何を為しても赦されるのか(その2)―神の憐みと正義―
何をしても赦されるのか?(その2)―神の憐みと正義―
2021年7月4日
[先週は「イエスとパウロ―故立花隆氏のイエス論手掛かりに―」として先輩の追悼をこめて学寮時代の彼の真摯な人生の取り組みにふれつつ、イエスの今・ここの実践をパウロは忠実に理論化したことを確認した。福音と律法の関係を正しく理解するとき、二人のあいだに齟齬のないことを確認した。先々週「何をしても赦されるか―神の憐みと正義―」は時間の都合で原稿を読まずに自由に話をした。その原稿をアップしたが、今週は(その2)としてその原稿を改善したものをアップしつつ、講義した。講義は短く自由に話したものが録音されている。これも福音と律法の正しい理解によって解決される]。
聖書朗読
「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。
1はじめに
6月16日水曜日の朝礼拝はI君が担当で、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りのところであった。I君は「サムエル記」をひきながら、イスラエルの王ダビデの軍隊の司令官ウリヤとその妻バテシェバとダビデ直属の預言者ナタンに言及しながら、聖書の中心的な問題である罪の赦しについて話した。ダビデはウリヤの妻を略奪した。戦闘の状況を報告にきたウリヤに妻のもとで休むようにすすめるが、部下が最前線で戦っているこのときに妻と過ごすことはできないとして、野営した。そこでダビデはひそかに伝令をだし、ウリヤを最前線に送り、死なせた。預言者ナタンがダビデのもとにやってきて貧しい羊飼いが大切にしていた一匹の羊を多くの羊を所有する富者が奪ってしまった話をした。ダビデは怒りそのような悪者に死を宣告すると、ナタンは「汝がそのひとなり」と難詰した(2Sam.12:7)。ダビデは悔い改め、その祈りが詩篇51篇として遺されている。I君は詩篇を註解しながら、条件文で「もし悔い改めるなら、何をしても赦されるのか」という問いかけという仕方ではあるが、その一つの可能な解釈を提供した。これは聖書の中心的な問いのひとつである。
春以来毎週日曜聖書の学びを通じて競争や嫉妬や憎しみなどの争いでもない憐みの心を獲得すべく、福音書と格闘してきたが、ここでは罪の赦しという問題を神の憐みと正義いう視点から考察したい。ドストエフスキーは『カラマゾフの兄弟』のなかでやはりこの問いを引き受け、「一切は赦されている。しかし、一切が赦されていることを知っている者はそんなこと(赤子を槍で突き刺したり、少女を凌辱したり)をしない」という言葉で神の憐みとひとの罪とその克服についての解決案を提示している。しかし、この知識に訴えた理解において、何をしても一切が赦されていることが神ご自身の認識であると想定されているからこそ、その事態が知識の対象とされている。悔い改めさえすれば、福音を信じさえすれば誰もが何でも赦されるのであろうか。そこではどのように、どれほど悔い改め信じればというわれらの悔い改めや信仰の程度は問われないのか。ここに神の前のことがらとひとの心的態勢がそれぞれいかなるものであるか、そしていかなる仕方で関係しているのかが問われる。神による一切の赦しの意志は「知られうる」ものとして啓示され知らしめられているのであろうか。そのように知らされていなければ、誰も一切が赦されていると知ることはできないであろう。そこではドストエフスキーの言葉は反聖書的なものとなる。啓示されている福音と道徳的な有徳さ、聖書的には業の律法の成就のあいだにどのような関係があるかこそ明らかにされねばならない。
2. 美しく問う
まず、そこでの問いは、何をしても赦してしまう神は子供を甘やかしてダメにしてしまう父親のようなものであり、そのような神は知恵もなくまた正しくないのではないのかというものとなろう。他方、父親があまりに厳しければ、子供は萎縮し自己不信に陥ってしまい自ら責任をもって判断する主体となりえないか、反抗するかに走りがちであり、親子のあいだに共依存や反発はあっても愛の関係を築けないであろう。かくして憐み深さと正しさが両立することを示しえてのみ、憐みについて正しく知ることができるのではないかという問いが起きよう。甘やかしすぎまたは厳しすぎのダメ親父は自ら愛や憐みということがらを正しく知っているとは誰も言わないであろう。
神はそのようなダメ親父に比較させられるようなことがあってはならないはずである。道徳的な危機にもたらすそのような神は信じるに値しないのではないかが問われよう。このような問いがただちに続く。思考を前進させるには一歩一歩問いをたて答えを見いだし、そのうえでその答えが新たな問を生むそのような「美しく問うこと」(アリストテレス)が求められる。何をしても赦されるかというあいまいな問いが立てられた場合に、その問いそれ自身の理解をめぐり多くの問が問わねばならない。イエスの十字架上の罪の贖いの行為はいかなる仕方で遂行されたのか、いかなる効力を持つのかが神学的に問われよう。罪の赦しと恩赦とはどのような関係にあるのか。たとえ神の前で「雪よりも白くなる」(Ps.51:9)ことがあったとしても被害を被った人々は憎しみと有罪を取り消すことはないであろう。そしてひとは罪を犯した場合に、神による罰を恐れているよりも、それが人の前で暴かれこの世で一切を失う者となることを恐れているのではないかも問われる。その場合、神へのどこまでもの不忠実、偽りが明らかとなる。なんとも人間とはどこまでも自己中心的なものである。
3. 宗教に求められるものと道徳の関係
ひとは宗教に藁にも縋る思いで救いを求めてきた。宗教はおのれの悪さに悩みまた苦しむ者を救うところにその真骨頂があるのではないのかも問われてきた。そこでは、宗教を信じるだけで、何をしても赦されるようになるのか、という自らの罪責の重さに慄き絶望から、或いは罪や煩悩に悩む衆生を救うという宗教の機能に対する願望からくる問いが生じるであろう。そこではどこまでも自分の神理解を投影し優しい神をしたてあげその自ら描く神に救いを求めてきたのではないか。いや宗教とはとりすましたものではなく、他のなにものにも救いを見出しえない者のためにこそあると応答されることであろう。
その究極は万人救済説(universal salvation)であり、信じる信じないにかかわらず神の憐みのゆえに、弥陀の慈悲の故に、罪悪深重、極悪熾盛、地獄ぞ一定住処ぞかしの身にとっても救いは確かなものであると信じる。この信仰というものにはどれだけのマジックが働くのかが問われている。
ルターの次の言葉も信仰がもたらす大逆転を知識との関係において捉えている。ルターは「義人とはおのれの罪があまりに深くて、どれほど深いか知りえないことを知っている人間だ」という主旨のことを「ローマ書註解」で語っているが、罪の深さから義人への大逆転こそ信に求められてきた。親鸞の悪人こそ救われるという悪人正機説も救いのなさのただなかで信に縋る以外に「別の子細なき」状況が語られている。「親鸞におきてはただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひと[法然]のおおせをかうぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」。「念仏」とは信仰のことであるが、親鸞の師法然はこう語っている。「念仏といふは、ただこころをひとつにして、もはら阿弥陀の名号(みょうごう)を称念する、これを念仏とは申す」(山崎正一『親鸞』p.58集英社)。親鸞は「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という理解のもとに念仏と行即ち道徳的行為を対置して、道徳的には悪いことしかできず地獄がふさわしい自分に残されているのは信仰だけであるとする(「歎異抄」第二章)。信にはどれほどの大逆転のマジックがひめられているのか。彼ら宗教の達人たちは信、信仰について正しく理解した者は憐みも正しく理解できると主張しているように見える。
ひとは直覚的に信じさえすれば何を為しても赦されるという類の信念は正しくないと感じることであろう。誰であれ、万人が救われるのであるなら、ひとは自らの行為に何ら責任を負うこともなくなる。そのような考えはモラルハザード(道徳的危機)を引き起こしてしまう。ただ、救いを必要としている者の主観的現実としては、おのれの悪さに絶望し、見失われており人生をまっとうできないという感覚を持つことであろう。そのような者には藁にも縋る思いで「汝の罪赦された」と過去形において語られるパッセージを血眼になって探すことであろう。宗教はそのような者を救う力あるものでなければならないはずである。
内村鑑三は或る文脈においては「道徳無用論」を唱えることができなければ、宗教はその力と醍醐味を失うという主旨の発言を『ロマ書註解』のなかでしている。また黒崎幸吉先生は恩恵の無償性についてこう語っている。「自分の罪がキリストの十字架の贖いによりて、全部しかも永遠に赦されたことをそのままに確信することはなかなか容易ではない。その故はそれがあまりにも不当利得のごとくに見えるからである。しかしながら、この不当利得すなわち神の恩恵をそのままに受けてこれを信ずることが本当の信仰であり、すなおにこれを確信することによりて、始めて「信仰のみによりて義とせらるる事」の何たるかを知ることができる」(『閃光録』 p.83、1973)。
この信じるだけで罪赦され、義とされることは不当利得なのであろうか。黒崎先生によれば「本当の信仰」はその不当利得ではないかという懐疑を乗り越えるものであるとされる。しかし、不当利得であると思われるようなことを人生の根幹にすえることはできない、潔よくないとして、自ら神に頼ることなく、自らの責任で人生を切り開いていこうとするひとも多いことであろう。この事態は正しく理解されねばならない。実際、パウロも「律法に死んだ」即ち業のモーセ律法のもとに道徳的世界に即して生きることをやめたと語っている。とはいえ、律法はキリストとの新しい生命の関連において語られて新たに秩序づけられており、正しく理解する必要がある。パウロは言う。「わが兄弟たち、汝らも死者たちから甦らされた他の方のものとなるべく、キリストの身体を介して律法に死んだのであり、それはわれらが神に対し実を結ぶ者たちとなるためである。われらが肉にあった時、律法を介しての罪の欲情が、死への実を結ぶべくわれらの肢体に働いた。しかし、今や、われらがそこに閉じ込められたもののうちに死にその律法から解放された、その結果われらは霊の新しさにおいてそして文字の古さにおいてではなく仕えている」(Rom.7:4-6)。
4信に基づき道徳的に有徳である場合にのみ、恩恵と責任は両立する。
宗教と道徳の関係がこれほど緊張したものであるとき、一方で、恩恵の無償性、つまり端的な贈り物であることを明確に論証し、他方で各人の責任ある自由が確立されねばならない。ドストエフスキーの恩恵を「知っている人間」は悪行に身をそめることはないという「その知識」とはいかなるものであり、いかなる仕方で善行を生み出すかの明晰な説明が求められる。神の前のことがらと人の前のことがら、道徳と信仰の関係、そして正義と愛の関係が明確に秩序づけられ把握されねばならない。
この大きな問を解くには多くの議論が必要とされることは明らかである。神学や聖書学そして文学は恩恵の無償性、贈りもの性についてどこまでも深くキリストの贖いを掘り下げることによって説得的で美しく語ることができるであろう。福音がもつこの恩恵の豊かさこそ、日曜のメッセージに含まれるべきものであるが、今ここではそれに従事することはできない。
今後の信仰と正義と愛の関係をめぐる議論の基礎として、いくつか基本的な事項を確認しておこう。誰もが同意することとして、信・信仰はどれだけ人格的に悪くてもまたどれだけ認知的に愚かであっても持つことができる、即ち幼子のような仕方で心的態勢の実力いかんにかかわらず心魂の根源に生起する心の働きであるように見える。そこでは善悪をめぐる人格的有徳性も真偽をめぐる認知的有徳性も問われることがないため、正しい信仰ということも問題にならないように見える。藁にも縋る思いで神や仏に向かい始めるという意味では、そうでもあろう。ただやはり誰もが同意するであろうこととして、人類は立派な人間(聖者)になりまた知識を蓄え思慮深い人間(賢者)になることが、そのひとが正しい信仰の持ち主であることの証拠、エヴィデンスになることも否定されないであろう。無律法主義の無頼漢がたとえわたしは救いを信じていると言っても、誰もそのひとを信用することはないであろう、ただし神がそのひとを憐み救い出してくださるよう祈るであろう。
かくして憐みに縋れば何をしても赦されるというとき、どのような仕方で憐みに縋るのか、信じるのかが一方で問われることになる。他方で、憐みや恩恵の無償性について、明確に理解できないとき、ひとは宗教のもつ力動的な救いをも経験できないであろう。
5. 信から愛へ
ここではイエスとパウロがこの心魂の根底に生起する信と神の憐みそして正義の関係について明確に議論しているので、その理解の大枠を提示したい。神の憐み、恩恵と神の正義そしてひとの信仰の関係について正しく理解したい。
パウロはモーセの「業の律法」を一概に否定しているわけではなく、新たに啓示された福音即ち「信の律法」のもとに秩序づけている(Rom.3:27)。パウロがその教えを理論化しようとしたそのもととなるイエスご自身山上の説教のなかで律法への尊敬と使命を語っていた。「わたしが[業の]律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと汝ら看做すな。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、わたしは汝らに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最小の者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるこの者は天の国において大きな者と呼ばれるであろう。わたしは汝らに言う、もし汝らの義が学者とパリサイ人よりもいっそう優るのでなければ、汝らは天の国に入ることはないであろう」(5:17-20)。
ただし、イエスもパウロもモーセ律法を愛に収斂させており、愛が満たされたなら、一切の律法が満たされていると主張していた。イエスは「愛」が一切の律法のなかで「偉大な戒め」であると理解しており、そのもとに他の一切の戒めが秩序づけられる限り、この主張は理解可能となる。愛は業の律法の充足、冠として位置づけられるそのような関係においてある。「「師よ、律法のうちいかなる戒めが偉大なものか」。イエスは答えて言う、「汝は汝の神、主を汝の心を尽し[良心に即し]そして汝の魂を尽し[生命ある限り]そして汝の思考を尽して[理性に即し]愛するであろう」。これが偉大なそして第一の戒めである。第二はこれと同様のものである、「汝は汝の隣人を、汝自身の如くに、愛するであろう」。これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちが依拠している」(Mat.22:36,cf.「律法の冠」、「律法の充足」Rom.13:9,10)。愛が満たされる限り、業の律法としての正義は満たされており、あらゆる律法がめざす愛を実現する限りにおいて一点一画とも過ぎ去らないと言うことができる
愛は業の律法の冠である。愛をそれ自身において実践できるかが問われている。パウロは「業の律法に基づくすべての肉は神の前で義とされないであろう。なぜなら、[神による]罪の認識があるからである」(Rom.3:20)として誰も愛を愛それ自身として満たすことはできないと主張する。パウロは「愛を媒介にして実働している信が力ある」(Gal.5:4)と語り、イエス同様に信に基づき愛に至ろうとする。パウロは業の律法のもとに生きる者はそのもとで審判を受けると言う。「汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しき裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」。かたや、忍耐に即して善き業の栄光とその名誉とその不朽とを求める者たちに永遠の生命を報い、他方、利己心から真理に服せず、不義に服する者たちには怒りと憤りがあるであろう」(2:5-8)。他方でパウロはこうも言う、「働く者にはその報酬は恩恵によるのではなく、当然のものと認定される。しかし、働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」(4:4-5)。ここに矛盾はないのであろうか。
この「不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」という主張はわが国においては専修念仏を唱える親鸞の「悪人正機説」の系譜に属するものである。魂の根源的態勢としての念仏と業、信仰と愛の関係は或る人々の唯一の救いの希望ともなり、また克服不能な妨げともなってきた。一般的に言って、所謂point of no return(後戻りできない一点)、消せない過去を経験してきた人々にとっては、自らの自然的な生を何事もなかったかのように継続することはかなわない。それ故にこそ信や念仏の力に縋る以外に生きる道が残されず、そこに救いを見出してきた。ただ「南無阿弥陀仏」を唱え続けること、ただ「汝の罪は赦された」を唱え続けること、それが求められる信の行為であるとされた。そしてそれは道徳的行為と看做されず、それより根源的な心魂の根底における一心不乱な祈りの働きであると看做された。ひとが自らの業や他人の業を振り返り、自他を審判するとき、その者は業の律法のもとに生きている。その業が既に赦されたことを信じる者は信の律法のもとに生きていることがパウロにより報告されている。
二つの律法の異なりは、一方で業の律法のもとでは各人の道徳的責任が問われており、盗むか・盗まないか、貪るか・貪らないか等の二者択一が他人にもある程度認識できる仕方で問われているが、信の律法のもとでは神がイエス・キリストにあって信実であったとき、信じるか・裏切るかが問われている。そこでは神と個人の関係が問われており、他人が軽々に判断や裁くことのできない縦の関係が成立しており、神の側からの視点が不可欠である。信じるか・信じないかという業の律法での二者択一ではなく、より根源的なものとして神の信への応答が問われている。ひとは裏切るなら、そこでは神とのあいだに信と信の人格的関係が結ばれてはおらず、信に基づく義も生起してはいない。「おおよそ信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。これが信の根源性を明らかにしている。
信の律法は神にとってもそしてそれ故にひとにとっても業の律法よりも根源的なのである。以下業の律法は罪の自覚を生じさせ悔い改めを介して信の律法に導くことにその機能があることを確認する。信の律法のほうがより根源的であることは、立派な行いなしにもその信が神に嘉みされる場合には罪赦されるという恩恵が確保される。
「いずれの行も及び難き身」には、ただ「見よ、われは汝の不法を雲の如くに、そして汝の罪を霧の如くに散らした(apēliphsa)。われに立ち返れ、そうすればわれは汝を贖うであろう」の言葉に身を委ね、「地獄ぞ一定すみかぞかし」という思いに捕らわれるとき、ただ「わが思いは汝らの思いと異なる」を思い返し続けるだけであろう(Isaiah 44:22,55:8)。律法主義から解放され、信の律法のもとに生きること、「信じます」という告白がそのつど求められている第一のことがらであり、生の更新の唯一の可能な契機となる(Rom.10:10)。甦りを信じうることそしてそれを告白できることに喜びが伴っているとき、そこには聖霊の働いていることの証になるとパウロは言う。「希望の神が、汝ら聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れるべく、信じることにおけるあらゆる喜びと平安で満たしたまうように」(Rom.15:13)。
6. 信仰義認の教説に対する反論とパウロの応答
信の心魂における根源性は承認されよう。しかし、通俗的な信仰義認論や悪人正機説の理解によれば、どんなに悪人であっても、ただ信じさえするなら神は罪を赦免し義とする、弥陀の慈悲を受けるというが、そのような神や仏は不義ではないのか、立派な人間だけが救われるに値するのではないかと古今東西を問わずひとびとは困惑してきた。また「われヤコブを愛し、エサウを憎んだ。・・われが憐れもうとする者をわれは憐れむであろう。・・欲する者を彼は憐れみ、欲する者を彼は頑なにする」そのような神は不義なのでないか、依怙贔屓ではないか、「誰が神に逆らえようか」と嫌疑がかけられてきた(9:13-19)。パウロは第一に神の主権によりしかも憐れみの啓示に基づき応答する、「それは望む者のでも、奔走する者のことがらではなく、憐れむ神のことがらである」(9:16)。神に不正の嫌疑がかけられるのは神の憐れみを知らないからである。
一般的に言えることは、「神には偏り見ることがない」(2:11)とすれば、神が業の律法の適用において、また信の律法の適用において一つの明確な基準のもとに判断が遂行されているなら、憐みに依怙贔屓があることにはならないということである。業の律法のもとに生きる者には業の律法が適用され、信の律法のもとに生きる者には信の律法が適用されているならば、そこに依怙贔屓はないと言えよう。信の律法を充足する者とは「イエスの信に基づく者」また「アブラハムの信に基づく者」として、その信が神に嘉みされる者のことである(3:26,4:16)。
神の自由な選びにこそ恩恵の無償性が成り立つ。「ご自身が予め定めた者たち、その者たちを彼は呼びだされもした。そして彼が呼びだした者たち、その者たちを彼は義ともされた。しかし、ご自身が義とした者たち、その者たちに彼は栄光をも賜わった」(8:30)。しかし、そこに神の恣意性の疑いがもたれてきた。神の永遠の選び、予定ということが定まっているなら、どこにわれらの自由があろうか。
ここでは恩恵の無償性、贈りもの性について詳しく展開することはできない。神学や宣教そして文学においてこの神の恩恵はどこまでも豊かに語られることであろう。ここでは、神には偏り見ることがなく、不正がないことをパウロの議論から確認したい。どんな罪をも赦してしまう神は不正ではないのかという問いは道理あるものである。それに対してパウロは適切に応答していることを確認するだけに今回は留まる。
「[業の]律法は怒りを成し遂げる」(Rom.4:17)とあるように、「神の怒り」の規準は「業の律法」、モーセの十戒を介して明確に啓示されたとパウロにより報告されている。「ローマ書」一章の議論の展開としてまず「神の義」は福音において啓示されていることが提示され、その神が義であることの第一の理由が神の怒りにあると報告されている。(B)「なぜなら神の怒りは天から不義のうちに真理をはばむ人間たちのすべての不敬虔と不義のうえに啓示されているからである[現在形]」(1:18)。神の怒りは今・ここで真理をはばむと神に看做されている人間たちの裁量のもとにある不敬虔と不義という心魂の態勢のうえに、即ち心魂の或る在り方のうえに「引き渡し」、勝手にしろという仕方で啓示されている(1:24)。怒りの啓示内容は人間化された心的状態ではなく、神の行為において顕されている。そして彼の議論のなかではその怒りは福音に立ち帰らしめるものとして位置づけられる。
(B)「神の怒り」の啓示の報告の結論として「業の律法に基づくすべての肉はご自身の前で義とされることはないであろう[未来形]。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と終わりの日に罪人として審判されるに至ることがこの啓示の含意として導出されている(2:20)。ただし、この未来形表現により、当人が悔い改めた場合には事情が異なることもあろうことが含意されている。悔い改めとは業の律法のもとから信の律法のもとに移行することである。ただし、自らが信の律法のもとで信仰を持ったか、業の律法のもとで貪りとして信仰をもったかは、終わりの日に知らされる。業の律法のもとに生きる者は義とされないことが一般的に知らされている。悔い改めは神の意志に背くことから神の意志に服し信に基づき義とされることにより遂行される。「恐れと慄きをもって汝の救いをまっとうせよ」(Phil.2:12)。
神の義の第一論証であるこの怒りと業の律法のもとにある者の不義の結論に続き、第二論証が展開される。(A)神の信義の啓示が報告される。(A)「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている[現在完了形]。・・神は、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」(3:21-26)。(A)義人はいかなる者であるかに関して、「神はイエスの信に基づく者を義とする[現在分詞形]」により啓示内容として一般的に知らされている。さらに、信の律法のもとにあり(A)「イエスの信に基づく者」と看做される者についてはアブラハムによる先駆的事例がある。「アブラハムにその信仰が義と認定された」(4:3)。このようにイエス以前の「アブラハムの信に基づく者」(4:16)に関しても同様である。なおイエスご自身は正しい信仰を「幼子」の如き信仰と表現することがある。「まことに汝らに告げる、幼子のように神の国を受け入れない者はそこに入ることはないであろう」(Mak.10:15)。どれほど認知的に人格的に愚かで悪くても、そうであるからこそ「幼子」のように信じることはできる。最も困難な探求対象が最も容易な幼子の信のみを心魂の根底に要求しているということは認知的、人格的に十全な全知全能の神にふさわしい。われらは幼子のように信じるその「神はおのれの独り子を賜うほどに世界を愛した」(John.3:17)方である。
かくして、今・ここで二種類の神の義が啓示されているが、一方は神の怒りであり他方は神ご自身の信義ならびにイエスの信に基づく者の義認である。神の怒りは直接には罪人の最終的審判ではなく、ここに(A)(B)啓示行為内容の非対称性が見られる。怒りから逃れるべく悔い改めの余地が残されるからである。他方、義認が今ここで生起している者については神の認識の変更(人間的に言えば)は想定されていない。
7. 悔い改めは業の律法から信の律法のもとに移行することである。
この二種類(A)(B)の神の義の啓示を介して、信の律法のもとに生きる以外に義とされる道のないことが知らされている。「信に基づかないものごとはすべて罪である」(Rom.14:23)。業の律法に基づくと神に看做される者は終わりの日にその業に応じて報いを受けるが、そこでは誰も義と看做されることはないであろうからである(前節)。
かくして、ひとは悔い改めにより怒りを逃れて信の律法のもとで罪の赦しの義認に向かうことができるだけである。「ひとよ、汝は神の裁きを逃れると思うのか。それとも汝は、神の善性が汝を悔い改めに導くのを知らずに、ご自身の善性の富と忍耐そして寛容を軽んじるのか。汝の頑なで悔い改めなき心に応じて、汝は汝自身に怒りの日に、つまり神の正しい裁きの啓示の日に怒りを蓄えている。「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」」Rom.2:3-6)。
パウロは「ガラテア書」において自らの自覚としてこの業の律法から信の律法への移行を罪の値である死からキリストにおける生への移行として語る。「わたしは神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。わたしはキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはやわたしは生きてはいない、わたしにおいてキリストが生きている」(Gal.2:19-20)。「ローマ書」の対応箇所でこう言われている。「しかし今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が汝を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)。
8. 神には二つの律法の適用において偏りがない。
「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)。なぜなら、一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」(Gal.5:3)こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」からである(Rom.2:13,2:6)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」(11:22)に留まろうとする者には「イエスの信に基づいている」(3:26)かにより審判を遂行するからである。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(9:13)とあるのは、前者が信の律法のもとに、後者が業の律法のもとに生きたことが想定されているからである、ただしエサウがその後悔い改める可能性は否定されていない。「見よ、神の善性と峻厳とを。かたや、峻厳は倒れた者たちのうえにあり、他方、もし汝が神の善性に留まるなら、神の善性は汝のうえにある」(11:22)。神に不信や憎しみなど否定的な態度を取る者は「叡知の機能不全」(1:28)の故に神の峻厳や怒り等否定的な側面しか知ることはできない。「彼らが知識のうちに神を持つことを識別しなかったほどに、神は彼らを相応しからざることを為すべく叡知の機能不全に引き渡した」(1:28)。「彼らは誰であれこのようなことを行う者たちは死に値すると神の義の要求を知っていながら、単にそれらを行うだけではなく、行う者たちを是認さえしている」(1:32)。他方、信のもとにある者たちは「神の善性」や「憐れみ」を知ることになるであろう。まさに「清い者には清く振舞い、僻む者たちには僻む者として振舞う」(Ps.18:26)。
9. 結論 解決案
以上のような事情であるとして、ひとは信の律法のもとに生きていると自ら思っていても神はそのようには看做していないかもしれない。「わたしに「主よ」、「主よ」と言う者がみな天の国にはいることになるわけではない」(Mat.7:21)。他方、自分には地獄が決まって住処であり永遠の滅びに定められていると思っていても、神はそう看做していないかもしれない。「ダビデもまた神が業を離れて義と認定するところのその人間の祝福をまさにこう語っている、「その不法が赦された者たちは祝福されている。そしてその罪が覆われた者たちは祝福されている。主がその罪を認めない者は祝福されている」」(Rom.4:6-8)。神はダビデを彼自身において業の律法のもとに考慮することなく、キリストの義を着た彼の信仰を嘉みした。神は自らに背く者たちについて「彼ら自身において考慮することなく」十字架上のイエスの信義に基づき考慮していたまう(2Cor.5:19)。どんなに悪者であっても、神の恩恵は比較を絶する善であり、まっすぐな信仰を持つ者の罪を赦す。
この福音のメッセージは個々人の誰にもイエス・キリストにおいてほど明確には知らされてはいない。これが何でも赦されるかという問いをめぐる最も重要な応答となる。同様に万人救済論に神はコミットしているか否かもイエス・キリストの信においてほど知らされてはいない。神の意志はモーセ律法とイエス・キリストの信において最も明確に知らされている。だからこそ、そのつど自ら神の憐みのもとにおり、罪赦されていると信じることが実質的なものとなる。ひとは自らの責任ある自由において神の前の啓示の出来事を自らのものとするよう命じられている。「汝が汝自身のがわで持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。命令されるということは受容することも拒否することもできる、即ち「義の奴隷」とも「罪の奴隷」ともなりうる自由な存在者であることを示している(6:20)。パウロ個人にとっても同様であり、彼は「わたしは他者にいかにも福音を宣教しながら自ら失格者となることがないように、わたしはわが身体を打ち、身体を拘束する」と、さらには「恐れと慄きをもって救いを全うせよ」と、神の前の出来事を自らのものとすべく、その都度信に立ち返る(1Cor.9:27, Phil.2:12)。そこに彼は「汝らが聖霊の力能のなかで希望に満ち溢れる」聖霊の執り成しが生起することを願っている(Rom.15:13)。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」。
ドストエフスキーによる罪の赦しを知っている者は不道徳なことをしないというこの知識は個別的に聖霊の援けのなかでの今・ここの知識であると理解する。聖霊の平安をいただいた経験を感謝してまた信に立ち帰ることであろう。罪を犯さないということは人生のそのつどの今・ここのことがらだからである。パウロは聖霊によるキリストの十字架の出来事の過去と彼自身の現在の媒介のもとに、ひとつの知識主張をする。「われらは、われらの古きひとが共に十字架に磔られたことを知っている、それはこの罪の身体が滅び、もはやわれらが罪に仕えることがないためである」(Rom.6:6)。あの過去の十字架の出来事を自らの「古き人」の死と同化できるのは聖霊の今・ここの媒介の働きによってのみである。「ヘブライ人への手紙」では信仰による知識の証言がこう語られている。「信仰は望んでいるものごとの基礎(hupostasis)であり、見ていないものごとの[見ずに留まることへの]反駁(elegkos)である。というのも信仰によって古への先人たちは[見える]証人とさせられたからである。われらは、神の語りかけにより諸時代が[先人たちのように]統一させられていることを、信仰により叡知において観取しており(pistei noūmen)、見ているものが現れないものども[神の言葉]に基づき生じたことを知るに至る」(Heb.11:1-2)。
或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証はどれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。罪赦されたことの証は多く愛しうるということに見られるなら、われらは歯を食いしばって敵をも愛することであろう。今・ここでキリストにあって自ら神の憐みを受けているという信が愛を実現する唯一の道である。