 イエスは山上の説教において旧約との対比において②J「愛」についてこう命じる。「「隣人を愛し、敵を憎め」と語られたのを汝らは聞いている。しかし、わたしは汝らに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。汝らが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、汝らにいかなる報いがあるのか」(5:43-46)。

 イエスは家族や隣人や友人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益、世間体との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において二心や三つ心があり支配や操作そして独善や欲望が遂行、解放されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。ここに②J敵をも愛する究極の愛の姿が示されている。愛とは支配からも被支配からも唯一自由な場所で、我と汝の等しさが生起することである。敵がその敵意の差し向ける相手である自らがまずその敵の友となることによって友となることである。そこには恐れから解放された喜びがある。

 イエスは旧約に伝えられる600を超える律法の第一と第二の戒めが愛であるとして律法を秩序付ける。②J「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat. 22:36-40)。イエスは「律法の一切」および「預言者」がこの掟により秩序づけられると主張する。イエスはこのように父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、汝ら、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においては顔と顔とをあわせてまみえることのできない神との関係においては、神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。

 かくしてイエスはこう宣言することができる。「わたしは律法と預言者を破壊するためではなく、成就するべく来た。わたしはまことに汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう」(Mat.5:17-18)。律法から一点一画たりとも「過ぎ去ることはない」のは、律法は神の生ける意志であり、その一切は愛の道具、徴、表現としてそして総じて愛を実現することに向けて収斂しているからである。

 イエスは急進化された律法を実現するべく、道徳的次元を内側から破り信仰に招く。イエスは自らが「天の父の子」(5:45)であるという信仰のもとに、父の御心としての律法は愛に収斂されるとして、愛に至る信の従順を貫いた。「汝らの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。「神は独子を賜うほどにこの世を愛された」(John.3:18)。各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善、良きものが秩序づけられる。「まず神の国とご自身の義を求めよ、そうすればこれら[生活必需品から神を知るに至るまで]すべては汝らに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:32-33)。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。イエスはその言葉と業において福音を持ち運びながら業の律法を含め生の一切を福音に秩序づけていたまう。誰かに何か善きものを求めることはそのひとに対する信頼を前提にしている。天の父なる神がその信仰を嘉みされたそのひとりのひと、ナザレのイエスはアブラハム、ダビデの系図のなかで生まれ、良心を宥める究極的な律法を語り生きまたその成就に向けて死んだまさにその方である。

 新しい葡萄酒は新しい革袋にいれなければ、破れてしまう。イエスはご自身の言葉を身をもって成就した。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。ユダヤ人の伝統的な罪の犠牲の供犠は律法違反に対する自分たちの償いのために神を宥めるべく犠牲を捧げる。自らの罪と献げものの交換の提供である。旧約の視点から見ればイエスはその犠牲の子羊であると言えるであろう。しかし類比はそこまでである。そこに神が共にいました場合にはその子羊は神にではなく罪人たちに提供されたのである。方向が逆であると言える。そこでは人類の罪と犠牲の交換の提供ではなく、神からの和解の提供となった。

 これが③Jイエスにおいてご自身の一言一句、一挙手一投足において実現された③「福音」である。「わたしは憐れみを好み、犠牲を好まない」(Hose.6:6)。それを可能にしたのが御子の受肉による執り成し、仲保の働きであった。人格的な正義と憐みが両立する和解には間に入る人格的な存在者を必要とする。一方、死に至るまでの従順により信に基づく正義を成就し、他方、罪から贖いだすべく身代わりの死を差し出すことにより愛を成就した、そのような仲保者のみが両立を可能にする。

 

4イエスとパウロの歴史的文脈―復活に至る「福音」の実現と復活に基づく「福音」の理論へ―

 旧約においてはこの愛に収斂され急進化されたモーセ律法を守りえないことが罪であるとされた。イエスのこれらの言葉に偽りなく、山上の説教に即して、彼を攻撃するパリサイ人はじめ人類の重荷を担い、この山上の説教が満たされるべく生きそして右の頬を打たれたら左の頬を差し出しつつ父の御心に従順に従いつつ十字架上で死んだ。「誰かわたしの後に従いたいと思うならば、自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」(Mat.16:24)。イエスご自身にとって自ら担うべき十字架とは全人類の罪であった。

 イエスは苦難の僕に見られるように旧約聖書が自らについて証するものであるという信のうちにご自身の生を通じて福音を言葉と働きにおいてリアルタイムに実現していった。彼はエマオの道の途上にて復活の主として弟子たちに顕れた。そのさいに、復活のキリストは「[旧約]聖書全体(en pasais tais graphais)」がご自身について書かれたものであることを説明した。「わたしがまだ汝らとともにいるときに、汝らに語ったわが言葉はこうである。「モーセの律法においてそして預言者たちにおいてまた詩篇においてわたしについて書かれているものごとはすべて成就されねばならない」(Luk.24:44)。そのとき復活の主は書を理解させるべくエマオへの道を随伴する弟子たちの微睡んでいた目を開き知識を授けた。そして彼は彼らに言った、「こう書かれている、キリストは苦しみを受けそして三日目に死者たちから甦らされ、ご自身の御名のうえにすべての民族に罪の赦しへの悔い改めが宣教される。それらはエルサレムから始められるが、汝らはそのことどもの証人である。そしてわたしは汝らのうえにわが父の約束を送る。汝らは至高の場からの力に覆われるまで街に留まっていよ」(24:45-49)。弟子たちはエマオへの途上のこの出来事を「われらの心うちに燃えしならずや」(24:32)と回想している。

 これらの言葉はイエスの十字架に至る途上でのリアルタイムの発言の報告であり、また復活の主の発言としての報告である。パウロの宣教はこれらのイエスの言葉と働きを前提にしている。「福音」③Pについてパウロは論じる、主の復活の勝利が示すように人類の罪は十字架上で既に処分された。キリストの弟子たろうとする者は苦難の僕の先駆同様に、人類の罪を担うことこそ光栄ある僕の道であるが、それは既に罪と死に勝利した復活の主と共に担うものとなった。「自分を否定せよそして自分の十字架を担ぎ上げよそしてわたしについてこい」とはパウロによれば、もはや肉に即して生きるのではなく、この罪と死に対する勝利者への信仰のもとに、復活の主の軛に繋がれて生きることに他ならない。罪とその値である死に対して勝利が打ち立てられたからこそ、イエスの「自分を否定せよ」を肯定の言葉として聞くことができる、つまり主イエスと共に重荷を担って歩むことである。「われらの主イエス・キリストによりわれらに勝利を賜る神に感謝しよう」(1Cor.15:57)。イエスがその信仰に基づく義の道を切り開き、それは彼の復活において確証されたからこそ、パウロは「信に基づかないあらゆるものごとは罪である」(Rom.14:22)と神ご自身にとってもひとにとっても信の根源性に基づき信に基づく義そして信仰義認論を展開することができたのである。

 かくして、パウロは業のモーセ律法をこう位置付ける。「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)。愛を成就するには信の道を通るしかないことが知らされている。「愛を媒介にして実働している信が力強い」(Gal.5:6)。

 このことの故に愛が満たされるとき、一切の律法は充足されると語ることが許容される。信と愛はパウロにおいても、一方、信は信の律法により啓示され、他方、「愛は業の律法の充足である」(Rom.13:10)として位置づけられるそのような関係においてある。パウロは愛が「義の果実」(Phil.1:11)、つまり信に基づく正義が生み出す肯定的な産物であるとする。そこで正義はもはや「目には目を償い」(Exod.21:24)のモーセ律法の比量的な正義ではなく「信に基づく義」(Rom.10:6)、「神の義は・・信に基づき啓示されている」(Rom.1:17,cf.Gal.3:16)、「キリストの信を介した義」(Phil.3:9)と特徴づけられる神が信に基づき義であることからひとも同様にキリストの信に基づき義とされる神の前の正義を意味し、その正義と愛の両立が打ち立てられる。イエスは信の従順を貫いた、そしてそこにおいて公正なさばき・正義と憐み・愛が新たな正義の理解のもとに和解した。これが福音である。

 「福音」とはパウロのまとめによれば「信じる[と神が嘉みする]すべての者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。そしてそれは「信の律法」(3:27)と呼ばれ、「業の[モーセ]律法」から概念上、より一層根源的なものとして判別されている。信の律法は正義をめぐる神の意志であり、「神の信」(3:3)に基づく神の義として告げ示されている。「業の律法を離れて」神の義は「イエス・キリストの信」を介して啓示されている。信の律法における信義は「分離されない」が、モーセの業の律法とは分離されうるのである(Rom.3:21-22)。神ご自身にとって義との関連において信はより根源的である。

 神の信が先行し、それに対応する即ち神に嘉みされる信に基づく義・正義を「人格的義・正義」と呼び、司法的次元における正義と概念上区別することにする、ただし、司法的な正義は神の意志である限り人格的正義に基礎づけられるはずのものであるが。イエスはユダヤ人が信奉するモーセ律法は道徳的次元のみにて比量的、応報的、配分的な業に基づく正義として捉えられうるものであることを提示している。それに対し十字架の受容に至るまでの従順の信を貫き、イエスは信に基づく正義を打ち立てることにより、「業の律法」を乗り越える。彼は比量、応報を超える新たな正義のもとに純化されたモーセ律法の正義をも信の従順により満たす。山上の聴衆が「天の父の子となるために」そして天国における報いとしての最終的な正義の実現への信仰によって、彼は地に固執する群衆を新たに「地の塩、世の光」となるよう導く(5:13-14,45)。

 

5主の復活が信仰を基礎づけ山上の説教を満たさせる。

 イエスのリアルタイムにおける十字架に至る信の貫徹とその義の証である復活が福音をもたらした。パウロはこの福音の実現を受け止めて、福音の理論を構築した。パウロはとりわけ「ローマ書」においてまた「ガラテア書」において正しい信仰とはいかなるものかの議論を展開する。永遠の生命の保証として主の復活はわれらの信仰を引き起こしそして信に基づく義を保証するものである。パウロは主の復活という神の歴史への介入から十字架とその生涯を捉えなおしたのである。

 なお、当のイエスご自身が苦闘のただなかにあったことを忘れてはならない。山上の説教が生命を懸けて生き抜かれたことによって、われらはひととして想定しうる最も偽りのない在り方が福音に包摂される。新しい生命が福音という新しい革袋に入れられた。その喜びの福音はパウロにおいて聖霊によりもたらされる「信じること」が喜びとなり信に基づき救いだす「神の力能」(Rom.1:16)の働きであると特徴づけられる。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。「ユダヤ人にもギリシャ人にも呼び出された者たち自身にとっては、キリストは神の力能でありまた知恵である」(1Cor.1:22)。信じうることの喜びと公的な信仰告白は自らが神に呼び出された者であることを証する光栄ある心の働きである。

 主イエスの甦らしを遂行したまう神の力能によって古い業の律法も新しい信の律法の光のもとに照らし直され新しくなり、業のモーセ律法は何等か新しい酒に変換させられる。それは少なくとも人類にひとりは福音の光のもとに山上の律法を成就した方がいるからであり、それゆえに神はナザレのイエスをご自身の御心に適う者として嘉みし、ご自身の信に基づく義の啓示の媒介として用いられたからである。かくして、業に基づく義とは異なる信に基づく義が、業の律法の冠である愛を実現させるその力能が人類に付与されるに至った。モーセ律法は信の律法に秩序づけられた。信の力能こそ彼の十字架と復活において明らかにされたのである。子供の治癒を懇願する男性の願い方に反応し、イエスは応える。「「できるものなら」と言うのか、信じる者にはあらゆることができる」(Mak.9:23)。「できる」というその力能は宇宙万物の創造者にして救済者である神にいたるまで一切との秩序を回復させる心魂の根源的態勢としての信である。秩序のもとにある信にあらゆる肯定的な力能が含まれるとして、そのあらゆるものごとは神においてそうであったように当然愛の業に秩序づけられ収斂される。それ故にこそ、われらは山上の説教をそれにより満たしうるのではないかとの希望を抱く。パウロはそれを理論化した。

 

 6排他性と寛容

 最後に、立花隆が躓いたキリスト教の持つ排他性についてイエスとパウロはいかなる態度をとっていたかを確認する。

 イエスは神の前で狭い真っすぐな信の道を歩みぬいた。立花はこの潔さに心の清さを見て惹かれたのであろう。それは同時に他の道を必然的に排除することになる。その彼には他の道を顧みる必要を感じることもゆとりもなかったことであろう。明確な父の意志の認識のもとに言葉と業において権威ある者として憐みを実現していった。彼は「イスラエルの失われた羊」のみに遣わされているという旧約的な文脈で宣教したが、異邦人の信仰に触れしばしば感動を経験しており、旧約の制約にとらわれることなく分け隔てなく信仰への嘉に基づく憐みの業を遂行している。神の意志の成就に向けて彼は多くの敵にかこまれながらその一挙手一投足において愛と正義と喜びから構成されている神の国をこの地上に持ち運んでいた。

 イエスは山上の説教において八福を展開した。そのなかで例えば祝福される心の態勢として、柔和な心、義に飢え渇いている心、憐み深い心、清い心、そして平和を造る心、そのような心の持ち主が祝福されていると教える。これらすべては心の深いところでの平安を維持している者たちであることがわかる。外界からの様々な攻撃や刺激に対して、揺さぶられない平安を持っている人々である。その平安の根拠は神と神の国との関連において人生を捉えることができていることにある。確かにそのような者たちは祝福されている。イエスご自身がその八つの心的態勢にあり祝福されたひとであった。端的に神の子となること以上に祝福されたことはないであろう。

 憐みを受けているからこそ、ひとは憐みや柔和な心を得る。善きサマリア人は憐み深く窮境にあるひとを介抱するとき、自ら憐みをかけている今・この時において憐みを受け取り直していることを知っている。憐み深くありうること、柔和でありうること、心の清くありうること、平和を造りうること、それだけで平安があり、喜びである。自らの悲惨を知る者にとっては、この喜びが湧いていること自体が憐れまれていることの証拠であると知っている。このような平安な心の状態それ自身が祝福を受けていることであると認識し、感謝している。即ち既に憐れまれているからこそ、平安でありうる。憐みうる者は既に憐みを受けているのである。そしてさらに憐みを受けるであろう。すべてが、憐まれていることのもとに遂行される。

 そこでのひととの交わりの規準となるものは「この言葉はこの行いは平和を造るか、正義を実現するか、心の柔和さと清さと憐みの表れか」というものである。これらは人々とのあいだで競争的、勝者たろうとする者にはどうしても採用できない行為規準である。山上の説教への納得のもと、ナザレのイエスの弟子であろうと覚悟する者はこの道を行く。何よりもキリストと共に歩む。それを望まない者は心の平和と平和を造る者たることを諦めることになる。

 ひとは言うでもあろう、他の仕方で柔和、憐み、清さ、正義心を追求できると。他の仕方とはいかなる仕方か。神の国とご自身の義を求める信仰によるものではない仕方がまず考えられる。生得的に素直で争いの嫌いな柔和なひとはいることであろう。それは祝福されていることであろう。その場合、そのひとがコントラストのなかで自らの憐みや柔和を受け止めているかが問われることであろう。そうでない自然にあふれる柔和や憐みはキリストのそれとは異なることになる。この自然的な共感能力はイエスのそれに似ているであろう。ただし、イエスは明確な神の国の現実の認識のもとにそのコントラストのうちで困窮している人々に憐みを抱いている。そのひとには無意識に沈んでもいよう、かつて憐れまれたことを思い返すよう促されることであろう。

 さらに他の仕方のもう一つの在り方として、信心は持つがナザレのイエスの父への信仰ではなく、仏が伝える永遠の法や他の神々への信仰により同じ感情を得るというものである。イエスの弟子になろうとする者にはこの他の仕方を尊重することが求められる。しかし、イエスご自身は言う、「わたしが道である、また真理である、そして生命である。わたしを介するのでなければ、誰も父のもとに行くことはない。汝らはもしわたしを知ったなら、わたしの父をも知ることになるであろう。そして今から汝らはご自身を知っておりまた見てしまってもいる」(John.14:6-7)。

 イエスはご自身が神の子であるという自覚にあるとき、他の道を勧めることは考慮の外にある。それは無責任であり信仰の本質に反すると言うべきである。信仰は二心なき心魂の根底における幼子のごとき混じりけのない承認であり信頼であり委ねである。「あなたは仏教の世界で育ったのだから、その道を追求しなさい」とイエスご自身が言ったとしたら、山上の説教における彼の真剣さは何であったのかという疑念がわくのみならず、大いなる失望のもとに彼の御跡についていくのを止めてしまう者が続出することであろう。

 聖書の神は「わたしをおいて他に神があってはならない。・・わたしは妬む神である」(Exod.20:3-5)と言われる神である。「生命に通じるもんはなんと狭く、その道も細い」(Mat.7:14)。キリストにのみ救いがあるという信仰は排他的に見えても信仰の根源性からして少なくとも自らに関わる限りにおいては他の道の排除は要請されるものである。神は「妬む神」である。信仰においては他者との水平的な関係ではなく、他人はいざしらず、自己と神の信実な関係が問われている。神がイエス・キリストにおいて信実であったとき、信仰により応答するのかそれとも裏切るのかが問われている。

 しかし、それは非理性的な狂信とも偏った感情である迷信とも異なるものであるに相違ない、正しい信仰である限り。ひとは他の道にいくひとに言うであろう。「少なくともわたしはどこまでもイエスについていく、人生が終わってしまわなければわからない事柄に関して、人生の途中で様々な挫折により捨ててしまったなら実験は未遂に終わる」、また「未来形で語られる神の子となることや慰めを諦めることになるであろう」。少なくとも一緒の道を歩めないことを告げるとき、こう言うであろう。「あなたがあなたの道を行くことは尊重する。ただし双方とも迷信や狂信に決して陥らない仕方で信仰生活を遂行しよう」。他の道を諦め、捨ててnarrow and straight roadを歩むことは信仰生活の基本となり、そこに信じることにおける喜びがわきおこる。信仰とは人生をかけることである。あれもこれもという二心は単に欲深にすぎない。

 ひとはただイエスに従う人生においてその確かさのエヴィデンスを蓄積していく。この世が与える平安とは異なる平安をいただくことを経験する。それは彼が永遠の生命にあるからこそ与えることのできるものである。イエスは言う、「わたしは汝らに平安を遺していく、わたしの平安を汝らに与える、わたしが汝らに与えるその仕方はこの世界が与える仕方のものではない。汝らの心は騒がさせられるな、また恐れさせられるな。汝らは私が汝らに語ったことを聞いた、「私は去っていくそして汝らのもとに戻ってくる」と。もし汝らが私を愛していたなら、わたしが父のもとに赴くことを喜んだことであろう」」(John.14:27-28)。イエスは父とともにある平安の故に、心を騒がせることも恐れることもない。「天の父の子」となった者たちも同様である。そして迫害の歴史において、その証は多く与えられてきた。この不思議な平安とそれに伴う喜びこそ神の国の証、エヴィデンスであると言える。

 パウロは不可視なものについての接触的な知識である「叡知(ヌース)」という認知機能について言及しつつ、神から与えられる平安についてはヌースがヒットすることのない仕方で与えられることがあると主張する。ひとは自らの平安を認識できないことがあるにしても、不思議な平安に護られることがある。パウロは言う、「あらゆるヌース(叡知)を超えている神の平安が汝らの心をそしてキリスト・イエスにある汝らのノエーマタ(かつて得た叡知内容)を護るであろう」(Phil.4:7)。この平安が現実のものでなければ、キリスト教史においてあれほどの殉教者が平安のうちに死んでいくそのような状況を想定することは難しい。そこでは正義のために迫害されても、喜んでいることができる、言ってみればこの世の生死を突き抜けている心の態勢にあるからである。「われには生きることはキリストである。死ぬことは益である」(Phil.1:21)。

 この突き抜けのもとに、認知的、人格的態勢が成長していく。「われ祈る、汝らの愛が、知識においてまたあらゆる感覚においてますます満ち溢れ、汝らが[重要度の]諸差異を識別するに至ることを、それはキリストの日に、汝らが染みなく、咎めなき者となるためである」(Phil.1:9-10)。「平和の神ご自身が汝らをあますところなく聖なる者とし(hagiasai)、汝らの霊と魂と身体とがわれらの主イエス・キリストの来臨の時に備え非のうちどころのないよう完全なまでに護られるように」(1Thes.5:23)。このような認知的、人格的成長がある限り、その信仰は狂信からも迷信からも自由な正しい信仰であると語ることができる。

 イエスの軛に繋がれ歩んでいるとき、次第にイエスの歩調に合うものとなり、次第に造り変えられていくであろう。この世界に何ら確かなものがないと思い絶望する者でも、このような心の働き、状況においてある者が祝福の対象であるなら、人類にその一番低い所にセーフティネットは明確に張り巡らされていることを知るにいたる。イエスのもとにならいくことができる。

 このような人物に対し、君は他の道を認めていないと言って誰が責めることができようか。その批判の次元の届かないひたすらなる道であった。イエスに二心があったとすれば、責めることもできよう。しかし、信の従順を貫いた者に不寛容を責めることはできない。部下の癒しを求める百人隊長、涙で足を洗う罪の女性に、自らの病気の子を犬にたとえて憐みを請う異邦の女性たちにその信仰に感動して憐みを示しているイエスに何が足らないというのか。イエスは目の前の隣人の救いに今・ここで没頭していた。その言葉と働きにおいて偽りを見出しえない者に、リアルタイムにそのつど最善を尽くしており、その状況においてそれ以外の振る舞いの想定できない者に対し、不寛容や排他性を責めることができるであろうか。彼がもし十字架から降りてきてしまったなら、彼の人生について新約聖書が書かれることはなかったそのような人であった。責める者があったとすれば、ものごとをよく見ず、ひとは他宗教に寛容であるべきと単におのれの願望や欲望をイエスに投映しており、目の前の隣人を愛しているイエスならざる自らの理念に基づきそこにいないひとを責めている。譬えて言えば、或る丸い集合があるとせよ、その外は空集合であるとせよ。要素の何もない空集合にあたかも何か完全なメンバーがあるかのごとく、要求する者に似ている。人間でない者を人間であると主張している者に似ている。

 それでは立花が嫌いだと言ってはばからないパウロはどうであろうか。われらはここまでパウロは明確な自覚のもとにナザレのイエスがキリストであることを告白しつつ、イエスの生涯が全く神の意志を成就するものであったことを論証している。イエスは今・ここのエルゴン(実践)に生き、パウロはそのロゴス(理論)を明らかにしたと言うことができる。もちろんパウロもキリストを宣教するというエルゴンにおいてあるのであるが、イエスのエルゴンはその一言一句、一挙手一投足が神の国を持ち運んでいたのに対し、彼の書簡はその福音の宣教のエルゴンに従事している。福音書がイエスの言行を報告しているのに対し、パウロは自らの書簡において復活のキリストの出来事を報告しつつ、それが人類の救済の出来事であることをイエスの信と愛の生涯の理論化により論証したと言うことができる。

 ひとはパウロを非難するでもあろう。なぜ福音の排他性や不寛容の非難に対し手当てをしなかったのか、と。彼は同じ欠け多き人間として、理論化の過程で他の救いの教説に寛容を示すべきであったのではないか、と。パウロは「わたしは汝らの肉の弱さの故に人間的に語る」(Rom.6:19)と譲歩を示しつつ、人間中心的な議論をも展開している。そこでは人間は神から独立した者として「義の奴隷」でも「罪の奴隷」でもありうる中立的な自律的存在者である。パウロはこの譲歩により人間を滅ぼすべく罠をかけたのであろうか。どうぞ他の宗教に行ってください、それにより罪となり滅びてくださいと。キリストの弟子としてそれは想定できない罠である。イエスご自身、ひとびとの心の頑なさ故にモーセが離婚を認めたケースを紹介するように、弱さに譲歩することがあるが、そのつど悔い改めて信仰に立ち帰るよう促している(Mat.19:8)。パウロは「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(14:22)とそれぞれの責任と自由において持つ信仰を神ご自身の出来事即ち、イエス・キリストの信においてわれらの信仰を理解しておられることを信ぜよとそのつど神の前への立ち帰りを促す。

 ひとが持つ心的態勢としての「ピスティス(信・信仰)」には「成長」や「増大」、「強い」「弱い」が帰せられるものであり、人々のあいだでまた一人の歴史において異なりや変動がある(Phil.1:25, 2Cor.10:15, Rom.14:1)。「信仰において弱い者を受容せよ、損得勘定を介した分断に至ることなく」(Rom,15:1)。「われらはわれらに賜った恩恵に即して異なる賜物を持っているので、もし預言を持つならその信仰の割合に即して[賜物を用いよ]」(Rom,14:1)。信に基づき、人格の成長と認知的成長がめざされる。

 パウロは宣教のさいに、キリストを告げ知らせるために何であれ肯定的、創造的、喜ばしいものに対して全方位的に心に留めた。「何であれ真実なるものごと、気高く、正しく、清く、愛すべき、良き聞こえのあるべきものごとを、またもし何か徳そして何か称賛に値するものがあるなら、汝らはこれらを心にとめよ」(Phil.4:8)。あらゆる人々への福音宣教の覚悟はこう語られている。「わたしははあらゆるものごとから自由であり、わたし自身をあらゆる人々に奴隷となした、それは多くの人々を獲得するためである。わたしはユダヤ人にはユダヤ人のようになった、ユダヤ人を獲得するためである。律法のもとにある者たちには律法のもとにある者のようになった、わたし自身は律法のもとにいないけれども、律法のもとにある者たちを獲得するためである。律法なき者たちには無律法の者のようになった、神の無律法者ではなくキリストの律法のうちにいるけれども、それは律法なき者たちを獲得するためである。わたしは弱い者たちには弱い者となった、弱い者たちを獲得するためである。あらゆる者たちにはあらゆる者となった、あらゆる仕方で幾人かを救い出すためである。福音の故にあらゆるものごとを為す、それはわたしが福音を共に分かちあう者となるためである」(1Cor.9:19-23)。

 

7結論

 パウロは仏教徒やイスラム教徒に対しては彼らのようになったことであろう。神の前の福音は揺るがないからである。彼は人々との交わりにおいては肉の弱さへの譲歩の故にどこまでも譲ることができたのである。生命をさえ捧げたのである、彼らを救いにもたらすために。それでも彼の偏狭を責めるのであろうか。われらはここまで良心について業の律法の愛への収斂について、そして信を介しての愛の成就について、総じてパウロは福音を成就したナザレのイエスに基づき福音を理論化したことを確認した。二人のあいだに歴史上の置かれた状況は異なるが、神の子自身によるご自身の理解とその神の子についての理論的な理解とのあいだに何ら齟齬のないことを確認してきた。従来福音が正しく理解されなかったため、カトリックとプロテスタントが争ったのであり、われらは今・ここに和解の言葉を提示できる。パウロはイエスの忠実な弟子であり、宣教者であったからである

 この新しい「義の言葉」(へブル書5:11)について立花隆氏の意見を聞いてみたい。実際、2018年に編集者が立花氏の意志を確認したうえで彼に拙著『信の哲学』(北大出版会 2018)をお送りした。そのままになってしまったが、いつか彼と議論できる日のくることを待ち望んでいる。彼の霊に平安がありますように。

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